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最後のページは<3月31日>です。
「3月30日」より<おやじ山の春2011>をアップしました。

2011年3月3日(木)雪
ガーラの日
 もう毎年の恒例になってしまった、ガーラ湯沢でのスキーに行ってきた。
 親しい昔の同級生達と一緒にゲレンデを滑走して、「あっ、俺も(ワタシも)まだまだやれるな!」と何やら密かに胸の内で確認して自己満足(自己陶酔?)する、といった類のスキーツアーでもある。
 毎年時期になると同級生のFさんがガーラの割引券付き格安切符を探し出してあれこれ企画してくれるので、全くおんぶに抱っこでありがたい限りである。

 しかし今年のゲレンデは、寒波襲来の吹雪だった。今までの一進一退の春の陽気も、期せずして今日、3月3日の雛祭りの日に一気に冬に逆戻りしてしまった。

 「おかしいなあ〜。晴れ女が二人もいるというのにこの吹雪だもんね」と、何度か滑り下りして再び4人で並び座ったリフトの上でT君が言う。「やっぱり往年の念力も寄る年波には・・・」とつい口に出した途端・・・出た! 昨年もこのリフトに揺られながら乙女の歌声で歌ったKさんFさんのあの曲である。


 ♪処女雪ひかる〜 ひかる〜♪
 ♪冬山呼ぶよ〜 呼ぶよ〜♪
 ♪ヤアヤッホー! ヤアヤッホー!♪
 ♪こだま〜がこたえるよ〜♪

 ♪何だか今日はいいことが、ありそな気がするよ〜♪
 ♪ステキな恋の前ぶれか、カモシカ跳んでいる〜♪
 ♪・・・・・・・・・・・

 1956年の冬季オリンピックで史上初のアルペン競技三冠王となった20才の若者、トニー・ザイラー主演の大ヒット映画「白銀は招くよ!」の主題歌である。(こうして書くと、やっぱり「寄る年波」をかえって感じてしまうなあ〜)
 そしたら、何と!コトコトと登っていくリフトの先の空が見る見る明らんで、薄日が差し始めたのである。念力である。今だ往年の雫が・・である。

 晴れ間が出たので昼飯時間も飛ばして、その後も何度か滑り下りして、ロッジのレストランに入ったのは1時過ぎだった。
 やはり若者達が圧倒的に多い。窓際に確保したテーブルの向うでは大学生だろうか、若い男女が賑やかにはしゃいでいる。我々も負けじとばかりに雛祭りの白酒ならぬ、こっそり持参の「ふなぐち菊水」やビールで盛り上がって、愉快なランチタイムを過ごした。

 越後湯沢駅までシャトルバスで向かい、帰りの新幹線までの時間を駅近くのホテルの温泉に浸かった。菅笠を被って屋上の露天風呂に身を沈めて、ボタン雪の降りしきるまだまだ真っ白な雪景色を望む。

♪ど〜こ〜か〜で春が 生まれ〜てる〜
♪ど〜こ〜か〜で水が 流れ〜出す〜

♪ど〜こ〜か〜で雲雀(ひばり)が 鳴いて〜いる〜
♪ど〜こ〜か〜で芽の出る 音が〜する〜

♪山〜の三月〜 そ〜よ風吹いて〜
♪ど〜こ〜か〜で春が 生まれ〜てる〜


 越後はまだまだ雪深いが、暦はすでに3月、今日は桃の節句である。

2011年3月6日(日)晴、啓蟄
「穴を出る」
 今朝の「天声人語」子から、俳句で「穴を出る」という当節をさす季語があると教えられた。

<穴を出る蛇を見ている鴉かな>  虚子

という名人の句もあるのだという。
折りしも今日は二十四節気の啓蟄。地中に眠っていた様々な生命がうごめき出す、という日である。


 それで、俺も「穴を出る」ことにした。

 行き先は森林インストラクター神奈川会のU会長のご実家の曽我梅林である。同じく穴を出てぞろぞろ梅林に集まって来た連中は13名。途中から梅林の手入れで汗を流されていたUさんのお父上とご兄弟も宴に加わり、総勢15名の観梅会になった。
 全く、こんなに楽しかった梅見の会は久しぶりである。

 集合場所のJR御殿場線下曽我駅にはニコニコとUさんが出迎えてくれて、国府津駅で一緒に乗り合わせたインストラクター仲間のSさん、Nさんの他に、ここでTさんとも合流、さらにSさんの活動フィールド「湘南の森」のT代表以下8名とも一緒になってUさん家の梅林を目指した。

 さすが天下の梅の名所とあって、つづらに登る作業道脇は見事にほころんだ一面の梅林である。そしてゆっくりと坂を登って、途中何度か振り返って望んだ風景たるや、青い相模湾の彼方に伊豆の天城山が霞み、その右手には駒ヶ岳、明星、明神ヶ岳と箱根の山々が連なり、そしてスカイブルーのホリゾントを背に富士の山が圧倒的な存在感でその白さを際立たせている。

 Uさんご実家の梅林に着いて、先ずは冷えたビールで乾杯である。酒は、越後の銘酒が2本。1本はUさんご厚意の上越高田丸山酒造場の「雪中梅」、キレのある芳醇な香が口に広がる銘酒中の銘酒である。そしてもう1本は、本場のコシヒカリを育む新潟県魚沼青木酒造の淡麗辛口吟醸酒、「鶴齢」である。
 その他、持ち寄った梅酒やらガマズミとナツハゼのブレンド酒の瓶が立ち並び、Tさん持参の料理やベーコンの炒め物、それから、例によってTさんがどっさり登山リュックで背負ってきたご馳走が車座の中に広げられた。
 早速Tさんはホタテの貝柱入りクリームチーズを載せたクラッカーを作ってはせっせと皆に配り出す。終にはガスバーナーを取り出して、シュウマイを蒸かしたりと八面六臂の料理人ぶりだった。

 風ひとつ無く、全く汗ばむほどの陽気の中での野外宴会だった。「絶好の観梅日和だなあ〜」と眩しい春の日差しに目を細めて、つい口を突いて出る。
 眼下には蒼く穏やかに光る相模湾が広がり、Sさん達の「湘南の森」も海岸近くにこんもりと見えた。そして左に目を転じると、昨日NさんとSさんが主催した子ども達を集めて実施した植樹会の会場「ヤビツの森」と東丹沢の主峰、1,252mの大山が望まれる。

 アルコールのピッチも徐々に上がって、一人一人のスピーチが始まった。「湘南の森」のメンバーの人達は口々にT代表に「釣られたり」「引っ掛けられて」入会したというエピソードを面白おかしく発表する。Sさんなどは、湘南の森でTさんと遭遇し、スイカをご馳走されて「釣られてしまいました」と告白した。確か房総半島のクロダイ釣りでスイカを餌にして釣る「ポカン釣り」という釣技があるが、咄嗟にこれを思い出して大笑いしてしまった。
 Uさんのお父上の話も実にいいものだった。子どもの頃のUさんを連れて親子で一緒に過ごした丹沢の山の話しなど「俺のおやじと同じだ!」と、懐かしさが込み上げて来て胸がつまる思いだった。

 すっかり酔っ払って、帰りの坂道では一人集団から遅れてしまった。しかし構いやしない、前を歩く賑やかな笑い声の人達をことさらのんびり追いながら、この人達と過ごした楽しいひと時を何度も胸で反芻しながら、ふらふらと坂道を下った。
2011年3月11日(金)晴
東北地方太平洋沖大地震発生!

 今日、午後2時46分、宮城県沖を震源とするマグニチュード8.8(震度7)という信じられない巨大地震が発生した。ここ藤沢でも震度5のかつて経験したことのない程の大きな揺れで、全く度肝を抜かれてしまった。
 
 テレビを点けて、刻々と伝えられる惨状を食い入るように見詰める。
 震源地に近い、宮城、岩手、福島県沿岸はもちろん、北海道から静岡県伊豆半島までの太平洋岸一帯には大津波警報が出て、住民への避難が繰り返し呼びかけられている。宮城県気仙沼港では大津波の引き潮でドボドボと車が海に転がり落ち、濁流に翻弄された大きな漁船が橋げたや倉庫にぶつかって破壊されている。仙台市の名取川河口から遡上してきた津波の映像は目を覆うばかりだった。真っ黒になった濁流の先端が、まるで巨大なアミーバーのように家々や田圃や畑やビニールハウスを呑み込み押し潰して、そして道路を走っている車に襲い掛かって、思わず「早く逃げろ!早く・・・!」とテレビに向って叫び声を上げる。

 報道されている被災地近くには甥の正昭君家族が住んでいる。そして、「仙台市若林区では津波による数百人の遺体が・・・」との報道にハッと胸が締め付けられる。この地区にはもう一人の甥っ子、茂幸君が住んでいて心配でたまらない。

 昨日、トルコ旅行から帰国して我家に泊った仙台の義兄は、午後1時過ぎに辻堂駅で別れて、東京発2時20分の東北新幹線で仙台に向った。その兄から夜11時頃電話が入り、「現在大宮付近の新幹線の列車の中で、無事だ」との連絡である。
 横浜市内に勤めている娘からは、勤務先の最寄駅構内で待機中だと連絡が入った。しばらく様子を見て対処するという。何度目かの電話で、「周りにいた人たちの姿も少なくなって・・・」と不安げな声になって、車で迎えに行くことにした。

2011年3月12日(土)晴
東日本大地震

 今朝の朝刊である。テレビでは死者・行方不明者が1000人超と報じられた。明け方に長野県栄村、そして新潟県十日町でも震度6の地震が発生した。東日本太平洋沖地震の誘発地震かどうかは分からない、という。

 相変わらず甥っ子達とは連絡がとれない。長岡の実家や友人達から仙台に住むカミさんの親戚を気遣う電話やメールが次々と入る。ありがたい事である。

2011年3月13日(日)晴
少女の叫び

 何ということか。今度は福島第一原子力発電所の爆発事故である。今朝のテレビは19人が被爆したと伝えている。

 大見出しが並ぶ今朝の朝刊を持って近くのコーヒー店に入る。
 ページを捲って読み進むうちに涙が出てきて文字が霞んでしまう。

 被災した各地からの報道記事である。(3月13日朝日新聞朝刊 18、19面)
『岩手・宮古』

 岩手県宮古市を襲った大津波は、日本の津波対策のモデルとなった巨大な堤防さえ乗り越えた。
 「お父さんがいないの・・・」。被災者が避難していた宮古市田老総合事務所では、佐々木ミサ子さん(65)が放心状態で立ちつくしていた。・・・・・・
 「お母さんを逃げさせて」。ミサ子さんは夫の光夫さんの車に義母を乗せ、自分は歩いて近くの中学校の校庭に逃げた。あと少しで校庭というところで後ろを振り向くと、義母を乗せて高台に逃げたはずの光夫さんの車が自宅に向っているのが見えた。
 「どうして家に戻るの・・・」。ぼうぜんと見ていると、どす黒い煙のような波がたって風が吹き上げ、「がーっ」と音を立てて、黒い津波が押し寄せてきた。「まるでおもちゃの船を水に浮かべたように
、家を乗せて流れてきた」・・・・・・
 「何で家に戻っちゃったんだろう。一緒に逃げればよかった」「さみしい、さみしい」。つぶれた家々を見下ろしながらミサ子さんは涙を流した。

『宮城・気仙沼』
 町の惨状を見下ろせる高台で、「お母さんを捜して下さい!」と泣き叫ぶ小学生の女の子がいた。自衛官は「落ち着いて待っていなさい」と拡声器でなだめた。自衛官は、がれきに向って「誰かいますか」などと大きな声を出していた。


 記事から目を背けて、「・・・何と可哀想な!」と少女の気持ちを慮って胸が潰れる思いである。どうして自衛官は拡声器で「落ち着いて待っていなさい」などと言うのではなく、走りよって少女を抱きしめ「大丈夫、大丈夫。今からおじさんが頑張るからね」と言ってくれなかったんだろうか? そしてまた、この自衛官は「誰かいますか」ではなく、少女から母親の名前を聞き出して「○○さんはいますかあ!お子さんが見守っていますよ!頑張ってください!」と大声で叫んでくれなかったんだろうか?
 必死に救出を続けるこの自衛官を責めているのではない。ただ、ただ、悲しくて、いたたまれない気持ちで・・・自分自身にむしょうに腹が立つからである。

2011年3月14日(月)晴、風強し
悲しみの涙と嬉し涙
 今日から「輪番停電」だというので6時前に起きた。我家は第一グループ、午前6時20分からの停電だという。
 「まあ、停電前にやれることはやっておこう」(結局、何もしなかったけど)とウロウロしているうちに予定の6時20分になった。「あれ?」、電気もテレビもついたままである。何分か過ぎて、テレビニュースが「直近の電力需給予測から第一グループの停電は実施せず」と報じた。「被災地の人たちが苦しんでいる緊急事態なんだから、やればいいのに」とつい愚痴ってしまう。

 今朝の新聞も「死者は万単位」とおどろおどろしい太ゴチック文字の見出しである。その下には4段ぶち抜きで、瓦礫の山を背景にして道路に座り込んで泣いている若い女性のカラー写真が載っていた。何とも憐れで思わず目頭を拭ってしまう。

 そして朝刊6面には、<「がんばれ日本」英紙からエール>と題した記事があった。
 『英紙インディペンデント・オン・サンデーは13日、1面全体に日の丸をあしらい、日本語で「がんがれ、日本。がんばれ、東北」とメッセージを掲載した=写真。・・・・同紙を手にとったロンドン市民は「私たちの思いを代弁している」。』と・・・。
 何とありがたいことか!今度は思わず嬉し泣きである。最近(近年?)、体のあちこちの締りが悪くなって、涙腺もすっかり緩んでしまった。

 郵便局が開く時間になってカミさんからの金も預かって救援募金の郵便振替に行った。せいぜい毛布2枚程度の足しにしかならない全くお恥ずかしい程の金額だが、まあ、今の気持ちである。
 
2011年3月15日(火)曇り
中井久夫氏と大江健三郎の警句
 今朝の新聞から・・・
『昨14日、午後8時現在の被災者数
 死者、3,150人以上
 行方不明者、1万1,794人以上
 避難所にいる人、57万人 』   

 「ああ!何という・・・」

 そして昨日は福島第一原発で1号原子炉に続いて3号機でも爆発がおき、今朝のニュースでは、残っていた2号機も危機的状況にあると報じている。
 
 朝日新聞の15面に、阪神大震災を経験した精神科医 中井久夫氏の談話と、小説家大江健三郎の執筆シリーズ「定義集」が並んで載っていた。以下はその要約である。

<精神科医 中井久夫氏の話し>
 (被災者に対する心構えとして)・・・・・・ただ「誰かがいてくれる」というだけでも意味がある。目の前で親を亡くした人は、大変な心の傷を負っている。徐々に視界が広がるようになって・・・周りのことが見えるようになった時に、体験を分かち合っていく事がとても大切になる。 
 忘れられるのが最大の危機だと思う。・・・それから温かいご飯と、ゆっくり休める場所。
 乾パンと水で持つのは2日、カップ麺で持つのは5日、1週間過ぎたらうまい食事をとらないと、精神的にも苦しくなる。
 (そして氏は最後にこう結んでいる)
 過去に津波があり、集落が丸ごと壊滅した例もある。それでも人間が住んできた。まだ先は見えないが、集団として、社会として、立ち直ることは間違いない。

<大江健三郎「定義集」より>
 (かつて第五福竜丸でマグロ漁をしていた自分の父を、1954年3月1日、アメリカ軍がビキニ環礁で行った水爆実験で失った大石又七の著書『ビキニ事件の真実』をひいて)
 大石さんはあの当時もっとも信奉されていた抑止論者の欺瞞を、明確にあばいています。
 「抑止力」が水爆によって世界を破滅しうる規模になった時(ビキニ環礁の水爆実験規模は、15メガトン、広島型原爆の千倍である)、最初の実験がすでに、矛盾と危険をさらけだしていました。その転換点が第五福竜丸によって示された、とあの信頼できるラルフ・ラップはいっています。そして大石さんは水爆を経験した人として、この原理的な、かつ篤実な証言を続けていられるのです。それは、原子力発電所への警告をふくみます。

 大江健三郎氏の難解な文章を正確に読み解く力は自分には無いが、意味するところは・・・
 「抑止力」(deter:相手をおどかして引き下がらせる)という人間の知恵で生み出した理屈や理論は、いつでもちょっとした理性の崩壊で効力を失い、危機に陥らせる、ということ。
 そして今回の福島原発事故のように、大自然の猛威(いや、猛威を含めて、それ自体が自然だという認識のほうが正しいかもしれない)は、ヒトの持つ小さな知識や技術をはるかに超えた存在であるということを、改めて我々に知らしめたと言えるのではないだろうか。
2011年3月16日(水)晴
日本を見る世界のメディア

 昨日、我家でも計画停電が実施された。午後4時2分から6時58分までの約3時間。街に出てみたが実に静かなり。

 今朝の朝日新聞13面、ニューヨーク支局長山中季広が、世界のメディアが報じる日本を次ぎのように伝えていた。

 『・・・中国の環球時報も「数百人が広場に避難したが、毛布やビスケットが与えられ、男性は女性を助けていた。3時間後に人がいなくなった時、ゴミ一つ落ちていなかった」という滞日中国人の声を拾い「日本人の冷静さに世界が感慨を覚えている」と報じた。・・・
 各国取材陣が驚きの視線で報じているのが、甚大な被害を受けながら日本の人々が少しも節度を失わないことだ。・・・すすんで食べ物を分け合う被災者の姿に感じ入り、怒号もけんかも起きない避難所の静けさに心動かされているのだ。・・・
 百年に一度とも千年に一度とも論じられる地震の破壊力を目の当たりにして、各国が、これまで世界一と信じた日本の震災対策の限界を悟った。日本ですら津波を予知予報できない現実に怯え、安全を誇った原子力発電所からあがる白煙に身震いした。
 それでもなお海外の人々は、日本の被災者たちの沈着で節度ある態度に賛嘆を惜しまない。苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合う。日本の市民社会に対する世界の信頼は少しも揺らいでいない。』

 混迷する政治や経済の中にあって、どうも俺達は真に見るべきものをしっかりと見ていなかったようである。この惨状の中で、海外からの目でそれを気づかされたようである。

2011年3月17日(木)晴
息を詰める街

 一昨日に続き、昨日は13:02〜15:58までの約3時間の計画停電。そして今日は午前10時2分に電気が止り12時58分に通電した。街に出てみたが人通りも少なく、皆家の中でじっと息を詰めているような感じである。

 今朝の新聞から。

 死亡 5,145人以上
 安否不明 15,822人以上
 避難    437,356人

 日々刻々と増える数字の多さに、次第に鈍感になっていく己が怖い。

 「水もミルクも食料もない」「救援物資なぜ届かない」
 <被災地は今
>「道なお寸断何もかも足りない」
 −なぜ届かぬ-「燃料不足トラック動けず」

 太ゴチックの見出しが躍る新聞に落胆の溜め息が出る。

 一方で、ここ藤沢市の街のスーパーでも長い人の行列である。どうか買占めなどせずに、貴重な食料、物資を一刻も早く被災地の人たちに回して欲しいと願わずにはいられない。

2011年3月18日(金)晴
祈る人たち
 本日2回目(通算6回目)の計画停電が、予定時間の13時50分が過ぎても電気は点いたままである。

 そして14時少し前、そのまま点けていたテレビが、福島第一原発3号機への自衛隊給水車からの放水をLIVEで流した。30キロ以上離れたヘリコプターからの撮影だというが、黒く焼け爛れて白煙を上げる原子炉に向って、放物線の白いシャワーが何とも儚く映し出されて、思わず「がんばれ〜!がんばれ〜!」と叫んでしまった。

 続いてテレビからは、午後2時現在、東北関東大震災の死者が6,539人に達し、阪神淡路大震災での死者6,434人を超えた、と警察庁からの発表を速報した。もちろん、戦後最大の自然災害となる。

 そして14時46分、ちょうど1週間前にマグニチュード9.0の大地震が発生した時刻である。NHKテレビが岩手県山田町にある避難所から1分間の黙祷をする避難生活の人たちを映し出した。思わず俺も立ち上がって、テレビに向ってじっと目を瞑る。
 足が不自由な人も多い中で、殆どの人たちが立ち上がって黙祷したとのテレビの声に、画面に映った老夫婦の、前のめりの体を支えるようにして祈る姿が何とも痛ましかった。
2011年3月19日(土)晴
寅さんに来てほしい
 今朝の朝刊から・・・
 映画監督の山田洋次さんの言葉である。

 こんな時、自分に何ができるのかという声をよく聞きます。
 それも大事だけど、被災した人たちの悲しみや苦しみを、僕たちはどれくらい想像できるのか。そのことがとても大事だと思うのです。現地の人たちの心の中をどれくらいイメージできるのか、自分に問いかけ、悩む。そこから何かが学びとれるのではないでしょうか。・・・・・・
 阪神大震災の後、神戸市の長田地区で映画を撮りました。焼け出された人たちから「寅さんに来てほしい」という声があがったのです。
 僕は、あんな無責任な男の映画を被災地で撮るなんて、とんでもないことだと思い、最初はお断りしました。
 でも、訪ねてきてくれた長田の人たちが、口々に、こうおっしゃるのです。
 「私たちが今欲しいのは、同情ではない。頑張れという応援でも、しっかりしろという叱咤でもありません。そばにいて一緒に泣いてくれる、そして時々おもしろいことを言って笑わせてくれる、そういう人です。だから寅さんに来てほしいのです」

 この言葉を非力な自分への慰めとして、今は必死に想像力を働かせるしかない。
2011年3月20日(日)晴、風強し
国を支えてきてくれた人たち
 再び、今朝の新聞から・・・
(19日、午後7時現在)
 死亡     7,348人
 安否不明 17,653人以上
 避難   334,854人

 昨日は自転車に乗って、近くの引地川の川べりを散歩した。春の強風が、うっすらと青める柳の枝をしきりに煽り、引地川の川面を盛んに波立たせていた。そんな水面に浮いているカルガモのつがいが、葦の繁みの陰でじっと身を寄せ合っていた。
 サッカー場の向うの国道を見ると、車の長い列である。「あれ?」とその列の先を目で追うと、ガソリンスタンドである。溜め息をつくような思いで自転車を漕いで、カミさんに頼まれた品物を買うためにスーパーに寄った。ここでも陳列棚はスカスカである。

  地震、津波に続く原発事故で、追われるようにして避難者たちが居場所を離れている。そんな中で寝たきり老人を車に運び入れている老人福祉施設の施設長さんが力を込めて言っていた。
「戦後の復興期から国を支えてきてくれた人たちを、死なすわけにはいかない」

 胸に滲み込む重い言葉である。
2011年3月21日(月)雨
わかれ
 昨日もテレビに釘付けの一日だった。被災地からの辛いニュース一辺倒だったNHKも、昼の時間には「のど自慢大会」を流し、夜8時からは大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」を放映した。
 震災から10日目、厳しい環境下で避難されてる被災地の皆さんにも、娯楽番組でつかの間の息抜きを・・・、そんなメッセージも込めた放映だと思っている。

 当日新幹線の中で足止めされて、じりじりと我家に留まっている仙台の義兄も、今日で10日目の滞在となった。そんな兄も、久々の娯楽番組で幾分和んだようである。

 それにしても、昨夜の「江」には泣かされてしまった。
 市(鈴木保奈美)が江、茶々、初の3姉妹を連れて嫁いだ2度目の夫、柴田勝家が賎ヶ岳の戦で秀吉に敗れ、北庄城へと敗走する。そしてこの城も秀吉軍に包囲され、勝家はもはや命運尽きたと、市と3姉妹を城から逃れさせようとする。しかし市は夫とともに城に残り死を共にする覚悟で、3姉妹に決然と離別を言い渡すのである。
 秀吉からの使者石田三成に引き渡された3姉妹が城門を出、大扉が閉まる。門の内で静に見送る母と号泣する3姉妹。さらに籠に乗って城を離れる3姉妹の背後で勝家自ら放った炎が市もいる天守閣から上がる。再度の母との壮絶な別れに3姉妹が泣き崩れるのである。

 コタツの上に置いたテッシュペーパーの箱に、恥も外聞もなく義兄と二人でかわりばんこに手を伸ばして鼻水をかみながら、やっぱり思いは東北被災地の人たちの深い悲しみである。

 只々呆然とした一瞬が過ぎて
 口に手を当て何度も何度も嗚咽しているあなた
 あなたは、これから押し寄せる大津波のような悲しみに耐えられるでしょうか
 そしてまた、次第にせり上がって来る絶望にも打ち勝つ事ができるでしょうか
 今あなたに慰める言葉を持ちません
 しかし、あなたには大声を出して泣いてもらいたい
 江たちのように、どうか精一杯悲しみをあらわに号泣してほしいのです

2011年3月22日(火)雨
Mさんからのお見舞い
 「あ〜重かった」と宅急便を届けに来た若者が言った。「ピンポン鳴らしても出ないからてっきり留守だと思って、お宅に2度もこの荷物運んで来ました」とも言った。通算6回目の計画停電が今日の午前10時から始まっていた。
 なるほど、ずっしりと重いダンボール箱で、玄関からの廊下を滑らせながら居間に運び込んだ。(体重計で量ったら30キロもあった)
 送り主は宮崎県の米良○○とある。あの折畳み自転車で北海道をふり出しに日本列島を南下しながら全国行脚を続け、昨年秋にふらりと立ち寄ったおやじ山で1週間程居候してしたMさんからである。
 箱を開けると「震災お見舞い」と書いた封筒の下に、大きな透明のビニール袋にぎっしり入ったぴかぴかのお米である。なんという事か!携帯電話のボタン操作ももどかしく電話をかける。「いま、届いたよう〜!ありがとう〜・・・」耳元に返ってきた声は懐かしいMさんのニコニコ声である。

 Mさんは昨年7月、宮崎の実家から折畳み自転車を携えて空路北海道に渡り、そこから全国の都道府県を全て舐めるべく自転車を漕ぎ続け、橋の下や公園に寝泊りしながら今年の1月27日に全国制覇を遂げて、無事宮崎に戻った稀有の人物である。
 その途中でおやじ山の麓のキャンプ場に辿り着き(本当は信濃川の橋の下に泊ろうと思ったが、用足しに寄った市役所でこのキャンプ場の事を偶然知ったのだという)、しばし俺達と共に生活し、そしてたまたま、昨年11月末におやじ山を下りて藤沢の自宅に帰った直後に、Mさんも自転車で神奈川県入りした。それで今度は藤沢の我家で一夜を過ごし、大いに酒を飲んで休んでもらったのである。

 その後Mさんは、東海、北陸、近畿、中国とひたすら自転車を漕ぎ続け、1月1日には四国高松の桂浜に立ち、平成の坂本龍馬となって元旦の日の出を拝んだのである。
 1月初旬に九州入り、地元宮崎をパスして福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島と巡り、いよいよ晴れて郷里に帰ると思いきや、とどめに沖縄に渡るとメールが入った。
 そして終に1月27日、およそ7ヶ月ぶりに宮崎の実家に帰ったのである。

 「声を聞いて安心した。元気そうだね」と電話口で言うと、「はい、元気でやっております。昨日、早稲の田植えを終わって、今日は自宅で骨休めです」と明るく答えた。
 
 連日伝えられる東北関東大震災の報道で、関東地方も計画停電やら物資や食料不足やらの報道で、心を痛めていたという。それで少しでも足しになれば、とMさんは言うが、こんなに山ほどの嬉しい嬉しいお見舞い品である。

 
 今日の新聞は、被災者の数字を

死亡      8,649人
安否不明  18,399人
避難    337,000人以上
と報じた。

 今避難している大勢の人たちにMさんからのお米を分けても1人0.1グラムにも満たず、我家でありがたく貰っておきますが、せめて、遠く離れた宮崎でも心を同じにしている人たちがいることを、被災地の皆さんにお伝えしたいです。


2011年3月23日(水)曇り
義兄の帰郷
 震災の前日からまる2週間、足止めされて我家に滞在していた仙台の義兄が、ようやく今朝のJRハイウェイバスで仙台に向った。

 数日前、緊急車両のみの東北自動車道で東京-仙台間のJRバスが開通したと聞いて、急いで切符の手配に走った。そしてようやく最短で取れたのが、今日の午前9時新宿発の切符だった。
 このバスに乗り遅れたら、またいつの日になるか分からない程に予約が殺到していて、朝5時に起きて義兄と一緒に新宿を目指した。それで出発時間の2時間も前に新宿駅に着いてしまったが、早朝開店の駅ビルの喫茶店に入ってコーヒーとサンドウィッチを頼んだ。兄は気が高ぶっているせいか饒舌に話していたが、いよいよ腰を上げてバスの出発場所に行く時間になると、急にしょんぼりとしてしまった。

 仙台行のハイウェイバスは3台連ねての出発である。ゆらりと動き出したバスの中で、兄は窓ガラスに当てた手を頻りに振っている。こちらも改札口の外に出て両手を大きく振って兄を見送った。
 「幸い仙台の実家は大丈夫のようだ」と、兄がご近所に電話を入れて確認した時の答えだった。しかし、すでに古希を過ぎ、体のあちこちの疾患で何種もの薬を服用している兄が、大きな被害を蒙った被災地に向かい、そこでまた一人で生活していくのかと思うと気の毒で仕方がなかった。

 兄を見送ってから、何やら脱力した感じで階段を昇り、広い甲州街道に出て再び喫茶店に入った。明るい窓際の椅子に座って、歩道を足早に行き来するサラリーマンやOLたちを見ていた。そのせかせかとした足どりは、あの大惨事があったことをすっかり忘れてしまっているような、長く見慣れたいつもの通勤風景である。
 こんな雑踏を目にして片時の平穏を感じてしまうとは、思ってもみなかったことである。
2011年3月24日(木)晴
「災害がほんとうに襲ったとき」
 精神科医で神戸大学名誉教授、中井久夫氏の手記、「震災がほんとうに襲ったとき」をインターネットで読んだ。
 これは1995年1月に発生した阪神大震災で、中井医師が被災地神戸で精神科救急にあたったときの記録文である。
 この手記の全文をインターネットにアップしたのはノンフィクション作家の最相葉月さんで、中井氏と出版社からの許諾を得て無料で公開されている。トップページの冒頭に『東北関東大震災下で働く医療関係者の皆様へ』と大書されているのは、最相氏が、まさに今、東北の被災地現場で奮闘している医師や看護師たちに、中井医師が阪神大震災で体験した現場でのもろもろを、是非とも伝えて役立てて欲しいとの思いからであろう。

 手記の内容は、地震発生の1月17日から23日までの1週間の行為を日を追って詳述し、震災現場のリアリティの中での体験を専門的な知見から評価し提言もしている。そして必死に医療行為についた病院スッタッフやボランティア医師、地元神戸の人たちへの温かいまなざしとエールがある一方で、こうした彼らの心情に寄り添えない人たちへの厳しい警句と批判も載っている。

 この手記を読んで、改めて大きな災害が起きた時にこそ、人の弱さとともに、強さや優しさ、日本人の美徳である共同体感情といったものが如実に炙りだされてくることを知った。文中の各所にちりばめられた感動的な記述には大いに魂を揺さぶられるものがあった。

 全文が公開されているインターネットのURLは以下の通り。
http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/shin/shin00.html
2011年3月26日(土)晴
東京の若者よ、東北を誇れ!
 一昨日(24日)は、夜7時から8時半頃までの、以前より短い時間の計画停電だった。伊豆のKさん家ではまだ2回しか停電してないと聞いていたので、早速停電直後の暗闇のなかで携帯メールを打った。
 『今真っ暗!我家では7回目の計画停電です。どうだ、凄いだろう』と。
 馬鹿げたメールだけど、正直言って東北の被災地の人たちには何の支援もできず、せめてこんな事で協力できればと、度重なる我家の停電を誇りたい気持ちがあった。直ちにKさんから返信メールが届いた。
 『凄い。当たり過ぎ。・・・』 ほらね。やっぱりKさんも我家を羨ましがっているようだった。

 昨25日で地震発生からちょうど2週間が過ぎた。そしてこの日までの被災者数は、
 死亡    10,102人
 安否不明 19,752人
 と、死亡者は1万人を超え、不明者と合わせておよそ3万人が犠牲となった。避難者の数は25万人と報じられている。

 そして今朝の新聞を手に取ると、山形大学名誉教授、大川健嗣(たけつぐ)氏の次のような談話が載っていた。

 『戦後日本の、とりわけ東京の発展は、東北が支えてきました。東北は自給的生活を捨て、首都圏と社会的な分業関係に入ることで(首都圏の)成長を裏から担ったのです。
 ・・・分岐点となったのは1960年ごろで、まず成長の原資となる労働力を提供しました。中卒の「金の卵」であり、青森、秋田、山形を中心にピーク時で全国の半数強を占める東北の出稼ぎ労働者などです。その結果、若者が居なくなった農村に深刻な高齢化、後継者不足を招き、中山間地ではエネルギー転換も相まって山林が無価値となり過疎化が進行しました。

 70年代に入ると交通網の発達もあり企業が地方に移転します。これによって東北の地元でも兼業が可能となり、農業は安定的に発展するだろうと考えていました。
 しかしグローバル化が進み、企業は海外に出て行き、残ったのは兼業で生活していた零細農家です。結果としてこれらの農家の大規模化、効率化への転換が遅れてしまいましたが、国内の均衡ある発展よりも、国境を越えて、より安い労働力を求めて動いた資本の論理によるものです。

 さらに今回の震災は、都市の電力すら東北に依存している現実を改めて見せつけました。避難指示を受けて肩寄せ合う人たちは、金を出せば利便性を買える大都市生活の犠牲者と見ることもできます。
 戦後、人と食料、電力まで供給し、都市生活を裏で支えた一方、山林や工場立地を切り捨てられた東北に対し、都市住民は何をしているのでしょうか。
計画停電に不満を漏らし、日用品の買いだめに走る。福島県南相馬市長の悲痛な叫びを聞きましたか。なぜ大都市の住民や自治体は、東北支援の声をもっと大きく上げないのですか。』

 そして最後に、大川教授は、かつて自分が英国に留学した際、ロンドンっ子に「この国の自慢は?」と聞いたときの答え、「美しい田園風景です」を引いてこう結んでいる。
 『震災で全国の目が集まっている今、東北が果たしてきた役割を改めて考えてほしい。ロンドンの高校生が私に誇ってみせたように、東京の若者にも東北を誇ってほしい。

 怒気をも含んだ大川氏の痛烈な批判に、都会の俺たちは何と答えたらいいのだろうか。
2011年3月27日(日)晴
みんな、どこさ消えちまったべか?
 こういう時にこそ出てきて、しっかり語ってほしい人たちがいる。
 
 先ず一人は、忘れもしない2004年10月、我がふるさと新潟県中越地方を襲った大地震で、一躍有名になった旧山古志村(現、長岡市)村長の長島忠美氏である。
 中越地震の震源地は川口町だったが、奥地の山古志村も大被害を受け、全村の住民が長岡市に避難した。古くからの伝統「牛の角突き」や錦鯉養殖の産地として知られていた村でもあり、連日長島村長の顔が置いてきぼりの闘牛とともにテレビに映り、そのお蔭もあって全国からの厚い支援も受けた。
 長島氏はその後、翌2005年の小泉郵政改革選挙に立候補し、自民党比例区で当選した。そしてこれからは広く国民的な立場に立って、農山漁村といった地域災害のプロフェッショナルとして大活躍してくれるものと期待していた。
 ところが、時は今だというのに、さっぱり出てこないのである。今こそ被災地の皆さんに自らの体験を語り、励まし、ノウハウを伝授し、そして全国民に向って、中越地震で受けたご恩を全力を注いでお返しすべく、国政政治家としてメッセージを発すべき時なのに・・・

 もう一人、似たような御仁がいる。小沢一郎先生である。
 小沢さんの選挙区は岩手4区、花巻市を中心とする内陸部が地盤だが、今回の大津波で壊滅的打撃を受けた陸前高田市や大船渡市、釜石市などは隣町のようなものである。しかし何と言っても小沢一郎と言えば、岩手県の顔である。かつての越後の田中角栄に匹敵する。そんな政治家が顔も見せないなんて・・・

 3人目は、今回の福島第一原発事故の責任者、東京電力社長の清水正孝氏である。
 確か、地震発生3日後の3月13日、随分姿勢よくすたすた歩いて記者会見場に現れ、「想定を超える津波だった。大変申し訳ない」と用意されたメモを他人事のように読み上げて終わってしまった。その後日本国内はもとより、世界中の耳目を集める大惨事になったというのに、姿をくらましてしまった。

 今こそこの3人にはマスコミの前に出てもらって、それぞれの考えをしっかり聞きたいものだが、よりによって、みんな、どこさ消えちまったべか?
2011年3月28日(月)晴
励ましの絵と歌と
 ここ藤沢では申し訳ないような明るい春の陽ざしである。猫額の庭に出てみると、おやじ山から掘り取ってきて植えたゼンマイの芽が伸び、キクザキイチゲの葉が青々と展開している。


 昨日の新聞には、オランダを代表する絵本作家で主人公ミッフィー(うさこちゃん)の作者、ディック・ブルーナさんの励ましのイラストが掲載されていた。
 そのイラストの下には、「日本の皆さまへ思いを込めて」(my best wishes to Japan)のメッセージが添えられている。そして記事にはこうも書かれてあった。<あまり泣かない子うさぎが大粒の涙を流している。しかも2粒も。>

 今朝の朝刊、「東日本大震災を詠む」の投稿句から2句。

 生きていて生きてるだけで燕来る (飯田 操)

 毛布なき君に熱燗飲ませたし (河野靖朗)

 更に今日の「朝日歌壇」から

 襲いくる津波の中に町一つ 悲鳴聞こえず呑まれてゆけり (山本憲二郎)

 喚ぶ声か振り返りつつその母は 足どり重く地震(ない)の地離る (城島和子)
2011年3月29日(火)晴
明日、おやじ山に入ります
 未曾有の大震災で、今年のおやじ山入りを延ばし延ばししていたが、明日おやじ山に入ることにした。

 ドラム缶風呂の設計者N君が「雪山が見たい。ドラム缶風呂にも入りたい」というので、久々に歩荷(ボッカ)も兼ねてN君を同行することにした。(しかし今年の雪では、まだとてもドラム缶風呂を掘り出して湯を沸かすことなど出来そうにもない)
 N君は4月2日には下山する予定で、その後は雪のおやじ小屋で一人の生活になる。やっぱり、嬉しい。

 午前中、こちらでの春の見納めのつもりで、近くにある墓苑を散歩した。この墓苑に植えられた早咲きの桜(エドヒガンだろうか?)が、昨日開花宣言のあったソメイヨシノより一足早く、並んだ墓石の上でピンク色の枝を大きく広げていた。そしてユキヤナギのぷつぷつとした小花の花むら、ハクモクレンの濃い白とアンズの花のピンクが、春の陽ざしに明るく照り返っていた。

 しばらくの間「日記」を休みます。梅雨の頃には戻る予定ですが、雪解けから春へ、そして初夏の季節への移ろいを、おやじ山での暮らしとともにまた「おやじ小屋から」でご報告したいと思います。


おやじ山の春 2011
2011年3月30日(水)曇り
おやじ山の春2011(山入りの日)
 いよいよ今日からおやじ山入りである。

 「雪山が見たい!」「 ドラム缶風呂に入りたい!」「その両方やりながら、酒呑みたい!」
とうるさく訴え続けるN君を伴って、東京駅7時48分発のMaxとき307に乗り込んだ。二人とも大型リュックサックをパンパンに膨らませて、N君のそのリュックには自ら手作りしたという輪カンジキが無造作に括りつけられている。
 「そのカンジキ、大丈夫かね?ヒモ、ブチッと切れない?」」とN君に問いかけても、「今の山、雪どれくらいある?」とか、「小屋に着いたら、先ずドラム缶風呂焚こうね」などと全くうわの空の反応である。

 長岡駅に着いてタクシーでおやじ山の麓の市営スキー場に向ったが、途中「原信」というスーパーに寄って当面の食料と水を買った。そして驚いたことに、ここ長岡のスーパーでも2リットル入りの普通の水ボトルが棚から消えていて、置いてあるのは1本500円もする「海の深層水」と、<お一人4本まで>と制限が書いてある500ミリリットルの水ボトルだけだった。(仕方なく、買ったけど・・・)
 「あ〜あ、ここにも東北大震災の影響が・・・」と暗澹たる思いである。

 既に営業を終えて静まり返っている市営スキー場から、鼻息荒いN君トップで雪道を歩き出した。麓の積雪は70cm程だろうか?締まった春先の雪で、見晴らし広場まではスノーシューやカンジキ無しで歩くことができた。

 一息入れてからいよいよおやじ小屋までの道のりである。積雪は一気に増えて、1m以上はある。今度は俺がトップになってスノーシューを着けて歩き出した。迂闊に雪下に埋れた木の枝を踏み抜いたりすると、腰まで雪にどぶってしまうので、慎重にルートを探りながら歩く。
 ところがN君が俺の後ろから、「あ!そこダメ!こっち」だとか、「そこは真っ直ぐ!真っ直ぐ!」などと、まるで自分の持ち山のような遠慮無さでいちいちジャリを入れるものだから、うるさくて仕方がなかった。(まあ、これがN君のキャラなんだけど・・・)

 ようやくおやじ小屋に着いて、早速囲炉裏のストーブで火を焚こうと手斧で薪を割り始めた途端、斧の刃で指を切ってしまった。こんなドジは初めてで、余程上ずってしまっていたせいかも知れない。

 早めの夕食は、家で仕込んでおいた塩漬けきのこを戻した具と、大根、鶏肉、油揚げなどを入れた雑煮を肴にN君と大いに酒を呑んでしまった。宴会のスタートでは「この積雪では、おいそれと酒を買いに麓に下りられないから、大事に呑もうね」と互いに固く誓い合っていたのに、福島第一原発事故での東京電力の対応の話題になった途端、二人とも一気に火がついてどんどんオクターブが上がり、気が付いた時には3日分の酒とビールが殆ど底を突いていた。

 夜9時、なかなか寝ようとしないN君をなだめて、仕方なく眠る。

 
2011年3月31日(木)霰〜雨〜曇り
おやじ山の春2011(雪見風呂)
 明け方、
 「ピカッ!・・・ゴロゴロゴロ!ドッス〜ン!!」
と、物凄い雷である。そしてバラバラと霰が降り出して、外のテントで寝ていたN君が小屋に逃げ込んで来た。
 8時、納豆で朝飯。N君が「もっと美味いものが食いたい」と、客人の分際で贅沢なことを言う。

 朝食後、N君は早速念願のドラム缶風呂のしつらえである。設置場所の雪掘りに精を出してから、今度は丹念にドラム缶の中を洗ったりしている。そして何と!ドラム缶風呂の周りに雪壁まで作って雰囲気作りである。 「お前、顔に似合わずデリカシーがあるなあ〜」と冷やかすと、「へへへへ・・・ようやく今、分かった?」と不敵に笑いながら憎たらしく応じるのである。
 俺はこれからの長期戦に備えて、湧き水を溜めている酒樽を雪の中から掘出した。これで飲み水の確保ができて一安心である。

 昼飯は昨夜の雑煮の残り汁にうどん玉を入れて煮込みうどんを作る。N君がまた、「もっと美味いものが食いたい」とのたまわった。

 午後は雪の上を歩いてヤマ回りをする。今冬の雪が多かっただけに杉折れ被害を心配していたが、まあまあ大丈夫のようである。そして雪のあるうちに枝打ちをする立木の目星をつけた。

 ドラム缶風呂の火焚きを始めたN君の手を借りて、梯子を立てて何個かの野鳥の巣箱の掃除をやってもらった。ムササビの巣箱には杉皮を細かく裂いて敷いた分厚い巣が残っていたし、ヤマガラや四十雀、それに青ゲラだろうか?自分の嘴で穴を大きく造作した巣箱にもしっかりした巣が残っていた。

 そして、いよいよドラム缶風呂が炊き上がって、殊勝にもN君は俺に一番風呂を勧めたが、先ずは客人から入ってもらうことにした。
 N君の入浴シーンの記念撮影。そしてN君が長湯から上がって俺も二番風呂に入ったが、N君が奮闘したしつらえのお蔭で、実にいい雪見風呂だった。