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2011年5月1日(日)雨
おやじ山の春2011(別れ、そして孫達の来訪)
 6時起床。生憎の雨の朝である。今日はTさん一行が帰る日で、こんな雨模様なので山に入るのは止めて、湯之谷温泉郷の大湯に案内することにした。

 そうと決まれば善は急げで、昨晩の夕食の雑煮汁に、これも余った焦げ飯を入れて雑炊を炊いて朝食にする。呑み疲れ気味の体にはこんな雑炊が合うようで、皆さん「美味い、美味い」と喜んで食べてくれた。
 そして8時半には帰り支度を済ませて、大湯温泉に向けて出発した。

 途中、越後川口の道の駅「あぐりの里」に寄ってお土産の物色である。この国道沿いの道の駅は人気のスポットで、今日も地元で採れた野菜や山菜がずらり並んだ店内は観光客で一杯だった。
 
 目的のホテルに着いて日帰り入浴を頼むと、11時半からだという。あと3、40分待たなければならないが、これ幸いとUさんは、間近に見える真っ白な越後駒ケ岳や、根元を黒く窪ませて青々と芽吹き始めた残雪のブナ林の写真を撮りに出かけた。白い雪の山肌と鮮やかに萌え出たブナの緑のコントラストは、誠に美しいものである。

 ゆっくり温泉に浸かった後は、近くの「いろり・じねん」でお別れの昼食会である。ここは山野草の専門店で、野趣豊かな料理に舌鼓を打ちながら、楽しかった3日間の思い出話しに花が咲いた。
 
 大湯からの帰り道が国道17号線に差し掛かった所で、それぞれの車のウィンカーを左と右に振ってTさん達と別れた。

 そしてキャンプ場に戻ると、既に息子達が着いていた。カミさんも息子の車で一緒である。今年はカミさんの山入りが遅れたが、本人は「自宅の用事が忙しくて、忙しくて・・・」と口では愚痴りながらも、何やら山菜の出る時期をしっかり見極めてからやって来たような気配だった。(昔は、「おい」と言えば「はい」だったけど、これがいつの間にか随分遠退いた感じだなあ〜 『ふるさとは 遠きにありて 思うもの』 まあ、関係ないけど・・・ちょっと呟いてみたくなるような・・・ )

 それで、俺の姿を見るなり一も二もなく抱きついてきた孫の承太郎を連れて、スキー場の草斜面に行きボールを転がして遊んだ。夕食も俺が摘んだコゴミをいっぱい食べてくれて、孫との嬉しい再会だった。
2011年5月5日(木)晴れ
おやじ山の春2011(おやじ山と息子)
 この5日間、いろいろな出来事があった。

 八十八夜を迎えた5月2日、来たばかりの孫が長岡中央総合病院に入院した。この日は夜中に物凄い風が吹き、気温が一気に下がった。隣のテントに寝ていた承太郎が明け方から吐き始めて、風邪か昨晩のコゴミの食い過ぎかと訝ったが、容態が芳しくなく病院に連れて行った。検査の結果、ロタウィルスに感染していて、即入院と決まった。勿論息子も看病で病院に寝泊りすることになり、カミさんは入院準備で大忙しだった。

 翌3日の朝には、娘が友達のSさんと一緒に藤沢から車でやって来た。そして殆ど同時刻に、神奈川の森林インストラクター仲間のNさんがご家族とご両親を伴ってキャンプ場に着いた。奥さんとお子さんのU君、N子ちゃんは昨年に続いて2度目の来訪だが、遊び相手の承太郎が入院と聞いてガッカリしていた。
 それでもこの日は、Nさんご家族全員と娘やSさん達皆でおやじ小屋に行き、山菜採りをし、満開のカタクリや山桜を見ながらダッチオーブン料理を楽しんだり、昨年よりも一段と腕を上げたU君の薪割りに見とれたり、と楽しい時間を過ごした。
 この日、承太郎の熱は40度まで上がって、入院も長引きそうな気配だった。

 昨、5月4日は、朝食を終えたNさんが「おやじ小屋に行って来ます」と、ご家族を伴って赤道尾根を登って行った。Nさんにとっては、既に勝手知った山道である。そして11時前には早々とキャンプ場に戻ってきた。きっとおやじ小屋に別れの挨拶をしに行っただけかも知れない。
 正午前にNさんご家族が帰って行った。駐車場で見送ってから急いで高台に上がり、県道を遠ざかる車に向って大きく手を振った。
 昨日は信州からOさんも来た。そして承太郎の看病に行ったカミさんに代わり、Sさん、Oさん、娘の3人で夕食のご馳走を作ってくれた。俺は、ただ酒を呑んでいるだけだった。承太郎の熱が37度まで下がったという知らせに、ドッと安心したためである。

 そして今日、病院に行くと、承太郎が前よりは随分元気な様子で、ベッドに座ってテレビを観ていた。今日の検診で退院か継続入院かの判断が出るという。息子は明日からは外せない仕事が控えていて、継続入院ならば俺とカミさんの付き添えになる。
 結果は、退院の許可が出た。そして息子と孫がキャンプ場に戻ってくる前に、娘とSさんは再び藤沢に帰って行った。

 キャンプ場に戻って来た承太郎の手を引いて高台に出る。今年もU君やN子ちゃん達とここから滑り降りて遊ぶつもりだっただろうに、気の毒で仕方がない。孫も俺の手をぐっと握り締めたまま、無言で高台の斜面を見詰めていた。

 午後3時、そろそろ息子達が帰る時間になって、突然息子が「これからおやじ山に行ってみたい」と言い出した。無理も無い。5月1日に孫と二人でキャンプ場に来てから、ずっと付きっ切りで病院で看病をしていて、このままおやじ山に入らずに帰ってしまうのは、さぞ心残りだったのだろう。それで急遽、息子と二人で駆けるようにして赤道尾根を登っておやじ小屋に向かった。

 向かいの山菜斜面に取り付いて、息子と二人でコゴミ採りである。そして、久しぶりに見た息子の笑顔である。息子はコゴミ採りをしながらも持参したカメラでいろんな山菜を写したり、眼下に見えるおやじ小屋にカメラを向けたりしていた。短時間の忙しい山菜採りとはいえまあまあの収穫で、息子もここ数年の間にいっぱしの山菜採りに成長したようである。
 山菜斜面を下りておやじ小屋に戻ってからも、カメラでクロサンショウウオの池を写し、ドラム缶風呂や小屋の中まで頻りにシャッターを切っていた。
 今回は来れなかった息子のカミさんにでも見せてやるのだろうか?しかしこうして息子がこのおやじ山を好きになり、おやじ小屋に愛着を持つ気持ちが伝わってきて、本当に嬉しく思った。

 午後5時、承太郎を助手席に乗せて息子が帰って行った。下の駐車場で承太郎の手を握って別れてから、カミさんと高台に上り、下の県道を走り去る息子の車に向って白い手拭いを何回も何回も振り回して見送った。すると遠くの息子の車が停まって、しばらく動かない。「どうしたんだろう?」とさらに手拭いを大きく振ってやったが、俺達の姿に気付いていない承太郎に、息子が、「ほら、ず〜と向うの丘の上で・・・」と教えてやっているのだと思った。

 そして、息子の車が走り去った。もう、寂しくて、寂しくて仕方がなかった。

  
2011年5月7日(土)晴、気温26℃
おやじ山の春2011(黄土盛春、千楽の会)
 今日は、地元長岡で熱心に森林インストラクター活動をやっておられるMさんと、三条のUインストラクターの3人で、赤道コースの登山道を登り、三ノ峠山から千本ブナ経由ブナ平までの山歩きをした。来週15日に「森林インストラクターと新緑を歩こう!」という市民対象のイベントがあり、その事前準備のための下見である。

 午前10時にスタート地点の自然観察林の入口に集合し、3人でコース上の植物を丹念に確認しながら歩いたが、抜けるような青空と夏のような日差しの中で、この春一番の見事な新緑を堪能した。

 大エノキの登山道から見た南蛮山の残雪風景、ヤマナラシの峰から望んだ越後平野と長岡の街並みの景色、勿論これらも良かったが、何と言っても我が「黄土」を峰の上から望んだ時の新緑の美しさには、心底参ってしまった。まさに萌え出た木々の緑が濃淡様々な色合いで黄土の斜面を織り成し、目にも鮮やかに春日に輝いているのだった。その緑の絨毯の所々にカスミザクラの淡いピンクがアクセントを添えて、全く息を呑むばかりだった。


 お二人と別れてから、大急ぎで「第11期あさひ日本酒塾卒塾祝賀会、兼千楽の会(塾生OB会)」の会場、越路の「彦三楼」に駆けつけた。
 既に宴会は始まっており、第11期の期長に選出されたNさんも座に加わっている。朝日酒造の平澤社長、木曽杜氏、銘酒「久保田」の生みの親、嶋さん、茂手木教授と大層な顔ぶれである。同級生のA君がニコニコと手招きしてその隣に座り、まさに駆けつけ三杯のキリリとした冷酒で喉を潤した。同期の富山のTさんやNさん、Tさん達が早速俺の膳の前に座り込んで賑やかな会話に花が咲いた。

 宴たけなわになって、木曽杜氏の「酒屋唄」の披露である。ハッピ姿の面々も合いの手で加わって素晴らしい宴のひと時だった。

 夜、雨になった。歓楽極まりて、哀情深し・・・か







2011年5月8日(日)晴れ
おやじ山の春2011(山菜旬期)
 今日、所用で一旦藤沢の自宅に帰ると言っていたカミさんが、いつまでもグズグズしていると思ったら、午後になって山菜採りの支度をはじめた。「あれ? 家に帰らないの?」と聞いてみると、「今日あたり、山菜斜面のウドとゼンマイがきっと採り頃よねえ」と、これからおやじ山に入る気配である。せっかく長岡駅まで送っていく準備をしていたのに、俺も急遽山菜採りの身支度である。

 さすがというか、採り欲もここまで来るとプロの域である。カミさんの後を追って小屋向かいの山菜斜面に入ると、なる程、いつの間にか旬を迎えた立派なウドやゼンマイがあちこちに顔を出している。山形では高級山菜と言われているシドケ(モミジガサ)も出ている。まだワラビの時期には早いようだったが、カミさんは目ざとく見つけてはせっせと摘み取っていた。
 殆ど俺の倍ほども採って、カミさんはようやく納得した顔つきに戻った。

 地元の山菜採りでも、よく夫婦で山に入っている姿を見かけるが、概してカミさんの方が稼ぎがいいようである。決して旦那より体力がある訳ではないが、要は気持ちの問題だと思われる。ちょっと摘んでは周りを見渡して、「ああ、いい景色だなあ〜」などと長閑な気分でいる旦那と違って、カミさんの方は親の仇とばかりに地面に這いつくばって一網打尽に採り尽くす気構えだから、男と女では所詮山菜採りをする根っこの所で既に大きな隔たりがある。

 それにしても、今日は日曜日だというのに、山で誰にも会わなかった。そして連休中は賑やかだったこのキャンプ場も、ひっそりと静まり返って俺とカミさんの二人だけになった。
 
2011年5月10日(火)暴風雨
おやじ山の春2011(カエルの声)
 午前3時過ぎより強風となる。びゅーびゅー!ぼうぼう!と山全体が凄い唸り声で荒れ狂い、早く雨にならないかと(雨が降り出せば幾分風が治まるのではと・・・)、テントの中で身を縮めていた。

 そのうちバラバラと大粒の雨が降り出したが、風の治まる気配はない。頻りに猛烈な風雨がテントのアームをギリギリとしなわせて、終に心配になって、雨合羽を着込んでテントの確認に外に出た。
 ビショビショになりながら懐中電灯を照らしてペグをしっかり打ち込んで、テントに逃げ帰ってホッと一息つく。

 ラジオのスイッチを入れて、耳に当てるようにして朝まで聞いていたが、6時20分頃から幾分風が治まってきた。
 面白いことに、こんな荒天の中でも、朝からイカルが「ピピピ・ピ〜! ピピピ・ピ〜!」と頻りに囀っている。この春は殆ど他の野鳥の囀りを耳にしない中で、イカルの鳴声だけは喧しいのである。

 今日一日、中央図書館で過ごす。
 夕方から急に冷え込んできて、キッチンテントの中に炭火を熾した七輪を持ち込み、カエルの鳴声を聞きながら一人晩酌をする。麓の田圃に水が入ったようで、昨日から夕方になるとカエルの合唱が聞こえて来るようになった。今年は例年より遅れたようだが、そろそろ田植えの時期である。
2011年5月12日(木)晴れ、朝霧、夜雨
おやじ山の春2011(Fさん)
 8時に自然観察林の谷川沿いを歩いておやじ小屋に出勤した。
 途中、大きな望遠レンズを付けたカメラを抱えた人に出会って立ち話をする。初めて見る人で、俺の知っている野鳥観察のHさんからこの場所を聞いて、三条から来たのだと言う。「今年は野鳥が少ないでしょう」と問いかけると、「いやいや、例年よりは多いくらいです」と返答されたので、『さすがプロの人はしっかり観察してるなあ』と感心してしまった。

 しかし、今日は3日ぶりの晴天で、素人の俺でも何種かの野鳥を確認できた。
 サシバ:3羽
 オオルリ:2羽
 ホオジロ?に似た鳥:1羽
 サンコウチョウ:夫婦のつがい(いつも「ピヨロピ・ホイホイホイ」の鳴声ばかりだったので、姿を見るのは珍しい)
 そして、ツツドリとウグイスの鳴声

 山で仕事をしていたら麓の村のFさんがやって来た。大正13年6月15日生まれ(Fさんが何度も言うので覚えてしまった)の八十八歳で、腰が殆ど90度に曲がった身体に、その辺で拾った棒切れを杖にして山に入ってくる。
 Fさんとはもう随分前からの顔見知りだが、今年お会いするのは今日が最初である。全く、この人と会って話をするのは楽しくて(Fさんも俺と会って話をするのが楽しいと言ってくれている)、早速お茶と甘夏ミカンで接待した。
 Fさんの今日の話は、戦争が終わって復員してきた時の話だった。
 ミゾレが降った日の昭和○年○月○日に新発田連隊に入隊して外地に渡り、終戦になって復員船で日本に帰ってきたが、船内での1日の食事はイワシの空き缶1っぱいのお粥だけだった。マラリアが流行っていて、○月○日には戦友の○某が死に、やはり○月○日には○○が死んだ。そして昭和21年の6月8日に船が浦賀に着いて、ここでやっと復員したがあてえ・・・まあ、おおよそこんな話だったが、年月日は勿論のこと、時刻までも正確に記憶している凄さに、全く感心してしまった。

 話し終わってからFさんは愛用の山菜風呂敷を荒縄で背負い、杖を投げ捨て、山猿のように斜面を下って向かいの山菜山に入って行った。達者である。そしてこの人にはうんと長生きして欲しいと心から願った。

 午後3時、空が急に暗くなって今にも雨が降り出しそうな気配である。小屋を閉めて山を下ったが、Fさん、大丈夫かなあ?
 
2011年5月15日(日)快晴
おやじ山の春2011(「森林インストラクターと新緑を歩こう」会)
 絶好のイベント日和になった。今日は地元森林インストラクターのMさんが主催し、長岡市民の参加を募って実施する「森林インストラクターと新緑を歩こう」会である。実家から兄嫁や姪のボンちゃんがそれぞれ友達を伴って参加し、いつもお世話になっているSさんご夫婦も駆けつけて下さる。

 そのSさん夫婦が、今日もお土産の日本酒や紀州産梅干などを抱えてテントにやって来た。そしてキッチンテントでお茶を飲んで一服してもらってから、集合場所の広場に向った。

 随分多い参加者である。Mさんに尋ねると今日の参加者は合計38人で、3つにグループ分けして、Mさん、Uさん、俺の3人のインストラクターでそれぞれ受け持つことにした。

 スタートは、昨年からMさんが熱心に再生に取り組んでいる自然観察林内の湿生植物園からである。
 Mさんは予め用意しておいたカキツバタ、ノハナショウブ、アヤメの3種の苗をみんなに見せながら、「何年かかけて実生から育てた苗らども、これもここに移植するがですてえ。昨年秋にこの場所に重機を入れて、溜まったべと(泥)をぶちゃって(捨てて)地ならししました。同じアヤメ科植物らろも、カキツバタは水に浸る場所、ノハナショウブは水辺に近い所、アヤメは乾いた場所が好きんがで、それぞれの環境に合わせて植えんと駄目んがですてえ」と説明した。
 さらにジオラマ風に仕立てたアズマヒキガエルとヤマアカガエルのオタマジャクシを入れた水槽を皆さんに覗かせて、自然の大切さと湿生植物園再生の熱意を語っていたが、いつもいつもMさんには頭が下がる思いだった。

 三ノ峠山の頂上に程近い「友遊小屋」で昼食。この昼の休憩時間にMさんがコカリナの演奏をしてくれた。素朴な音色が峰を吹き抜ける風に乗って、鮮やかな新緑の海原に吸い込まれて行くようだった。

 昼食後は千本ブナを経由し、スキー場のゲレンデトップとブナ平への山道の分岐点(朴の木平)まで歩いたところで小休止し、ここで「今年の春山の状況」について皆さんに説明した。
『春の季節が2週間ほど遅れていること。今年は5〜7年に一度のブナ実年(大量結実)である可能性が高いこと。さらに殆どの樹木に異常なほど花が大量に咲いていること』などである。

 午後4時、イベントが終了し、兄嫁やボンちゃん達とも別れて、再びSさん夫婦とテントに引揚げた。そしてお茶を飲みながら歓談した後、ご夫婦も帰って行かれた。
 お土産に貰った酒瓶の蓋を開ける。
 
2011年5月16日(月)晴れ
おやじ山の春2011(カモシカ)
 昨夜はぐっすり眠って、8時半にようやく目が覚めた。

 10時におやじ山に入って、玉伐りしたコナラに電動ドライバーで穴開けしてシイタケとナメコ用のホダ木作り。(大分駒菌打ちの時期が遅れてしまったけど・・・) それから下の池に行く途中の小道を塞いでいる中折れした杉をチェーンソーで始末する。(これももっと早く片付けておけば、わざわざ難儀して尾根を歩くこともなかったのに・・・)

 午前中に山菜採り名人のAさんが、パンパンに膨らんだリュックサックから採ったウドをはみ出させて、小屋裏の尾根を下りて来た。そしてしばらく小屋の前で話したが、Aさんは数日前に山に入った時にピカピカ腹が光っているでっかい動物に出会ったと言った。2頭いたが、逃げる様子もなくてじっとAさんを睨んでいた、とも言った。
 「それ、カモシカだて。俺もこの春足跡は見た」と言うと、「やっぱしなあ〜。カメラでも持ってたら、写真に撮って新潟日報にでも送ったこっつょお」とAさんは悔しがっていた。
 今や激減して国の天然記念物にも指定されているニホンカモシカは、普通は海抜1,500メートル以上の森林地帯に棲むが、雪国の越後では比較的低山にも現れる、とは聞いていた。それがこの辺りまで出てくるとは、ちょっとした驚きである。

 山菜採りで明日長岡入りする伊豆のKさんから、「山菜の様子はどう?」と電話が来た。今日のAさんの話では、今年のワラビは出始めたばかりで、「フジの花が咲かんと駄目んがらて」との事だった。
2011年5月17日(火)朝小雨〜晴れ
おやじ山の春2011(水穴へ)
 午前0時頃になるとフクロウが鳴き出す。高台の向うの田圃側に一羽。そしてテントの近くの山側にもう一羽。この2羽が「ゴロスケ・ホッホ・・・」「ゴロスケ・ホッホ!」・・・「ゴロスケ・ホッホ・・・」「ゴロスケ・ホッホ!」と互いに鳴き交わすのである。そして2羽がだんだんテントの近くに接近してきて、両方が大声で、「ゴロスケ・ホッホ!」「ゴロスケ・ホッホ!」とやり出すので、「やれやれ、人の安眠を妨害して・・・」とそっとテントのチャックを開けて外に出ると、ピタリと鳴声が止んでしまう。暗闇の梢に目を凝らすが、確認できるものではない。

 今朝は4時に起きて、三ノ峠山を越えて「水穴」に山菜採りに入った。明日は昔の同級生達がおやじ山に来てくれて山菜採りだが、水穴の山菜もおみやげに持ち帰ってもらう算段である。
 6時過ぎには水穴に着いたが、いくら山菜の宝庫とはいえ、こんな早い時間、それも雨降りの奥山にライバルの山菜採りの姿はなく、シ〜ンと静まり返っていた。
 ウドは伸び過ぎて採り頃の時期は過ぎていたが、幾本かを選び採り、ポツポツと出始めのワラビも顔を出していた。
 7時半過ぎに斜面の下の方から山菜採りが一人登って来たので、こちらは斜面を下って、谷川の雪渓跡の河原で、良質の太いコゴミを摘んだ。これで何とか友人達へのおみやげもできて、一安心である。

 夜は、昔の同級生達が割烹「たなか」に集結して、おやじ山の出陣前夜祭である。遙々、静岡、東京、神奈川からやって来た、Kさん夫婦、Fさん、T君、T君、N君に、地元のA君、O君も駆けつけてくれて、1升瓶3本を空にする大盛り上がりの宴会となった。

 俺も、皆と一緒にホテルに泊まったが、「たなか」からどうしてホテルまで辿り着いたのだろう?
2011年5月18日(水)晴れ
おやじ山の春2011(山笑う一日)
 久しぶりに地べたではないまともな所に寝て、爽やかな目覚めだった。昨晩はあれほど大酒を飲んだというのに、体調は・・・?良好である。やはり楽しい酒は、悪酔いなどしないものである。

 朝食前にホテルの周りを散歩した。田植え時期に入って、福島江の水嵩は溢れんばかりで、その脇にあった母校の中学校跡地には市内のど真ん中にあった坂ノ上小学校が移ってきていた。ホテルに戻りかけると、やはり散歩途中のT君と出会った。T君の親父さんも国鉄職員だったが、昔T君が住んでいたその駅長官舎が建っていた場所を見てきたのだと言った。

 ホテルのバイキング朝食を皆で摂ってから、いよいよ車を連ねてキャンプ場に向かい、ここで山菜採りの身支度を整えて、いざおやじ山へと歩き出した。
 今日は絶好の山日で、眩い春の陽光に射抜かれて美しい透かし模様になった木々の若葉が、その見事な新緑色で皆の顔を染め上げているようだった。

 おやじ小屋に着いて一服してから、皆で向かいの山菜斜面に入った。何年かのおやじ山通いで既にベテランの域に達しているKさん夫婦とFさんを、少し厳しい奥の斜面に案内してから、ビギナーのT君、N君と今回2度目のT君を手前の斜面に連れて入った。
 ところがこの斜面がぬるぬると滑って意外と厳しく、3人とも悪戦苦闘して登ったが、俺もリタイアしたT君と一緒に小屋に戻って、皆が帰るまで二人でビールを飲みながら過ごした。

 ゼンマイやウドの旬が過ぎ、ワラビもようやく顔を出し始めた端境期で、あまり収穫はなかったが、最後に小屋近くのコゴミ畑で木の芽(アケビの新芽)などを摘んで、小屋を後にした。

 ぶらぶらと山道を歩いて見晴らし広場に着くと、珍しや、地元の小学生たちが先生や父兄に引率されて遠足に来ていた。キャンプ場でカレーライスなどを作って帰って行く地元の生徒達は何組も見るが、ここまで遠足で登ってくる子ども達を見たのは初めてである。「こんな素晴らしい自然が間近にあるのに?」といつも思っていたが、こうして小さい子どもの頃に本物の山や森に親しむ取り組みは、とても大切なのである。

 テントに戻って、塩出ししたキノコで芋煮をつくり、ワラビのおひたしや、先ほど採ったばかりのコゴミ、ウルイ、木の芽などもさっと茹でてお菜にし、Fさん持参の煮豆やウドの味噌漬けと合わせて野趣溢れる昼食メニューとなった。
 昨晩一緒だった地元のA君、O君がキャンプ場までも駆けつけてくれて、全く大賑わいのランチタイムとなった。
 ブルーシートの上に車座に座った宴席からは、水を張った田圃の広がりが銀色に光り輝いて見え、遥か遠くには弥彦山が春霞に青く煙っていた。そして5月のそよ風が頭上の新緑をサラサラと揺らせて、何とも爽やかな昼時の時間だった。

 午後2時、友人達が3台の車を連ねて、キャンプ場を離れて行った。駐車場で見送ってから高台に駆け上がり、その3台に大きく両手を振って別れを惜しんだ。

 夕方、真っ赤な夕陽が西山に沈んだ。そんな夕景を見ながら、一人酒を呑む。
2011年5月19日(木)晴れ
おやじ山の春2011(テンの仕業?)
 今日も爽やかな五月晴れで、7時過ぎにおやじ山に出勤する。

 おやじ小屋に着いてから囲炉裏に火をくべて、先ずは抹茶!をたてて飲む。
 実は、随分遠い話だけど、会社に入って数年経ったころ、事務の女性(昔は「書記さん」と呼んでいた)が会社近くの家元の所でお茶を習っていて、「俺も、お抹茶の礼儀ぐらい身に着けて、しっかり人物を磨いておかないと・・・」と、のこのこ書記さんにくっついて2年近く通ったことがあった。2年間も続けられたのは、この家元のお宅が、都心の有名商社ビルなどが建ち並ぶ一画にあって、その一流企業の美人秘書たちが作法を身につけるためにここに通って来ていたからである。生徒で男は、俺一人だった。だからこの困難な環境の中で、必死に人物を磨こうと・・・2年を費やした訳である。

 お抹茶を飲んでから、ゆっくりと腰を上げて、山周りをする。杉林の中に入って間伐した切株に腰を掛けてカタクリの丘を眺めたり、ヤマボウシの萌芽を間引いたり、7、8年生に育ったブナ周りの邪魔なコナラを伐ったりと、抹茶を飲んだせいか、万事おっとりとした作業である。
 掛けた巣箱の見回りもした。コナラとキリの木に掛けた小さい巣箱ではシジュウカラが頻りに出入りしていたが、ムササビの巣箱は10日ほど前から音沙汰が消えていた。実はこの頃に、巣箱から10mほど離れた場所に細かく裂いた杉皮の巣材が投げ捨てられてあったが、今にして思えば、テンの仕業である。獰猛なテンはムササビの巣を襲うのだと、確か高橋八十八氏の書物で読んだことを思い出した。

 だとすると、哀れムササビ君にはもう会えないかも知れない。
 
 3時に作業を止めて、山を下りる。そして早々と、Kさんからいただいたスナップエンドウをつまみに、酒を飲む。周りは、実に静かなり。

(写真はテンの足跡ではありません。ヤマドリです)
 
2011年5月20日(金)晴れ
おやじ山の春2011(中の池掘り)
 朝4時頃から「フィー!フィー!」と奇妙な鳥の鳴声が聞こえて来る。「ヒー!ヒー!」よりはもっと高音の鋭い鳴き方で、これが朝6時過ぎまで続いた。初めて聞いた鳴声だが、何の鳥だろう?ヌエという鳥がこんな鳴声で・・・?とも聞いたが、ちょっと気味の悪い鳴き方である。

 おやじ山に出勤して、今日も先ずは山周りである。気温が随分上がって、関東内陸部では夏日の気温になるとラジオが報じていた。
 サンカヨウの可憐な白い花が咲いて、ギョウジャニンニクやトケンランの花茎がするすると伸びてきた。

 今日はナメコのホダ木作りをしてから、以前水汲み場にしていた(中越地震後に湧き水が細ってしまった)小屋から少し下った斜面中腹の湿地の池掘りをした。池掘りは昨年春からこれで連続5個目で、何やらチャップリンの「モダンタイムス」のように、湿地に立つと条件反射みたいにシャベルでべと(泥)を掘りたくなってしまう。それにしても、長年積もった杉の枯れ枝がべとに埋まって、ヘドロ化しているので、先ずはこの除去が大仕事である。

 腰を痛める前に途中で池掘りを止め、庭で焚き火をした。煙がキリの木に掛けた巣箱の方になびくと、慌てて巣箱から出てきたシジュウカラが、「コンコンコンコン!」と巣箱を頻りに突いて、まるで煙をけん制している様なのである。
 明け方の「フィー!フィー!」にしろ、シジュウカラのこんな行動にしろ、野鳥の専門家に教えてもらいたいものである。
2011年5月21日(土)曇り
おやじ山の春2011(山持ち森林インストラクターが語る山づくりへの想い)
 随分大層な話を貰ってしまった。今日は恒例になった地元の「オーゴシ建設」さん主催の自然観察会で、何と!俺に「山持ち森林インストラクターが語る、山づくりへの想い」を熱く参加者に話して欲しい、と頼まれてしまった。そのために毎回この観察会の企画をたててくれる地元インストラクターのMさんが、おやじ山の大きな写真を何枚か用意して下さっていた。

 果たして長年おやじ山に入っていても、殆ど遊んでばかりいて、思いはあっても真面目に山造りに取り組んできたという実感がない。しかし、いつも地元で熱心に活動しているMさんから頼まれたら、絶対に嫌などとは言えたものではない。

 午前10時から始まったイベントには20人を超える参加者が集まった。若いお母さん方が生後3ヶ月から虫や花好きの息子、娘らを伴っての家族参加が大多数だった。
 最初にオーゴシ建設の安部社長の挨拶の後、プログラムリーダーのMさんの進行で、先ずは「はじめまして!」のアイスブレーキング、そして自然観察林の中を谷川沿いに歩きながら、水槽のオタマジャクシを観察したり、様々なドングリを見せたり、アカシデやシナノキの森の中では、バンダナで目隠しをして「ボクの木、ワタシの木」を触って当てっこしたりと、賑やかで楽しい時間が過ぎた。
 
 そして、木陰に敷いたブルーシートに腰を下ろして、美味しいトン汁を食べながらの昼食時間になって、いよいよ俺の出番になった。何しろテーマが、話しながら自ら恥じ入ってしまうような内容である。しかしタイトルが「・・・・への想い」だから、まあ、いいかと・・・・。

『俺の持ち山は、おやじ山という名前です。まだ小さいガキの頃からおやじと一緒にこの山で山菜採りやきのこ狩りをして駆け回っていたので、そんな懐かしさから「おやじ山」と名付けたのです。その頃の山はとても明るい気持ちの良い山で、そのために林床には綺麗な花々が一杯咲いて、山菜やきのこも沢山採れました。』そして里山を手入れすることが、かつての人間の生活や営みと密接に結びついていたこと、その里山がライフスタイルの一変した今の時代では省みられなくなり、荒れ放題になってしまったこと、などを話し、『俺がガキの頃に駆け回っていたあの原風景としての懐かしい里山の姿を、俺自身やこの山に遊びに来てくれる地元の人達や友人らに、そして未来にこの山を訪ねてくれるだろうたくさんの子ども達や孫らのためにも、かけがえのないこのおやじ山をしっかりと手入れして守って行きたいのです』

 イベントが終わり、テントに戻った。高台に折畳みの椅子を出し、ラジオを点けると「昭和30年代の歌謡曲特集」を流していた。
 「昭和30年代かあ〜」と遥か遠い昔に思いを馳せる。小学生の半分と、中学、そして高校の3年間と、多感な少年期を過ごした時代である。その頃耳にした懐かしい歌声を聴いているうちに、何故か涙が流れて、流れて、仕方がなかった。
2011年5月23日(月)曇り
おやじ山の春2011(待望の水道)

 朝早く、Sさんがおやじ山に設置するガチャポンプと取り付け設備一式を運んできてくれた。昨年来、谷川の水をおやじ小屋まで引けないかと、Sさんが奮闘して下さっていて、今日はいよいよその本命設備の荷揚げである。(おまけにSさんは、昼食のおにぎりとおかずまで持参してくれた)

 昨日から友人のOさんがすぐ隣にテントを張っていて、今日はOさんに手伝って貰って、設備の荷揚げと谷川の取水口からおやじ小屋のすぐ裏手までの水道管(ゴム管と塩ビ管と銅管を130mほど繋いだ)の敷設工事をした。
 厳しい斜面を管を担いで二人で汗だくになって下りたり登ったりしたが、冷たい谷川の水がゴム管から迸り出た時には思わず二人で「バンザ〜イ!」と叫んでしまった。後はSさんに頼んでドラム缶風呂の脇にガチャポンプを取り付ければ完成である。
 しかし、まだ身体が慣れていないOさんにいきなり重労働をさせてしまってすっかりバテた様子で、珍しく夕食時には酒も口にしなかった。Oさんには申し訳ないことをした。

 今日は、珍しくいろんな動物に出会った。おやじ小屋に向かう山道で、ノウサギとリス、そしておやじ池ではモリアオガエルの初産卵である。
 ヤマフジとタニウツギも満開時期を迎えて、いよいよワラビの盛期である。

2011年5月24日(火)快晴
おやじ山の春2011(Oさんとの山菜採り、「ああ!水穴よ」)
 今日はOさんと「水穴」まで山菜採りに行った。俺にとっては、今年2度目の水穴入りである。
 Oさんには昨日の水道工事で大分体力を消耗させてしまったので、三ノ峠越えの山歩きは途中何度か休憩をとりながら、ゆっくりペースで水穴に入った。

 最初のコゴミ畑の中でポツポツと収穫して、いざ本命場所に着いてみると、「!!・・・」広いコゴミ畑が無惨に薙ぎ倒されて、まさに跳梁跋扈の荒れ模様である。その中で良質のワラビは一網打尽に採り尽されて、残っているのは伸びきった細いワラビだけである。さらに驚いたことには、空き缶が転がり、パンの空き袋なども捨ててあって、目を覆わんばかりだった。

 俺が大事に大事にしていた水穴が、こうも荒れ出したのは昨年からである。下の谷川沿いからのルート入口の車道脇には、地元ナンバー以外の車が未明から停まるようになり、一抹の不安を抱いていたが、案の定、店に卸す山菜採りを生業としている輩の見境い無き蹂躙ぶりである。(今はどこの山でも「山菜採り入山禁止」の立て看板が出て、ひょっとして、俺のこのホームページを探し出して締め出された業者が入って来たのではないか?と懸念している)
 どうかこの神聖な山に、ゴミを捨てるなどの行為は、是非止めてほしい。俺が心底大事にしている原風景を汚す行為は、どうか止めてほしい。

 水穴の斜面の下まで行く予定だったが、Oさんの体調が芳しくなく尾根に戻って引揚げることにした。そしてこれが運良く大当たりして、尾根際の荒れてないコゴミ畑の中に立派なワラビの群生である。さらに木の芽なども摘んで、尾根の赤道コース登山道を引き返した。

 キャンプ場に戻ってから、Oさんは疲れをとるために「麻生の湯」に浸かりに行ったが、帰ってきても体調が思わしくないようだった。そしてこの日は、市内の娘さんの嫁ぎ先の家に泊まると言って、迎えに来た車で麓に下りて行った。大事に至らなければと、心配である。

 今日は、採って来た山菜の仕分けをしながら、頻りに鳴くエゾハルゼミの声を聞いた。
  
2011年5月25日(水)快晴
おたじ山の春2011(ガチャポンプ完成!)
 朝6時半、Oさんがキャンプ場に戻って来た。良かった!でもこれからテントを片付けて信州に帰るという。今日はSさんがおやじ山に来てガチャポンプを設置してくれることになっていて、是非Oさんには見てもらいたかったけど、残念である。

 Oさんを見送って程なく、Sさんが、俺やOさんの分の昼食まで用意してくれてテント場にやってきた。そして早速様々な工具を積んだSさんの車で見晴らし広場に向った。
 見晴らし広場では地元の森林組合の車が何台か停まっていて、昨日から自然観察林内の下刈りの作業に入っていた。

 必要な工具を背負っておやじ小屋に着き、早速ポンプの設置に取り掛かった。
 先ずは下げ振りで垂直をとりながら長い杭を2本打ち、今度は水準器で水平を計りながらポンプの台を据え、いよいよガチャポンプを台に載せてボルトで締めるのである。あっという間に、ピタリと納まってしまった。さすがSさんである。見ていて惚れ惚れとするSさんの作業ぶりだった。(仮に俺がやったとしたら、「やれ曲がった」「やれ合わない」「やれ、やり直しだ」「やれ、疲れた。酒でも飲もうっと・・・」と、いつになったら出来たことやら・・・)

 それから、ポリ容器を細工した受水槽を設置し、これに0さんと谷川から引いた水道管を繋ぎ、最後にポンプと受水槽を螺旋の入った太いビニール管で繋いで、いざ、「ガチャ、ガチャ、ガチャ」とポンプの取っ手を上げ下げすると・・・「出た〜ッ!水が、出た〜ッ!」

 「カンパ〜イ!」 「ありがとう、ございましたあ〜」と、これもSさんが持って来て下さった缶ビールで早めの昼食である。紀州梅の入ったおにぎり、煮卵、フキの煮付け、カブとキュウリの和え物、焼き魚と、全く「ガチャポンプ完成祝賀パーティ」といった趣の昼飯だった。「ああ、Oさんにも見て貰いたかったなあ〜」と、本当に申し訳ない気持ちだった。

 夕方、「麻生の湯」に行き、早苗が植わったばかりの田圃を見ながら露天風呂で身体を伸ばす。そして風呂帰りにスーパーで買った栃尾の油揚げを七輪で焼いて、赤い夕陽を見ながらの夕食だった。
2011年5月28日(土)曇り
おやじ山の春2011(母ちゃんのこと)
 関東甲信地方は昨日梅雨入りしたとラジオが報じていた。平年に比べ12日も早いという。(因みに関東甲信地方の梅雨明けは7月9日で、やはり平年より12日早かった。季節が12日前倒しになったということか?)

 未明に目が覚めてしまって、寝袋に包まったままNHKのラジオ深夜便に耳を傾けていた。今夜のアンカーは大ベテランの遠藤ふき子元NHKアナウンサーで、16年間も続いているシリーズ「母を語る」をテーマにしたトークショーをやっていた。

 聴いているうちに、ふっと死んだ母ちゃんのことを思い出した。遥か遠い昔、俺が小学校の2年か3年頃の思い出である。
 まだ宮内の借家に住んでいた頃で、俺の母ちゃんは内職で婦人服と子供服の仕立てをやって家計を支えていた。国鉄の臨時職員の線路工夫として働いていた親父の稼ぎでは、とても家計が持たなかったからである。朝早くから夜なべ仕事まで、正直言って俺は母ちゃんが床に就いた姿を見たことがなかった。

 その母ちゃんが「苦しい、苦しい」と言って宮内病院に入院した。ひょっとしてこのまま母ちゃんが死んでしまうのではないかと悲しくて悲しくて、当時通っていた上組小学校の帰りには一目散に病室に駆けつけ、「母ちゃん、今日も苦しい?」と聞いていた。そして「苦しい」と言われると、その苦しさが自分ではどんなものか分からず、何度も口を詰むんで息を止めて、我慢できなくなって「ぷあ〜ッ」と息を吐き出しては、「こんな苦しさなんだろうか?」と想像してみたりした。
 そんなある日、病室の窓から宮内では珍しい飛行機が飛んでいるのが見えて、真っ青な空に長く白い飛行機雲ができた。「ああ、きれいだなあ」と思ったのだろう、母ちゃんの病室から見たこの飛行機雲のことを学校の作文に書いた。
 
 そして、作文を読んだ中町先生から(俺の初恋の人と言っていい)怒られたのなんのって・・・。「何でタカオは母ちゃんの入院を早く先生に教えてくれなかったの!」と、それから俺の手をぐいぐい引っ張って宮内病院に駆けつけてくれたのである。
<昔とは、父母がいませし頃を云い>
 
 小屋脇のおやじ池に張り出したアスナロの葉に新しいモリアオガエルの卵塊が付いた。今年2度目の産卵である。
 
2011年5月30日(月)雨、長岡に大雨洪水注意報
おやじ山の春2011(春の終わりを告げる花々)
 昨日来、雨が降り続いている。朝6時頃、少し小降りになったので、瞑想の池までモリアオガエルの産卵を確認に行った。
 途中、ヤマボウシやエゴの若々しい白花が雨に打たれ、谷川沿いの遊歩道脇では白いサワフタギの花や蕾を一杯に付けたサルナシが、雨に濡れた蔓枝を重そうに垂らしていた。いずれもそろそろ春の終わりを告げ、初夏の梅雨入り時を知らせる花々である。

 <梅雨の花とは皆白く風青く>鈴木 たみ

 おやじ山にはマタタビは沢山生えているが、サルナシの木は見かけず、ちょっと遊歩道脇の枝を30cm程失敬しておやじ山で挿し木を試みることにした。
 そして瞑想の池では、案の定、花の咲いたトチノキの葉っぱにモリアオガエルの白い卵塊が10個ほど産みつけられていた。

 午前8時、雨合羽に身を固め、傘をさしておやじ小屋に出勤。
 昨日Sさんと一緒に雨の中で流し台を据えつけたが、早速ガチャポンプを漕いでみると、この大雨にも拘わらず意外と澄んだ水が出てきた。さすがおやじ山の清流である。
 それから、サルナシの枝をナイフで切り分け、小屋近くのタニウツギの傍に挿し木した。将来はこの木に蔓を這わせる算段である。

 雨が激しくなって、盛大にストーブを焚いて昼食を摂った後、小屋を閉めて山を下った。

 午後からはどんどん気温が下がってきた。炭火を熾した七輪をキッチンテントの中に入れて、温まりながら過ごしたが、夕方Oさんから、東京新宿で「無言館」のドキュメンタリー映画を観て感激した!とメールが届いた。そうかあ〜北信濃の「無言館」、また訪れてみたくなったなあ〜。
2011年5月31日(火)曇り時々晴れ
おやじ山の春2011(熊対策!?=里山整備)
 8時半過ぎにおやじ山に向うと、数日前から自然観察林内の下刈りをやっている森林組合の人たちが、既に作業を始めていた。ブナ平へのハイキングコースも随分開けて明るくなっている。
 「おはようございます!お蔭様で森が、随分明るくなりましたねえ〜」と大声で挨拶すると、作業員の一人がニコニコと手を休めて、「熊対策と聞いたんだども、これできのこも良く出るこっつゃあて」と言った。
「そうか、この下刈りは熊対策だったのか」と初めて分かった。今冬の大雪で倒れたり、混んで藪化してきた林内の整備が目的だとばかり思っていた。

 しかし、これは考えてみれば同じことである。
 近年、麓に熊が出没するようになったのは、里山が昔のように手入れされていなくて藪化したために、奥山同様、熊の生息域が里山まで広がったためである。昔は見通しのきく明るい里山が、奥山と麓との緩衝地帯となって、熊の出没を防いでいたのである。つまり、熊対策の下刈り=里山整備と同義なのである。
 
 小屋に着いてから、谷川に下りてガチャポンプ水の取水口の見回りをし、Sさんが作ってくれた一回り大きな取水バケツを設置した。ついでに向かいの山菜斜面に入ってみたが、めぼしい山菜は何も無かった。
 もうこれで、今年の山菜時期は終わってしまったのだろうか?