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最後のページは<8月19日>です。

2011年8月9日(火)晴れ、猛暑日
広島の山旅(錦帯橋からのスタート)

 今日から11日間の予定で、広島県西北部を中心とする森林調査のアルバイトである。パートナーの主任調査員は、以前三重と宮崎でご一緒させていただいた若いKさんである。
 
 藤沢の自宅を午前6時前に出て新幹線「のぞみ」に乗り込み、正午少し前に山口県の徳山駅で下車した。そして駅近くの日産レンタカーでKさんと落ち合う。およそ1年半ぶりの再会で、「お久しぶりで〜す」と元気に挨拶を交わす。
 今回借りる車もKさん愛用の「ニッサンX−TRAIL」で
、厳しい山道には抜群の威力を発揮する頼もしい四駆車である。

 先ずは、岩国市にある日本三大奇橋の錦帯橋に寄って昼食を摂り、錦川の河原に下りて橋見物をした。なるほど、立派な木造のアーチ橋で、構造的にはカテナリー曲線と呼ばれるらしい。
 橋下の河原では、夏休み中の子どもたちが真っ黒に日焼けして川遊びをしていて、自分のガキの頃を思い出してしまった。

 早速、第一調査地点に向かう。
 山口県の道路脇のガードレールは黄色で、両国橋という橋を渡った途端にガードレールの色が白に変わって広島県に入ったことが分かった。しばらく川縁を走っていたが、同じ河川の向こうとこちらでガードレールの色が違って、何とも珍しい光景だった。

 GPSで確認しながら暗い杉林を急登してポイントに向う。そして早速太いシマヘビに出会って「ワーッ!」と大声をあげてしまった。「思い出しました。関さんはヘビが苦手だったんですよねえ」とKさんに言われてしまったが、調査地点に到着した時には酷暑とヘビの恐怖とで全身汗でビショビショになった。ペットボトルの水を飲むと、それがそのままお湯のような汗になって体から噴出し、熱中症の危険を感じて衣服の上から水をかけて体を冷ました。

 今日の民宿「どんぐり山」に着いて、夕食ではギンギンに冷えた生ビールを呑む。一日目が無事済んで、ホッと寛いだ。

2011年8月10日(水)晴れ、猛暑日
広島の山旅(石州瓦)

 やはり、朝出勤時の車のCDはジャック・ジョンソンの軽快な曲である。
「久々に聴くジャック・ジョンソンですね」と言うと、Kさんは「覚えてましたか。もう何年も新しいCD買ってないので・・・」と苦笑いしていた。

 きょうの調査地は安芸エリア西北部の2ヶ所。いずれも林道で車を乗り捨ててからの長距離歩行と急斜面を這うようにして登る苦しいポイントだった。そして今日も出だしで太いヘビに出会って、すっかり気勢をそがれてしまった。

 前を歩いているKさんが平気でヘビを跨いで、「ワーッ!」とまた大声を上げてしまった。「マムシでしたか?」とKさんが訊くので、「いや、でもすごく太いヘビでした」、「マムシでなかったら安全でしょう」とKさんは言うのだが、(いや、そういう問題ではなくて、ミルダケデキモチワルイノデス)と心の中だけで呟いた。

 昼は小瀬川温泉の川べりでコンビニおにぎりを食べる。清流の河原ではお孫さんを遊ばせている家族がいて、河原まで下りてしばしの雑談である。

 2本目の調査を終えて、さすがのKさんもバテた様子で、今日は早めに宿入りすることにした。宿に向う道路沿いの家屋は皆どっしりとした豪邸で、赤い釉薬の瓦屋根が実に珍しい。島根県の石見地方で生産される石州瓦というのだそうで、どの家の鬼瓦にも空に尻尾を揚げた鯱が載っていて独特の風景である。

 今日からの宿は、湯の山温泉の民宿をとった。夕食には鮎の塩焼きやニジマスの刺身が出て、美味しかった。

2011年8月11日(木)晴れ、猛暑日
広島の山旅(ファイト〜ッ!一発〜ッ!!)

 今日は、芸北エリア安芸太田町、温井ダムのある五輪山と板ケ川流域の森2ヶ所調査。

 よりによって、今日も歩き出した途端にマムシ(運良く?死んでいた)を見てドッキ〜ン!と心臓が高鳴って、一気に気勢をそがれてしまった。

 しかし昼飯は全国棚田百選に選ばれている「井仁(いに)の棚田」の休憩所で、眼下の青い棚田を眺めながらコンビニおにぎりを頬張った。(いつもKさんが、厳しい調査の中でこうしてホッとする場所を探してくれるので、本当に有難い)勿論、俺とKさんの他はひとっこ一人居なくて(村人の姿さえ見えない)「こんな風景を見ながら飯喰えるなんて、贅沢だなあ〜」と何度も口を突いて言葉が出た

 そして午後の調査で、往きのポイント探査では長距離の登攀を強いられたので、帰り道は短縮を図ってGPSのログ情報から外れて急斜面の痩せ尾根を下った。これが失敗だった。
 深い渓谷の滝壷に下りてしまって、そこからさらに何ヶ所かの滝を高巻しながら谷川を下った。そして真下に大川が見えるところまで来たが、そこからが凄い絶壁でとても下ることはできない。日が昏れかけてきて時計を見ると既に5時を回っている。しかし日暮れにはまだ間に合うと、また元の尾根まで引き返すことにした。

 殆ど直登の岩場を懸垂で登る。全く、リポビタン
Aの宣伝に出てくる『ファイト〜ッ!一発〜ッ!!』を地でいく感じで夢中で喘ぎ登った。
 元の尾根に辿り着いた時の脱力感たらなかった。
さんがしみじみと、「ここで死ぬかと思いました」と言ったほどの厳しい登攀だった。

 とっぷりと日が暮れて、湯の山温泉の宿に着く。そして
Kさんと、冷えたビールで「生還祝い」の乾杯だった。

2011年8月12日(金)晴れ、今日も猛暑日
広島の山旅(セザンヌの絵?)

 今日の午後は、GPSの調査地点を探りながら炎天下の山道を4.5キロメートル程歩いたが、なかなかポイントに近づかず、調査断念する。往復9キロの成果が0だと、やっぱりぐったり疲れてしまう。

 今日からまた宿替えで、龍頭山麓にある豊平どんぐり村のどんぐり荘(今回は「どんぐり」の名前の宿が多いなあ〜)に泊まる。このどんぐり村は、広大な敷地内に立派な体育館や野球グランドやテニスコートなどが備えられてある。

 そして、たまたまある実業団の女子ソフトテニスチームが同じ宿で合宿していた。敷地内の看板に「歓迎!日本チャンピオン・○○○○ソフトテニス」とあったので、多分凄いチームなのである。
 宿に着いて早速風呂に行く。龍頭温泉の名があり割合広い浴場は運良く(?)俺一人だった。今日も汗でビショビショになった身体を洗い流して、ゆっくりと湯船に浸かった。

 すると、「・・・!」
 隣の女湯から「キャー・キャー」「コロコロ」と賑やかな笑い声が聞こえて来る。間違いなく、日本チャンピオンの彼女たちである!「はい、お晩です・・アッ・ハッ・ハッ・ハッ・ハッ!」のオバサン笑い(失礼!)とは雲泥の差で、女湯の浴室の壁に弾けるよう笑い声が音楽のように共鳴して聞こえてくる。
「隣は・・・セザンヌの絵・・みたいな・・光景なのだろうか・・・?」男湯に一人浸かりながらが、じっと目を閉じて頭を巡らせていた。

 明日は事故を起こさないように、気をつけよう。

2011年8月13日(土)猛暑日、各地でこの夏最高気温観測!
広島の山旅(さまざまなこと想い出す・・・)

 今日も仕事中に太い赤マムシを見た。「やれやれ・・・」と一仕事終えて、小便をしようとチャックに手をかけながら草むらへ入ったら、いたのである。出したモノを仕舞うことも忘れて「ワーッ!」と大きく飛び退いたけど、俺はどうもヘビだけはダメだ。

 今日は盆の入り。広島の芸北地方では、お墓に「盆灯篭」を飾って先祖の霊をお迎えする慣わしがある。周りの草が綺麗に刈られた村の墓に、色とりどりの盆灯篭が飾られていた。

 真っ白な入道雲が、濃い緑の山の上にもくもくと上がっている。夏の入道雲は、何故か遠い昔の、少年時代を懐かしく思い起こさせる。

<さまざまなこと思い出す桜かな>の芭蕉の句にならって、一句ひねり出してみた。

 さまざまなこと想い出す 盆の入り

2011年8月14日(日)晴れ、今日もまた猛暑日
広島の山旅(「過ちは 繰返しませぬから」)

 お盆休みに入り、山の民宿が取れなくなって昨晩から広島市内のホテルに宿替えした。その1泊目が「メルパルク広島」という、原爆ドームのすぐ近くのホテルだった。
 早速今朝は5時に起きてホテルを出て、原爆ドームと平和公園を散歩した。

 そして、8月6日の平和記念式典も済んで、何やらひっそりと静まり返った感じの公園内に足を踏み入れて、息を呑む思いで原爆ドームを見上げた。ドームの傍らの黒々と繁るクスノキのシルエットに縁取られるかのように、圧倒的な存在感で歴史の残骸が迫ってくる。

 原爆ドームとの長い対峙を終えてから、元安川の橋を渡って平和公園に足を延ばした。

「原爆の子の像」の前に立つ。2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに建てられた慰霊碑で、像の下に置かれた石碑には

 これはぼくらの叫びです
 これは私たちの祈りです
 世界に平和を
 きずくために

と刻まれている。

 大きな池(平和の池)の中に赤い炎がゆらめいている。そして池の縁を歩いて端のアーチまで来ると、そこから覗かれる原爆ドームと赤い炎が一直線に重なって見える。まさにこの献花台の前に立って手を合わせると、ストレートに祈りの心が原爆ドームに通じるかのように思えるのである。アーチの下には次の碑文が刻まれている。

 安らかに眠って下さい
 過ちは
 繰返しませぬから


 繰り返し繰り返し、この碑文を目でなぞりながら、涙が零れて仕方がなかった。

 18歳で長岡から東京に出て、国分寺にある国鉄の大学校に入学した。そして様々な専門講義の中で、音楽の時間があり、「父よあなたは強かった」や「あゝ紅の血は燃ゆる」の作詞・作曲家の明本京静先生とNHKの「歌のおばさん」安西愛子先生から授業を受けた。その時に習った明本先生のヒロシマの鎮魂歌が思わず口を突いて出た。

 ♪山川は嘆きに満ちて〜
 ♪叫ぶ声あり 戦いは、
 ♪げに人類の恥辱ぞと〜
 ・・・

 今日は盆の中日の日曜日である。しかし俺達は仕事を休むわけにはいかない。Kさんが朝一番でかける車のCDは、ジャック・ジョンソンからマイケル・ジャクソンの曲に替わった。「これもなかなか気分が高揚して、いいね」と素直にそう思った。

 苦しい午前の仕事を終えて、太田川を眼下に見る空地
でコンビニ弁当の昼食を摂った。下の川では家族連れが幸せそうに水遊びをしていた。当たり前の平和が実に貴重に思えた一日だった。

2011年8月15日(月)曇り時々晴れ
広島の山旅(祈りの日)

 66年目の終戦の日を迎えた。今日も朝早く起きて原爆ドームと平和記念公園に出向く。

 そしてまた、平和の池のアーチの献花台まで来て、池の上で揺らめく炎と、その先の原爆ドームを一直線に見据えてから、静に手を合せて目を閉じた。
 踵を返してアーチから離れようとした時、「スミマセン、写真を撮って下さい」と、旅行者らしい中年男性から声を掛けられた。「はい」と振り返ったが、その男性はカメラを差し出しながら俺の涙顔を見てビックリした様子だった。

 今日の調査地は、藤ケ丸山の急坂を喘ぎ登って、その頂上から広島湾に浮かぶ厳島や江田島といった島々を眺望した後、今度は反対側の急坂を下りおりた、調査ポイントとしては珍しい松林だった。
 林内に赤白ポールを立て、スケールを十字に這わせて毎木調査の四分の一を終えた所で正午少し前の時刻になった。相棒のKさんに声を掛けて荒い息を整えながら二人で長い黙祷をした。

 予想外に時間がかかって、午後2時を大きく回って車に戻り、遅い昼食を摂った。

 ホテルに帰って、今日の夕食はKさんに連れられてお好み焼き屋台村という所に行った。(いつもこうしてKさんはインターネットでいろいろ調べて楽しませてくれるのだ)ビルのフロアーに何軒ものお好み焼き店がオープンスペースで並んでいる。さすがお好み焼きの本場で、どの店も大賑わいである。呼び込まれてそのうちの一軒に入ったが、美味かったなあ〜!

2011年8月16日(火)曇り時々晴れ
広島の山旅(いま、憲法は「時代遅れ」か)

 昨日から「三井ガーデンホテル」という所に移った。早速今朝の散歩で、ホテル前の平和大通り(日本の道100選。歩道に埋め込まれた銘板には<平和の道>とあった)を散歩する。広い歩道には原爆で命を失った女学校の生徒達の名が刻まれた慰霊碑や「ラ・パンセ」(瞑想)と書かれた裸婦像などを見て歩く。

 そしてこの鎮魂の通りを市電通りまで歩いたが、朝のラッシュで頻繁に市電が行き来し、忙しく職場に急ぐサラリーマンの姿を目にすると、原爆の災厄から見事に復興を遂げたヒロシマに敬意と賞賛の気持ちを禁じ得ないのである。

 今日は、宿の出発を1時間遅らせるとKさんから連絡が入って、この旅でカバンに入れて来た憲法学者の樋口陽一氏の著した「いま、憲法は「時代遅れ」か」をベッドの上で開いた。新幹線「のぞみ」の中で読み始め、今まで朝晩のちょっとした時間に読み継いでいたが、昨今の憲法論議を自分なりにどう考えたら良いのか、勉強してみようと思ったからである。

 まだ読了してはいないが、今までのメモと要約である。

<憲法を変えるということは?>
「憲法に限らず普通の法律を含めて、ある法規範がつくられたときにどういう事実がそれを支え、意味を与えていたのかというのを、「立法事実」として問題にします。
 憲法九条二項を制定時に支えていた事実(太平洋戦争時の集団自決を強いられた体験、大陸に遺棄された孤児たちの問題、沖縄の悲劇、などの被害体験や、アジアの近隣諸国に対する加害体験)がもう必要なくなったのか。現にある法がなぜつくられ、なぜ受け入れられたか。それを支えていた事実は、もはや無用の過去のものになったのか、を問うことなのです。」
<九条をめぐる論議>
(選択肢1)
 九条を変えて、本当に「普通の国」になることです。
 そのために必要なのは、太平洋戦争(著者は15年戦争と書いている)の被害体験、加害体験の検証と克服、そして九条の制約を外してしまった上で、なおかつ軍事力に対する国民の自己統制をどのようにやっていけるか、の展望です。(軍事力を「公共財」として肯定した時の「文民統制」の必要や、その文脈での「徴兵制」の導入論議など)
 そういう多くの点をクリアにして、本当に「普通の国」になる。それは同時に、戦後日本が内外に示してきた基本姿勢を変えるということです。
(選択肢2)
 「普通でない」国としての基本姿勢にハラを決めて改めて立ち返る、という道です。
 「普通でない」選択の持つ積極的な意義を世界に訴える、という
道です。
 この道を進もうとすると、「同盟」国との軍事協力ができないために、不利な効果や経済関係が悪くなり、コストを覚悟しなければなりませんが、それを名誉として引き受けることが必要です。

<「この国のかたち」ということの意味>
 憲法九条について、どんどん規範性が緩んでいく運用が進んできましたが、第九条に限らず日本国憲法のあゆみを、もっぱら「空洞化」の過程と見るとらえ方があります。
 しかし、六十余年の間に人びとの生活の仕方と意義の中で起こってきた変化のうち、かなり以上の事柄が憲法ぬきでは考えられなかったはずです。
 日本国憲法は西洋の近代憲法をお手本にしましたが、この憲法の持つ「個人の尊厳と平等を基本にした社会制度」という定義を問題にするときに、お手本の西洋が超越的基準として正義を貫くために「正しい戦」を戦うために、人間を手段として使うことの非人間性を今だ手放すことなく握り続けています。
 それに反し、「正しい戦」を否定して、「手本よりまし」なものを「経験主義」の手法でつくり上げたという日本国憲法第九条は、個人の尊厳を守るために、正義のために不正義の相手を憎悪するエネルギーなしに成り立つかどうか。しかし、どんな困難だとしても、だからといって「希望」を捨ててしまった社会は、どうなるのでしょうか。

 
 この仕事で広島に出発する前には、86歳になった沖縄の芥川賞作家、大城立裕氏の「普天間よ」を読んだ。少なくとも沖縄では、今だに戦争が終わっていないことを隠喩した小説である。
 そして本土に住む我々も、ここヒロシマを訪れれば、いまだ払拭しきれない戦争が、大きな影を落としていることを実感できる筈である。

 今日の調査はKさんが、2度目の挑戦をするという県境を越えての島根県飯南町頓原の琴引山の森である。

 中国道を車で飛ばして三次インターで下り、出雲神話街道を北上して島根県入りである。

 しかし現地は厳しく、谷川を遡上し急斜面を登り、一旦尾根に出て更に登り、今度はまた斜面を下って凄い薮に入って、終に前途を阻まれ、「やっぱり、戻りましょう・・・」となってしまった。

 明日また再挑戦である。

 県境近くの三瓶温泉に宿をとろうとしたが、お盆休みの客で満室とのこと。それで流れ流れて日本海側に出て、途中、大田市仁摩の鳴き砂で有名な「琴ケ浜海岸」で夕日のシルエットの四人の若者を羨ましく眺め、浜田市内のビジネスホテルに投宿した。


 長いような、短いような一日だった。
2011年8月17日(水)曇り
広島の山旅(Hotel FLEX)
 浜田市のホテルを7時にチェックアウトして、再び昨日失敗した飯南の調査地に向かう。Kさんにとっては3度目の挑戦になる。今日は探査ルートを変えて、林道で乗り捨てた車から、伐採して倒れた杉の丸太を跨いだり潜ったりして、荒れた山道を2キロ程歩いて皆伐地の斜面に取り付いた。ここでまた、茨やツルが生い茂る藪に再び前途を阻まれて、「ここはもう、冬に来る以外はとても無理ですね」とKさんは3度目の挑戦を諦めた。何としてもKさんの挑戦を成功させてやりたかったが、残念である。

 出雲神話街道を引き返し、午後にもう1ヶ所調査。
 そして今日からの宿は、広島市内の
京橋川河畔に建つお洒落なホテルである。Kさんが選んでくれたHotel FLEX、何とカウンターが1階のレストランの中にあるという珍しいホテルである。

 そして夕食をホテルのガーデンテラスで摂ったが、様々な西洋料理や野菜サラダやフルーツやスィーツが並べられたバイキングで、ビール、ワイン飲み放題の若い女性好みのメニューである。京橋川の川風に吹かれながら、若い女性客に囲まれて(俺達以外は全て女性客のグループだった。さすがKさんが選んだホテルである)まったり気分でワイングラスを傾けながら摂った。実に、いいものだった。

2011年8月18日(木)曇り
広島の山旅(T君との再会)

 今朝の朝食も全くお洒落だった。
 昨晩と同じ1階レストランのオープンテラスで、川べりを散歩する人や、広い通りを行き交う通勤者を眺めながらの、まるで外国に行った気分で朝食を摂った。
 腰当てクッションがある椅子に座って、Kさんとのんびりおしゃべりしながらの朝食である。

 午前に2ヶ所の調査をこなし、昼食をとってから3ヶ所目に向かう。しかし車を乗り捨てた地点からは可なりの山歩きが必要で、Kさんは、「ここは明日に回して、今日はこれでホテルに引き上げましょう」と有り難い配慮である。今日の夜は中学、高校と一緒で、今は広島に住んでいる旧友のT君と久しぶりに会って、一緒に食事をする予定で、そのことをKさんに伝えていた。

 予定の時間より随分早く部屋の電話が鳴って、T君がホテルに迎えに来た。「ヤアヤア」と久闊を叙して街に繰り出す。電車通りに架かる「隠れた名所」だという横断歩道橋の上でお互いの記念写真を撮り、広島料理専門店の「酔心」に案内された。さらに2軒目の寿司屋に梯子して、店からやはり同じ同級生仲間のI君に電話を掛けたりして、閉店時間まで飲み続けた。

 楽しく、そして今日は、辛い宵でもあった。

2011年8月19日(金)雨時々曇り
広島の山旅(帰還)

 いよいよ帰還の日である。ホテルの部屋に干した洗濯物を取り込んでバッグに詰め込み、8時半にチェックアウト。

 昨日パスした1ヶ所目の調査で、途中通過する山主から入山を拒否されるトラブルがあり、ルートを変えて苦労して調査地点に辿り着く。山行の途中から雨になり、全身濡れネズミになって、車まで引き揚げた。

 2ヶ所目の調査地点探しも難渋を極めた。激しいシャワーの雨が降ったり止んだりで、結局は午後2時に探索を諦めて今回の仕事を全て終了した。

 せっかく広島に来たのだからと、遅い昼食を安芸の宮島口まで車を走らせて名物のアナゴ丼を食った。仕事が終わった開放感と腹もペコペコで、実に美味かった。

 そして、広島駅までKさんに車で送ってもらい、「お世話になりました。ありがとうございました」と挨拶してKさんと別れた。

 濡れた洗濯物が詰った重いカバンを担ぎ揚げて、新幹線の改札口に向かった。

(広島の山旅 おわり)

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