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最後のページは<2月13日>です。

2013年2月17日(日)晴れ
熊本県の山旅(序)

 4日前の2月13日、熊本県内の森林調査の仕事から帰って来た。
 2月1日に羽田からのANA便で熊本空港に降り立って、早速県北部、福岡県境の筑肥山地の森に向った。
先ずは有明海に注ぐ矢部川源流域の国有林から今回の調査がスタートした。主任調査員は先月も神奈川県調査でご一緒させていただいたベテランのHさんである。

 そしてその後の13日間に及ぶ山旅では熊本県内を徐々に南下して、県中央部では「阿蘇くじゅう国立公園」の森と宮崎県境の九州中央山地の森林(いわゆる島原湾に注ぐ緑川の源流部)、調査後半に入って八代と人吉盆地の宿に何日かづつ泊り歩いて九州きっての大河、八代海に注ぐ球磨川流域の森林を攻めた。 そして終盤には、熊本、鹿児島、宮崎3県境の源流部に分け入り、「万年青平」付近のポイントでは、「こっちの小滝は球磨川の源流、あっちの渓流は、宮崎県えびの市から大口盆地へと流れ下って、遙々鹿児島県の甑海峡に注ぐ川内川となるのか・・・」と手元の地図で確認して、何やら人生航路の運命の岐路に立った思いで、しばし感慨に耽ったりした。


 そして今回の山旅でも、様々な風景や人、その人たちが背負ってきた歴史と伝統の一端を垣間見ることができた。
 九州中央山地の旧那須往還では、幹周りが二抱半から三抱えもある息を呑むほどのブナとミズナラの巨木の森に出会い、その山地脊梁に点在する全戸数7戸全てが「奈須」姓の舞岳集落や栗林の集落を見た。思えば昨年11月の宮崎県森林調査では、たまたま壇ノ浦の戦で敗れた平家落人の邑「椎葉村」に宿をとり、平家の鶴富姫と源氏の那須大八郎の恋物語や、この邑で平家方姓の「椎葉氏」と源氏方姓の「那須氏」とが連綿と生活を営んでいることを知ったが、この熊本県の奥山の地にも椎葉村から移り住んだであろう人たちが居り(「那須」と「奈須」の違いはあるが、先祖は同じであろう)、ピタリと身を寄せ合って暮らしているということが、凄く尊いことに思えた。そして肥後の国の悠久な大自然とそこで出会った数奇な歴史に思いを馳せて、心底感動を禁じえなかったのである。


 さらに13日間を菊池市、山都町、八代市、人吉市と泊り歩いてきたが、熊本県人の礼儀正しさにも心を打たれた。あちこちの村に入れば、見知らぬ我々に誰もが腰を深く折ってお辞儀をし、温泉の共同風呂では高校生の若者から「こんにちわ」と挨拶されてビックリしてしまった。熊本県の県民性「肥後もっこす」とは、頑固で妥協しない男性的な性質を表現するが、どうしてどうして、ここに優しさと礼儀正しさを加えなければならない。

 それでは、熊本県での13日間の山旅を遡って綴っていきたいと思う。

2013年2月1日(金)雨
熊本の山旅(七城温泉ドーム)
 いよいよ今日から13日間に渡る熊本県での森林調査がスタートした。ペアを組むのは先月も神奈川県調査でご一緒させていただいた大ベテランのHさんである。
「今回も宜しくお願いします!」と羽田の空港ロビーでニコニコと挨拶を交わして、9時40分発のANA便で熊本へと飛びたった。

 熊本空港に着いて、早速予約してあった四駆車ニッサンX−TRAILに調査器具の入ったコンテナと二人の大荷物を積み込んで、いざ第一調査地点の筑肥山地の福岡県境へと向った。

 「ヤレヤレ」と最初の調査を無事終え、Hさんが予約してくれた菊池市内の宿にカーナビを設定して、何と着いた場所は菊池川の川縁に建つお城だった。ここは公営の温泉施設「七城温泉ドーム」、いわばお城を模して造られた巨大なスーパー銭湯だった。
「ここですか?」
「らしいですなあ〜」
「さすが肥後の国で、何かこう・・・格式がありますね」
「ンフフフフッ・・・なら、入城と行きますか」
などと、互いにおっとりと言葉を交わしながら、お城に入って行った。
 
2013年2月2日(土)朝霧〜晴れ
熊本の山旅(たまっとかね??)
 朝7時半過ぎに宿の玄関を出ると、濃い霧である。九州は夜明けも遅いので振り返って我が宿を見ると、まるで幻か蜃気楼の城でも眺めているようだった。

 今日攻める2点目の調査地は、阿蘇山の北麓を回って一路北上、大分県境にある九重国立公園の一角である。宿からはかなりの遠出だったが、X−TRAILのハンドルを握るHさんは濃霧の清正公道をまるで拝むようにして車を進めた。
 しかし今日の仕事を終えての帰路は、霧も晴れて全く素晴らしい阿蘇の茅場のドライブだった。恒例の阿蘇の山焼きも間近に迫っているようだが、一面に広がる黄土色の草紅葉には目を見張るものがあった。

 お城の宿に着いてから、近くを流れる菊池川の堤防を散歩した。全く長閑な風景で、川面にはたくさんの水鳥が羽を休めていた。ヒドリガモがいて・・・オオバンがいて・・・と堤防を歩いていくと、釣り師が川に立ち込んで竿を振るっていた。
「何が釣れますか?」と声を掛けると、「ハヤ!」と答が返って来た。天ぷらや甘露煮にして食べると最高だ、とも竿を振りながら教えてくれた。対岸の堤防の上をアベックが並んで歩いて来たが、まるで映画の一シーンのような光景に急いでカメラのシャッターを切ったのだが・・・。

 夕食前に宿の温泉ドームに浸かりに行った。さすが土曜日の市民銭湯で、昨日よりは余程の混みようである。大きな露天風呂で身体を沈めていると、突然隣の老人から、「ここは、とまっとこ、あっとかね?」と声を掛けられた。思わず「あっとです!俺今泊っとです!」と釣られて答えたが、自分でも笑ってしまった。
 そして今度は湯殿から脱衣場に戻るガラス扉で、入ってくる人とハチ合わせになったが、この人からも、「たまっとかね?」と訊かれてしまった。(はて?溜まる=滞まる?=混む・・・?)とぐずぐず判断しているうちに当人はさっさと中に入ってしまったが、(たまる=貯まる)と咄嗟に判断したら、「貯まっとらんです。もう俺、首が回らんとです」と即答した筈である。(いくら何でも、いきなり他人の財布の中身を訊く人もいないだろうけど)
 しかし今日は、ここに来る人たちに、会えば皆お友達になるのだと教えられた一日だった。
(熊本弁では、「混む」ことを「せいとる」と言うと後で教わった。すると「たまっとかね?」は???)
2013年2月3日(日)朝霧〜快晴
熊本の山旅(山下選手の故郷)
 節分、そして明日はもう立春である。今日も明け方は辺り一面真っ白な霧に包まれ、Hさんの拝むような慎重運転で仕事に出かけた。しかし陽が昇るにつれてそんな空も気分も雲散霧消して、ポカポカ陽気の快晴となった。
 こういう日の仕事は捗(はか)が行くのである。午前中2ヶ所の調査地をこなし、ルンルン気分(とは行かないまでも、まあ、それに近い気持ち)で青空の下を車を走らせ、第3ポイントに向かった。

 全く<好事魔多し>とはこんな事をいうのかも知れない。助手席で地図を広げて調査地の確認をしていると、突然「ガタン!」と車が傾いて停まってしまった。「エ!」「アッ、シマッタ!」と二人で同時に声を上げて車を降りると、左の前輪と後輪とがきれいに道路の側溝に嵌っていた。そこは左車線の広い路肩だったが、冬枯れの落葉がコンクリートの側溝を覆って所在を分からなくしていたのである。Hさんの名誉のために言うが、こんな路肩の状態なら誰だって脱輪するのは必定である。
 それから「ウンウン」石を抱えてきて溝に入れたり、後ろから押したりとやってみたが、さすがのX−TRAILも前輪と後輪の車軸が側溝のコンクリートの角に載って亀の甲になり、左の両タイヤとも空回りするばかりである。 それで、JAFを呼んだ。程なく駆けつけたJAFに引き上げられ喜んだのも束の間、JAFの人から「ニッサンの整備工場にすぐ持って行って点検しないとダメ」と言い渡されてしまった。幸い現場からそう遠くない山鹿市内にその整備工場があって診てもらったが、整備士から「はい、問題ありません。引き続きお使い下さい」のお墨付きをもらったHさん、何とその整備士の手を両手で握って、「ありがとう!ありがとう!」と涙ぐまんばかりの喜びようだった。本当に良かった、よかった!
(しかしこの日以降、Hさんは運転中に道脇の小さな窪みを見ては、「アッ側溝!」と過剰反応するようになってしまった)

 今日から宿替えで、場所は上益城郡山都町(旧矢部町)にある「国民宿舎通潤山荘」である。宿の近くには有名な「通潤橋」という嘉永年間に総庄屋「布田保之助」の主導で造られたという石造りの灌漑水路橋があり、この橋にあやかって付けられた宿の名前である。早速部屋に荷物を置いて見学に出掛けたが、なる程、渓谷を跨いで美しくも堂々と架けられた見事なアーチ橋だった。

 そして通潤山荘のロビーには、国民栄誉賞にも輝いた柔道の山下泰祐選手の数々の優勝カップや優勝楯、賞状や写真などが飾られてあった。宿の女性に聞くと、山下選手はここ山都町の出身者だという。
そんな大先輩の姿から柔道が教える作法と礼を見て育ったのだろうか、夕方、宿の風呂に入りに行くと、ここに貰い湯に来ていた二人の高校生から、「こんにちわ!」「こんにちわ!」と実に爽やかな挨拶を受けた。
 
2013年2月4日(月)雨〜曇り
熊本の山旅(ウグイスの初鳴き?)
 朝5時に目を覚まして、ベッドの上でこの旅で持参した千松信也著「ぼくは猟師になった」(新潮文庫)を読み継ぐ。京都在住の33歳の若いワナ猟師が書いた本で、自宅近くの山で獲るイノシシやシカのワナ猟の記録とそれらの解体や料理方法などが詳しく載っている。読み進むうちに俺も狩猟免許(乙種猟銃免許ではなくて甲種の網とワナの免許)でもとって、おやじ山で狩猟と山菜採りの完全自給自足生活をやってみたくなった。

 午前6時になって宿の温泉に行き、小雨がしょぼ降る外の露天風呂に入った。九州熊本のこの時間帯は、まだ漆黒の闇である。たった一人の露天風呂の中で固まった身体を思いっきり伸ばして湯に浸かっていると、「ホーホー、キョキョキョキョキョ・・・」とウグイスの鳴き声が聞こえてきた。「ああ〜今日は立春かあ〜。下手くそながらウグイスの初鳴きも聞こえて、季節は正直だなあ〜」とうっとりと目を閉じて無邪気な感慨に耽っていたが、「・・・ん?待てよ!」と我に返った。朝未(ま)だきのこの暗さ、この雨、この時期、この寒さ、いくら何でもウグイスが鳴く環境ではない。しかも同じ一画から同じ鳴き方で繰り返し聞こえてくる。湯煙を透して仄かな電灯に照らされた壁に目を凝らすと、小さなスピーカーが取り付けてあった。露天風呂に人が来ると自動的に音声が流れる仕組みのようだが、ウグイスの鳴き方をまだ盛期の「ホ〜ホケキョ!」としないところが、さすが自然に長けた山里の温泉宿である。

 今日の調査ポイントは宮崎県境の九州中央山地、緑川の源流部だった。この緑仙峡と呼ばれる美しい渓谷の奥地で全戸数7戸全部が「奈須」姓の舞岳集落の看板に目を留め、ハッと宮崎県椎葉村の源氏方姓「那須氏」を想起して遥か谷下のその集落を望んだのである。ピタリと寄り添ったその村の、何と尊厳に満ちた姿だっただろうか。壇ノ浦の源平合戦から800年の数奇な運命に想いを馳せて、深い感動を覚えたのだった。
2013年2月5日(火)曇り〜午後雨
熊本の山旅(巨木の森)
 朝目を覚まして、ベッドに身を起こして昨日と同じ千松信也著「ぼくは猟師になった」を読み継ぐ。ちょうど読了した時間が午前6時で、座ったままの身体をほぐしに宿の温泉に向う。まだ真っ暗な外の露天風呂に入ると、今朝も「ホー、ホー、キョキョキョキョキョ・・・」と録音ウグイスが出迎えてくれた。

 岩風呂の縁に頭をもたせて白く湯気が立ち昇る暗闇に目をやっていると、ウロコ雲が少し切れて幾分細った下弦の月が顔を出した。そのポッカリと空いた雲の切れ目から、明け方の星が瞬いていた。

 部屋に戻ってテレビを点けると、九州地方の天気予報は午前は曇りで午後から雨、中国地方の日本海側は雪、そして韓国ソウルでは12年ぶりの大雪だと報じていた。今日も宮崎県境の九州中央山地の4ヶ所が調査ターゲットである。本降りになる前に4ヶ所攻め切れるか、ちょっと祈る気持ちだった。

 車のナビとGPSであちこちと調査ポイントの取り付き場所を探し回って、ようやく「旧那須往還道」と書かれた登山口に辿り着いた。ここから遠見山を目指して登山道を登り、さらに標高1300〜1400mの山道を稲積山〜三方山へと向った。
 そしてここで出会ったのは、登山道に覆い被さった背丈ほどの青く苔むした巨大な倒木と、二抱え半から三抱えはある堂々としたブナとミズナラの原生林だった。本州の標高の高い山で、ブナの巨木に出会えることはそう珍しいことではないが、南国のイメージが強い九州で、このような冷温帯の巨木林に出会えるとは全くの驚きだった。



 やはり最後の調査地では雨に祟られびしょ濡れになって車に戻ったが、帰りの道では「栗林集落」の住居看板が目に止った。昨日の「舞岳集落」は7戸、「栗林集落」は6戸の村である。「奈須」姓が1戸、あとは各々別姓だったが、この村の近くに「安徳天皇陵」があることから、こちらは平家方の村落と推察された。安徳天皇は壇ノ浦の源平合戦で二位の尼に抱かれて入水したと伝えられているが、いやいや平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとされる伝説は各地にある。それが多く各地に残る「安徳天皇陵」の謂れである。
2013年2月9日(土)晴れ
熊本の山旅(五木の子守唄とうなぎ)
 2月6日に山都町の通潤山荘から八代市内のホテルに宿替えして3泊し、今日はさらに球磨川沿いを南下して人吉盆地に宿をとる予定である。

 八代で泊ったホテルの部屋からは、製紙工場の大きな煙突からモクモクと立ち上る煙と、遠く三峰山の山の端から広がる早暁の見事なグラデーションの空を感嘆しながら眺めていたが、チェックアウトの今朝は、Hさんにお願いして出発を少し遅らせ、三峰山から朝日が顔を出すのを部屋で待った。ジリジリと時計を見ながらガラス窓に顔を押し付けていたが、ようやく午前7時35分に眩しい光線が部屋に届いたのを見届けてHさんが待つ駐車場に駆けつけた。

 今日は国道219号線(人吉街道)を南下しながら調査ポイントに入ったが、途中の国道では随所で補修工事の規制に遇った。昨年7月に死者26人を出した九州北部豪雨の爪跡が今だ癒えていない様子だった。

 無事今日の仕事を終えて、人吉駅近くの「朝陽館」という宿に入った。何と、歩いて数分の場所に「国宝青井阿蘇神社」があって、早速参拝に伺った。それから夕暮れまでにはまだ時間がありそうなので、駅の観光案内所で貰った「小京都人吉観光マップ」を手に紺屋町通りをぶらき、さらに球磨川対岸にある人吉城跡に向った。その大橋の渡り口で見つけたのが「五木の子守唄の碑」である。碑文には、

  民謡「五木の子守唄」は、年季奉公での子守をしていた球磨地方の
 娘たちが口ずさんでいた唄である。(中略)
  戦後すぐの昭和二十四年の秋、人吉を訪れた日本調流行歌手の音
 丸さんが子守唄の存在を知り、翌年にレコード化された。やがて・・・多くの
 歌手が歌うようになり、ラジオ放送やレコードによって全国に広まり日本を
 代表する歌謡曲となった。・・・云々


とあり、石碑の前の石柱の上にボタンのスイッチがあったので押してみると、ビックリするほどの大きな音で

 ♪おどま ぼんぎり ぼ〜んぎり
  ぼんからさ〜きゃ おらんと〜
  ぼんがは〜よ〜く〜りゃ はよも〜ど〜る〜♪


と唄い出したのである。それが1番だけでなくて2番が続き、さらに3番、4番と・・・曲が終るまで石碑を離れる訳にも行かず、じっと球磨川の畔で直立不動のまま謹聴した次第である。

 そして今日の夕飯は、八代でお会いしたNさんから教えて頂いた創業100年の歴史をもつ「上村うなぎ屋」の暖簾をくぐった。店に足を踏み入れた途端「お一人さん?ご予約ですか?」と訊かれてしまったが、なる程有名な老舗とあっていっぱいのお客である。予約などしていなかったが、その混み合うメイン食堂を通り抜けて、何やら「うなぎの寝床」のような渡り廊下をず〜と進んで案内された部屋は、3卓か4卓のテーブルが置かれた誰も居ない小さな奥座敷(離れ?)だった。1600円の「うな丼<中>」を注文して待つうちに、男女の若いカップルが案内されて入って来た。そして二人は俺と一番離れた席に座ったが、二言三言ヒソヒソ二人で会話した後は黙ってしまった。
 「シ〜〜〜〜〜〜〜ン」
 何とも気まずい空気の中で、俺のうな丼が出来上がってきた。そして静まり返った部屋の中で鰻のきも吸などを啜ると「ズルズルッ!!」とやけに大きな音が響くので、100年の歴史を誇る鰻の味も良く分からなかった。やはりこういうものは、ワイワイガヤガヤの中でかき込んで食うのが美味いのである。
2013年2月10日(日)晴れ
熊本の山旅(男女混浴!)
 今日の調査地は熊本県の最南部、宮崎県えびの市との県境を接する数ヶ所のポイントだった。気温は低かったが穏やかな好天で、間伐された杉林の中では明るい日差しが入って実に気持ち良く仕事ができた。
 そして今日は、最後の調査地に向う林道で二人の猟師に会った。11月に解禁になった狩猟も2月15日には猟期が終るので、まさに今季最後の獲物を狙うハンターである。我々が10日前から県内で森林調査の仕事をしていると話すと、早速「イノシシには会(お)うたですか?」と訊かれた。確か調査初日にいきなり2頭のイノシシとハチ合わせしたのでそのことを伝えると、「筑肥山地ですか!あっちにはまだ居(お)るとですなあ〜」と何やら溜め息混じりの恨み節である。読了したばかりの「ぼくは猟師になった」によれば、イノシシ猟は解禁当初から年内ぐらいは予め下調べしておいたケモノ道やヌタ場のチェックで猟果も出るが、猟期の後半になると収穫も激減し、さらに1月後半からはイノシシの繁殖期に入るのでオスの肉質が落ちるのだと書いてあったのだが・・・。

 仕事が終って宿に戻り、日暮れの遅い九州人吉の夕間暮れの時間が惜しくて作業着を着替えてまた街に出た。九日町通りの蓑毛鍛冶屋の店先を覗いてみたり、たまたまこの店の前にあった「郷土の偉人川上哲治」氏のレリーフの文をなぞってみたりした。

 そしてハッと気付いたのが、昨日「国宝青井阿蘇神社」に参拝に行く途中で目にした「人吉温泉物産館」の裏口に架けてあった暖簾である。確かその暖簾には《 ゆ 男女混浴 》とはっきり染め抜かれてあったと記憶している。それなら夕飯前に、ここで一ッ風呂浴びるのも悪くはないなあ〜と、まあ、考えた訳である。それで「善は急げ」と踵を返して、人吉物産館に向った。

 「あった〜!」その赤い混浴暖簾をウキウキと手で払って石段を駆け上がると、目に飛び込んで来たのは《 ゆ 女 》の艶かしくも多少薄汚く陽焼けした茶色い暖簾である。そして目を下に落とせば、床に横たわる鰻の寝床のような長い湯船とその向こう側には《 ゆ 男 》の青い暖簾が憎たらしく架けられて、その間には白々しく足湯用のベンチが連なっていた。
 「足湯でも、男と女が脛毛の足と大根足を一緒に湯船に浸けていれば、やっぱり男女混浴となるのかあ〜」とガックリ納得させられてしまった。
2013年2月11日(月)晴れ
熊本の山旅(鋸鍛冶)
 今日最初の調査地は、人吉から宮崎県えびのまで九州自動車道を一路南下し、一転、今度は鉄山林道をX−TRAILで北上し、再び県境を越えて又五郎谷に入った場所だった。いわゆる鹿児島県の甑海峡に注ぐ川内川の源流部である。
 ゴトゴトと林道を進む車のナビ画面の住所表示が、宮崎県えびの市から熊本県球磨郡錦町へ変ってここが県境だと知るのだが、辺りを見回しても何の表示もない。「県境、県境!ここ県境ですよねえ!」と興奮しているのは、どうも俺一人のようだった。

 そして今日は、仕事を終えて宿に帰ってから、歩いて直ぐの鍛冶屋「岡秀(おかひで)」に足を運んだ。山仕事で使う道具類でも見てみようと思ったからである。人吉観光マップを見ると、「鍛冶屋町通り」と書かれた小路も現存しており、もともとここは打ち刃物の生産が盛んな土地ではなかったかと思う。

 幸い店と棟続きの工場にはご主人の岡正人氏が仕事をしておられて、いろいろと参考になる話をお聞きすることが出来た。(後で知ったことだが、岡氏は今や九州で唯一の鋸鍛冶師で、全国の山師が鋸と言えばここ人吉の「岡秀」を名指ししたという)
 その岡正人氏の話しとは、「自分は鋸鍛冶の二代目で、安木鋼(やすきハガネ)を火床で何度もたたきあげる昔ながらの製法で鋸を作ってきた。最盛期には年間3千丁もの注文があった。
 しかし、林業の衰退があり、型押しプレスによる大量生産(いわゆる替刃鋸など)やチェーンソーの普及で打ち刃物による鋸が大幅に減少し、熊本にも6軒あった鋸鍛冶屋がここだけになった。自分も今や鋸だけでなく包丁なども作ってやっているが、全国各地から鋸の注文が来ても一丁というのが多くて、4枚打ち、2枚打ちという伝統が生かされない。(鋼を重ねて鍛造することで急激な熱の発散を抑える)」などなど・・・。ここにも今や絶滅危惧種となった鋸鍛冶文化があり、世の趨勢と文明の発達が貴重な伝統工芸を駆逐するという構図を見た思いがした。


 夕方、宿の最上階にある温泉風呂に入りに行くと、二人の兄弟が貰い湯に来ていた。やはり「こんにちわ!」と挨拶されて、こちらからも声を掛けると、二人ともサッカーの練習の帰りだと言った。小学校6年生の「カイセイ君」と、小3の「リュウセイ君」である。どんな漢字をあてるのか訊かなかったが、「海星君」「流星君」ならば、さすが「巨人の星」を生んだ川上哲治氏の出身地だと思った。
2013年2月13日(水)晴れ
熊本の山旅(エピローグ)
 昨日は人吉市の球磨川支流域に分け入って調査し、今日の最終日は球磨郡水上村の球磨川源流部を攻めた。
 昨日の調査地では、珍しや焼酎造りの熟成工場(?)の敷地内に入り込んでしまい、管理棟の前で「頼もう〜!!」と大声で叫んで通行の許可を得た。焼酎が入っていると思(おぼ)しき大甕が谷川が流れ込むわさび田のような所にズラリと並んで埋められていたが、辺りからはプ〜ンと芳しい酒の香りが漂っていた。「どうも罪な匂いですなあ〜」とHさんと言葉を交わしながら調査地に向ったのである。

 そして今日は、最後のポイントを無事こなして山の麓に下りてくると、山里の畑に白梅が咲いていた。今年の冬は寒さが厳しく、九州熊本といえども梅の花をついぞ見かけなかったが、フィナーレの今日になってようやく春の香りに出会うことができた。

(「熊本の山旅」 おわり)