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2019年3月2日(土)晴れ
小説「宝島」
 何しろ酒を呑むのが忙しくて、手元に置きながらなかなか読む暇がない本が何冊か部屋に積み上がってしまった。それで2月になってから、こっちを数ページ読んでは栞を挟み、今度はあっちの本を少し齧ってはスピンを入れてと、何やら強迫観念に駆られた乱読態勢に入った。そしてようやく昨日読了したのが真藤順丈著の「宝島」である。
 この本は第160回直木賞を受賞し、同時に第9回山田風太郎賞の2冠を達成した大河小説で、本文の厚さが何と3cm、541ページもある。

 この本のあらましは「森のパンセ-その102-」<宝島を読むー沖縄の叙事詩ー>にアップしたので読んでほしいが、たまたま「宝島」の読書期間中に、辺野古埋め立ての賛否を問う沖縄県民投票と重なり、大いに考えさせられた。
 それはこの小説が、単に沖縄を舞台にしたミステリー小説、または青春物語ではなくて、アメリカの占領下にあった沖縄人が受けた数えきれないほどの犯罪や重大事故、沖縄返還時に「核抜き本土並み」と謳った日本政府の嘘と欺瞞への悲嘆。それらの史実をなぞりながら物語を編んだ、いわば米軍基地(アメリカー)と本土(ヤマトゥ)に対する抗議と抵抗の書。さらに言えば沖縄(ウチナー)への限りない郷土愛と沖縄人(ウチナンチュ)のアイデンテティを物語に込めた啓蒙書でもある。

 だからこそ、この小説で教えら、確認を新たにした事実や事柄も踏まえて、2月24日に行われた沖縄県民投票を俺なりに評価し、投票したすべての人たち(「反対」も「賛成」も「どちらでもない」も全部含めて)に敬意を表したのだ(2月25日日記)。
 しかし驚いたことに、元々住民投票の実施に批判的だったマスコミ(読売と産経)は、それぞれ投票翌日(25日)、翌々日(26日)朝刊に、「投票率52% 拡がりを欠く」(読売)、「反対は全有権者の4割にも満たず」(25日産経)、「有権者6割反対せず」(26日産経)と、政権与党支持者の投票ボイコット戦術の影響を捻じ曲げた形で喧伝し、賛否の比率や棄権票を、本来の「有効投票数」ではなく「有権者」を母数として恣意的に報道するという非常識さに全く暗澹とした思いだった。

「森のパンセ-その102-」<宝島を読む-沖縄の叙事詩->

 3月に入って早2日。そろそろおやじ山入りの算段を巡らしている。
2019年3月7日(木)雨
「福島は語る」
 パレスチナを30数年にわたって現地取材を続けているジャーナリストの土井敏邦氏のドキュメンタリー映画「福島は語る」を観た。泣いた!怒った!そして、いろいろと考えさせられた。
 
 この映画は8年前に起きた東京電力福島第一原発事故の被災者たちを、土井氏自らインタビューし、脇に据えたカメラでその被災者一人ひとりの証言と表情をそのまま映像化したものである。被災者の証言を集めた期間は4年に及び、100人を超える証言者の中から選び抜いた14人の証言を”福島の声”として、世に問いかけた作品と言える。
 2時間50分の上映時間は、正直言って惜しいほどあっという間に過ぎた。原発事故による放射能汚染で故郷や住処を追われ、生業を失い、家族離散を強いられ、将来への希望を奪われた被災者たちが、心底に鬱積した思いを福島弁でとつとつと吐露する言葉と表情に、この映画を観ている人たちは、必ずや被災者とともに絶望し、共に悔しがり、共に怒り、そして共に悲憤の涙を流すであろう。

 被災前の楢葉町や避難した会津若松市で、仲間とボランテア活動していることが生きがいだった、と言っていた渡辺洋子さんの証言。(以下、実際は10分かそれ以上長いが、抄録である)

 『会津若松市に避難して来て、お友だちもできたんですけど、その一人から、「毎月10万円ずつ貰ってっぺ?」って言われて「うん」って言ったら、「それ、我われの税金から出てんだよな」って言われたんですね。それでガタガタっとなったんです。2年目ぐらいです。
 その一言がきっかけでガクッときて、いろんな病気を背負っちゃったんですね。こたえましたね。悔しかったです。「だれも好きこのんで、この状態になったわけじゃない」って。』

 福島県に嫁ぎ被災者となった地脇美和さん。夫の仕事で北海道に移ったが、自分は度々福島に来て被災者支援にあたる。(福島県産の食物に対して、風評被害が出ていた)

 『ある時、近所の大きなスーパーに行って、納豆を買おうと思って売り場に行ったんです。今までは地元で作った納豆を買っていたんです。その時も一度は手に取ったんだけど、戻して、北海道の納豆を買ったんです。そしたら、ちょうど売り場にその地元の業者さんが陳列に来てたんです。その人が私に聞こえるか聞こえないかの声でぼそっと、「福島のは選ばないんだ・・・」って。ぼそっと言われたんです。もう、それが・・・申し訳なくって・・・』(地脇さんは止めどもなく涙を流して泣いた)

 避難先の仮設住宅で自治会長をやっている藤島昌治さん。ニコニコと仮設の家々を訪ね回って住民を気遣い、人望があつい。その温厚な藤島さんが書いた詩。

 『特別に何かが 欲しい訳でもありません
  特別に何かをして 欲しいとも言っていません
  「ベッド」を置く スペースが欲しいだけです
  (中略)
  ときどき腰痛に 意地悪されて
  「ベッド」で寝めたらと(※寝られたら、の福島弁か?)
  油汗と溜息を洩らします

  想像できますか 仮に「ベッド」を 四畳半に入れたら
  生活(くらし)は成り立ちません  

  返してくれませんか 震災からこれまでの失われた時間を・・・

  あなた(東京電力)に押しつけられた 賠償金は
  そのままあなたにお返しします
  どうか今までの時間を 返してください
  天が等しく与えてくれた時間を 奪うことが
  あなたは許されているのですか
  (後略)』

 飯舘村で石材加工業(墓石など)を営んでいた杉下初男さん。日焼けした精悍な風貌の偉丈夫である。苦労を重ねた末にようやく経営が軌道に乗り、次男が後を継ぐことに決まった。そこに原発事故が起こり、親子別々の仮設住まいとなった。次男は夢と目標を失い自死する。

 『息子を失い・・・いちばん頼りにしていた息子なんで、いちばん辛かったです。(偉丈夫が、泣く)
 こんな狂った人生になるとは夢にも思わなかった。今まで、涙なんか流した時はねえ。息子が亡くなってからも我慢してた。自分の人生みんな全部、自分の夢が狂ってしまった。俺の人生はこういうふうに生まれたのかなって。
 でも、俺よりまだ不幸な人はいっぱいいんだど、土井さん。津波で子ども2人、3人って死んだ人。こんな話で言ったらば、俺なんか「お前の育て方が悪いんだ」って。事故で亡くしたんではねぇもの。災害で亡くしたんでもねぇもの。』(杉下さんは長いインタビューの間、一度たりとも東電の事を口にしなかった。俺は杉下さんの証言を聴きながら、「あなたじゃない。あなたが悪いんじゃなくて東電なんだ!」と同じく涙をボロボロ流しながら心で叫び続けたが、彼はひたすら自分を責め続けた。)

 福島県三春町に住む武藤類子さん。「福島原発告訴団」の団長をつとめる。以下は武藤さんが話した内容の一部である。

 『わたしは沖縄靖国訴訟原告団の団長をつとめる彫刻家の金城実さんの話が聞きたくて、読谷村のアトリエに伺いました。沖縄には長い苦難の歴史と、それに対する確固たる抵抗の歴史があって、それは私たち福島の行動からしたら成熟度が違います。たくさんのお話がありましたが、金城さんが言ったこの言葉を聞けただけで、「ああ良かった」と、大いに勇気づけられたのです。
 「国を相手にケンカしたって勝てるわけがない。でも俺はやるんだ。やらずにはいられない。それが尊厳だ」と。闘うのは「尊厳」を守るためだと言ったんです。』

 上映が終わって場内に明かりがつき、起ち上がって帰ろうとした時に、土井監督がマイクを持って舞台に立った。(土井さんに会うのはこれで2回目だった)そしてこのドキュメンタリー映画「福島は語る」に込めた気持ちを静かに語り始めた。
 「被災者の”証言”と同時に福島の美しい”風景”」を撮ったこと。(最後のシーンは、李政美が歌う「ああ福島」の挿入歌にのって、原発被災者が失った故郷福島の美しい風景が写し出された)
 さらに、「”問題”ではなく”人間”」を描き伝えたかったこと。
 その意味を土井氏はこう続けた。
 「それは”フクシマ”で言えば、原発事故がもたらした事象やその特殊性だけを伝えるのではなく、それを突き抜けた”人間の普遍的な課題”に迫る言葉を引き出さなければと考えました。例えば「生きるとは何か」「人間の尊厳とは何か」「故郷とは何か」「幸せとは何か」「家族とは・・・」といったテーマです。そこまで迫り切れなければ、「所詮、自分とは関係のない遠い問題」で終わってしまう。”パレスチナ”がそうであるように。」
 
 俺が足を運んだ「新宿K’s cinema」を皮切りに、渋谷、横浜など全国のミニシアターで今後上映が予定されている。是非多くの人に観てもらいたいと思っている。 


おやじ山の春2019
2019年3月13日(水)晴れ~雪
おやじ山の春2019(山入りの日)
 昨12日の午後、藤沢の自宅を車で出発し、昨晩は関越道の越後川口SAで車中泊。
 そして、いよいよ今日からおやじ小屋での山暮らしが始まると思うと嬉しくて仕方がない。
 長岡の街に入り、9時に日赤町のSさん宅に伺う。ご主人は不在だったが、奥さんから早速おにぎりやらカップ麺やらの差し入れを頂戴する。
 Sさん宅を辞して栖吉町のNさん宅へ。ここでもお抹茶の接待を受けて歓待される。こうした故郷の人達の長年変わらない温かいご交誼に、心から感謝である。

 いつも車を停めておく長岡市営スキー場やキャンプ場の駐車場はシーズンが終わって閉場され、仕方なくコスモス広場に向かう道路脇に路駐して、おやじ小屋に向かう。この時期、例年は1メートルはある積雪も、山路の大半は露地が出て、所々に吹き溜まりの名残雪が残っている程度である。

 戸板を立て掛けて紐で縛ったドアの雪囲いを解いて、「ただいまぁ~!」と大声で小屋に入る。3カ月ぶりの小屋入りで、何やらちょっと涙ぐむような昂揚感がある。

 窓の雪囲いを外したり、屋根に登って煙突の覆いを解いたりしていると、見る見る空が暗くなって雪が降って来た。慌てて山を下って車に戻り、当面の衣類と食料を75ℓのリュックに詰め込んで小屋に帰った。

 夜、「ゴロスケ・ホッホ」とフクロウが啼いた。「おやじ山は、いいなあ~」とつくづく思う。「もったいなくて、今夜は寝れないなあ~」と頑張ったけど、車中泊の疲れと酒のせいでコテンと寝てしまった、みたい・・・
2019年3月14日(木)雪降ったり止んだり
おやじ山の春2019(3月の雪)
 今日は終日、雪が降ったり止んだりの一日だった。
 ストーブを焚き、七輪に炭を熾して暖をとりながら小屋の中の片付けをする。
 午後に山を下りて町のスーパーに行き、今夜の夕食の食材(豚肉と刻み野菜)を買って小屋に戻る。できる限り倹約経済で山暮らしを続けるつもりである。
夜クロウ啼かず。どうしちゃったんだろう?早々に心配の種が出来た。
2019年3月15日(金)曇り
おやじ山の春2019(鴨鍋と醤油おこわ)
 寒くて目を覚ます。外に出ると積雪は25㎝ほどになっている。灰青色のおやじ沢の奥の空から白々と夜が明け初めている。おやじ池を覗くと、クロサンショウウオの新しい卵嚢があった。この両生類は気温が冷えた時に産卵する特徴がある。
   

 午前中に下山してSさん宅に寄る。先日お会いできなかったので少し心配したが、元気な様子でホッとする。それから悠久山にある「お山の家」で風呂に浸かってから蓬平集落センターに行く。天空のブナ林を整備している猿倉緑の森の会のパンフレットのリニューアルの打ち合わせである。打ち合わせが終わって、N代表のお宅に招かれて豪華な夕食にあずかった。Nさんは鉄砲撃ちでもあり、Nさん自身が猟期に仕留めた鴨鍋料理、その他長岡名物の醤油おこわや新鮮なお刺身などがずらり食卓に並んで、まさに至福の夕餉時を過ごさせてもらった。

倒木に生えた椎茸

ユキツバキ
マルバマンサク
タムシバ
 
2019年3月17日(日)曇り
おやじ山の春2019(Noさんの来山)
 昨夜は再び雪が降った。そして今日は神奈川からNoさんが来る日である。
 7時前に下山して路駐してある車の場所でNoさんを待つ。遥々車でやって来たNoさんと「やあ、やあ」と挨拶を交わしてて、早速二人で食料と酒の買い出しである。これで今夜の宴会準備が整ってドッと安心する。

 Noさんには今日一日で随分働いてもらった。車に積んである俺の所帯道具の荷揚げやら、おやじ山の山路を塞いでいた倒木の除去作業、さらには伊豆のKさんに作っていただいた新しいフクロウ巣箱がそのまま小屋に置いてあって、ずっと懸案事項だった。この巣箱架けを手伝って貰った。

 そして、夜が来た。何とNoさんはいそいそとリュックの中から「ちろり」と持参の日本酒を取り出して七輪のお湯で燗酒をつける手際良さである。久しぶりの熱燗にすっかり酔ってしまった。Noさんは得意のギターも持って来て、生演奏に合わせて歌いに歌い、おやじ小屋の二人宴会は大いに盛り上がったのである。
2019年3月18日(月)晴れ、春の陽気
おやじ山の春2019(懐かしい風景)
 8時過ぎに下山して実家に行く。新潟から次兄も来て、兄嫁と3人で所用を済ませた後、皆で揃って両親と長兄が眠る託念寺の墓に行ってお参りをした。

 既に慣わしとなったが、墓参の後は必ず境内の裏門から外に出て信濃川の堤防を望む。まだ幼なかったガキの頃、兄ちゃんと次兄と3人で、この堤防で遊んでいた記憶が髣髴と甦ってくるのである。この信濃川の堤防こそ俺たち3兄弟の原風景なのだ。

 「・・・!!」と目を見開いてしまった。遠くの堤防に俺たちが居るではないか!幼い頃の俺たちが、楽しげに遊び回っているではないか!思わず目頭が熱くなった。
(託念寺の境内にある幼稚園の園児たちが堤防で遊んでいた。何と懐かしい風景だったことか)

2019年3月20日(水)晴れ、気温18℃(今年の最高気温となる)
おやじ山の春2019(山仕事開始)
 昨日は「越後長岡おやじ山倶楽部」のNaさんと栖吉のNさんが小屋にやって来て、カタクリ広場やコゴミ畑の上手にあるギフチョウの食場(コシノカンアオイの群生地)の整備をし、今日も午前中にNaさんとKさんが来て、昨日と同じ場所の手入れをしてくれた。
 来月20日には神奈川から森林インストラクターの仲間達が来て、恒例となった(今年で6回目)「おやじ山カタクリ観賞会」を予定しており、美しい景色で観てもらいたいからである。

 さらに、かつては(といっても僅か4年前までは)長岡東山丘陵の里山にあんなにたくさん飛び交っていたギフチョウが、いま絶滅の危機にある。俺が頭数の減少に気付いたのは2016年の春だが、2017年には一気に頭数が減り(2017年5月10日の新潟日報「窓」欄に『ギフチョウ保護に本腰を』の俺の投稿記事が載った)、昨2018年には殆ど姿を見かけなくなった。まさにこの3年間で等比級数的減少である。このギフチョウを、おやじ山で何としても復活させたいのである。

 ラジオが、今季最高気温と報じて、お蔭で二人に手伝ってもらっておやじ沢から引いている水道も無事開通できた。おやじ山の仲間が居ればこそ、である。
2019年3月24日(日)雪
おやじ山の春2019(3月の雪再び)
 20日、21日と気温が上がって「ああ、春が来たなあ~」と桃色の吐息で思っていたら、22日から氷雨が降り出し、昨日は雪に変わって、今朝起きたらおやじ山は真っ白の冬景色になっていた。「ああ、また冬だなあ~」と小屋の中で白い息をハアハア吐きながら寝袋に包まっていた。

 昼が過ぎて、「いくら何でも、これじゃあ身体がなまるなあ」と意を決してゲストハウスの建築現場に行き、足場を組んで後方切妻の寸法を測ったり4寸角材のアテを作ったりした。ここには高校時代の同級生らからのご祝儀で買ったステンドグラスとダイヤガラスを嵌め込む算段である。

 屋根を張ったので当然だが、「悪天候でも仕事できるんだ」と改めて認識する。お蔭で腹も減って、早めの夕飯は旨かった。

2019年3月25日(月)晴れ
おやじ山の春2019(フンの謎解き)
 朝、クロサンショウウオが再び産卵した。そして、おやじ山で一番早くカタクリが咲く場所が、小屋のすぐ上のゲストハウスに向かう南斜面だが、今日、この斜面のカタクリが満開になった。

 10時頃Kさんが来て、一冬の間に枯れ落ちた杉の葉っぱを集めて盛大に燃やして処分してくれて、午後は、傾いた薪小屋を1棟解体して廃材を片付けてくれた。小屋周りが俄然サッパリと気持ち良くなる。

 街に帰るKさんと一緒に俺も買い物で下山しかけると、長岡科学博物館のSさんがニコニコと山に入って来た。誰やら男性の同行者がいる。初対面のTさんだった。小屋にとって返して、4人でお茶を呑みながら談笑したが、Tさんは野鳥の専門家で、おやじ山の入口に白いものが落ちていて「はて、何だろう?」と不思議に思っていたが、「フクロウのフンです」と即座に答えて、その上のフクロウが停まっていたコナラの枝まで特定してくれた。3個架けたヤマガラの巣箱が、3個とも何ものかに巣穴を大きく改変させられたが、やはり犯人はアオゲラだった。Tさんの話では、雄のアオゲラはいくつもの巣を作って、気に入った雌にプレゼンテーションして好みの巣を選ばせるそうだ。(男はマメじゃないとダメなんだなあ、と何やら納得した)
 Tさんにはおやじ山を一回り案内する。
2019年3月29日(金)晴れ
おやじ山の春2019(建築材の買い付け)
 一昨日の夜から昨日いっぱい、おやじ山入りしてから三度目の雪が降って、今朝は放射冷却で零下まで気温が下がった。洗面器の水に氷が張って、朝の山回りで歩くと、足元でパリパリと氷が鳴った。
 朝おやじ山倶楽部のメンバーに今後の山仕事の内容をメールで知らせる。

 10時過ぎ、塚山にある井口製材所に行き、3日前に栖吉のNさん、Kさんと3人で訪れて目星をつけておいたゲストハウスの建築材5点を買い付けた。玄関の戸板、床のフローリング(桜)、囲炉裏の炉縁枠、自在鉤、切妻に嵌めるダイヤガラスである。いずれも古材だがしっかりした品物で値段もそう高くはなかったが、俺にとっては相当な出費である。ゲストハウス建築の基本は、おやじ山に生えてる自然木を可能な限り利用する、だからである。買い付けた物件は取り付け準備が出来ていないので製材所に預かってもらい、ダイヤガラスだけは持ち帰った。

 帰り道、越路の運動公園に立ち寄った。公園内に車を停めて信濃川の堤防に上る。滔々と流れる川面の向うに、東山の山脈が美しく連なって、映画「青い山脈」のテーマ曲が聞こえてくるようだった。

 午後2時、山に戻る。Kさん、Naさん、Nさんが山に来ていて仕事をしてくれていた。
2019年3月30日(土)曇り、夕方から雨
おやじ山の春2019(ウグイス初啼き、山菜山初入山)
 小屋向かいの山菜山でウグイスが啼いた。今年の初啼きである。
 それで、おやじ沢を渡って今年初めて山菜山に入った。フキノトウがあちこちから顔を出して、籠一杯の収穫である。
 街に下りて伊豆のKさんに宅配便で送り、日赤町のSさん宅にも届ける。

 数日前から口内炎になった。痛くてしかたがない。(ビタミンC不足か、酒の呑み過ぎか) 疲れが出てきて体力も弱ってきたようだ。(やっぱり酒の呑み過ぎか?)
2019年3月31日(日)曇り
おやじ山の春2019(Nさんの手料理とコシノコバイモ)
 今日はKさんと共に、栖吉のNさんのそば料理に招待された。Nさんはまさに越後のレオナルドダビンチと呼んでもいい人で、何でもやれる稀有なる人物である。自然界の事なら植物、動物、人間(本人はこっちの方はからっきし、と小指を立てるが、どうしてどうして・・・)生き物ならどれをとっても知らない事は無い。さらに骨董、陶芸、お茶、お花、料理とその才能は無尽蔵で、全てがプロの領域に達している。「Nさん、料理人になって店を出したら」と水を向けると、「そんげことしたら、客に食わすだけで自分で食えんねかね」と、あくまでも自分が楽しむために極めていると言うのだ。

 それでお宅に伺う前に「お山の家」の風呂で垢を落として身綺麗にし、約束の12時ちょうどにN家に入った。すでにKさんは席に着いていて、くつろいだ様子である。

 テーブルにはNさん自作の花瓶に活けられたカタクリの花と、珍しやコシノコバイモの花。そして料理は、先ず食前酒が小さな盃に一杯(だけ。でも高級酒である)。山盛りの天ぷら、葉わさびのおひたし、フキノトウの甘味噌合え、そして本命のNさんの手打ちそばとズラリ料理が並んだ。

 食後に、花瓶に活けられたコシノコバイモが直ぐ近くに自生していると聞いて、案内してもらった。今まで図鑑でしか見たことがなかったが、貴重種に会えて嬉しかった。さらに同じ場所にキクザキイチゲも生えていたが、花弁が実に大きいのである。葉の形からアズマイチゲに近い感じだったが、これも珍しかった。

コシノコバイモ 

 コシノコバイモ

キクザキイチゲとコシノコバイモ(手前)

キクザキイチゲ

倒木に生えた椎茸(おやじ山)
 

 昨日から寒気が入ってまた寒い一日だったが、Nさんの手料理でほっこりとした温まった時間を過ごせた。