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2013年3月2日(土)雪
おやじ山の早春2013(山入りの日)
 午前2時過ぎに起きて、おやじ山に入る前に今まで残っていた宿題の片付けをやる。何ヶ所かにパソコンメールを送ったり(深夜便メールを受取った相手は「一体何ごとか!」とさぞビックリしたことだろう)、懸案事項をあれこれ手帳に書き付けたりとバタバタしているうちに午前4時になった。今回2度目のおやじ小屋の雪堀を手伝ってくれるNさんが車で迎に来てくれる時間である。
 北海道と東北・北陸地方の日本海側に暴風雪警報が発令されて(*)今回もまた山入りの条件としては最悪だったが、何度か厳冬期の冬山を経験しているNさんとなら大丈夫だとのもくろみである。

 幸いにしておやじ山の麓の長岡市営スキー場に到着すると、思ったほどの吹雪ではない。スキーロッジの事務所に寄って場長さん等に挨拶してから、10時半にスノーシューを履いて雪中行軍を開始した。
 12時、無事おやじ小屋到着。可なりのハイペースである。自分のテントやら荷物の他に、二人分の酒と缶ビールのヤクザな水物を一手に背負ってラッセルしてくれたNさんの馬力には感服である。

 小屋を掘り出してから、早速Nさんは屋根に上がって煙突の取り付け、俺はブルーシートで覆っておいたトイレの掘り出しにかかった。そして、青天井のトイレの上に建屋代わりの雪のカマクラを作って、我ながら上出来である。
 
 待望の二人晩餐会は、前回の雪堀で鶏肉を忘れて失敗した「おやじ山風雑煮」と、Nさんが運び上げてくれた「朝日山千寿盃」。揺らめくストーブの赤い炎を見ながらの至福の時間となった。

(*)この日、北海道では暴風雪で計8人が死亡した。この中に2年前に妻を亡くし、小学3年生の娘(夏音ちゃん)と二人暮らしだった53歳の漁師岡田幹男さんがいた。二人とも雪に埋まった状態で10時間後に発見されたが、幸いにして夏音ちゃんは、覆い被さった父親の太い腕とぶ厚い胸に抱かれて一命をとりとめた。3日のひな祭りには二人一緒にケーキでお祝いしようと、ケーキが予約してあったのだという。  そして、俺が山から下りて帰ってきた3月25日の朝日歌壇には、こんな歌が詠まれていた。

 『
父一人子一人の子を雪中に存(ながら)えさせし父の体温』(つくば市 池上晴夫)
2013年3月3日(日)曇り
おやじ山の早春2013(春を呼ぶ生き物)
 今日は早くもNさんが下山する日である。現役のNさんはこの3月が年度末で、これから超多忙な仕事の毎日になる。
 午前10時、そのNさんを送って山を下りる。途中、春先に「まんず咲く」マルバマンサクの錦糸卵のようなチリチリの花びらが、枝いっぱいの花付きで目を楽しませてくれた。昨年は全く貧弱な花付きでガッカリさせられたが、今年は一転、まさに「満作」の名に恥じない豪華さである。春を呼ぶという雪虫も目に止って、何やらうきうきと胸が弾んでくる。

 ひな祭りの日の日曜とあって、麓の長岡市営スキー場も家族連れのスキー客でいっぱいだった。Nさんを見送ったあと、そんな賑わうスキー場を何度か振り返りながら、一人おやじ小屋に戻った。
2013年3月4日(月)晴れ
おやじ山の早春2013(帰らないでいいか、妻よ子よ)
 山入りして3日目、ようやく晴れた。朝起きて小屋を出ると、昨晩降った雪が薄っすらと積もって、ノウサギの足跡とそれを追いかけるテンの足跡が並んでついていた。

 今日、懸案の水場の雪掘りを終え、ホッと一息ついた午後3時ごろだっただろうか?何気なく小屋前の山菜山に目をやると、物凄い景色が広がっていた。今までそんな風景には目もくれずにせっせと雪掘りに励んでいたが、まさに息を呑む程の見事な雪景色だった。慌てて小屋に置いてあるデジカメを鷲掴み腰までドブリながら、戦場カメラマンの如くこけつ転(まろ)びつ夢中でシャッターを切ってヤマザクラの斜面を下りた。「凄い!凄い!」と何度も溜め息混じりの声が口を突いて出たが、全くこの時期ならではのおやじ山からの素晴らしいプレゼントである。

 ふっと、昔読んだタレントの清水国明の本を思い出した。自分がアラスカか北欧かに一人旅していて感動的な風景に出会った。そこで清水はある詩人が書いた文章を思い出して『俺は、帰らなくていいか、妻よ子よ』と日本にいる家族に書き送った。彼が出会った素晴らしい風景を『自分の最愛なものと比較しても更に大きかったのだよ』とその感動の大きさを伝えたかったからである。妻から返事が来た。「帰って来なくて、いいです」と。
 そこで俺も清水を真似て、このおやじ山の感動的な風景を前に、『帰らないでいいか、カアちゃ〜ん!』と心の中で叫んでみた。そしたら・・・「ずっとそこに居てください。ワタシせいせいしますから・・・」とこだまが返ってきたような、来ないような・・・(まあ、そんなものである)

 夕方、西の空に傾いた夕陽を受けて、真っ白だった山菜山がオレンジ色に染まった。見事である!呆然と、ただ呆然として小屋の前に立ち尽くす。
2013年3月5日(火)雪〜雨
おやじ山の早春2013(燻製の身体)
 全く寒い一日だった。午前中は頻りにボタン雪が降り、午後からは氷雨に変わった。それでほぼ一日中、ストーブの前に座り込んで火焚きに専念した。ストーブの火で小屋の中は暖ったかいかというと・・・殆ど外の気温と変わらない!取りあえず小屋に運び込んだ薪は大方が湿って燃えが悪いし、それに自慢じゃないが、俺の小屋は隙間だらけで風通しがとても良いのである。

 それでストーブの焚口を頻繁に開けて団扇で風を送り込んだり、ボーボー燃え出しても温もりが欲しくて焚口を開けたまま顔や手をストーブに突っ込んで直火で炙ってみたりするものだから、煙が開口部から流れ出て、小屋の中はもうもうとした煙で充満する。それで俺の身体は、生きた燻製になる。もしこのまま死んでミイラになれば、燻製干物である。

 早々と夕飯を食って、寝袋に潜り込む。寒くて寝袋の中に顔を埋めると、やっぱり燻製の匂いがした。
 
2013年3月6日(水)快晴
おやじ山の早春2013(東尾根の散歩)
 晴れた!快晴である。絶好の仕事日和である。降り積もった雪が締まるこの時期が、雪国の山仕事にはベストシーズンなのである。
 「さぁ〜て、いよいよ今日から杉の枝打ちと間伐作業に入るか!」と、決然と思いきや・・・先ずは煙臭い寝袋とエアマットを外に干し、それから眩い朝日に目を細めながら小屋向かいの山菜山の雪崩を望んで、「いよいよ春が来たなあ〜」などと感慨に耽っているうちに、「やっぱりこんないい日には、ちょっと散歩にでも行ってくるか」と相成ってしまった。

 それでおやじ小屋の裏斜面を登って東尾根に出て、俺の気に入りの二ノ峠尾根の直下にある高台に行った。昨年ここからテンとノウサギの追い駆けっこを見た斜面に目を凝らしたり、獣たちの足跡を「ほほう〜」と眺めたり、アカイタヤの珊瑚色の新枝やイワガラミのドライフラワーを写真に撮ったりした。
 そして雪の上に腰を下ろして、眼下に拡がる白い越後平野をいつまでも見続けていた。少年時代を過ごした町並み、昆虫採集に夢中になった悠久山、当時は実に遠く感じた西山の丘陵、そしてその向うには薄っすらと佐渡の山並みが望まれた。

 決然とした朝のファイトも、小屋に戻って来た時にはすっかり緩んでしまって、今日は小屋脇の薪の掘り出しだけをやることにした。これで「今日も働いたこっつぉ〜!」と勝手に納得させて、晴れて美味しく酒を呑むことにした。

2013年3月7日(木)晴れ
おやじ山の早春2013(サシバ飛来す!?)
 今日も爽やかな晴天である。今日こそは気合を入れて山仕事に取り掛かる積もりである。その前に(またまた、大丈夫かいなあ〜洗濯をする事にした。春の日射しに気温もぐんぐん上がって、今日は絶好の洗濯日和でもある。昔懐かしい洗濯板を取り出して、先日掘り出した水場の清水をバケツに汲んでゴシゴシやったのだが、本当に冷(しゃ)っこくて冷(しゃ)っこくて、手がビリビリとかじかんでしまった。

 そして、洗ったシャツやパンツを小屋脇に張ったロープに架けていると、何と!山菜山の杉林の上空を1羽のサシバが悠然と旋回しているではないか!「わ〜、今年もサシバがおやじ山に帰って来てくれた!」と嬉しくて仕方がなかった。
 豊かな里山の象徴サシバも、今や環境省のレッドリストで絶滅危惧U類にランクされた貴重な鷹になった。秋の「渡り」が有名で、日本の各地で過ごしたサシバが大きな群を作って渥美半島の伊良湖岬、さらに鹿児島県の佐多岬を通過して、途中徳之島、宮古群島に羽を休めてから、フィリピン、インドネシアで越冬するのである。そして春、再び南の国から子育てのために日本に戻ってくる。その貴重な場所の一つが、ここ長岡東山連峰のおやじ山なのである。
 しかし、例年は3月下旬から4月上旬の飛来なのに、今はまだ3月初めである。ちょっと飛来が早すぎる気がするけど・・・別の鳥だったかも知れないなあ〜。最近目もチラチラして霞みがちになったし・・・。

 それで肝心の山仕事の方は、小屋の南東側で陰を作っていた大杉6本の下枝を打った。日当たりの良い南側には腕回りほどの太枝もあったが、二連梯子を掛けて1本1本慎重に伐り落とした。これからこの仕事と間伐が続くわけである。
2013年3月8日(金)曇り
おやじ山の早春2013(クロカンスキー初体験)
 また冬の寒さになった。朝の気温1℃。今日は実家に行くために山を下りた。風呂に入れて貰って煤と垢を落とし、少しは身奇麗にして小屋に戻るつもりである。

 昼少し前に市営スキー場が見える所まで山を下って来ると、ロッジの周りやゲレンデに人影はなくて、シーズン終盤のスキー場も平日は休みのようだった。見ると、麓を颯爽とクロカンスキーで滑走している人がいる。小さなリュックを背負って、スイスイと真っ白な大雪原を独り占めで楽しんでいる様子だった。

 ロッジまで辿り着いてドアーを開けると、玄関脇のベンチに座って先ほどのスキーヤーが昼食を摂っていた。何と、いつかおやじ小屋まで訪ねて来てくれたSさんだった。御歳70歳のSさんがクロスカントリースキーをやるとは今日まで知らなかったが、大した身のこなしで感心すると、「先日は大会に出場して6位になり、惜しくも入賞を逃した」と悔しがった。
 それから「お前(め)さんもやってみるかね」ということになって、Sさんは車に積んでいたもう1台のクロカンスキーとビンデング専用靴を持ってきてくれた。Sさんが履いていたのはフリー用、俺が借りたのはクラシカル用といわれる少し長めのクロカンスキーで、滑走面には後方へ滑らないようにうろこ状の加工が施されている。昔の山スキーではアザラシの皮シールを張って雪斜面を歩いたものだが、うろこ加工といい軽くて踵が解放される専用靴といい、全く日進月歩である。
 Sさんと二人でキャンプ場の前の道を滑り、ログトイレのある広場を何周か回ったが、何とも楽しいクロカンスキーの初滑走だった。

 スキーロッジに戻るとW場長さんに会った。そして「今年はスキーリフトのケーブルが獣に3度も齧られて困りました。ムササビの仕業ではないかと思いますが、関さん、この山にムササビは居ますか?」と訊かれた。居るもいないも、俺のフクロウの巣箱にはそのムササビ君が棲みついていた。「・・・はい、居ります・・・」と答えたが、本命のフクロウに巣箱を奪われた腹いせで彼が齧っちゃったのかも知れない。

 久々にゆっくり風呂に入って、今日は実家に泊った。
 
2013年3月9日(土)快晴
おやじ山の早春2013(雪解けの山)
 寒かったり暖かかったりと、まるで冬と春が行ったり来たりしているような毎日の繰り返しである。それで今日は、実に暖かい春日の一日となった。

 今朝、実家の義姉から車で山に送ってもらう途中、ホームセンターとスーパーに立ち寄って当面の買物をした。この際だと、食料の他に山仕事で使うちょっと嵩張るものまで買い込んでしまい、10時半から背負子で荷揚げを始めてスキー場と小屋を2往復し、午後3時半までかかってしまった。そしてその途中の山道では、雪解けの様子が目に見える速さで進んでいた。午前中には真っ白だった山肌が、午後にはもうあちこち黒い染みを作って地肌を出しているのである。

 そして今日もまた、残雪の中で咲く今年のマルバマンサクの豪華さに感嘆してしまった。チリチリの黄色い花弁が、残雪の白さにも今日の空の青さにも同時に映えて、近年稀なる見事さだった。昨年の貧弱な花付きを見て、「ケッ!何だこの咲き方は(*)」と小馬鹿にしてスミマセンでした。

(*)<マンサク>の名の謂れには諸説あるが、その一つに『花びらが貧弱で、しいなと見て凶作を連想し、その反対語として豊年満作の「満作」の名を選んだ』という説もある。(「アシ」を縁起良く「ヨシ」と命名したのと同じ発想である)ということは、本来は貧弱な花、ということになる。
2013年3月10日(日)ミゾレ〜曇り、夕方晴れ
おやじ山の早春2013(山暮らしの意味)
 朝から降っていた雨が10時過ぎにミゾレに変わった。昨日から一転、また冬の到来である。

 今日は殆ど一日小屋に籠もって、ストーブの前で本を読んだり、明日迎える「3・11 東日本大震災2周年」のラジオの特集番組を聴いたりして過ごした。

 今日読んでいた本は、遠藤ケイ著『裏の山にいます』(山と渓谷社)という10年以上前に出版された本で、昔の記憶も朧になって再読してみようと家から持ってきた一冊である。著者はここ長岡市の隣街三条市の出身で、千葉の鋸南町の山麓に自分で建てた丸太小屋に住んで自然暮らしを楽しんでいるという野人である。裏山で採った蔓や竹で生活用具や遊び道具を作ったり、生来の食い意地でイモリやヤマカカシ、果てはトンボやナメクジまでも料理して食ってしまうという、まあ、痛快エッセーである。

 昔はこんな本に憧れたりしていたのだろうが、今の俺からみると、「ちょっと違うなあ」という感じである。山暮らしの不自由で不便な暮らしを切り返してどう楽しむか、という部分は同じだけど、この著書では山暮らしで敢えてサバイバルに突き進んでいこうという逼迫感が垣間見えて、今読むとちょっと肩が凝るのである。

 それでは我が身を振り返って、俺が町の生活を離れて山暮らしするのは何故だろうか?と考えてみた。 ずっと昔は、もちろん持ち山の整備の他に、異次元体験のある種のレジャー感覚であったり、現実の憂さを忘れるためだったりもしたが、今はもうこの感覚は皆無といっていい。そんな甘っちょろい思いでおやじ山に入ったら失礼だ、くらいの気持ちもある。特にこの雪の時期、おやじ小屋で生活していれば、今日のような凍える寒さがあり、何日も山を下りずに食料や好きな酒も乏しくなり、ふっと孤独の淋しさが襲うこともある。しかしよくよく考えれば、これらの辛さや不自由さの一つ一つが、このおやじ小屋で暮らすことの意味そのものなのである。つまり、おやじ山の自然に身を預け、寒さも、ひもじさも、淋しさも、全てを受け入れて暮らすことこそが、この山で生活することの意味だと思っている。
 おやじ山で暮らすうちに、どんどん自分が自然に溶け込んでいって、自然と一体化するような不思議な感覚を持つようになった。おやじ小屋に独居して、時間と季節の移ろいを目や肌で感じ取り、嵐や風の唸りに耳をそばだて、獣や鳥の鳴き声に心を震わせながら、己の感性がどんどん研ぎ澄まされて行くのを実感する。もしかして、ヒトや獣たちが自然界の中で「生きる」とは、この感覚を指すのではないのか?そして、果たして人間が生きることの意味とは一体どういうことなのだろう?何故?何のために・・・詮ない疑問がどんどん沸き上がってくるが、俺にとって、このおやじ山暮らしがあればこそ、己の心身が今だ真っ当に鍛えられているのだと心から感謝しているのである。

 ストーブの前で長く屈んだ腰を伸ばすために、外に出た。いつしか曇り空も晴れて、赤い夕焼けの光線が山菜山を美しく染めていた。
2013年3月11日(月)曇り、日中の気温−2℃
おやじ山の早春2013(アンパンマンの歌のように)
 昨夜は気温が−4℃まで下がった。何度もウトウトを繰り返し、ついに寝袋から這い出てホカロンを体中に貼り付けた。
 そして今日の昼の気温も−2℃止り、寒い一日だった。それで小屋に籠もってストーブを焚きながら、ずっとラジオを聴き続けていた。あの日から2年、ラジオから流れる東北の被災者の声が深く深く胸に沁みた一日だった。

 午前中は、陸前高田市の農林業佐藤直志さん(77歳)を主人公にしたドキュメンタリー映画「先祖になる」を撮った映画監督の池谷薫氏へのインタビュー。そして午後からの番組は<震災から2年、被災地の明日を信じて>と題して、ヴァイオリニストの千住真理子氏他3人のゲストを迎えて、スタジオと岩手県釜石、宮城県女川のそれぞれの中継地を結んでの放送だった。
 地震発生の午後2時46分には東京の国立劇場で開催されている追悼式の黙祷に合わせ自分も頭を垂れたが、その後で壇上に立った被災地3県の遺族代表の言葉には涙を誘われた。

 2年前のこの日、母と一緒に高台に避難する途中二人とも津波に呑まれ、母を亡くしてしまった岩手県の遺族代表、県立宮古商業高校3年の山根りんさんは、「あれから二年、私はあの日より、少し強くなりました」、そして「助かったからには、生きて人の役に立つことが自分の使命です」と言い、「世界の国々に支援活動できる人材になりたい」と結んだ。
 続いてやはり津波で息子と妻を亡くした32歳の宮城県の遺族代表、西城卓也さんは、「妻と一緒に家事をしたり、子どもと遊んだりの楽しい日々を今でも思い出す」と、若くして最愛の家族を亡くした悲しみを切々と訴えかけた。
 最後に福島県代表の八津尾初夫氏(63歳)が、この震災で妻を亡くしたことを抑えた語り口で喋ったが、その胸には慟哭の悲しみが宿っていることが聴き取れた。

 追悼会場からマイクがスタジオに戻って、千住真理子氏のヴァイオリンの演奏になった。曲は「ふるさと」だった。
 低く、小さく静かに、ヴァイオリンの音色が「ふるさと」の曲を奏で始めた。一番が終わり、今度は一オクターブ高く二番の演奏が始まった。その曲が途中から突然変調して、ヴァイオリンの音色が極限までの高音になった。弦が震え、悲しみ、泣き叫んで、思わずドッと熱い涙が溢れ出した。ふるさとの曲に合わせるように揺らめいていた目の前のストーブの炎も一気に滲んで、クシャクシャになった。
 そしてまた、曲は静かな「ふるさと」に戻った。しかし今度は強い意志と希望を持って、しっかり前を向いて前進する調べのように思えた。

 東日本大震災の被災者が悲嘆に暮れている時、ラジオから流れて来た最も勇気をもらった歌が「アンパンマンの歌」だったという。その歌詞を今日の日に載せておきたいと思う。
    
        <アンパンマンのマーチ>
(作詞:やなせたかし/作曲:三木たかし)

そうだ うれしいんだ 生きるよろこび  たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!

今を生きることで 熱いこころ燃える  だから君はいくんだほほえんで

そうだ うれしいんだ 生きるよろこび  たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン やさしい君は  いけ! みんなの夢まもるため

なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!
忘れないで夢を こぼさないで涙  だから君はとぶんだどこまでも

そうだ おそれないで みんなのために  愛と勇気だけがともだちさ
ああ アンパンマンやさしい君は  いけ! みんなの夢まもるため

時ははやくすぎる 光る星は消える  だから君はいくんだほほえんで

そうだ うれしいんだ生きるよろこび  たとえ どんな敵があいてでも
ああ アンパンマンやさしい君は  いけ! みんなの夢まもるため

 
2013年3月12日(火)快晴
おやじ山の早春2013(頚城三山と佐渡の山を望む)
 昨日の深夜、用足しで小屋を出ると、物凄い星空だった。ぶるっと一震えしてからは寒さも忘れて、しばし夜空を見上げていた。今朝の気温はマイナス5℃。今までの最低気温である。

 そして今日は深く黒ずんだ真っ青な空をバックに、山菜山の雪の白さが一層際立っていた。こういう日には何から手を付けてよいか分からなくなってしまう。散歩か?仕事か?洗濯か?と思案を廻らせ、先ずは散歩に出かけることにした。カンジキは不要、こんな午前中は雪の表面が固く締まってシミワタリ(凍み渡り)で何処でも歩けてしまうのである。
 谷川を越えて西の斜面に取り付き、登山道の赤道コースの尾根を登って三ノ峠山の肩にある友遊小屋に寄ってみた。地元の山好き仲間友遊会の皆さんが数年前に建てた山小屋で、今日は早々とメンバーのKさんが外のデッキの雪かきに精を出していた。
 Kさんとしばらく話をして三ノ峠山の頂上に向う。黄土を真下に臨む尾根からは、西方向に米山や刈羽黒姫山が見え、その背後には真っ白な妙高、火打、焼岳の頚城三山が望まれた。北の正面には長岡の市街地が広がり、その奥に西山丘陵が長く尾を引いている。その奥に白く霞んで見える山は、日本海に浮かぶ佐渡の最高峰金北山(1,172m)である。

 二ノ峠からブナ平に向う東尾根を下っておやじ小屋に戻った。それからフクロウの巣箱やあちこちの木に掛けてある野鳥の巣箱を梯子に登って掃除し、今度はチェーンソーを持ち出してカタクリの丘で日蔭を作っているスギの伐倒。勢いづいて更に何本かの日蔭スギをブンブン伐り倒した。

 「ヤレヤレ」と一仕事終えて、まだ1m以上の高さで雪が積もっているおやじ池の縁から池の中を覗き込むと、クロサンショウウオの白い卵塊が浮いていた。今年の初産卵である。

「森のパンセ−その57−」<おやじ山春近し>でこの日撮った写真のスライドショーをアップしました。 
2013年3月13日(水)曇り〜雨
おやじ山の早春2013(ヒメネズミの挨拶)
 昨晩は夕飯を食い終わって「さあ〜て、寝るかあ〜」と(電気もガスも通じていない山小屋では、暗くなったら寝るだけである)、いつものようにランタンの灯りを消して寝袋に潜り込んだ。その直後である。髪の毛がモゾモゾと動いて、何やら小動物が俺の頭の上を横切って行った。ビックリして横になったまま枕元のヘッドランプを点けると、すぐ脇の壁と柱の隙間からヒメネズミがじっと俺の方を見ていた。まさに目と鼻の先である。その小さな黒い目を見開いて、ちょっとたまげたような顔つきの愛らしさといったらなかった!

 我が家のヒメネズミは、この枕元から2、3m離れた南側の梁の上に巣を作っているが、いつかの新雪の朝に見つけた小さな足跡を辿ると、どうやら外の倉庫小屋に引っ越したようだった。さすがの原住民も、連日の焚き火の煙に燻されて棲み処を変えたようである。
 それが昨日は、春の陽気でストーブの火も落としたままだった。「ヤレヤレ」とヒメネズミが小屋に戻って再び棲み始めて、夜間外出の際に俺の頭の上をショートカットしたのである。

 今日の山仕事は、西斜面の杉林の枝打ち。午後からは雨になって小屋に蟄居。さて、またヒメネズミを燻すことになったが・・・
 
2013年3月14日(木)雪〜夕方晴れる
おやじ山の早春2013(本日休館!)
 また雪になった。重く湿った雪である。昼からは晴れ間が出るとの予報で、そろそろ山を下りて風呂に入ったり買物をして来なければならない。

 それで午前中はストーブの前で本を読みながら、天気の模様見をしていた。すると外で、何やら呼び声がする。一度目が聞こえて、「いま頃、こんな山奥でまさか・・・」と空耳に腰を上げずにいると、「オ〜イ!」と今度ははっきり2度目の声がした。「は〜い!」と慌ててドアーを開けて外に出ると、何とクロカンスキーを履いたW場長さんがニコニコと立っていた。前回山を下りた時にスキー場の麓でSさんからクロカンスキーの手ほどきを受けたが、その時お会いした場長さんもクロスカントリーをやると聞いていた。
 その場長さんから、「今度の日曜日に実施するイベントの案内状です。他の皆さんには郵送したのですが、関さんにはできないんで・・・」と、先日申し込んでおいた市営スキー場主催のイベント「残雪の東山を歩こう」の案内状を手渡されたのである。「わざわざこんなところまで・・・」と、すっかり恐縮してしまった。

 午後、山を下りた。そして地元の友人A君に電話で教えてもらった悠久山にある共同風呂「お山の家」まで歩いて行ったが(2時間かかった)「木曜日休館」の掛札にガックリ!そのままさらに歩き続けてコンビニに辿り着いてようやく息をついた。それから近くの停留所でバスを待って長岡駅まで行き、駅ビル内のスーパーで買物をして再びバスに乗り、スキー場近くの栖吉の町に戻った。

 おやじ小屋に帰ったのは、もう薄暗くなった午後6時過ぎだった。今日は、本当によく歩いた〜!
2013年3月16日(土)晴れ、夕方から雨
おやじ山の早春(三気を供える)
 昨日は快晴、そして今日も実に暖かい一日だった。ラジオが、東京では今日桜の開花宣言があった、と報じていた。
 そして嬉しいことに、昨夜は西の杉林の斜面からフクロウの鳴き声が聞こえてきた。ここにホオノキに架けたフクロウの巣箱があって、昨年は2個の卵を産んでくれたのである。さて、今年はどうか・・・?

 昨日に引き続いて、今日も西斜面の杉林の整備をする。昨日は梯子を掛けて枝打ち、今日はチェーソーを使って日蔭になっている谷側の3本の伐倒である。

 誰も来ない山中での一人作業なので、怪我には特に注意しなければならない。倒れて動けなくなったりしたら、怪我もさることながら凍死か飢死の憂き目に会う。それで小屋に架けてある斧を手に持って杉林に入った。
 斧は与岐(よき)とも呼ばれているが、この両面には「流し目、脂抜き」と呼ばれる筋が入っている。片面には「地・水・火・風」の「四気(よき)」と呼ばれる樹木が育つ四大元素を表わす4本の筋、反対側には「生・旺・墓(せい・おう・ぼ)」つまり生命の輪廻転生を意味する「三気(みき)」と呼ばれる3本の筋が入っている。合わせてこの7本の筋を「七つ目」と呼んで、山に棲む魔物に対して法力を放ち、危険を防止させる護符、伐採する大木の霊に捧げる呪文を意味していると言われている。
 そして「三気(みき)」は「御神酒(おみき)」に通じ、古来から山で働く杣人らは、木を伐る前に御神酒の代用で斧(与岐)の「三気」面を伐採する木の幹にもたせかけて、「これから木を伐らせてもらいます。どうかよろしくお願いします」と山の神に拝んだのである。

 実際の御神酒を木の幹に振り掛けて拝めば効力も増すのだろうが、俺の場合は、勢い「お流れ」を飲み過ぎて益々危険度が増す心配が大いにあるので、今日はこの古来からの伝統に則り斧の代用で安全祈願した。
 チェーソーで伐り倒してから再び柏手(かしわで)を打ってそれぞれの年輪を数えてみた。いずれも5、60年は優に経っている林齢木である。やはりこんな大木を伐り倒すと、胸がシンとする。

 午後になって、山を下りた。今日こそは「お山の家」の共同風呂に入って、しっかり煤と垢を洗ってこなければならない。明日の「残雪の東山を歩こう」イベントには、たくさんの参加者があるとW場長さんから聞いていた。そんな大勢の中に入って「あの人、臭い」とでも言われたら、恥ずかしくて死んじゃうかも知れない。
 風呂への往き帰りの歩きだけで、4時間の遠征、帰りには雨になった。
 
2013年3月17日(日)快晴
おやじ山の早春2013(痛快尻すべり)
 今日は市営スキー場と長岡蒼柴スポーツクラブが共催する「残雪の東山を歩こう」というスノートレッキングの日である。それで朝は少し早く起きて、ラジオを点けながら朝食兼昼のおにぎり用ご飯を大目に炊いた。
 そのNHKラジオが6時台に「リスナーからの便り」を読んでいたが、一主婦からのこんな便りがあった。
 「私は毎朝主人と一緒に6時半からのラジオ体操をしています。私達は縦に並んで、私はいつも主人の後ろで背中を見ながら体操してます。いつだったか主人に『ねえ、向き合ってやろうよ』と提案したのですが主人は何も言わず、未だに私達は縦一列でやっています」
 思わずクスリと笑ってしまったが、頑固者のご主人と可愛い奥さんの姿が目に見えるようだった。

 午前9時、市営スキー場の第二ロッジに参加者が集まった。総勢40人程の大盛況である。W場長さんの挨拶に続いて蒼柴スポーツクラブの川上インストラクター、そして今日の世話役を務める友遊会のTN会長さんご夫婦、TKさんご夫婦、そして先日友遊小屋でお会いしたKさんらの紹介や注意事項などがあった。

 皆さんカンジキを履いて「花と緑の広場」を一斉にスタート。各自思い思いの雪原の上を歩いて展望台〜赤道コースと歩いて友遊小屋で休憩。小屋サービスのコーヒーをご馳走になった後は、三ノ峠山の頂上を経由して鋸山を望む「観鋸台」まで行った。途中山菜宝庫の「水穴」の尾根を歩いたが、下を覗き見るとまだぶ厚い雪崩雪で覆われていた。
 そして三ノ峠の尾根をスキー場の最高地点第一リフトの終点まで歩いて、いよいよここからは大きなビニール袋を尻に敷いてゲレンデを滑り下りるのである。スキー場が用意した雪上車に全員の荷物を預け、各々身一つになっての尻滑りである。

 スキー場は既に1週間前に営業が終了し、広いゲレンデはどこまでも真っ白である。そこを参加者全員次々に滑り下りたのだが、痛快極まりなかった。でも尻がビショビショになって、しゃ(冷)っこかったなあ〜。
 そして最後は、スキーロッジで職員の皆さんが用意してくれたトン汁をご馳走になった。お世辞でも何でもなく率直な感想だが、今まで食べたトン汁の中では間違いなく最高の味だった。
 
 それにしても二度に渡る「お山の家」への風呂遠征から今日のスノートレッキングまで、随分歩いたものである。やっぱり、「もういい!」って言うほど草臥れてしまった。
2013年3月19日(火)曇り
おやじ山の早春2013(猿倉と蓬平への夢)
 昨日は猛烈な南風が吹いて(全国的な春一番だった)、荷物入れ用に張ってある雪上テントが吹き飛ばされるのではないかとヒヤヒヤしたが、夜中からは強い雨に変わった。その激しい雨音でなかなか眠ることができず、雨が上がった明け方近くにようやく少しまどろんだ。

 そして夜が明けてトイレに行くと、雪のカマクラで作っていたトイレの天井がどさりと崩れ落ちていた。良かった!もし用足しをしている最中にでも天井が落ちて生き埋めになったら、とっても恥ずかしい格好で這い出なくてはならなかった。よもやここで窒息死でもしたら、「アラッ!!この人、こんな格好で〜!」と大笑いされるのがオチである。

 今日は長岡市役所のMさん、Sさんとご一緒に、蓬平町の集会所で開催されたミーティングに参加させていただいた。猿倉岳のブナ林を整備している地元のボランティア団体「猿倉緑の森の会」代表のMさんからお誘いを受けていたからである。会場にはM代表はじめ緑の森の会の皆さん、町内会長さん、太田小学校長、観光協会会長、温泉旅館の女将さん、婦人部代表、山の暮らし再生機構職員とズラリ出席されていて、活発な意見が飛び交った。
 こんな場面に参加できて本当に嬉しく、自分が少しでも蓬平の皆さんのお役に立てればと心が奮い立つ思いだった。

 それにしても、今日山から下りる時やまたおやじ小屋に戻る途中、ノウサギを何羽も見た。春は間近、ウサギたちもこれから繁殖、子育てと大忙しである。
2013年3月25日(月)曇り
おやじ山の早春(おやじ山、睡(ね)覚めから笑う春へ)
 昨日は春の陽射し、そして今日は一転して、また冬の寒さに戻った。しかし向いの山菜山を見ると、入山した3月初めの真っ白だった山肌が、今やまだら模様に雪穴が大きく開いて、春はもうすぐそこである。

 3月22日には池のクロサンショウウオが2度目の産卵をした。そしてここ数日、フクロウも頻りに鳴いて産卵と子育ての準備に大忙しの様子である。さらに今年はマルバマンサク、ニシキマンサクも見事に花を付けて、残雪の白さと陽春の空の青さとに同時に映えて、堂々自己主張していた。
 いよいよおやじ山も「睡(ねむ)るが如き冬山」から「笑う春山」へと季節がバトンタッチされる。

 そして今日、山を下りて一時帰還することにした。この時期の山仕事が一段落して、しばしの骨休めである。
 午前10時半、小屋を閉めて、山を下りる。 (おやじ山の早春 おわり)