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2008年11月1日(土)雨〜曇り
おやじ山の秋2008(カタクリの丘)

 一晩中激しい雨と雷で、ウトウトしては目を覚まし、の連続だった。夜中に近くの山で地滑りでも起きたのか、テントの下の地面が少し震動した。しかし夜明けとともに雨は上った。
 午前中はホームセンターに行き、以前頼んでおいたフェリングレバーという山仕事の道具を受取り、枝打ち用の長い2連梯子を買った。ちょっとまとまった出費になったが、どちらもずっと前から欲しかった道具である。フェリングレバーはチェーンソーで有名なハスクバーナ社の製品で、この道具があれば立ち木を伐倒する際に「二段伐り」ができて能率的で安全性も増す。木回し用のフックも付いているのでこれも重宝する。それからスタンドでエンジンオイル用のガソリンを8リットル購入し、昼はこれらを担いでおやじ小屋まで運んだ。
 そして午後の仕事は「カタクリの丘」に倒れ込んだ杉の整備と草刈りをした。また来年もきれいなお花畑になるようにとの願いを込めての作業である。この場所はずっと昔、おやじと山菜採りに山に入り、パンパンに膨らんだリュックをカタクリが一面に咲くこの丘の上に下ろして並んで座り、おにぎりを頬張った想い出の場所である。
午後4時半に仕事を止めて、山を下った。

2008年11月2日(日)晴れ
おやじ山の秋2008(Sさんからのプレゼント)

 昨夜は満天の星空だった。夜中にテントの周りを「ブーブー」と荒い鼻息の獣がうろついていたが、薄気味悪くて外に出て確かめる勇気が出なかった。(カミさんの鼾でなくて良かった。もしそうなら獣なんてものじゃなくて・・・)
 寒い朝で気温は10度を下った。
ラジオは、昨日東京で「木枯らし1号」が吹いたと報じていた。ここキャンプ場でも今朝は風が出て頻りに枯葉が舞い落ちていた。
 10時過ぎに以前連絡のあった長岡きのこ同好会のSさん夫婦がやって来た。おやじ小屋の改築祝いだと言って何と「大吟醸久保田」持参で、全く恐縮してしまった。同じ同好会のA女史も一緒に来られる予定だったが突然のご不幸があって残念である。それで早速Sさん夫婦を改めて(4年前まではお二人で何度も来られていたので)おやじ小屋まで案内した。
 奥様の方は全く久しぶりのおやじ山に来て、そしておやじ小屋を見て少なからず興奮したようである。小屋の中にも入って背板の壁やリニューアルした囲炉裏に目を丸くしていた。
 正午におやじ山からテント場に戻って皆でキノコ鍋を囲んだ。そしてご夫婦持参の「モッテノホカ(越後の特産食用菊)」「ゼンマイの煮付け」「新米コシヒカリのおにぎり」で楽しいランチになった。
 Sさんは帰り際、ご夫婦のとっておきの秘密場所に我々を案内してくれた。この場所は勿論ここには書けないが、年に百数十日もこの山で過ごしている私でも気が付かなかった貴重植物と珍品キノコの生育場所である。正にこの両種とも今が盛りで、キノコの方は有難く採らさせていただいた。Sさんからの素晴らしいプレゼントである。
夜は寒い風が吹き、テントの中も一段と冷えた。

2008年11月5日(水)晴れ
おやじ山の秋2008(山仕事ラストスパート)

 昨日から友人のOさんが山仕事の手伝いに来てくれている。ここ長岡もそろそろ雪の季節で、もう何日かするとキャンプ場も閉鎖される。それで今更ながら肝心要の山の手入れをあれこれ思い出して、「もう日にちが無い!どうしょう・・・」と焦っている始末である。
 今日も午前9時にOさんと一緒におやじ山に入った。私はいつもの癖の「鉛筆削り」(本作業前にどうでもいいような仕事で時間を潰すこと)で焚き火場の縁に転がした丸太をチェーンソーでしごいてベンチを作ってから、本来の杉林の枝打ちに取り掛かった。Oさんは早速マサカリを振り上げて薪作りである。数年サボっていた杉の枝打ちはようやく昨日から手を付けたが、昨日は3本、そして今日は4本打つのがやっとだった。木が太くなったせいもあるが、以前なら難なくこなせた山仕事がどんどん体力的に苦しくなってくるようである。
 「もう、あがりましょう」と3時過ぎにはOさんに声を掛けて、二人で山を下った。今日の昼はカミさんの招待でこの近くの奥さん達がキャンプ場に来て皆でキノコ汁パーティーを開いたようである。聞けば随分盛り上ってつい先ほどまで賑やかに話に花が咲いたという。こんな麓の人達でも野外での芋煮会は初めての経験だったようである。良かった、良かった・・・

 





2008年11月6日(木)晴れ
おやじ山の秋2008(錦繍)

 今日はOさんのふるさとまで日帰りでドライブ旅行をした。場所は信州大町である。「今頃は紅葉真っ盛りですよ。山の露天風呂に入りながらゆったり紅葉見物もいいものですよ」とOさんが頻りに誘うので、まあ長いテント生活の気晴らしのつもりで行くことにした。
 Oさんの車に私とカミさんが乗り込んで国道117号線を信濃川-千曲川と河沿いに走った。そして最初に向った所は
北信濃栄村にある「野々海高原」である。ここは何年か前の春、信州回りで藤沢からおやじ山に向かう途中、日が暮れ始めて止む無く「野々海高原キャンプ場」の小さな看板頼りに山を登ってテントを張った場所である。Oさんは「こんな外れの山奥は初めてだ」と言った。
 全く、息を呑む風景だった。何十年に一度見るか見ないかの見事な紅葉である。その昔、東北の出張帰りに宮本輝の小説「錦繍」を思い出して蔵王のゴンドラリフトに乗り、麓のみやげ店の女将さんさえ「こんな紅葉は生まれて初めてだやあ〜」と唸った時以来の素晴らしい紅葉だった。
「堪能したなあ〜」「凄かったですね。これでもう大町まで行かなくていいですか?」「いや、行きましょう!」という訳で更に飯山インターから信越自動車道に入った。そしてOさんの故郷にある霊松寺に行った。さすが名だたる紅葉の名所で、大株のドウダンツツジの真紅と「御葉付き(オハツキ)イチョウ」の堂々とした黄色のコントラストが実に見事である。(「御葉付き(オハツキ)イチョウ」とは、葉の先端にギンナンの実が生る珍しい銀杏の木である。下の写真↓)
 霊松寺からの帰り、眼下に大町の街並みが拡がり、その背後にまるで屏風を立てたように初冬のアルプスの山並みが連なっていた。蓮華を正面に、左隣りが北葛岳、右側には赤沢、鳴沢、岩小屋沢、爺が岳、鹿島槍ヶ岳、そして五竜岳の峰々が続いている。
 葛温泉「高瀬館」に着いた時には既に秋の陽がかげり始めていた。そしてドウドウと岩から湯煙を上げて湯滝が流れ落ちる広い露天風呂に体を沈めながら、次第に影を濃くする山肌を眺めていた。長岡のキャンプ場に帰ったのは、夜もだいぶ遅くなってからだった。

 「森のパンセ-その26-<錦繍 野々海高原>」をアップしました。







2008年11月7日(金)曇り、昼前から雨
おやじ山の秋2008(ブナの植林)

 山を去る日まであと3日となった。しかし実際の作業日は2日間しかない。朝Oさんが「また来年来ます」と言って帰って行った。
 空は厚い雲に覆われて今にも降り出しそうな日だったが、今日はブナの苗木が手に入ったのでおやじ山に植えつけることにした。
 山に行きおやじ小屋に入ると、こんな日は中でランプを灯すほどの薄暗さである。そしてリュックを下ろして急いでブナの植林作業に取り掛かった。植林場所はヤマユリの広場の一画である。
 植え付けは1.8m間隔の千鳥植えで、1m程のブナ苗20本をここに植えた。そして残りの30本ほどの苗木は来年本植えすることにして、取敢えず畝を作って纏めて仮植えした。ここまでの作業を終えたところでタイミング良く雨が降り出した。小屋に駆け込んで囲炉裏に火を焚き、激しい雨音を聞きながら昼食のおにぎりを食べた。
 ウトウトまどろんで目を覚ますと、雨音が止んでいた。小屋を飛び出て杉林に入り、下ろした枝の整理、それから早春にキクザキイチゲの咲く北側の山道の草刈りをした。
午後4時半、既に暗くなった山道を急いでキャンプ場に戻った。
 

2008年11月8日(土)薄曇り
おやじ山の秋2008(おやじ小屋の雪囲い)

 山仕事最後の日である。朝キャンプ場からデジカメで風景写真を撮りながらおやじ小屋まで歩いて行った。そして小屋に着いて昨日草刈りをしたキクザキイチゲの丘に行き何気なく三ノ峠山を望むと、何と峰の上空にタカの群が旋回している。サシバである!これから南の国に渡るため20羽ほどが群を作って上昇気流にぐんぐん高度を上げていた。きっとあの群の中におやじ山のサシバも混じっているはずである。今日は鼻水が出るほど寒い日だったが群の姿が点になって消えるまでじっと立ち尽くして三ノ峠山の上空を見続けていた。
 いよいよおやじ小屋を閉めて雪囲いである。先ず外の作業小屋に置いてあるドラム缶風呂をブルーシートで覆ってしっかり縄で縛り、次いで小屋の南と北のサッシ窓を戸板とトタンで覆い板を渡して釘止めした。そして最後は玄関ドアーの雪囲いである。やはり戸板をドアーに立て掛けてから両端を5寸釘で止め、更に縄で縛った。
 時間は午後5時を過ぎて日はとっぷりと暮れた。急いでリュックを背負いおやじ小屋に向かって大声で挨拶した。
「長い間、ありがとうございましたあ〜!」
そして殆ど真っ暗な山道を駆けるようにしてテントに帰った。
 

2008年11月9日(日)曇り
おやじ山の秋2008(エピローグ)

 朝起きていつものように6時半のラジオ体操をする。そして今朝はコンビニまで車で走っておにぎり弁当を買って朝食を摂った。直ぐにテントの撤収作業である。テントサイトと下の駐車場の間を何度も往復して荷物運びをしていると管理人の皆さんが出勤して来た。「いよいよ帰りなさるかね」「はい、長くお世話になりました」と頭を下げてお礼を言う。本当にここの人達には親切にしていただきずっと気持ちよく過ごすことができた。ありがとうございました。
 ちょうど荷物を車に積み終った時、Sさんがテントサイトまで来て「広場でトン汁が出来ましたよ」と呼びに来て下さった。今日は長岡きのこ同好会のきのこ品評会の開催日だった。それで仲間の皆さんが近くの広場に集まって来ているのである。有難くお呼ばれして仲間に加わった。
 そして午後1時過ぎ、おやじ山の麓長岡ファミリーランドを後にして藤沢の自宅に向った。
(おやじ山の秋2008  おわり)



2008年11月11日(火)曇り
帰還

 明方、呑み屋でおでんを食ってる夢を見た。店の主人がおでんにソースをかけて食うと美味いという。「変な食い方だなあ〜」と思いながらも口に運んで「・・・?」と首を傾げたところで目が覚めた。ソースの前はおでんにバターをつけて食っていた。(これも気持ち悪い食べ方だが、何しろ夢の中の話しだから・・・)久々に寝た畳の上の布団から身を起こして時計を見ると、もう朝の8時である。「ああ、気持ち悪かった!」とまた目を閉じて「何でこんな夢を見たのかなあ」とぼんやり考えてみた。そして思い当たったことは、長い間おやじ山で食っていたシンプル料理の反動というか、久しく口にしなかったグツグツこってりメニューへの憧れというか、そんな思いが自宅に帰って来て頭をもたげたのかなあという事である。(でも今夜はおでん料理だけはパスしようっと)
 昨日、おやじ山から藤沢の自宅に戻って来た。9月21日に山に入って、50日間をおやじ小屋と麓のキャンプ場でのテント暮らしで過ごした。4年前の新潟県中越地震から今年の夏ようやく小屋修理を終え、自分一人ならこの小屋で住むことが出来るようになった。夜、一回り大きく造り直した囲炉裏の焚き火を見つめたり、杉の背板壁に取り付けた新しいサッシ窓を開けておやじ山の星空を見上げたりと久々の小屋生活を楽しんだ。
 

2008年11月30日(日)晴れ
真に守るべきものと祖国

 11月もあと1日、明日から師走だと思うと、「今年はあっと言う間だったなあ〜」と何となく天を仰ぎ見る気持ちになってしまう。そして、「さてこの1年は?」と早くも大晦日の予行演習のようなつもりで後を振り返ってみると・・・4日前(26日)に起きたインド、ムンバイでの同時テロがあり、中国のチベット抑圧がありと、今年も世界の各地で抑圧と殺戮の悲惨な出来事が絶えなかった。
 今世界は民族や宗教の違い、肌の色、そして言語や文化を異にして、そのために憎しみ合い対立と抗争を繰り返して止まないが、考えて欲しい、現在地球上に住んでいる全ての民族、全ての国の人々の祖先は、16万年前のアフリカに住んでいたたった一人の母親ですよ!誰もが皆同じ血筋の兄弟姉妹なんですよ! と柄にもなく大上段に力みたくなってしまう。(母系でのみ伝達されるミトコンドリアDNAの解析によって、現在地球上に存在する全ての人種、全ての民族が16万年前アフリカにいた単一の女性の系譜へと集約されることが科学的に証明されている。この人類のたった一人の母親を「ミトコンドリア・イブ」とも言う)そして人類はいつまでこのような兄弟姉妹間の抗争をし続けるのだろうと考えると、何やらその先に見えてくるものは地球そのものの破滅という巨大な墓穴がちらついて、思わず怖気が振るうのである。
 今年「NAKBA」という映画が全国各地で自主上映された。フォトジャーナリストの広河隆一氏が40年間パレスチナ難民キャンプで撮り続けた写真と映像からできたドキュメンタリー映画である。「NAKBA」とは「大惨事」という意味で、1948年にパレスチナの地にイスラエルが建国され、そこに住んでいた多くのパレスチナ人が土地を奪われて難民となり、その難民キャンプ地で起こった虐殺や歴史証言の記録である。イスラエルは虐殺の事実をひた隠してきた。そしてその支援国も「証拠が無いので虐殺の事実は無かった」と主張し続けてきた。広河氏の40年に及ぶパレスチナでのジャーナリストとしての一途な活動が悲惨な真実を暴き出したのである。
 先日あるラジオ番組で広河氏が喋っていた事が耳にとまった。おおよそ次のような内容だったと記憶している。「今、日本のジャーナリズムがおかしな方向に向っているように思います。我々ジャーナリストが真に守るべきものは何なのか?<人か?><会社か?><国か?> もし「国」ということなら、例えば、Aの国からBの国にミサイルが撃たれた、という報道になりますが、ジャーナリストが人を守るという立場に立てば、その撃ち放されたミサイルがそこで何をしたか、という報道になるのです」
 今の日本国をこれからどのような姿形に持って行こうかと声高に叫んでいる政治家と官僚、そしてジャーナリストや一部知識人を含め、何やら気負いすぎているのではないか、と危惧している。民衆の素朴な感情や長い歴史の中で受け継がれてきた穏やかで愚直な信念を「無知や時代遅れ」と唾棄している風にも思える。作家の伊集院静がある雑誌でピカソの名作「ゲルニカ」に関連してこんなことを書いていた。「この作品が注目されたもう一つの理由は惨劇の舞台がゲルニカであったことである。ゲルニカはバスク人の聖域の町で・・・古代から侵入者があったり、さまざまな問題が生じると、人々は山々から狼煙を上げホルンを鳴らし、集まった。その集合場所が1本の”ゲルニカの木”の下であった。この木の周囲に代表者が集い、合議ですべてのものを決定した。(植え継がれてきたこの木を作家が訪ねるのだが)案内してくれた老人が若木を見上げて言った。「この木は自由の象徴です」彼の言葉と表情からはこの土地に住む誇りが伝わってきた。木を見つめているうちに、祖国というののはこのように気負わず、それでいて品格に満ちたものではなかろうかと思った」
(祖国を棄てた親愛なる友N氏の無事を祈念して  2008年11月30日  記)
 「森のパンセ -その28」に転載しました