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2015年2月5日(木)ミゾレ
おやじ小屋の雪掘り
 先月31日、今月1日とおやじ小屋の雪掘り(越後では「雪下ろし」とは言わない)に行ってきた。有難いことに、今年も森林インストラクター仲間のNさんがスノータイヤを履いた車を出してくれて、おやじ小屋に着いたらNさんはさっさと屋根に上って、雪掘りも全部Nさん一人でやってくれた。俺はただ下で見ていて、雪掘りが終わった時に一緒に小屋に入って、「はい、お疲れさんでした!」とNさんと酒を飲むだけだった。(こっちが俺の目的だったりして・・・)

 1月31日は、午前4時にNさんが車で自宅に迎えに来てくれて、長岡市営スキー場には午前10時に着いた。それからスノーシューを履いて赤道の尾根を登り始め、おやじ小屋にはちょうど正午に着いた。
 31、1日と暴風雪警報も出ていたわりには、アラレ雪がぱらつく程度の天候で、積雪もせいぜい1メートル2、30cmの比較的締まったザラメ雪で、この時期としては楽な冬山登山だった。
 おやじ小屋にリュックを下ろして小屋の前から山菜山を望むと、何と、冬毛に覆われた真っ白なウサギ(トウホクノウサギ)が、一羽、そしてもう一羽と雪穴から跳び出して来てお出迎えである。そして今度は美しい金毛のテンが現れて、雪の上をスルスルと動き回ってウサギを追ったりと、到着早々の動物たちの歓迎ぶりだった。そして「あれッ?」と目の前のホオノキに掛けた巣箱に目を凝らすと、ムササビ君の尻尾がふわふわと風に揺れていた。


 夜中に15cmほどの新雪が積もって、翌2月1日は早々に下山することにした。朝、Nさんは再び屋根に上って囲炉裏の煙出しの雪囲いを元に戻し、それから鍵を閉めて再び戸板を掛けたドアの前で、「お世話になりました!」とおやじ小屋に向かって丁寧に頭を下げてくれた。


 帰路の関越自動車道は、六日町当たりから、直前の車さえ見失いかねない程の猛吹雪に見舞われた。のろのろと塩沢を通過し、越後湯沢まで走って道路規制にかからなかったことに胸をなでおろし、まさにホワイトアウト状態の長い関越道の坂道を祈るように走って、危機一髪、無事国境の長いトンネルに突入した時には、思わず運転のNさんに「お疲れさまでした~!」と感謝の声を掛けた。

 2月も節分、立春と過ぎて、おやじ山の雪のテントの中で聴いた早朝のラジオの悲報から、早5日目である。今朝の新聞で目にした一句である。


  砂嵐すべての笑みを消してゆき   青木恭子
2015年2月19日(木)晴れ
トマ・ピケティを読む
 毎朝つけている日記を辿ると、トマ・ピケティの「21世紀の資本」を読み始めたのが、先月九州の森林調査から戻った後の、1月27日とあった。そして昨日(2月18日)、カミさんが毎週定例の「井戸端会議?」に出掛けた後の実に静謐な時間、居間のこたつの中で、晴れて読了となった。
 実に、タフな本だった。何しろ本文が608ページ、更に巻末の「原注」などが98ページもあって、「どれどれ」と物差しで本の厚さを測ってみたら表紙を含めて4㎝もあった。
 タフという意味は、難解ということではなくて、俺が若かりし頃に読んだロマン・ロランの長編小説「ジャン・クリストフ」や、五味川純平の大河小説「戦争と人間」に耽った時と同じような、体力と知力(もう当時とは比べようもないほどカスみたいになったが)を消耗した、ということである。

 この本は4部16章からなり、とっつき初めは基本的な経済理論や数式(α=r×βやβ=s/g)が出て来てギョッとするが、読み進めると実に丁寧に(つまり経済音痴の俺にも理解できるように)以前の記述を繰り返し繰り返し説明してくれたりと、案ずるほどの難しさはない。

 この書物の真骨頂は、やはり後半から終盤にある。紙背にあるトマ・ピケティの「想い」が腑に落ちてくるからである。今、新聞や雑誌などで紹介されている「豊富なデータ・・・云々」(国別の人口分布に占める富の蓄積の歴史的(時系列)推移など)の評価は、氏の言わんとするところの前提にしか過ぎない。

 大著「21世紀の資本」は、前段6割のページを割いて『富の集中は1世紀前ほど極端ではなくなったが、人口の最も貧しい半数はいまだ何も所有していない。今日では世襲中流階級が国富の4分の1から3分の1を所有し、かつて(19世紀から第一次世界大戦前の1910年頃まで)10分の9を所有していた最も裕福な10パーセントは、いまや国富の3分の2(それでもすごい!)しか所有していない』との結論を導き出したが、それは資本主義経済の自立的均衡作用や強力な政治介入によるものではなく、単に2度に渡る世界大戦のショックから立ち直る(つまり、再び格差が拡大し続ける)中途にあるだけだ、としている。
 そして、『歴史の大半に見られるきわめて高度な富の集中の原因である蓄積の論理(氏の言う r>gの不等式。つまり資本収益率(r:通常5%程度)が常に経済成長率(g:先進国では1~1.5%)を上回るという理論)によって、富裕者に過剰で持続的な資本集中がもたらされる』と警告している。

 後半の第12章では、芸能誌的な挿話もある。米国の雑誌「フォーブス」の資産ランキング第1位に君臨したビル・ゲイツやアップル社のスティーブ・ジョブス、そして化粧品の世界的リーダー「ロレアル」の女性相続人リリアンヌ・ベタンクール、さらにはメキシコの不動産や通信事業の大物で悪評高いカルロス・スリムなど、彼らの(又は彼らが引き継いだ)莫大な資産の自己増殖ぶりを数値で表すとともに、これは本人たちの努力や能力を超越した r>g(さらに、巨大な富にはrが通常より高くなる。6~7%)という理屈に基づくものだと説明している。

 だからこそ、とトマ・ピケティは主張する。この21世紀のグローバル化した「世襲資本主義」による格差による不安定を解消し、果てしない不平等スパイラルを規制しながら一次蓄積の新しい機会を作るインセンティブを保持するためには、「資本に対する(年次)累進税を課すべきだ」と繰り返し述べているのである。

 本書の中で、トマ・ピケティの立場は明確である。「おわりに」で氏はこう書いている。
 『私は「経済科学」という表現が嫌いだ。「政治経済学」という言い方のほうがずっと気に入っている。政治経済学は、経済学を他の政治科学から区別する唯一の点を伝えるもので、それが持つ政治的て、規範的で、道徳的な目的だ。』
 そして本書の最後に、こう締めくくっている。『あらゆる社会科学者、あらゆるジャーナリストや評論家、政治に参加する活動家、そして特にあらゆる市民たちは、お金やその計測、それを取り巻く事実と歴史に、真剣に興味を抱くべきだと思うのだ。お金を大量に持つ人々は、必ず自分の利益をしっかり守ろうとする。数字との取り組みを拒絶したところで、それが最も恵まれない人の利益にかなうことなど、まずあり得ないのだ』

 
 今から1世紀前の大正5年、経済学者河上肇は、世に曼延する貧乏と格差の問題について大阪朝日新聞に連載を発表した。この文章を一冊にまとめた本が「貧乏物語」である。昭和47年の第40刷時点で40万冊以上の発売部数になり、いまだ版を重ねていることからすると、大ベストセラーということになる。
 その巻末で、かの大内兵衛がこう書いている。『「貧乏物語』の問題は、河上が問いかけただけでは解決しなかったけれど、「人類はつねに、自分の解決できる課題だけを提出する」(マルクス)。しかし諸君!正しく提出された問題なら、正しく解くのは諸君の義務ではないか。』
 
 昨日、「21世紀の資本」を読み終えて、実に感無量である。
トマ・ピケティが大著「21世紀の資本」によって、大内兵衛の発した檄を「正しく解いて」くれたように思えたからである。しかしその実現には、民主的な熟議の必要性やグローバルな金融の透明性など、数多くのハードルがあることも、ピケティ氏は正直に著している。