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最後のページは<6月30日>です。<震災復興支援ボランテア活動日記>を6月19日よりアップしました。

2013年6月8日(土)晴れ
帰還
 6月3日にキャンプを畳んでおやじ山を下りた。3月に引き続いて今回の山入りが4月15日だったから、今回は約50日間山で暮らしたことになる。それでも帰る日に、いつもお世話になっているキャンプ場の職員さん達にご挨拶すると、「おや?今年はお帰りが早いですね」と言われてしまった。事実、今年は早めに自宅に戻って、また次ぎの目的地に出掛ける算段をしなければならなかった。

 長岡からの帰り道は、信濃川から千曲川沿いの117号線を遡って3日の晩は車中泊、翌4日も北信濃の地をグズグズと彷徨い走って、藤沢の我家には深夜になってようやく辿り着いた。道中立ち寄った鏡池から見た戸隠山の美しさは、まさに筆舌に尽くし難い絶品の風景だったし、鬼無里から白馬村に抜ける峠から望んだ白馬岳から鹿島槍ヶ岳までの物凄い山容には、思わず身震いした程だった。

 そして自宅に帰ってから昨日までの3日間はすっかり呆けて、爆睡から目覚めてはヨロヨロと車に積んだキャンプ道具を下ろしに行ったり、溜まった郵便物を虚ろに眺めたりして、これでもうハードな山仕事よりも余程草臥れてしまった。

 しかし昨日はボサボサになった頭を刈りに馴染みの理髪店に行って少しさっぱりした。そして今日は・・・?いくらか娑婆の空気にも慣れてきた気がする。
 また家を空けるまで余り日にちは無いが、今回も素晴らしい人たちと自然とに出会ったこの50日間を「おやじ山の春2013」として幾らかでも書き残して置きたいと思うのだが・・・
2013年6月17日(月)晴れ
無関心という怪物
 明日18日、東日本大震災の復興支援ボランティア活動に旅立ちます。昨年来考えていたことですが、春のおやじ山を早めに引き上げ、現地の社会福祉協議会とも連絡を取り合って、ようやく出発の目途がたちました。

 3・11のあの日から2年が過ぎ、最近の様々なニュースを見聞きしていると、世の中からあの惨状の記憶が遥かに遠退き、今も続く被災地の人々の嘆きや苦しみが共有できなくなっている現実をビビッドに思い知らされます。
 復興庁の水野参事官のツイッターでの中傷問題は、実は俺自身を含めてただ傍観者の立場で被災地と被災者を見ていた者皆んなへの厳しい警鐘だったと捉えるべきではないのか?そう思うとやり切れなさで居ても立ってもいられない気持ちです。

 遅きに失したかも知れませんが、被災地をこの目で見、現地で汗を流し、そして被災者の皆さんに少しでも寄り添って、今の現実を心に刻んで帰って来たいと思っています。

 今日の朝日新聞朝刊の「天声人語」は、次の文章で結ばれていました。
<大きな理不尽を許してしまうのは、いつも「無関心」という怪物なのである。>
2013年6月19日(水)雨
南三陸町へ入る
 昨日藤沢の自宅を出発して、東北新幹線で仙台まで来た。そして北山の親戚の家で一泊してから、義兄から借り受けた車で国道45号線を北上、今日の午後3時に南三陸町のベイサイドアリーナの駐車場脇に設置された「南三陸町災害ボランテアセンター」に着いた。
 白い大きなテントの中に入って、「災害ボランテア登録用紙」に必要事項を記入して提出し、近くの児童公園に自分のテントを張るための許可証を貰う。

 公園に行ってみるとさほど広くもない芝生の上に既に3張のテントが設営されていた。東北地方は昨日梅雨入りしたばかりで、シトシト雨が降り続く中でとても自分のテントを張る気になれない。それで今日は車中泊を決め込んで、つい先ほど車で走り抜けてきた大津波で荒野と化した志津川の町に再度向った。
 かつては家々が軒を連ねていただろう現場には、剥き出しのコンクリートの土台だけが所々に残って、そのだだっ広い荒野に立つと志津川湾が指呼の間に見えてしまうのである。

 荒野の中に赤錆びた3階建の剥き出しの鉄骨が建っていた。「南三陸町防災対策庁舎」の残骸である。この庁舎の2階にあった放送室から、24歳の女性職員遠藤未希さんが防災無線のマイクを握りしめて「異常な潮の引き方です。高台に逃げてください」と繰り返し繰り返し避難を呼びかけて、自らの命を落としたのである。庁舎内にいた職員30人も屋上に逃げたが、大津波は屋上の床上2mの高さまで洗い、アンテナに必死でしがみ付いたりした10人だけが生き延びた。

 そしてこの建屋の左奥には、病院の屋上でSOSを叫び続けたものの、75人の死者、不明者を出した公立志津川病院があった筈である。今はすっかり取り壊されて跡形もなくなっていた。

 深い溜め息とともにベイサイドアリーナの駐車場に戻り、車中泊の支度をする。
2013年6月20日(木)晴れ
おでってさ来ました!
4時起床。ボランテア初日の緊張と興奮で早く目覚めた訳ではない。車の後部座席で猫みたいに丸まって寝ていたので、足がだるいやら首筋が痛いやらでゆっくり寝ていられなかった。
 ドアを開けて外に出ると東の空が茜色に染まっている。ありがたい、今日は晴れそうである。

 早速テントの設営に「南三陸町志津川保健センター」脇の児童公園に行く。すると、昨日は3張だったテントが4張に増えていた。その新規テントの近くに俺のテントを張らさせて貰う。(写真奥のブルーテント)
 「おはようございます!」と背後で声がして振り向くと、新規テントの住人がコーヒーカップを手にニコニコと笑っていた。もうここでは3度目のボランテア活動になるという釧路のSさんで、2日間かけて北海道から車でやって来たという。こういう人が傍にいると、何とも心強いのである。

 ぞろぞろと災害ボランテアセンター(常連は『ボラセン』と呼んでいた)のテント前に人が集まって来て、8時半に受付が始まった。受付簿に名前と年齢、その脇にエンジン刈払機を使える人は○をくれる欄がある。「使えるけど・・・はて、どうしたものか?」としばし悩んだ末に、エイッと○をした。
 受付が済むと各々籠の中からボラセンのビブスを取って、ガムテープに自分の名前を書いて胸に貼り付ける。ビブスの裏を見ると「おでってさ来ました!」と書いてある。早速Sさんに尋ねると、こちらの方言で「お手伝いに来ました」の意味だと教わった。

 初日の作業場所は伊里前地区の瓦礫撤去作業。大津波で町の殆どが呑み込まれた地域である。リーダーのGさんから作業前のオリエンテーションで「自分の身は自分で守り、地震が来たら距離より高さで逃げること」「自分の出したゴミは必ず持ち帰り、瓦礫に混ぜないこと」「被災者の気持ちを汲んで写真撮影は禁止」などの注意事項があった。そしてGさんはこうも言って我々に理解を求めたのである。「伊里前の人たちは、復興住宅はおろか現在も仮設住宅に住んでいます。いまだ復興計画さえ出来ていないのです」

 午後3時に作業を終えてボラセンのテントに戻り、ビブスを返してまた明日の活動継続手続をした。
 それから一人で再び国道45号線を走って、今日の伊里前の行き帰りに目にした光景をデジカメに収めさせてもらった。線路もすっかり流されたJR気仙沼線の橋桁と、大津波で破壊された「歌津大橋」の復旧工事現場の写真である。
2013年6月21日(金)曇り時々晴れ
10年後の花見
 昨日の作業を終えて、児童公園のテントは俺と釧路のSさんの二張だけになった。

 8時半の集合時間にボラセンの大テントに行くと、社会福祉協議会のTさんから「関さん、今日はこの方と一緒に草刈りお願いします」と言われた。年齢は俺より先輩に思われるが、真っ黒に日焼けした顔に白い髯が良く似合って、見るからに精悍な顔つきの老人である。名をシーさんと言った。

 シーさんは震災後直ちに大阪から車で駆けつけ、そのまま南三陸町でボランテア活動に没頭した後は、2ヶ月間ここで活動しては1ヶ月は大阪に戻り、また再びボランテアに来るというまさにボランテア活動の大先輩だった。シーさんが寝泊りしているワゴン車の中を見せていただいたが、完璧な住居である。木材の板壁に洒落た室内灯、ベッド、キッチン、何と本棚まで備えてあって、ずらり全国の道路地図が並んでいた。

 そのシーさんと二人で、今日は刈払機を使って寺浜地区の民家の敷地の草刈りをした。そして昼の休憩時間にはシーさんからいろいろな話を聞いた。踏破した日本100名山の話し、今挑戦中の200名山と300名山の話し、それから放射能汚染による警戒区域の指定が解除されて日中だけ立ち入りが認められるようになった福島県南相馬市小高区にボランテアで入った話しなど、思わず身を乗り出して聞き入ってしまった。

 仕事を終えての帰途、ボラセンの軽トラを運転しながらシーさんが398号線沿いの丘の上を指差した。「ほら、あそこに桜の苗木がずっと植わっているでしょう。津波があの高さまで押し寄せてきたんですよ。それを忘れないために俺たちであの高さに桜の木を植えたんです。」そしてシーさんはこう続けた。「桜を植えたボランテア仲間で、10年後にまた皆でここに来て花見をしようと言ってるんです。でも俺はその時まで生きてるかなあ」
 思わず助手席からシーさんを見たが、真っ黒に日焼けした顔の表情は精悍のままだった。
2013年6月22日(土)朝霧〜曇り
さまざまな情景
 4時半起床。旧志津川の町から志津川港まで散歩する。
 大津波に壊滅されたこの地域には、もはや住宅建設は認められないのだと聞いた。それにしてもこのだだっ広く拡がる荒野を、今後どう利用するのだろうか?いまだ手付かずにみえる広大な敷地を眺めながら呆然たる思いだった。

 3・11で荒れ狂った志津川湾は、濃い朝霧の中にひっそりと静まり返っていた。つい先ほど目にした志津川町の情景とも重なって、ふっと寺山修司のこの短歌を思い出した。

 <マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや>

 日本が終戦から立ち上がり復興へと走り始めた頃の寺山の作である。

 今日も初日の作業と同じ伊里前地区の瓦礫撤去だった。今日は土曜日で100人規模の企業ボランテアの大型バスも現地に乗りつけたが、個人ボランテアは20名ほどである。

 その中で、朝の集合時間に毎朝顔を合わせる継続組みが何となく休憩時間や昼休み時間に一緒になって話し合うようになった。
 北海道のSさんは勿論だが、今日は愛知県から来たTさん親子、そして俺と同じ神奈川県からやって来たというSUさんとも短時間の中で心温まる会話ができた。
 Tさんは息子さんと一緒に車に寝泊りしながら1週間前からここに来ていると言った。そして「会社から1週間だけ休みを貰って来たのですが、家では黙んまりだった息子が、ここに来てからは私に少し話してくれるようになって、それからボランテアの皆さんからも息子に声を掛けていただいて、それで、もう1週間ここに居ることにしました」Tさんの日焼け顔がはにかんだように笑った。
 神奈川のSUさんは、何と会社を辞めてボランテアに来たのだという。「神奈川に帰ったら、今度は職探しです」独身の彼は明るく笑って言った。

 夕方から雨になった。そんな雨降りの中の児童公園の小さな東屋で、Sさんと二人でミニ宴会を開いた。家庭でも自分で料理を作っていたというSさんの腕は大したもので、東屋に卓上コンロとフライパンを持ち込んで、またたく間に絶品のキノコとピーマンのオリーブオイル炒めを作ってくれた。
2013年6月23日(日)晴れ
記憶を遺すもの
 寺浜地区の瓦礫撤去に9人で向う。2日前にシーさんと草刈りした敷地内の倒壊家屋の片付けである。
草刈り時に見た限りでは、押し潰された太い柱や壁板が目についたものの、さほど時間がかかるとは思わなかった。リーダーのKさんにもその事を伝えていざ取り掛かってみると、取り除いた下から出てくるわ出てくるわ、9人で時間目一杯の汗だくの作業になった。思わず「見込み違いですみませんでした!」と謝ってしまった。

 そして今日も神奈川のSUさんと一緒で、昼食の休み時間には屈託のない彼の話を聞きながら、前途に幸あれと願わずにはいられなかった。千葉から来たという二人組みとは初対面だったが、以前勤務先の社会貢献活動の研修で南三陸町に入り、その時に今度は個人でここに来ようと誓ったのだという。
 企業ボランテアで大挙して被災地に入り、他のグループや個人ボランテアもいる中で、大声で社訓の唱和をしている様子を見ていただけに、二人の気持ちは良く分かった。

 今日の倒壊家屋の瓦礫の中から何冊かのアルバムが出て来た。作業が終って挨拶に見えたご夫婦にお渡ししたが、「あれ〜ッ」と言ったきり二人で食い入るようにアルバムに見入っていた。もはや我々の姿は眼中の外で、帰るに帰られなくなってしまった。しばらく立ち尽した後で一人が声を出した。「いろんな写真を見つけてしまって、ほら、夫婦喧嘩が始まる前に俺達は帰るっぺ」ようやく皆から笑い声が出た。

 煌々とした月明りがテントの中に届くほどの満月の夜になった。思えば今日は6月23日、沖縄戦で9万4000人の一般市民と子どもを含む20万人を超す戦死者を出して終結した沖縄慰霊の日である。この鎮魂の月明かりは、遠く離れた沖縄の島をも照らしているだろうか。

<六二三 八六八九八一五 五三に繋げ我ら今生く>(西野防人)

 ずっと以前に新聞に載った朝日歌壇の句である。
 
2013年6月24日(月)晴れ
牡蠣、カキ、牡蠣、カキ・・・
 「朝だ〜!」と思って目を覚ましたら、まだ午前2時だった。煌々とした満月の光がテントの中に射し込んで、朝陽と勘違いしてしまった。山に居たら、こんな時には缶ビールをプシュ!と開けて月見と洒落こむのだが、何しろ今はボランテアの最中である。ビールは我慢してテントの外に出ると、新しいテントが一張できていた。いつの間に張ったんだろう?

 4時半に起きて袖浜を散歩した。少し沖にある陸続きの小島には神社が祀られていたらしく、島に上る階段の入口の鳥居が津波で無惨に破壊されていた。
 ジョギングランナーが駆け寄って来て「おはようございま〜す!」と元気に挨拶された。昨日の瓦礫撤去で一緒だった栃木のSAさんである。この人も以前から何度となく南三陸町でボランテア活動を続けている人で、小さくできた袖浜の砂浜をつくづく眺めながら、「前にここで瓦礫撤去をしたことがありました。当時は酷かったです。しかしこうして砂浜が戻って来たのですねえ〜」としみじみと呟いた。まるで吾が事のような愛おしさで自然に向き合っている姿にすっかり打たれてしまった。

 今日は、この袖浜から近い牡蠣の工場で漁業支援の仕事をした。総勢9人のグループで、リーダーのMさんに率いられて、テント村のお隣さんSさん、Tさん親子、ジョギングランナーSAさん、そして俺と同じく今回初めてボランテア活動に参加した、と言っても既にここで10日以上車中泊で過ごしている先輩格の京都の女性TUさん等である。そして聞けば、TUさんはカキアレルギーで一切牡蠣は口にしたことがないのだと、日焼け顔に白い歯を見せてニッコリと告白した。

 我々の主な作業は、概ね次のようだった。「バラシ」と呼ばれる作業で、先ず水揚げされた牡蠣の黒い塊が籠の中からドサッと大きな作業台の上にぶち撒けられる。何しろ養殖棚に長く浸かっていたままの牡蠣なので、ムール貝が付着し、フジツボが付き、アオノリ、テングサ、フニャフニャ、グチャグチャ、おまけに立派な釣り餌になりそうなゴカイがニョロニョロと、物凄いトッピングの塊になっている。これを大きなゴムの前掛けをした我々が、金属製のヘラと小型ピッケルでもろもろの不純物をしごき落として純正牡蠣に仕立て上げるのである。純正牡蠣を足元の左籠に、フニャフニャ、グチャグチャをドサ〜ッと右籠に落とし込んで、また黒い塊に挑むといった繰り返しである。
 牡蠣もゴカイもダメだといっていたTUさんの顔を覗くと、健気にも真剣な顔つきで続けている。隣のSさんが「今日は牡蠣の夢でも見そうだなあ〜」と言った拍子に、「生牡蠣どんぶり一杯食った夢なんか見たりしてね」と思わず合いの手を入れてしまったが、TUさん気持ち悪くならなかっただろうか?

 昨晩の新規テントの主は千葉県からバイクでボランテアにやって来たAさん。そして夕方になって、今度は自転車で放浪の旅を続けているというPと名乗る人物が公園にテントを張った。都合4張になって、一気に公園が賑やかになった。
 Sさんが早速歓迎の宴を開いて、何とぶくぶくと泡吹く生毛ガニを茹で、キノコ、ピーマン、玉葱のオリーブオイル炒めと、全く惚れぼれする手つきで豪華料理を作ってくれた。
2013年6月25日(火)晴れ
上蔟(じょうぞく)作業
 こんな事を言っては不謹慎かもしれなが、今日は面白い体験をさせてもらった。養蚕の上蔟(じょうぞく)と言われる作業のお手伝いである。昨日の牡蠣リーダーMさんに率いられた選抜隊(予め「アナタ、カイコ触れる?」と打診された)が、今日は一転、漁業から農業支援へと転戦である。メンバーは女性のMさん、Oさん、そしてテント隣組のSさんと俺の4名の秀逸?である。

 かつては伊達藩に高級袴地「仙台平」を納めていた養蚕農家も、今やこの地区ではここ一軒になったというご主人から教わったことだが、蚕は4齢で熟蚕となり、それから4日半かけて糸を吐き続けて繭を作る。この熟蚕のタイミングで桑棚の蚕を拾い上げて、蔟(まぶし)と呼ばれるボール紙で井桁に組んだ蚕の部屋に導き入れる。これが上蔟作業である。上質の繭は1個で1800〜2000mの糸になり、その太さは一様ではない。実は絹糸の素晴らしい光沢は、この太さが一様でないところに拠っている。

 終齢の蚕が繭を結ぶまでの期間は短期間で、上蔟作業は大忙しの人手作業となる。我々ボランテア4人は、ご主人が呼び集めた親戚縁者の皆さんと一緒に、「網上げ」「振るい分け」「バラケ」「落ちこぼれ蚕の拾い上げ」「回転蔟(まぶし)への運搬」と大いに汗を流して奮闘した。でも、若いMさんやOさんと一緒に網の両端を持って「セ〜ノ!」と声を合わせて運ぶ時の楽しさったらなかった。(もちろん、Sさんと一緒にやった時も楽しかったけど・・・)

 昼飯時にホトトギスの鳴き声が聞こえてきた。手伝いに来ていた一人のお婆ちゃんが「ウグイスが嫁さん見つけたんだっぺ」と言ったので、Sさんが、「あれはウグイスじゃなくてホトトギスという別の鳥だよ」と教えた。するとお婆さん、「へ〜ッ!」とビックリして、自分はこの人から(と、目の前の親戚だという男性を指差して)ウグイスが相手を見つけると「ホーホケキョ」が「トッキョキョカキョク」に変わると教わったので昔からずっとそう信じていた、と真顔で言った。この後のSさんの対応が素晴らしかった。「この土地で昔からそう言い伝えられていたなら、きっとそうに違いない。あれはホトトギスではなくて嫁さんを見つけたウグイスだ」と言い切ったのである。さすが、我らがSさんである。
2013年6月26日(水)曇り
子ども等の夢は・・・
 ボランテア活動も6日が過ぎたので、今日一日は骨休みの休暇をとった。それで志津川の荒野にポツンと建つコインランドリーで洗濯を済ませてから、海沿いを走る国道398号線を南下して大津波の被災地を見て回った。

 いつも行くボラセン近くのコンビニで昼飯のおにぎりを買って、先ずは南三陸金華山国定公園の名勝神割崎に車を停める。キャンプ場もあり風光明媚な景勝地は、震災前にはさぞかし賑わったことであろうが、今は園内にひっそりと仮設住宅が並んでいた。

 国道の所々で復旧工事が進められていて、時折土埃を上げて走るダンプカーと行き交うが、やはり津波で洗われた海岸沿いの風景は物悲しく侘しい限りである。

 そんな風景の中にふっと石碑が目について車を乗り入れた。二つ並んだ右側の石碑は「東日本大震災慰霊碑」左の石碑には「石巻市立吉浜小学校閉校記念碑」と刻まれてあった。
 そして右側の石碑には、ここは津波に呑まれた石巻市立吉浜小学校の跡で、ここで教師1人、児童7名が尊い命を失い、23名の児童の家族が巨大津波の惨禍に不帰の客となった、と刻まれていた。
 左の閉校記念碑にはかつての校舎の写真、その上には昭和34年9月23日に制定されたという校歌が刻まれてあった。

     1.山と海に恵まれて
       ここ北上の美し郷土
       希望の光かがやかに       
       学びの窓に風かおる
       われらが吉浜小学校

 そして次に向ったのが、北上川河口から4kmに位置するあの悲劇の石巻市立大川小学校の跡地だった。地震発生から51分後に大川地区を襲った大津波で、校庭に集まっていた児童74名、教師10名の計84名が犠牲となった現場である。
 たくさんの花に囲まれた献花台で手を合わせてから、残骸となった校舎の縁をゆっくりと歩いてみた。何という酷さ、何という悲惨な光景だろうか!その残骸の外れに校庭の足洗い場があり、その衝立の壁には東北が生んだ偉大な童話作家、宮澤賢二の「銀河鉄道の夜」を描いた卒業制作の壁絵が遺されていた。コンクリートが崩れ、剥き出しの鉄筋がのぞく壁の残り部分には「・・・モマケズ ニモマケズ」と白ペンキで力強く書かれていたが、その雨にも、風にも決して負けなかった元気な子ども等が、大自然の非情な猛威に容赦なく呑み込まれてしまった無念さを思うと、涙が溢れ出て止めどもなかった。

 また壁絵にはこうも書いてあった。

   世界が全体に幸福にならない
   うちは、個人の幸福は
   ありえない・・・
      宮澤賢二

 廃墟と化した校庭に佇みながら、命を失った子ども等の夢と、この現実の凄まじい光景との落差に、只々言い知れぬ絶望感と虚脱感とに打ちのめされていた。

 今日は、雄勝湾の惨状も見た。雄勝は震災のずっと以前の会社時代に、同僚の母上が亡くなられて職場を代表して実家で営まれた葬儀に参列させて貰った場所である。霧に煙る雄勝湾を眺めながら、当時の自分を手厚くもてなしてくれた同僚のご家族やご親戚の方々を思い遣ると、全くやるせない気持ちだった。

 帰りは追分温泉に寄ってテントに戻った。ずっとベイサイトアリーナのシャワーだけで身体を洗っていたが、今日はゆったりと7日ぶりの湯船に浸かることができた。
 
2013年6月27日(木)晴れ、夜雨
毛ガニパーティー
 4時半起床。毎朝の日課になったが、僅か1、2分程の距離にあるベイサイドアリーナの駐車場まで車を走らせ、ボラセンの仮設トイレを使わせてもらってからテント脇にある水道で歯磨きをする。グジュグジュと口をゆすいで、プリプリッと顔を洗うと、昨晩飲んだアルコールの重く黒い霧もいくらか晴れて、「ヨシッ!今日も頑張るぞ!」という気分になる。

 今朝はここで、愛車ニッサンSTAGEAを駆って長野県から来たというWさんに会った。話しを聞くと、この人もボランテアの大先輩で、震災の年の6月から先ず釜石市に入り、ようやく道路事情が少し良くなった10月からは南三陸町で月のうち3週間はボランテア活動をずっと続けているという人だった。俺はまだここに来て僅か1週間程の新参者だが、Wさんのような個人と企業や団体など実に多くの人たちが長く継続して被災地で活動を続けていて、本当に感服させられるのである。

 今日はこのWさん達と一緒に、4人のメンバーで津波に洗われた杉林の中の草刈りである。朝の朝礼時、刈払い機を積み込んだ軽トラの周りにいる俺達に向って、牡蠣と蚕リーダーのMさんが笑いながら声を掛けてきた。「あら、今日はシブいメンバーでやるのね。頑張って〜!」単純といえば単純だけど、年寄り連中はこの若い美人の一言で頑張ってしまうのだ。

 現地は小さな岬の近くで、林の前後から津波が押し寄せて来たと聞かされた。今日の草刈りの目的は瓦礫撤去のための準備作業で、草に隠れた瓦礫をあらわにすることである。木材やコンクリートの塊があり、金属やガラスの破片、さらには刈払い機に絡まったら危険極まりない魚網やロープなどもあって、全く気の抜けない作業だった。

 そして今日は北海道のSさん、愛知県から来たTさん親子のボランテア最終日、、そして神奈川のSUさんは明日が活動の最終日だった。SさんTさんは明日朝ここを離れ、SUさんは明後日の朝発つという。それでテント残留組の千葉のAさんも交えて、今夜は公園の東屋でお別れパーティーを開くことになった。
 途中から生憎の雨が降り出し、Tさん親子でブルーシートを東屋に継ぎ足して張ってくれたが、例によって、Sさんが先日よりも更に立派な生毛ガニを仕入れてきて茹で上げ、豆腐サラダを作って皆にふるまったりと、全く有り難くも大奮闘の料理人ぶりだった。
2013年6月28日(金)小雨〜曇り
忘れ得ぬ人たち
 朝の日課を済ませて児童公園に戻ると、Sさんがテントの撤収をしていた。しばらく立ち話をしてから、Sさんに聞いてみた。Sさんは今回で3回目か4回目のボランテアだと言っていたからである。
「Sさん、いつかSさんは『俺は自分のためにボランテアやってるんだ』って言ってたけど、今回は何か得るものがありましたか?」するとSさんが、顔を落としながら右手で俺を指差した。「・・・関さんに会えたからね」Sさんの手を取って握手でお礼したけど、嬉しかったなあ〜。

 ベイサイドアリーナの駐車場に車を停めてボラセンの朝礼時間を待っていると、コンコンと窓を叩いてTさんが紙切れを差し出した。自分と息子さんのフルネームの名前と住所、携帯メールのアドレスが書いてあって、俺の住所も教えてくれという。喜んで書いて渡したが、しばらくTさんと立ち話しをした。Tさんは昨夜のパーティーのお礼を言った後でこんな事を言った。
 「息子は今まで決して昨晩のように皆の前に出る子どもではなかった。南三陸町に来てSさんや関さんに会って声を掛けてもらって心を開いたのだろう。また家に帰れば息子は元に戻ってしまうと思うが、もう息子は再びここに付いて来ようとは言わないでしょう。でも今回、ここに居た間だけでも息子と話しができて本当に良かったと思っています」と・・・。「いや、昨晩、T君は『またここに来たい』と俺にはっきり言いましたよ」「エッ!ホントですか!!」Tさんが涙を落とした。

 今日はAさん、SUさん、それに静岡から足繁くやってくるというある企業の社員グループの人たちと一緒に、Wさん達と昨日草刈りした場所での仕事だった。Wさんと俺とは皆と少し離れた場所でチェーンソーを使っての杉の伐倒作業だったが、午後3時の終了時間になって皆の所に戻った。そしてリーダーのGさんが終礼の挨拶をした後で、この土地の持ち主の老人が御礼の言葉を述べた。
 「皆さんが遠くからここ南三陸町に来ていただくだけでも、私どもにとっては勇気づけられ励みになるのに、今日はガレキまで拾って下さり本当にありがとうございました。(我々は瓦礫処理に来たというのに!)本来なら皆さんに我家に泊っていただき一杯やってもらうところですが、ご覧の通り何もありません。只々言葉でお礼を言うだけでございます」と深々と頭を下げられた。
 南三陸町に入って10日目、当初の「真っ白な気持ちで」の決意に反し、あれこれと考えることもあった。しかし今日のこの老人の言葉で全てが払拭した。ボランテア活動に確信が持て、更に勇気が沸いた。
 
 夕方、テントの中で酒を飲んでいると、ボラセンのテント脇で車中泊しているSUさんがわざわざ挨拶に来た。「同じ神奈川県なので、今度関さんの家に遊びに行ってもいいですか?」「もちろん。でも嫁さん候補と一緒だよ」「え〜!それなら大分先になっちゃうなあ〜」SUさんの前途に幸あれと願う。
2013年6月29日(土)小雨
涙雨
 昨日の最高気温は17度。ラジオは今日も10度台の気温だと告げていた。しょぼ降る雨に打たれて、昨日から児童公園のテント村は俺とAさんの二張だけになった。朝Aさんと顔を合わせて、「Sさんたちが居なくなって、何となく涙雨だなあ〜」と言葉を交わす。
 
 今日はWさんと二人だけのペアーで刈払い機を使っての草刈りだった。
2013年6月30日(日)小雨〜曇り
しっぺ返しの海
 朝Aさんから岩手県の被災地でボランテアをやった話を聞く。ボラセンの拠点が遠野にあって、遠野地方に伝わる昔話もAさんからいろいろ教えていただいた。全くAさんの博覧強記ぶりには舌を巻いてしまう。俺も遠野まで行ってみたくなった。

 毎朝、テント村から一番近いコンビニに行って朝食のパンと昼食のおにぎり弁当を買う。そして気が向けば河北新報の朝刊も買う。今朝買った朝刊の「河北春秋」の欄には、津波で全壊した気仙沼港に近い居酒屋「福よし」が多くのファンに応援されて再建を果たし、その店主の話と気仙沼の歴史が紹介されていた。

 店の囲炉裏端に置いてある1本の純米酒のラベルには、こんな警句が書かれてあるという。
<人が踏み込んだ分だけ戻されただけ 空も海も地も 人の心の中にも>
 店主の村上健一氏はこの意味を、「人間が思い上がっていたんだよ。何でもずかずか踏み込んで。自然にまで」と話す。
 リアス海岸地形で平らな土地が極端に少ない気仙沼市の発展は、海岸埋め立ての歴史とも重なる。藩政期から明治、大正、昭和にかけて、湾を埋め立てては土地を広げて良港を築いて来た。その新開地が今回の大津波で壊滅したのである。本来は海と陸の、あるいは自然と人との緩衝地帯であった浅瀬に人が手を入れたことへのしっぺ返しだと居酒屋の店主は言いたかったのだろう。

 そうすると気仙沼の比ではない首都圏の埋立地は、大津波に襲われたら一体どうなってしまうのだろう!

 今日は東京から土、日毎にここに通って来ると言うKさんと、いつものWさんの3人で公園の草刈りをした。そして夕方、仙台から電車とバスを乗り継いで若いSさんがテント村に入った。今日と明日の2日間だけのボランテアで、もう何回かここに通って来ているのだと言う。こうして何度も何度も被災地に足を運んで来ている人達こそ、まさに「一隅を照らす」人だと思った。