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2014年2月2日(日)曇り
飯舘村
 昨2月1日(土)、「飯舘村」(〜放射能と帰村〜)というドキュメンタリー映画を観に行ってきた。平塚の駅前にあるビルの会議室で上映されたが、監督の土井敏邦氏も出席されて、62会場の視聴者との意見交換もあった。

 このドキュメンタリー映画を観ようと思ったのは、「飯舘村」にはいささかの思いがあったからである。それは昨年9月、森林調査の仕事で11日間福島県内を回ったが、飯舘村にも調査ポイントがあり、向かった399号線の「登舘峠」で入村を阻まれたからである。厳重なバリケードの前で車を降り、警備の警察官にも尋問されながら「調査不能」の証拠写真を撮ったが、「一体この村の人たちはどうしているのだろうか?」と暗澹たる気持ちだった。そんな村人たちの様子もこの映画で知りたかったからである。

 およそ2時間のドキュメンタリーの内容は、第一部は「家族」、第二部「除染」のタイトルで、福島第一原発事故で飯舘村を追われた村民たちが家族離散して暮らす苦悩や、国が実施している除染作業とそれに対する村民の根強い不信感との対立を描写したものだった。

 およそ6,300人の全村民が避難している飯舘村は、今膨大な費用を掛けて国の除染作業が進められている。除染の実験事業地区400メートル四方の除染費用で6億円、それでさえ放射線量の低減率は僅か30%程度で、村の総面積230平方kmの除染などどだい叶わぬ中で(現状の除染は総面積の6%)、国は避難民への帰村を促している。「専門家の科学的知見に基づき、一定量以下の放射線量なら人体に影響はない」と。


 福島第一原発事故で早期に国の避難指示が出た30km圏内から外れた飯舘村は、大幅に避難が遅れた。国のSPEEDI情報が知らされず平時の1000倍以上もの高濃度汚染に晒されながら、1ヶ月以上も被曝したまま村に留まっていたのである。さらに無用と思われる国の除染作業の中で、「一体これは誰のための除染なのか」と国への不信感を募らせている。
 酪農家だった志賀正男さんの息子さんは、怒りを込めてこう言っていた。「原発による放射能汚染もそうだけど、消えないのは心の汚染だね。俺たちは国からバカにされてるっていうことよ。国は俺たちを守ってるんじゃない、別のものを守ってるんだね。」

 
映画が終わり、土井監督がマイクを持った。氏は30年近く自分のライフワークとして中東のパレスチナに入り、パレスチナ難民の悲惨さを追い続けてきたジャーナリストである。
 氏はこう語った。「東日本大震災直後、ジャーナリストとして自分ができることを考えた時、イスラエル建国によって祖国を追われ難民となったパレスチナ人と、放射能汚染でふるさとを追われた避難民とが重なった。避難民とは原発事故以外の東北被災者や伊豆大島の豪雨災害避難者
のように、いつかはふるさとに帰ることができる人たちのことを言うのです。しかし今の飯舘村の避難者は、村に戻れる見通しが全く立たないパレスチナ人と同じ「難民」なのです。「土地」とはどういうものか。祖国や自分が生まれ育ったふるさととはどういうものなのか、それをこの映画を通して考えてもらいたかったのです」

 俺がずっと考えていた根っこのところが、いくらか見えてきた気がした。幽かではあるが、その端緒を掴めたことが嬉しかった。


2014年2月3日(月)晴れ
山菜山への思い
 今日は節分、大寒最後の日である。この日は寒さのピークだと言われてきたが、今朝外に出てもさほど肌寒さは感じない。

 毎年この日になると、家族総出で楽しんだガキの頃の豆まきを思い出す。国鉄職員の家族でありながら、貧しくて汽車に乗って家族旅行することなど一切なかったが、今にして思うと、おやじやおふくろはこんなハレの日には子どもたちを楽しませるために精一杯のことをやってくれた。
 「鬼は〜そと!福は〜うち!」と大声を張り上げながら、おやじの目を盗んでは大口を開いて自分の口に炒り豆を放り込むスリルが嬉しくて堪らなかった。そして立春の翌朝、窓の外のうず高く積んだ雪壁に「鬼は〜そと!」の福豆が張り付いていて、登校前にこれをほじくり出すのに大忙しだった。

 そして明日は、いよいよその立春である。5年日記を開いてページをくくると、昨年1月末におやじ小屋の雪掘りに行った時の積雪が約2メートルとあった。今日の長岡市営スキー場のホームページの積雪情報から推して、今頃のおやじ山はせいぜい1メートルちょっと、昨年よりは雪解けも早まりそうである。今からもう、山の斜面の山菜の姿が目にチラついて、全く胸弾む思いである。
 
2014年2月23日(日)曇り
日進月歩と浦島太郎
 しばらく日記を更新しなかったので、いつもこのブログを読んでくれている友人達から、「関はアル中で倒れたか、おやじ山で凍死でもしたんじゃないか?」と縁起でもない電話がかかってきたりして、まあこれも気が置けない友人を持てたと喜んでいる。

 実は、パソコンを9年ぶりに買い替えた。俺にとってはカミさんを拝み倒しての念願の大投資だったが、ウキウキと組み立てたものの、その後のインストールやら旧パソコンからのデーターの移行やら操作方法やらで「あれ?」「あれ?」「あれれッ・・・!」の悪戦苦闘が連日続いて、浅田真央さんぐらいに疲労困憊してしまった。(こんなことを言うと「あまいッ!」と熱烈な真央ちゃんファンから叱られそうだけど)何しろ一昔も前のパソコンからの移行である。まさに時代は日進月歩、何度かサポートデスクに電話をかけて若いお嬢さんのご指導を仰ぎながら、全く浦島太郎の心境だった。

 それで、ようやく今日から新パソコンでのブログの更新が可能になった。「バンザイ」と言いたいところだが、電源を入れると操作画面がパッと出てきてしまって、旧パソコンのあのじ〜と待ち続ける痺れるほどの退屈感が懐かしいのである。果たして心のモード切り替えが新パソコンみたいにパッといくだろうか?

 (下のページに日にちを遡って「おやじ山の冬2014」と「ガーラスキー編」をアップします。)
2014年2月14日(金)曇り、雪(関東地方は大雪となる)
おやじ山の冬2013(雪掘り隊おやじ小屋に入る)
 ぐっすり寝込んでいたら枕元の携帯電話が鳴った。まだ午前3時15分である。「少し早いけど、これから迎えに行きます」。Sさんからだった。これから向かうおやじ小屋の雪掘りに闘志満々の声だった。
 午前4時に今回も車を出してくれたNさんと同乗のSさんがわが家に迎えにきてくれて、4時半に厚木でTさん、Kさんをピックアップ、総勢5人の強力雪堀り隊を編成して冬のおやじ山に向けて出発した。俺にとってはちょうど1か月前のおやじ小屋の雪掘り以来、今冬2度目の入山である。

 午前9時過ぎにソリ遊びの親子で賑わう長岡市営スキー場に着き、ロッジの事務所に寄って挨拶してからいよいよスノーシューを履いておやじ小屋に向かった。積雪はせいぜい1mほどで、1月の入山時点よりは少ない感じである。それでもたっぷり1時間半かかってのおやじ小屋到着だった。
 「雪、少ないね」2,30cmほどしか残っていない屋根の雪を見て皆少しガッカリした様子だった。それでも雪囲いを外して中に入って、皆でおやじ小屋入りを祝しての笑顔の乾杯となった。(俺のこのメンバーはどうした訳か、何はともあれ先ずは「乾杯」から入る癖がついてしまった。まあ、他の仲間たちでも似たようなものだけど・・・)

 今日は、トイレの道付けと雪囲い外し、そして明日から山泊りするための雪上テントの設営だけで午後2時半に下山した。今日の4時から予定されている「猿倉緑の森の会」の年間スケジュールを決める総会に、自分も参加させてもらうためである。
 スキーロッジに長岡市役所のSさん、Iさんが迎えに来て下さって俺は総会会場の蓬平に、仲間の皆さんは今日の宿泊先の市内のホテルに向かった。

 「猿倉緑の森の会」の総会は、恒例となった春のスノートレッキングと秋のトレッキング&自然観察会の日程も決まり、「山の暮らし再生機構」長岡地域復興支援センターのAさんが制作に尽力された「猿倉岳天空のブナ林ガイドブック」「猿倉岳天空のブナ林ガイドマップ」のゲラ刷りも参加者に披露されて終わった。

 総会が済んで雪掘り隊の皆さんが待つホテルに入り、午後7時からは予約しておいた「小嶋屋殿町店」でSさん、Tさんのある任へのご苦労さん会を兼ねた宴会。そしてホテルに戻ってからも部屋に集まって余韻冷めやらずの二次会が始まり、雪国の夜が更けるのも忘れてしまった。
(関東地方がこの日記録的な大雪となったことも知らずに・・・)

2014年2月15日(土)雪
おやじ山の冬2014(おやじ小屋の知床旅情)
 今朝は、ホテルを出発して、モサモサとボタン雪が降りしきる中でのおやじ山入りだった。昨晩からの雪が30cm以上も降り積もって、昨日のスノーシューの踏み跡も幽かに窪みが分かるほどの降り様だった。しかし雪掘り隊員たちは約1名を除いて(二日酔い気味の俺だけど)すこぶる元気な様子で、「これでやっと冬のおやじ山に来た感じだねえ」と喜んでいるのである。

 初日の昨日でテントやシュラフは荷揚げしておいたので、今日は小屋泊まりの酒と食糧、それにTさんから提供してもらった「こたつ板」を背負っての入山だった。
 実はこのこたつ板こそ今回の重要アイテムで、囲炉裏の上に被せて宴会テーブルにしようという魂胆なのである。囲炉裏の縁の狭いレンガの上では、料理の器もコップも並べきれないからである。

 昨晩からの新雪は、日本海側独特の湿り気のあるボタン雪で、ガキの頃はこの雪で固いキンコを捏ねたり(都会の人たちは「キンコって、何?」かもしれないなあ)雪合戦の玉(弾?)を作るのに好都合の雪質だった。そんな新雪をラッセルしながら歩くと、「キュッ、キュッ」と雪鳴りがして、ちょっと心が弾んでくる。そんな気持ちからか、雪掘り隊の仲間たちは入れ替わり立ち代わりでトップのラッセルをかって出てくれた。

 おやじ小屋に着いてからは、Nさんはテントサイトの雪堀り、俺とTさん、Kさんはカマクラ作りをして遊んだが、百年杉の枝に積もった雪の塊が、頻りにドサリ、ドサリと体を直撃して閉口した。そしてフードコーデネーターを自称するSさんは、早々と小屋の中で宴会準備にいそしんでいた。

 さすがというか、やっぱりというか、まだ明るい随分と早い時間に夜の宴会準備が整ってしまって、皆で囲炉裏のこたつ板を囲んだ。メイン料理はおやじ山で採った塩漬けきのことKさんが育てた自家製ダイコンがたっぷり入った「おやじ山風雑煮」と、昨年東北大震災復興支援ボランティアでご一緒した釧路のSさんが、わざわざ藤沢のわが家まで持って来て下さった貴重な「エゾシカの骨付きブロック肉」である。

 こんな楽しいおやじ小屋での宴会は初めてだった。防寒対策で皆身体中にホカロンを貼り付けて臨んだが、笑いすぎて腹に貼ったホカロンが加熱して火傷しそうになった。Sさんに促されて十八番の「知床旅情」を大声で歌ったら、その後にTさんとKさんの「山の歌」「ふるさと」「○○」「・・・」の歌が次々と出てきて、皆で大合唱になった。こんな山奥の大騒ぎで、おやじ山の獣たちは「はて?これは一体何事か!?」とビックリ仰天したに違いない。
 そして俺も、この夜仰天したことがあったが、ここでは詳らかにしないことにする。ただ、これで十分だと安心して荷揚げした2本と1ダースとが、アッと驚く大ブレークの末にすっかり底をついたとだけ記しておこう。

2014年2月16日(日)曇り
おやじ山の冬2014(下山はしたものの!)
 昨晩は、Sさんはおやじ小屋の中で、Tさん、Kさんペア、俺とNさんペアはそれぞれのテントに潜り込んで寝たが、夜中に何回かドスン、ドスンと百年杉の枝に積もった雪の塊がテントを直撃して、その度に目が覚めてしまった。何しろテントのアームが折れそうなほどの衝撃だった。

 そんな訳で、ぐずぐずとテントの中で朝寝坊していたら、「お〜い!」と小屋の中から声がして、早く起きて来いと呼んでいる。小屋に入ると皆揃っていて、昨晩の雑煮汁の残りに玉うどんを煮込んだ朝食が湯気を立てていた。

 テントを撤収し、小屋の中を片付けて下山を開始したのは午前10時過ぎだった。スキー場まで下ると今日はいっぱいのスキー客である。ロッジの食堂も列をなすほどの混み様で、ここでの昼食を諦めて南長岡越路インターから関越道に乗り入れることにした。

 関越道に入ってすぐに異常事態に気付いた。カーラジオの高速道路情報が越後湯沢から練馬まで不通だと伝えている。そして詳しい情報を調べようと直近の越後川口SAに乗り入れてみると、何と、駐車場は昨日以前から停まっていたと思しきトラックなどで満杯状態だった。

 国道17号線も三国トンネルが不通だと知らされて再び長岡に戻ることにした。そしてKさんを長岡駅で見送り、他の4人は初日に泊まった同じホテルに再び宿をとった。
 チェックインで「ただいま〜」と言ったらフロントレディーから笑われてしまったが、「関さんの知床旅情がアクシデントの発端だったねえ」とはSさんの言葉である。

 思わぬ延泊になってしまったが、夕食は地元の同級生A君から勧められた駅中の「朝日山」で摂った。 
2014年2月17日(月)晴れ
おやじ山の冬2014(エピローグ-遙かな旅路-)
 今朝もsさんから起こされてしまった。枕元の携帯電話が鳴って時間を見ると既に8時過ぎである。ぐっすり寝込んでしまった。急いで身支度をして皆が集まっているホテルの食堂に下りて行った。
 そこで運転手役のNさんが提案した第一案は、長岡インターから北陸道で富山に行き、そこから東海北陸自動車道で白川村、郡上、美濃市を走り抜けて一宮市に出て、さらに名神高速道路、東名高速道路と走って神奈川に帰る、というものだった。眠気まなこで天井を仰いでその経路をイメージしてみたが、あまりに遠大すぎて朦朧となってしまった。

 それで一度部屋に戻って荷物をまとめ、Nさんのコールがあっていよいよ出発である。Nさん曰く、「再度スマホで道路情報を確認したら、一案は止めます。今回は関越道を北上して新潟まで行き、磐越自動車道に入って、五泉、阿賀、会津若松経由で郡山に出て、それから東北自動車道に乗り入れて一路東京を目指します」というものだった。この時点では俺の頭もいくらかシャッキリとなって、だいたいのイメージが掴めた。

 磐越自動車道の阿賀野川SAと磐梯山SAで休憩をしたり食事を摂ったりして、途中、猪苗代磐梯高原から磐梯熱海までの区間は凍結のため一般国道に下ろされたりもしたが、Nさんの素晴らしい運転技術で無事東京入りすることができた。
 そして首都高速から東名高速道路に入って厚木インターで下り、本厚木駅前でTさん、Sさんと別れた。さらにNさんからは、有難くも藤沢の自宅まで送っていただいた。
 長岡を出発してから12時間にも及ぶ遙かな旅路だった。快適なNさんの運転のお蔭で、道中皆で今までにないほどの長い時間を様々な会話で有意義に過ごすことができた。運転のNさんには「お疲れさん」と心から感謝したい。
2014年2月19日(水)雪
ガーラの絶滅危惧種
 雪のおやじ山からようやく辿り着いたというのに、よりによって再び雪国に舞い戻った。今度は毎年恒例となった高校時代の同級生たちとのガーラのスキーツアーである。今回の企画も、JRのサービス券付格安チケットを購入したりと、この道では(いや、この道でも)抜きん出て才能を発揮するFさんである。

 昔懐かしい朝の通勤ラッシュ時の東海道線に乗って東京駅に着いた。列車は8時53分発のガーラ行上越新幹線「たにがわ」である。既に新幹線ホームには伊豆のKさんが並んでいて、ニコニコと手を振って待っていてくれた。そして追ってNさんが合流して、3人で新幹線に乗り込んだ。

 先週末に降った関東地方の記録的な大雪で、関越トンネルに入る前からの雪景色だったが、さすがトンネルを抜けて越後湯沢駅に列車が停まると、車窓からの眺めはまさに堂々とした本場雪国の風景である。そしてガーラ駅の改札では、いつものように実家が湯沢の近くにあって東京から既に車で来ていたT君が迎えに出ていた。

 さほど風は無かったが、気温も低く雪が降り続いた一日だった。リフトに4人並んで腰掛けながら、「今年はおかしいねえ〜。いつもは晴れ女のFさん念力で、予報がどうあれ青空が出るのにねえ〜」と愚痴りながらも、皆雪の舞うゲレンデを颯爽と何本も滑り下りたのはさすがである。

 それにしても今は大学受験シーズンの試験休み中なのか、ゲレンデは二十歳前後の若者たちばかりである。目を凝らせどガーラのゲレンデには、俺たちのようなジェネレーションの人物は見当たらない。思わず「どっこいしょ」と声が漏れ出てリフトに腰掛け、ゆらゆらと登りながら、「ここでは俺たちは絶滅危惧種になっちゃったなあ」としみじみと4人で感慨に耽ったのである。

 ガーラ駅でレンタルしたスキー3点セットを返して、T君の案内で地元の温泉に向かった。国道沿いにある大きな銭湯だったが(名前を忘れた)、露天風呂あり薬草湯あり、打たせ湯、寝湯、陶器風呂、サウナとありとあらゆる湯船の堪能で、T君と俺はすっかり女性陣をロビーに待たせてしまった。そして最後は、これも例年通りの湯沢駅前の中野屋に寄って、打ち上げのへぎそばを食っての締めくくりだった。

 こうして気がおけない昔の仲間が、ガーラでの絶滅危惧種として生き残りながら、元気にゲレンデでシュプールを描き続けるのは、果たしてあと何年だろうか?