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2018年12月1日(土)晴れ
おやじ小屋の雪囲いと小屋閉め
 おやじ小屋の雪囲いに、先月25日におやじ山に入った。この時期としては例年になく暖かく、山を下りた29日までの5日間は、越後の初冬には珍しい好天の日々が続いた。お蔭で危惧していたゲストハウスの雪囲いもほぼ順調に捗って、ホッと胸を撫で下ろすことができた。

 とりわけ今回は、初日、2日目とYさんが手伝いに駆けつけてくれて、全く大助かりだった。そして最終日の11月29日には、先ずはゲストハウスの玄関口に手造りしたポリカ波板張りの衝立で戸締りをし、次いで寝泊りしていたおやじ小屋の中を片付け終わってドアに鍵をかけた。そして雪囲いの衝立をドアの前にロープで縛り付けて、今回の作業が全て完了した。

 持ち帰りの荷物とゴミを携えて、帽子をとり、おやじ小屋に向かって
 「ありがとう・ござい・ましたァ~!!」と大声を張り上げながら深々とお辞儀をした。俺がおやじ小屋を去る時のいつもの儀式である。すると決まって、涙がこみ上げてくるのである。

 この日は麓で車中泊を決め込み、夕方から降り出した雨が激しく車を叩きつける車中で、おやじ山のフィナーレを惜しみつつ大酒を飲んだ。

 昨11月30日はお袋の命日だった。開店間際の道の駅で花束を買い、実家に向かった。そして仏壇の両親と兄の遺影に手を合わせ、それから兄嫁と一緒に託念寺の墓に行った。長いお参りが済んでから、ポツリと兄嫁が言った。
 「おじいちゃんと、おばあちゃんと、それから・・・おとうさんも、このお墓に入ったんだねえ」

 雨の越後から国境の長いトンネルを抜けると、眩い関東の日差しだった。夕刻、藤沢の自宅に帰る。 
2018年12月15日(土)晴れ
島根と四国の山旅
 12月3日から7日まで島根県、中2日おいて、12月10日には羽田を発って松山空港に降り、四国の愛媛と高知県の山々で森林調査の仕事をした。そして昨14日の晩、自宅に戻った。

 森林調査の仕事は山中での動物的な感と体力がものを言う仕事だが、この点ではセンス抜群のKさんに付いてればこそ、長く、そして無事にこの仕事を続けられたのだと思う。

【島根の山旅】
 そして今回の出張でもKさんがこまめに宿を手配してくれて、島根の山旅では、石見銀山近くの三瓶山(さんべさん)の山腹の温泉宿で野趣あふれる露天風呂を楽しみ、雲南市木次町湯村の「湯乃上館」では、離れ「楽々庵」の囲炉裏を囲んで炭火焼の夕食に舌鼓を打った。

 湯乃上館を発った日(12月6日)に、午前の仕事を終えて遅い昼食に寄った場所が木次(きすき)線亀高駅の駅舎の中の食堂(扇屋そば)である。松本清張の小説「砂の器」で、「東北弁」と「カメダ」をたよりに秋田県羽後亀田を訪ねて実りなかった今西刑事が、「東北と同じズーズー弁が使われている・・・」と国立国語研究所で調べて探し当てた場所が、蒲田操車場で殺害された三木謙一の故郷、ここ島根県仁田郡仁多町にある「亀高」だったのである。
 注文した釜揚げそばは、どろどろの白いゆで汁に入ったまま出され、そばつゆは別の器で出て来た。そのままつゆをぶっかけて「アハアハ」しながら食ったが、全く絶品だった。この駅舎で砂の器のロケがあった模様で、食堂には俳優らの色紙が店内いっぱいに貼られていた。

 恒例になった島根出張最終日の打ち上げ風呂は大田市温泉津(ゆのつ)の薬師湯に入った。薬師湯の旧館は現存する温泉施設としては最古で、石見銀山とともに世界遺産となっている。日本温泉協会の審査で、最高評価のオール5を獲得した評判温泉の入浴料は、僅か450円だった。

  
  薬師湯旧館      温泉堂薬局と床屋丹頂の店行燈(売り文句がユーモア)

島根 日本海の荒波

【四国の山旅】
 伊予・土佐の国巡りの山旅は愛媛県大洲市からスタートした。最初に踏み入った山には「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)(総本社は愛媛県今治市三島町にある神社で伊予国一宮)の扁額を掲げた鳥居があり、「大いなる山の神」に頭を垂れて今次出張の無事を祈った。

 愛媛県鬼北町にある地元物産の販売所「日吉夢産地」の駐車場に降り立った瞬間、ドキンと目を瞠ってしまった。下半身剥き出しの大きな女性像を目にしたからである。「どれどれ」と顔を緩めながら寄ってみると「母子鬼誕生」の石碑に以下の内容が書いてあった。
 『鬼北町は全国1741の地方公共団体の中で唯一「鬼」の字が入る自治体で、この名を活かした町づくりをしようと、愛媛一の生産量を誇る柚子の「柚」、鬼北の「鬼」、山の守り神として崇められた女性の「媛」をとって「柚鬼媛」を誕生させました』
 しかしこんな色っぽい像を誕生させては、町の若者連中が仕事に身が入らないんじゃないかと危ぶむのだが・・・。しかし、この町の山間地で見た石垣の素晴らしさには心底感嘆してしまった。

 四国出張の3日目に国道439号線を走り抜けて土佐の四万十市に入った。長年この仕事で全国の国道を走ってきたが、まさにこの439号線が「酷道」と言われてきた意味が分かった。

国道(酷道)439号線
 そしてこの日は黒潮町の海辺のホテルに宿をとり、翌朝、ホテル近くの砂浜に出ると、のびのびと広がる海岸線に、大らかな太平洋の波がゆったりと押し寄せては引いていた。

 清流四万十川の沈下橋(勝間沈下橋)を渡って仕事をし、無事終わって車に戻って一息ついた時に、道端に置いてあるミツバチの巣箱が目に留まった。山でミツバチの置巣を見るのは珍しいことではないが、箱に何か書いてある。近づいて見ると、『入居者募集 家賃無料』とある。いいなあ、このセンス!大笑いしてしまった。

 来週1週間は骨休めをして、3連休明けから再び山旅の予定である。山旅から帰ったら、大急ぎで正月の酒飲み準備である。



黒潮町の朝(「ネスト・ウエストガーデン土佐」の部屋から)

黒潮町の朝(「ネスト・ウエストガーデン土佐」の部屋から)

黒潮町入野海岸

黒潮町入野海岸

                    清流四万十川勝間沈下橋
2018年12月17日(月)曇り~晴れ
「一杯のかけそば」再読
 12月16日(日)の朝日新聞に「大みそかの夜 平成に耳をすます」と題して以下のような論考が載っていた。
 書き出しは、平成の始まった年に話題をさらった「一杯のかけそば」の話からである。貧しい姿の母子三人が大晦日の晩におずおずと一杯のかけそばを頼むが、事情を察したそば屋の夫婦が密かに大盛りをつくり母子を励ます。それが大晦日の晩に3年続くが、その後はパタリと母子は消息を絶った。そして十数年たった大晦日の晩、スーツ姿の青年二人と和服姿の婦人がこのそば屋に現れる。そして国家試験に合格して医師の卵として病院勤務を始めたという二人の兄弟の兄が「このおそば屋のご夫婦に励まされて母子三人で手を取り合って生きてきました。そして弟と相談して、今までの人生の中で最高のぜいたくを計画しました。それは、大晦日に母と三人でこのそば屋を訪ねて、三人前のかけそばを頼むことでした」と言うのである。
 この話は実話ということもあって、俺も早速全文が掲載された週刊文春を買って読み、大いに泣かされてしまった。
 さて新聞の論考は、ここに描かれているのは「理想の弱者像」というべき姿で、置かれた境遇で健気につつましく生きるイメージの弱者に世間は同情的だ。ところが、そうした人たちが声を上げて権利や不満を訴え始めると、今度は非難がわき起こる。この現象は貧困ばかりではなく、セクハラでもレイプでも、国会前の抗議にしても、勇気をしぼって当事者や市民が沈黙を破れば尖った反応が湧き出してくる。そして沖縄でも同じことがいえる。辺野古への新基地建設に抗議する人たちに様々な誹謗や中傷が浴びせられている。
 平成という時間をくぐってこの国は、寛容の気風は延びてゆかず、互いの社会的な苦しみに鈍感、冷酷になってしまい、政治も社会も険相を強めているかに思われる。

 以上であるが、この記事を読んで「さて、確か当時買った週刊文春がまだ捨てずにとってある筈だ」と本箱を漁ったら・・・「あった!」平成元年5月18日号230円とある。 早速ページを開くと『この話を読んで泣かなかった人はいません。だから電車の中で読んではいけません』だの、『編集部員も思わず泣いた感動の童話』などと仰々しいキャッチがページに踊って、この前触れで既に目が潤んでしまった。


 「森のパンセ-その99-」に「一杯のかけそば-抄録-」を載せました。是非お読みください。


 


    関東の山旅
2018年12月30日(日)
関東の山旅(膨張する大都会と「消えゆくムラ」)
 3連休が明けた12月25日(火)から29日(土)までの5日間、森林調査の仕事で山梨、千葉、栃木、群馬の山々を巡った。宿で観たテレビは、頻りに新潟県から北海道までの日本海沿岸部の大雪情報を流していたが、出張期間中は栃木の山中で小雪がチラついた以外、冬晴れの好天に恵まれた。

 相棒のKさんとの出張では、車での長距離移動が常だが、今回の出張でも、山梨から千葉県への移動で、中央道から首都高速に入り、新宿、霞ヶ関と、まさに東京のど真ん中を走り抜け、レインボーブリッジを渡りアクアラインを疾駆して、改めて大都会の風景に目を瞠ってしまった。それは林立する巨大なビル群の煌びやかさと同時に、果てしない都市膨張への驚きである。

首都高速都心環状線(霞ヶ関付近)

レインボーブリッジを渡る

レインボーブリッジから東京タワーを遠望

レインボーブリッジから都心ビル群を遠望

首都高速中央環状線(スカイツリー)

首都高速中央環状線(スカイツリー)

アクアライン海ほたるで小休止

海ほたる夕暮れ

 そして山旅の最後が、偶然にも、ロイター通信やカナダのテレビ局も取材に訪れ「消えゆくムラ」と報じた群馬県のN村だった。この村が生まれた1955年の人口は1万人を超えたが、平成30年の今は1875人。そのうち小中学生で計43人、65歳以上の割合は62%と全国一で、空家は2割を超えている。(N村の総面積の9割が山林が占め、かつてはコン二ャクイモの栽培や養蚕で栄えた)

 今回の旅では、膨張し続ける大都市と「消えゆくムラ」の両極端を目の当たりにして、やはり「ハタ」と考えざるを得なかった。Kさんと二人で全国を回りながら、このN村のように「消えゆくムラ」を数多く見て来た。そこには営々と築き上げてきた見事な石垣や棚田が残り、神社や鎮守の森があり、ムラが消えるということは、そこで育まれてきた文化や伝統、その土地と風景とに生かされてきた人びとの歴史そのものの絶滅に他ならない。飽くなき人間の欲望の代償が、「消えゆくムラ」であってはならないのだが・・・。


                                    N村の風景→