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最後のページは<7月6日>です。「東日本大震災復興支援ボランテア活動日記」の続きは、2ページ目(
「7月8日日記の下」からです。

2013年7月8日(月)晴れ
未来へ希望を
 昨7日、東日本大震災の復興支援ボランテア活動を終えて帰宅した。地震と巨大津波に襲われた宮城県南三陸町志津川に15日間、さらに福島第一原発による放射能汚染にも見舞われた福島県南相馬市小高区に3日間、合計18日間の被災地滞在だった。
 
 2年前の大震災発生から先月の出発に至るまで、あれこれと自己弁護の屁理屈を重ねながらようやく目途を立てた今回のボランテア活動だったが、果たして所期の目的をどれだけ達成できただろうか?出発時に誓った真っ白な気持ちで現場のこもごもをしっかり見据え、心で掴み取って来れたかどうか?

 南三陸町では巨大津波による凄惨な破壊の現場に打ちのめされ、南相馬の小高区では、静まり返った廃墟の町の不気味さに背筋を凍らせた。そしてそのいずれの被災地も、復旧と復興からはまだまだ遥か遠い道のりがあるように思えた。
 しかしボランテア活動の骨休みを取った日に、石巻や気仙沼、岩手県の陸前高田、大船渡そして釜石と足を伸ばしてみたが、絶望的な破壊の爪跡にも微かながら未来へ繋ぐ希望の槌音が響いて、ホッと救われる思いだった。

 震災現場に入って改めて認識させられたが、年月が経つにつれて人々の意識が被災地から遠のき、ボランテアの数も大幅に減ったという。しかし現地ではまだまだ寄り添う気持ちと援助の手の必要性は厖大なのである。
 ある一日、我々ボランテア15名ほどで瓦礫処理に当たった個人の敷地で、作業が済んで当主のご老人が挨拶に見えた。そして我々に向ってこう話されて深々と頭を下げたのである。
 「皆さんが遠くから南三陸町にお出で下さるだけでも、私どもは勇気づけられ励みになるのに、ここで瓦礫まで拾ってくれて、本当にありがとうございました。本来なら皆さんに我家に泊っていただき、一杯やってもらうところですが、ご覧の通り何もありません。ただただ言葉でお礼を申し上げるだけでございます」
 この被災者である老人の言葉に、ボランテアの我々がどんなにか確信を得、勇気を与えられたことか!

 そしてまたこの期間中に、全国各地からやってきた素晴らしいボランテア仲間に出会った。北海道から2日がかりでやってきたSさん、愛知県から親子で駆けつけたTさん等など、短い期間のご一緒だったが決して忘れることができない人たちである。

 今なお深い悲しみと苦痛の中で暮らしている被災地の人たちや、様々な思いや立場で全国から駆けつけたボランテアの人たちへの配慮から、この日記に綴れる内容は自ずから制限されるが、「6月日記」に遡ってその幾らかを記るし遺しておきたいと思う。
 
2013年7月1日(月)曇り
泣きたい気持
 今日は休みをとった。Aさんの遠野の話しに刺激を受けて東浜街道(国道45号線)を北上して岩手県まで入って遠野や被災地を見て回ることにした。それに、俺が南三陸町に入ってから毎日顔を合わせていた京都のTUさんが今日帰る予定で、お別れも言いたかった。若い女性ながら真っ黒に日焼けして、健気にガレキを拾っている姿や牡蠣のバラシ作業にも必死に挑戦している様子を見ると、可哀想というか精一杯の応援をしてやりたくなって、毎朝ボラセン前で顔を合わせては一言二言声をかけていた。それも今日が最後である。
 そして「先ずは溜まった洗濯だ」と、朝6時に開店する志津川のコインランドリーに行って洗濯を済ませて、ベイサイドアリーナの駐車場に戻ってみると・・・!TUさんの車がなくなっていた。確か早く発つとは聞いていたが、まさかこんなに早く出発するとは・・・・・・。「あぁ〜 セメテサイゴノヒ・ト・コ・ト・ヲ・・・」とガックリと気落ちして泣きたくなってしまった。

 9時、遠野に向けて出発する。走るにつれて無惨に破壊されたJR気仙沼線の橋脚、国道の脇まで津波で運ばれた大型漁船、そして気仙沼では大津波に洗い流されて荒野と化した町並みを見た。
 岩手県の陸前高田市に入って、大型バスで訪れた観光客に混じって「奇跡の一本松」を見る。一本松の近くでは重機が入って復興が進んでいるようには見えるが、踵を返せばやはり辺りは荒涼とした原野の風景である。

 池谷薫監督のドキュメンタリー映画「先祖になる」のロケ地にも行ってみた。少し離れた場所からこの映画の主人公佐藤直志氏が「俺はこの地で先祖になる」と決意していの一番に建てた復興住宅を眺め、映画にも出てきた「気仙成田山」の石段を登って陸前高田の町を望んだ。気仙川沿いに拡がるかつての町並みは只々だだっ広い荒野と化していたが、目を落とせば、近くの敷地では直志さんに続けとばかりに新しい電柱が建ち、杉の伐出し丸太が高く積まれていた。そして陸前高田の荒地の中に、山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」の応援旗が三陸の潮風にはためいていた。

 陸前高田から343号線に入って「遠野50km」の表示を見てUターン。この時間では遠野行きは諦めこのまま45号線を北上して大船渡、釜石と見て回ることにした。大津波が猛威を振るったとは信じ難い穏やかで美しいリアス海岸に、港の風景だけが無惨な姿を見せて、今日一日は泣きたい気持ちが募るばかりだった。
 
2013年7月2日(火)晴れ
傷心冷めやらずホヤを食う
 朝5時、いつものように歯磨きでベイサイドアリーナの駐車場に車を停めて、ボラセン脇の水道を使わせてもらう。毎朝見ていたTUさんの車が無くなって、火が消えたとまでは言わないが、ちょっと物悲しい気分である。
 「おはようございます!」と声が掛かってドキッと振り向くと、愛車STAGEAの脇でディレクターチェアーに座ったWさんが早朝読書の本を広げていた。

 そのWさんと一緒に、今日は45号線沿いの瓦礫の流れ込んだ用水路と溜池の草刈りをした。マムシが出そうな溜池の中は瓦礫のオンパレードで、「キーン!キーン!」と刈払い機の歯が瓦礫に撥ねるたびに、傷心冷めやらぬ気持ちを必死に引き締めたのである。

 Aさんが三陸名産のホヤを食ったという話を聞いて、今日の夕飯は奮発して初めて食堂に出掛けた。いつも夕食の弁当や酒の肴を買う近くのスーパーの衝立の奥のコーナーが食堂で、そこでホヤ定食を頼んだ。そしたら刺身定食はあるけど、ホヤを食いたいならスーパーで買って持ち込めば料理して出してくれるという。スーパーの鮮魚売り場に行ってみると、既に剥き身になったビニール袋入りしかない。ざっと3個分の量はありそうで仕方なく買って食堂で渡したが、皿に山盛りになったホヤを自棄(やけ)食いみたいに食いに食って、もう見たくもなくなってしまった。
2013年7月3日(水)
「津波のバカ!」
 今日が南三陸町でのボランテア最終日である。それで朝の散歩で、何度か仕事の行き帰りに目にして気になっていた看板をじっくり見てくることにした。
 その看板は、今朝はまだ営業を始めてない国道沿いのガソリンスタンドに立てられている。
 ベニヤ板の看板には白ペンキでこう大書されていた。
  
   津波のバカ!
        でも
   がんばっぺ!!

 見よ!この慟哭と悲憤の叫び声を!そして、それでもなお、拳を握り絞めて立ち上がろうとする不屈の東北魂を!
 何やら粛然となって看板と対峙しながら、繰り返しその文字をなぞって胸に刻み込んだ。

 テントを張った児童公園の隣が志津川保険センターの駐車場。そしてその向うの高台に30世帯ほどの仮設住宅がある。今日はその仮設住宅周りの草刈りをした。
 ある一日、ボランテア活動から帰って、Aさんと公園のベンチで夕涼みをしていると、一人の女性が近づいてきて紙袋に入った8個ものおにぎりを置いて行った。この仮設住宅の住民だった。
 今日の最終日、そのお礼の意味も込めて丁寧に草を刈ったつもりである。

 午後から雨になり、作業は中止となった。それで南三陸町の仮設店舗「さんさん商店街」に行って、孫のみやげと仙台の親戚への御礼のおみやげを買った。
 
2013年7月4日(木)雨〜曇り
南三陸町から南相馬へ
 午前9時15分、「南三陸町災害ボランティアセンター」にテント設営許可証を返して、ベイサイドアリーナを後にする。そして再度、志津川の旧防災対策庁舎に寄って、献花台の前で手を合わせた。そして登米東和インターから三陸自動車道に乗り入れ、仙台東部道路、常磐道、国道6号線と南下して福島県南相馬市の小高区に入った。
 
 昼なのにシーンと静まり返った小高の町中を拝むように車を走らせて、町外れの「小高老人福祉センター」に仮設された南相馬市社会福祉協議会の災害復旧復興ボランティアセンターに着いた。
 対応に出た職員に土曜日の活動を申し込んで、それまでの間車中泊が可能な場所を尋ねた。昨年4月に放射能の警戒区域が解除されて日中のみ立ち入りができるようになった小高区でのボランテア活動は、週2回、火水、土日の2日づつと聞いていたからである。

 教えられたボラセンから車で20分ほどの東町にある「南相馬道の駅」の駐車場が、今日からの我が棲家である。
2013年7月5日(金)曇り時々雨
嘆きの町
 車の後部座席で丸まって寝ていたせいで、身体の節々が痛い。それで温泉でゆっくり身体を伸ばしたくなって道路地図に載っている近くの温泉マークを探した。行き着いた1軒目は草ぼうぼうの廃屋、2軒目は震災復旧もままならず休業中、ようやく辿り着いた場所は宮城県と目と鼻の先にある新地町の鹿狼鉱泉だった。そして震災復興応援だという割引料金を払って久しぶりに大きな湯船に身体を沈めたが、思わず「ああ〜〜」と溜め息が漏れて、全身の疲れが抜け落ちる感じだった。

 「南相馬道の駅」に戻ったが、ボランテア活動は明日からである。それで今度は国道6号線を南下して、福島第一原発の近くまで行けるだけ行ってみることにした。

 道の駅のある南相馬市原町区を出て小高区に入ると、車の通行はぐっと少なくなる。時折すれ違う車は災害復旧のダンプカーくらいである。さらに車を進めるにつれて、目にする光景が不気味さを帯びてくる。かつては沿道に住宅や店舗が並び、その後背地は青々と稲葉がそよぐ穏やかな水田風景だったであろうが、今や、遥か海岸まで見通せる荒野一面にふてぶてしく夏草が生い繁り、その所々に津波で運ばれた車の残骸と破壊された家屋が打ち捨てられているのである。

 小高区を抜け、福島第一原発から10km圏内の浪江町に車を乗り入れると、もうそこはまるでゴーストタウンの様相である。国道から町の中心部へ向う入口はバリケードで塞がれ、ひっそりと静まり返った町中に人っ子一人見当たらない。既に大震災から2年4カ月が経つが、ここでは原発事故による目に見えない災禍が、あの3・11からピタリと時間を停めたまま大きく復旧と復興との前に立ちはだかっているのである。

 今、福島、宮城、岩手の東北3県の避難者総数は30万8,000人、そのうち福島県の避難者は15万2,000人と半数を占める。福島第一原発のある双葉町全町民の6,900人はもちろん、隣町浪江町でも町民の2万1,170人全員が避難生活を余儀なくされている。そして明日ボランテアで入る南相馬市小高区も、「避難指示解除準備区域」(役所はなんでこんな小難しい名称をつけるのだろう!)になったとは言え、全区民1万2,842人は誰も帰れずに避難したままである。

 福島第一原発から5キロポイントの双葉町の検問所で進入を止められて、再び6号線を引き返した。どんよりと曇った今にも泣き出しそうな夕暮れ時の空である。その薄暗くなった空の下で、只々草むした荒野が果てしなく広がっていたが、その光景は単なる寂寥感とは違ったある種の不気味さを感じさせるものだった。
2013年7月6日(土)曇り〜晴れ
震災復興への道のり(エピローグ)
 朝になって「南相馬道の駅」の駐車場には、1台また1台と他県ナンバーの車が集まり出した。昨夜はキャンピングカーも駐車場に停まって、明らかに各地からボランテア活動にやってきた連中だと分かる。確かボラセンのある「小高老人福祉センター」の駐車場はそう広くなかった筈で、道の駅を早めに出発して小高ボランテアセンターに向った。

 8時半の受付時間までボラセン前の駐車場で待機していると、次々と車が入って来る。高崎、神戸、そして鹿児島ナンバー、おやじ山のある長岡ナンバーもやってきて、嬉しくなって降り立った3人組みに挨拶に行った。

 ここでの仕事の割振りは、南三陸町の「アナタはココ」の指名方式とは違って、予め貼り出された活動場所と活動内容の中から自分で選ぶ「自己申告制」である。そして今日の作業場所は3箇所、各地20名、40名、30名と必要人員が書かれた中から、40名の瓦礫撤去と室内清掃の個人宅を選んでエントリーした。
 しかしこのグループに集まった人員は25名、全体でも90名の必要人員に対して、今日集まったボランテアの人数は60名だった。一昨日ここを訪ねた時に、ここの担当者から、「まだまだ人手が足りません。本当に助かります」と頭を下げられたが、今日はその現実を目の当たりにした。

 向った場所は県道260号線の海に近い区域だった。
 今日入った家も凄まじい荒れ様だったが、周囲の家々は地震と津波による被害もさることながら、原発事故の放射能汚染で立入り禁止区域になったまま長く放置されたダメージで、見るの無惨な廃墟と化した姿を曝け出していた。

 今日のボランテア活動で一緒だった俺より一つ年上で地元出身者だと名のったYさんが、昼の休憩時間に俺の脇に座って呟いた。「見てみろ、この風景。気味悪がって誰がこんな所に戻りたいって言うもんか。ここで100人もの人が死んだんだよ。こんな瓦礫処理を1軒1軒チマチマやってても焼け石に水だね。国の復興予算が10兆も20兆円もあるというなら、ここにも重機を入れてザ〜ッと均して跡形も無くしてもらってからの話しだね。他所じゃあ震災や津波を忘れないために記念になる何かを遺そう、なんて話もあるけど、ここじゃ誰一人そんなことは思っちゃいないさ。・・・でも、誰か一人、役所がダメだとか何とか言ってもここに住み着いて頑張って生活し始めたら、俺も、俺もってここに住む人が出てくるかも知れないね」
 Yさんは「俺はホームレスだよ」とも言っていた。事実、昨日も一昨日の夜も、道の駅の建屋の軒下で寝袋を被ってYさんが寝ている姿を見ていた。69歳のYさんが自分のふるさとをボロクソにけなしながらも、それなら何故ホームレス生活をしながらここで「チマチマ」とボランテア活動を続けているのか、Yさんの揺れる心情が痛いほど分かるのである。

 3・11の悲劇から2年4カ月が経ち、南三陸町の被災地では、凄まじい破壊の爪痕にも、微かだが復興の槌音が目と耳と心の中に届いてきた。しかしここ南相馬の小高地区や浪江町の被災地に入って目にした風景は、あの日からピタリと時間が止まったままの、復旧復興からは遥かに遠い道のりの姿だった。この二地区の決定的な違いは、偏に地震と同時発生した原発事故の被害に遇ったか遇わなかったのかの違いである。
 南三陸町で見たあの津波の看板のように、俺も精一杯の悲しみと怒りとを込めて叫びたい。
 
 「原発のバカ!」

 (東日本大震災復興支援ボランテア活動日記 おわり)