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2014年1月3日(金)薄曇り
誰がために旗を振る
 明けましておめでとうございます
 本年も「おやじ小屋から」(日記-仙人のつぶやき-)をよろしくお願いします

 昨日は、雪国の皆さんには誠に申し訳ないようなポカポカ陽気の中で応援、そして今日は薄曇りの肌寒い天気で、フリースの襟を立てての声援だった。もう毎年の恒例になった箱根大学駅伝の沿道に出ての応援である。場所は、我が家からの一番近い往路の3区(戸塚〜平塚間)、復路では8区に当たる国道1号線バイパスの旧パナソニック工場の前あたりが、俺の定位置である。
 
 昨日は応援を終えて自宅に戻る途中で、ご近所のMさんとばったり顔を合わせた。ニコニコと新年の挨拶を交わしながら「箱根駅伝の応援に行って来ました」と言うと、「おや?関さんはどこの大学ですか?」と訊かれた。「どこでもありません。全部の選手に頑張れ〜!と叫んできました」と言ったら笑われたが、やはりわざわざ沿道まで出掛けるとなると、どこかの大学の贔屓だと思われるのかも知れない。事実このあたりの沿道では出場大学の幟旗があちこちに林立して、それらの旗の元ではさながらOB連中の賀詞交歓会といった風情が見られるのである。

 そして今日は、昨日の自宅に帰ってからのテレビ観戦の興奮も尾を引いて、1時間も前に沿道に立った。読売新聞社の人(?)から赤い小旗を貰っても選手が来ないことには何やら手持ち無沙汰で、それにじっとしてると寒いのである。それで身体を温めるために、リハーサルのつもりで交通整理の白バイがカッコ良く目の前を通り過ぎるたびに「がんばれ〜!」と小旗を振ってみた。隣で俯いて熱心にスマホ情報を観ていた男性が、その度に「エッ!」と顔を上げてしまうのが何とも気の毒だったけど・・・。

 ガードレールから身を乗り出すと、遠く前方の小旗がさざ波のように揺れ出して、いよいよ白バイに先導されたトップランナーが現れた。「タ・カ・ク〜ッ!」と沿道からは選手名の掛け声も飛んで、俺みたいにただ「頑張れ〜ッ!頑張れ〜ッ!」の一本調子とは訳が違うのである。

 しかし目の前を駆け抜けて行く選手達にひたすら「頑張れ、頑張れ」と連呼しているうちに、不思議な感情に打たれてしまった。それは、選手達に向けられたはずの声援が、まるで木霊のように自分自身に跳ね返って来るのを感得したからである。何のことはない。「俺のこの声援は、歯を喰いしばって必死に疾走する選手達の身を借りて、己自身を鼓舞するための叫びではないか」

 それでいいのだ。年の初めに箱根駅伝を走る選手達への声援は、俺自身が悔い無き一年を走り抜けるための自分に向けた「頑張れ〜!」の声援でもあったのである。
2014年1月15日(水)晴れ
おやじ山の冬2014(おやじ小屋の雪掘り)
 昨日朝一番の上越新幹線で東京を発って長岡に来た。そして午前中いっぱい、市内である打合せに参加させてもらい、昨日は予約しておいた市内のホテルに泊まった。

 そして今朝は、長岡駅前から栖吉行きのバスに乗って市営スキー場近くの停留場で降り、朝陽で眩いばかりの雪景色を見ながらスキー場のロッジまで歩き、そこからはスノーシューを履いておやじ小屋を目指した。今年最初のおやじ小屋の雪掘り(長岡では屋根の雪下ろしの事を「雪掘り」と呼ぶ)である。
 雪国の冬には珍しい好天に恵まれた絶好のおやじ山入りになった。75リットルの大形リュックの重さに喘ぎながらも、新雪に踏み描いたスノーシューのシュプールを何度か振り返っては、込み上げてくる嬉しさを抑えきれなかった。冬木立の梢に溜まった新雪が午前の日差しにいくらか柔んで、キラキラと光り輝いている様はどんな宝石よりも美しいと思う。そして雪原に描かれたノウサギとキツネの交差する足跡!思わず立ち止まってそれらの痕跡を目で辿りながら、「はて、この両者の結末はどうなったのだろう?」と思い巡らすのである。

 スキーロッジから2時間、おやじ小屋に着いた。やっぱり心の中で「ただいまあ〜!」と大声で叫んでしまった。自宅で観ていたテレビの天気予報からはかなりの積雪量を予想していたが、せいぜい1メートル20〜30cmというところだろうか。大杉の枝に覆われている屋根の積雪は1メートルにも満たないほどで、拍子抜けするほどだった。

 今日は早速屋根に上がっての雪掘り。そしてトイレまでの雪踏みと雪囲い外し。時折、木立の枝に積もった雪が日差しに溶けてドサリと頭の上に落ちてビックリさせられるが、梢を見上げると、その砕け散った粉雪がまるで銀砂をばら撒いたように青空にキラキラと舞って、思わず溜息が出てしまうのである。

 午後5時半、七輪に熾した炭火にあたりながら酒を呑む。一杯呑んでは「はあぁ〜」と吐き出す虹色のはずの息が、いつまでも真っ白いままの小屋の寒さだった。
2014年1月16日(木)曇り
おやじ山の冬2014(かまくらと母ちゃん)
 昨晩は7時前には寝袋に潜り込んで横になったが、やはり寒くて一晩中ウトウトしていた。もう何年も厳冬期のおやじ山で過ごしているので慣れっこになったが、こんな時には無理して眠ろうと焦らないことにしている。眠れなくても横になっているだけで、疲れも取れるし体力も回復するものである。

 6時半に始まった耳元のラジオ体操が第二体操に移って、「エイッ」と寝袋を出た。凍りついたドアをドンと突いて小屋の外に出ると、薄明の中で朝の風景がピタリと止まっていた。壮大なおやじ山の景色が一つの巨大な墨絵となって、氷点下に凍りついたように時間を止めていたのである。何という静けさであろう!そして、何という荘厳さであろうか!思わずこちらも息を止めざるを得ないような不思議な感慨と感動に浸りながら、只々小屋の前で立ち尽くしていた。揺るぎない自然とこんな風に対峙した経験は今まであっただろうか。

 午前中いっぱい狭い小屋の中で過ごしていたが、さすがに身体がなまって、午後からは運動不足解消の「かまくら」作りをした。来月おやじ小屋の雪掘りに来てくれる友人達のために、野外泊の雪洞作りの意味もあった。

 昨日の雪掘りで下ろした雪を利用して、小屋の脇で雪を積んだり穴を掘ったりと夢中でスコップを振るっているうちに辺りが薄暗くなって、時計を見ると午後5時である。それでかまくら作りに区切りをつけてまじまじと今日の成果を見つめていた時、フッとガキの頃を思い出した。
 それは学校から家に帰って母ちゃんに言いつけられた屋根の雪掘りをやり、下ろした雪をコスキで片付けながらかまくらを作っていた思い出である。そのかまくらを毎日学校から帰るたびにさらに雪を積んで穴を大きくしたり、かまくらの壁に色んな工作をしたりと一生懸命だった。そして暗くなって「タカオ〜ご飯だよ〜」と母ちゃんに呼ばれるまでいつも夢中だったのである。
 内職のミシンを鉄道病院に入院する直前まで毎日踏み続けていた懐かしい母ちゃんとかまくら作りの思い出を、涙ぐむような気持ちで想い起こしたのである。

 今日も赤々と熾った七輪の炭火にあたりながらの夕飯だった。今日は目刺を焼いて食った。じゅうじゅうと美味しい煙が立ち上って、もうこれだけで幸せな気分になった。
2014年1月17日(金)雪
おやじ山の冬2014(下山の日)
 5時半起床。小屋の外に出ると、今朝も薄明の中でおやじ山の風景が微動だにせずピタリと時間を止めていた。ドア脇に掛けた寒暖計を覗くと−4℃である。

 今回荷揚げした食料は昨晩で全て食い尽くした。それで今朝は、インスタントコーヒーと熾した炭火だけの朝食である。気温が1℃までしか上がらないおやじ小屋の中では、温かい飲み物と赤く燃える火があるだけで満足である。

 雪掘りに使った三脚を再び大杉の幹に括りつけ、トイレの雪囲いを戻し、そして最後におやじ小屋のドアの雪囲いをしてスノーシューを履いた。「ありがとう、ございましたあ〜!」いつものように大声でおやじ小屋に挨拶して山を下った。午前11時である。曇り空が雪空に変わった。大きなボタン雪が頻りに降り続いた。

 木々の冬芽の写真を撮りながら麓のスキー場まで下りると、「付属小学校」「上組小学校」のゼッケンを付けた子供たちが賑やかにスキー学校をやっていた。スノーシューを外してガランとしたロッジに入ると、何と!食堂が開いていた。温かいラーメンを頼んで掻き込むようにして食ったが、美味いの何のってもう・・・! 
(おやじ山の冬2014-第一回おわり-)

 「森のパンセ」(その62)を近くアップします。ご覧ください。


 
2014年1月26日(日)晴れ
かけがえのない自然への思い
 先週、新聞で紹介された2つの会合が、たまたま昨日の午後1時半から横浜で、そして夕方6時過ぎから鶴見で開催されて、ハシゴで参加した。一つは「かながわ避難者と共にあゆむ会」が主催した「福島県南相馬市交流懇談会」、もう一つは、かさこ氏初監督のドキュメンタリー映画「シロウオ〜原発立地を断念させた町〜」の鑑賞である。

 「福島県南相馬市交流懇談会」は、福島第一原発事故で神奈川県に避難している南相馬市の人たちと県内に住む南相馬市出身者を対象とした交流会だが、事前に電話で「昨年7月に南相馬市小高区で災害復興ボランティアをやった者ですが、今回の交流会に参加させてもらっていいですか?」と問い合わせると、「全くフリーです。どうぞ」という答えだった。その後の現地の復旧状況や、避難して来た現地の人たちの様子を直に聞いてみたかったからである。

 会場では、たまたま隣り合った78歳のSさんと実に楽しい会話ができた。顔艶もよく毎朝日課にしているという散歩の話に、「いや〜Sさん元気だねえ」と相槌を打つと、「いや、身体は元気だけんど避難してから物忘れがひどくなって、今薬を飲んでるんだ」と言う。医者からアルツハイマーの初期症状だと診断されて、進行を止める薬だという。そしてSさんが病院で受けた検査の内容を喋り始めたが、随分以前の事のはずなのにその記憶力の確かさにビックリしてしまった。曰く、何の脈絡もない『電車、○○(確か果物か野菜の名前だった?)、△△(忘れてしまった!)』の言葉を医者から告げられて、しばらく経った後に『はい、先ほどの3つの言葉は?』と訊かれる。『100から76を引いて、さらに××を引くと答えは?』。Sさんがスラスラ言うので、「Sさん、その検査で質問された内容、まだ覚えているんですか?」と尋ねると、「だってそれからずっと薬飲んでるからね」と笑いながら言うのである。
 交流会が終了し、早速Sさんとの会話を忘れないようにと手帳を取り出して、3つの言葉と引き算の数字をメモろうとしたら・・・何と!つい先ほどの○○や△△、××が思い出せない!俺の方がすっかりアルツハイマー患者である。(やっぱり、酒は控えたほうがいいかも知れないなあ〜)

 そして実は、Sさんは南相馬からの避難者ではなくて、いまだ全町が年50ミリシーベルト以上の高い放射線量で帰還困難区域に指定されている浪江町からの避難者だった。そこで農業を営んでいたというSさんが、震災後に2度、束の間の時間草ぼうぼうに茂った自分の農地を訪ねた話をした後で、呟いた言葉が胸に沁みた。
 「早く帰って、また農業やりてえなあ〜」

 鶴見公会堂で上映されたドキュメンタリー映画「シロウオ〜原発立地を断念させた町〜」を是非とも観たいと思ったのは、高校時代の畏友、和歌山県田辺市在住のT君が福島第一原発事故1年後に出版した「原発を拒み続けた和歌山の記録」を読んでいたせいである。またこの映画はひょっとしてT君の著書を土台にした記録映画で、T君も会場に来るかも知れないと思ったからである。

 残念ながら予測は外れてT君は居なかったが、映画の内容は、紀伊水道を挟んだ徳島県の蒲生田と、T君が詳述した和歌山県日高の二つを舞台とした原発立地反対を闘った人たちのインタビューを中心としたドキュメンタリーだった。映画タイトル「シロウオ」は、徳島の蒲生田岬の湾に注ぐ清流椿川の伝統漁、シロウオの四つ手網漁にちなんだものである。

 あの3・11の福島原発事故の遥か以前に、原発の危険性を感じて原発計画を追い出した町が全国に34ヶ所もあり(ふるさと越後の新潟県巻町もその一つである)、とりわけ和歌山県では5ヶ所も計画が持ち上がりながら、1つも原発を作らせなかった稀有な県なのである。

 ドキュメンタリー映画の中で、徳島県蒲生田の原発反対闘争で闘った椿泊町の漁師太居さんは、
『電力会社や政治家の人に、「安全であれば何で東京とか大阪とかに原発作らんのですか?」と質問しても、返事が返ってこんのです』

 そしてここで民宿を営む「あたらしや」の若女将、岡本さんは、
『帰るところがあって、そこの自然が汚れてないのは、子供にとってはほんとに幸せで、財産だと思います』と語っている。

 和歌山県日高原発反対を親子で闘い抜いた漁師濱一己さんは、
『お金じゃない、とにかくこのきれいな海と昔からの自然そのままの村、町が欲しかったですね』 

 そしてT君の著書にもあった95歳の元教員鈴木静江さんは、「戦争中はお上のいう通り忠君愛国を一生懸命生徒に吹き込み、戦争が終わった時に、あっと思いました」と語ってから、こう続けた。
『こんどこそだまされまいと思ってね。だから、原発はいくらええという話を聞いても、これはやっぱり眉へつばつけて聞かんとわからんと』

 上映が終わってから、38歳の若いかさこ監督の30分トークがあった。
 彼はこう言った。「今こそこの映画を多くの人に観てもらって、原発について再度考えてもらいたかった。今じゃないと、もうそのチャンスはないように思うのです」

 期せずして同じ日に二つの機会を得て、「かけがえのない自然」の大切さを改めて胸に刻んだ一日となった。