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2011年2月10日(木)曇り
南房総の森旅(序)

 一昨日、2回目8日間の千葉森林調査のアルバイトから帰って来た。
 さすが、おやじ小屋の雪掘りから帰ってきて、中1日の休養ですぐまた山歩きが続いたので、最後はかなり疲れてしまった。
 
 しかしありがたいことに、相棒のMさんが最初の2日間の宿泊地を白子の国民宿舎を手配してくれたので、宿の大風呂にゆっくり浸かって体を伸ばし、雪掘りの疲れと仕事の筋肉をほぐすことができた。

 前回調査の千葉県は実に寒かったが、打って変わって今回は、ほとんどが春の陽気だった。南房総の森を歩き回りながら、厳冬のおやじ山とは様変わりな春をめぐる山旅だった。

 日にちは遡りますが、以下から「南房総の森旅」を綴ります。
 

2011年2月1日(火)晴
南房総の森旅(第2回森林調査スタート)
 JR川崎駅で電車を降りて「はて?木更津行のバス停はどこだろう?」と、8日分の荷物が入った大きなバッグを担いで地下街をウロウロ探し回っていたら、Mさんとばったり出会った。良かった!「今回もよろしくお願いします」と挨拶して、Mさんに導かれて東京湾アクアライン経由のバス停に向った。

 木更津で予約してあったレンタカーに乗り込み、早速第一調査地、大多喜に車を走らせる。
 湿地帯を踏み越えて行く荒れたスギ林で、どろどろの湿地には縦横無尽に猪が跋扈した跡がある。夏場ならとても入る気がしない所である。
急いで調査を終えて、今日からの宿、国民宿舎白子荘に入る。

 海辺の宿らしく袋入りの海藻が浮かべてある大風呂に入り、おやじ山の雪掘りの疲れも同時に癒すつもりで体を伸ばした。


 宿の夕食は美味しかったが、酒1合が「!」と驚く値段で、町営の国民宿舎とはいえこんなところで酒飲みから御足を吸い上げないと経営が成り立たないのかも知れない。Mさんと二人で「まあ、どうぞどうぞ」と言いながらお銚子を傾け合ったが、こんな値段だと心なしか傾け加減がイマイチ鈍ってしまうのである。

NHK歌謡コンサート」を観て早々と床に入る。仕事に出て、旅の宿で雪掘りの疲れをゆっくり癒す気分である。
2011年2月2日(水)晴
南房総の森旅(メソポタミア古代文明と九十九里の日の出)

 昨夜は早く寝たせいで朝4時に目が覚めた。
 それで今回も持参した泉靖一の「フィールド・ノート」ー文化人類学・思索の旅ーを床に寝そべったまま読む。

 この本は、文化人類学者の泉が
約2ヶ月かけて旅したシベリアから中央アジア、ロシア、ヨーロッパ、スペイン、そして北アフリカから中東のイランまでのユーラシア大陸の壮大な歴史と文明の変遷を、訪れた町々でのエピソードを混じえて著された、いわば文化人類学の入門書である。
 現役時代はもちろん、現役を退いてもこういう本をじっくり読むことはなかなかできないものだが、幸い今回のような仕事で空いた時間に落ち着いて読み進むと、実に味わい深いものがある。

 紀元前7000年ころのオリエント、とくにイスラエル、シリアの一部と北イラクならびにイラン高原を含む「肥沃な三日月地帯に起こったメソポタミア古代文明が、前538年にペルシャ王キュロスによって征服され地球上から姿を消すまでの壮大なドラマを夢中になって読んでいると、白子町の防災無線から「♪わ〜れはう〜みのこ、し〜らなみの〜♪」のオルゴール音楽が流れてきた。午前6時の時報である。
 部屋のカーテンを開けると、まだ未明の黒く横たわる九十九里浜の水平線がようやく薄く赤らみ始めて、やはり濃紺の空には明けの明星が孤高に瞬いていた。

 読書を止めてカーテンをいっぱいに開けて九十九里の日の出を鑑賞することにした。

 今日は3ヶ所調査の予定が、1ヶ所目の凄いシノダケ(アズマネザサ)の竹薮に阻まれて時間を費やし、2ヶ所で終わってしまった。

2011年2月3日(木)晴 節分
南房総の森旅(山の鉱泉宿)
 房総は、暖かい節分の日だった。
 いつもこの日を迎えると、雪国の鉄道官舎に住んでいた時代、家中の窓を開け放って「鬼わ〜そと!福わ〜うち!」と家族揃って大声で豆まきした懐かしい思いが甦ってくる。窓の外はうず高く積もった雪の壁で、「鬼わ〜そと!」で撒いた豆がこの壁に張り付いて、翌日になって雪壁から豆を穿り出して、おやつでポリポリ食ったものである。

 今日は3ヶ所の調査予定だったが、1ヶ所目は途中の林道が崩落していて目的地に到達できず断念、2ヶ所目の養老渓谷付近の厳しい調査地
では仕事が午後2時過ぎまでかかってしまった。それで3ヶ所目の移動途中で山中の鉱泉宿に立っていた「そば」の幟旗を目に止めて、ここで遅い昼食を摂ることにした。

 「こんにちわ〜」とおそるおそる玄関の戸を開けて店の中を覗きこむと、ガランと人気がない。「こんな山奥ではねえ・・・」と帰ろうとした時に奥から若い夫婦が出て来て「いらっしゃい!」と言われてしまって、座敷に上がり大きな囲炉裏端に腰をおろした。
1,000円のとろろ蕎麦を頼んで(これしかメニューが無いというので仕方なく)30分近く待たされたが、こんな山中山奥の淋しい場所で若夫婦が店を切り盛りするのはさぞ心細いことだろうと思った。それで1,000円のとろろ蕎麦
も若い夫婦に免じてよしとすることにした。でもとても美味しかったですよ。

3ヶ所目の調査がもう殆ど暗くなった時間に終わり、今日からの新しい宿、鴨川の民宿「下田屋」に入った。

(写真は、今日の調査途中で見たアブラギリの天然林である。実に珍しい
・・・と思う)

2011年2月4日(金)晴 立春
南房総の森旅(春の海)

 正月がつい先日終わったと思ったら、もう春が立ってしまった。まさに<光陰矢の如し>を実感してしまう。今日は3月下旬並の暖かさだったとラジオが報じていた。

 今日は1ヶ所目を終えてから、天津小湊の浜辺の駐車場に車を停めてコンビニおにぎりの昼食。
 まさに立春にふさわしい春の陽光が青い海をキラキラと眩しく輝かせて、全くネコでなくとも伸びをしたくなるような気持ちである。おにぎりを食い終わって砂浜の波打ち際を散歩する。

<春の海ひねもすのたりのたりかな>の蕪村の句が自然に口をついて出てくる。


 午後からの調査も、緩い棚田の扇状地を散歩するような気持ちで歩いて現地を目指したが、目的の場所は一変、もの凄い薮を喘ぎ上る難所だった。

2011年2月5日(土)
南房総の森旅(仁右衛門島の日の出)

 午前6時、外はまだ薄暗かったが、宿を出て早朝散歩。
 ものの数分で海岸の道に出て、「名勝仁右衛門島」と看板が立っている波止場まで歩いた。夜明け前の暗い海には沢山のウミウが波にゆらゆら浮いていて、ようやく白々と明けてきた空には数羽のトンビがぐるぐると小山の上を旋回していた。
そして仁右衛門島の海から
真っ赤な太陽が昇り始めた。時計を見ると6時半である。思わず「今日も無事でありますように」と手を合わす。

 春を迎えた穏やかな海である。

 今日は外房を出発し長狭街道で房総半島を横断して内房の森までの3ヶ所調査。
 やはり疲れが溜まってきたのか、最初の調査地から体が重い。

 2ヶ所目の調査地をカーナビとGPSで探索しながら車を走らせていたら、一軒の庭先に入ってしまった。山の中にあるまだ建築途中の家で、庭には薪が山と積まれている。その薪を手にして現れた若者の風情から、どうやら陶芸家のようである。早速Mさんが地図を片手に車を降りて目的場所を尋ねていたが、ここに越してきたばかりで皆目分からない、との答えのようだった。
 道を引き返す途中で外出から
帰ってきた軽四運転の若い奥さんと擦れ違った。やはりロクロでも廻すのか割烹着姿である。幾分微笑んで軽く頭を下げられたが、思わずハッとするほどの美しい人だった。(ただ、それだけですけど・・・)

 一昨日の鉱泉宿夫婦といい、今日の陶芸家といい、どうも千葉県には寂しい山中に若いカップルが住み着く傾向があるのかも知れない。(文化人類学の読み過ぎかなあ〜)

2011年2月6日(日)晴
南房総の森旅(ああ!シュトゥルム・ウント・ドラングの時)
 明け方4時に目が覚めてしまった。もうひと眠りしようかどうしようかと床の中で迷っているうちに、もう40年以上前の僅か半年余りの出来事を思い出した。

 それは辛く惨めな一時期を過ごしてから、伝手を頼って勤めたある会社の人達のことだった。
 配属された部署には後見人の立場になってくれたYさんがいて、部長のyaさん、課長のFさん、そしてニコニコとこまめに世話を焼いてくれたMさんがいて、周りの人達の心温まる親切を一身に受けて何不自由なく仕事ができた。まさに一文無しの自分にとっては実に有り難いことに、この会社には社員寮があって、ここの寮母さんにも本当に親切にしていただいた。

 そしてここで、人生の恩師というべき今は亡きHさんと出会い、一生忘れることができないTさんに出会った。

 この年、70年安保を直前にまさに世は騒然としていた。1月の東大安田講堂攻防戦を皮切りに、日大闘争、京都大学の入試粉砕闘争と大学紛争が一段と激しさを増し、沖縄の2・4ゼネスト、新宿西口7000人反戦フォーク集会、そして日米安保継続交渉でニクソン会談に望む佐藤首相訪米阻止の羽田闘争と、身近で起こる市民や学生と機動隊との激しい衝突を目くるめく思いで見続けていた。
 街には藤圭子がしゃがれ声で歌う怨歌<♪十五、十六、十七と〜私の人生暗かった〜♪>のヒット曲が流れ、強大な圧力でグイグイ押さえ込まれいく大学紛争に、次第に敗北感を募らせていく全共闘時代の若者たちがこの歌声に共鳴したのである。

 しかし一方で、この年アポロ11号が人類史上初めての月面着陸を果たし、アームストロング船長の第一声、

「この一歩は小さいが、人類にとっては偉大な躍進だ」

 が、どれほどテレビ中継を見ていた世界中の人達に感動を与えたことだろう。
 俺も会社近くの電気店の前に立って固唾を飲んでテレビでこの瞬間を見つめた。自分の限りない未来が月面着陸と重なって大きく大きく膨らんで来るのを感じたのだった。

そしてHさんの影響で再び和辻哲郎の「古寺巡礼」を読み、亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」のページを捲った。そしてこの会社を去ることを決めた秋、Hさんに誘われて奈良の旅に発った。

 新薬師寺傍の小宿に泊り、Hさんに教えられながら寺々を巡って多くの仏像を観、そして奈良から三輪へと通じる山辺の道を、穏やかな大和平野を右に見渡しながらHさんと共に歩いた。
 思えば、騒然とした東京を離れ、この奈良で過ごした一時の旅ほど、静に心に染みた旅は無かった。

 この会社を辞めてから、また困難で苦しい生活が始まった。昔の友人や知人の部屋を泊まり歩くような悲惨な時代がしばらく続いたが、この僅か7ヵ月を過ごした時期こそ、俺にとっては人生の中で眩い虹色の光彩を放った輝きの時期だったと断言できる。
 親切で優しい人たちばかりの、まるで温かい巣のような場所から再び荒々しい世界へと飛び出したが、当時の自分の気持ちを思い起こすと、涙ぐむような感慨である。

 そして歴史と人生には「タラレバ」などありはしないが、「もし、あの会社に留まっていたら・・・」と、人生行路の遥かな運命の軌跡に思いを馳せるのである。そして当時の、まさに一生忘れがたき思いを刻印した出会いの人々を、心底懐かしく思い出すのである。

 隣の部屋から相棒のMさんのいびきが聞こえていた。ぐっすりと寝込んで羨ましいほどのいびき声で、俺もあと一眠りしたい気持ちになったが、時計を見るともう5時近い。「エイッ」と床を抜けて起き上がった。

 今日も3ヶ所調査。いずれも登山道脇の急峻な場所で、崖の崩落が激しくて現地未到達の場所も1ヶ所あった。
 夕方、久しぶりに小雨降る。

2011年2月7日(月)晴 暖かい春日
南房総の森旅(黒瀧集落の春)

 午前中、1ヶ所目の調査を終えて山を下りると、その場所が南房総市和田の黒瀧集落だった。

 里山にある小じんまりとした部落だったが、古くからの歴史を感じさせる風格ある村の佇まいである。白い道の向うには、柔らかな日を浴びて堂々とした古民家が建っていて、実に懐かしい風景だった。

 Mさんが「ここで昼飯にしましょう」と言うので、一も二もなく賛成してコンビニおにぎりで昼食を摂った。

 春日が穏やかに降りそそいで、まったく眠くなるような陽気である。田圃のあぜ道にはオオイヌノフグリやホトケノザが咲いて、まさに黒瀧集落の春である。

2011年2月8日(火)曇り
南房総の森旅(エピローグ)

 5時起床。持参した泉靖一「フィールド・ノート」ー文化人類学・思索の旅ー 最終章「オリエント」まで読了。

 いよいよ今日が仕事の最終日である。ここまで無事に仕事が出来て、感謝・感謝である。森を歩いていて出会った何室かの山の神にしっかりお参りした加護かも知れない。

 外が明るくなり始めて、千倉漁港の方まで早朝散歩に出る。今日は一転して風が冷たい。
 午前7時、防災無線から時報のチャイムが流れた。昨日の夕方5時に聴いたビートルズの「イエスタディ」には驚いたが、この朝の曲もチャイムらしからぬモダンな曲である。(曲名は度忘れした)

 散歩から宿に戻る途中で老婆に「おはよう」と声を掛けられる。そして、そのまま引き止められてあれこれと長い立ち話になって、朝食時間に遅れてしまった。

 最終の調査地は、辿り着くまでに困難を極めた。谷川を遡行しながらGPSで探索した地点がなかなか定まらず、凄いシノダケの藪を鉈で伐り払いながら目的地を探し回った。そしてようやく探し当てた森は、トゲ棘の茨が蔓延る急斜面である。

 既に正午はとっくに過ぎたが、最終日なので午前で仕事を済ませて帰る予定で昼食の用意もない。急いで調査を済ませてホッとして帰路に着いた。

 「アッ!」とMさんが声を上げた。手に持っていたGPSのバッテリーが切れたのである。GPSで録った往路のログ情報を頼りに戻るつもりが、ここからは勘が頼りの藪漕ぎである。山の中は、既に日の光が弱くなり始めていた。
 何とか日が暮れる前にと、Mさんと二人で鉈の伐り跡を必死に探りながらようやく下山したが、最終日にして相当の体力消耗だった。

 「お世話になりました。ありがとうございました!」浜金谷のフェリーのりばでMさんと別れた。そしてガランとした客席の先頭にどっかり座って、後方に去る暗い海をうとうとと眺めながら家路についた。
 

(南房総の森旅 おわり)
 

2011年2月22日(火)晴
鎌倉散歩
 昨日のうそ寒さで外出を今日に延ばし、午前中に確定申告の用紙を持って藤沢税務署に行った。

 「届出場所」の入口を入ると、既に布テープでつづらに囲った通路にはたくさんの人が並んでいる。見ると大部分が老人で、ぶくぶくに着込んだ猫背の後ろ姿は幾分うらぶれて見えても、「はい、私たちは2000億円の税金逃れなどせず(とてもできず)、この年まで真っ当に納税してますよ」と、芯には堅固な意思と律儀さを秘めているようである。

 せっかく藤沢の街まで出てきたので、久しぶりに江ノ電に乗ってみたくなった。窓口で580円の「1日乗車券のりおり君」を買ってホームに立つと、ちょっとうきうきした気分である。

 鎌倉高校前から七里ガ浜、稲村ガ崎と車窓から見える鎌倉の海は、真昼の春の日ざしにキラキラ輝いて眩しいばかりである。
 先ずはこの辺で降りようかと思ったが、いまいち決断が鈍って(昔みたいにパッと身軽に行かなくなったのが、何とも・・・)、そのままズルズル鎌倉駅まで乗ってしまった。(せっかく「のりおり君」切符を買ったのに・・・)

 鎌倉八幡宮の脇道から鎌倉宮への小道を歩いて浄明寺の山門をくぐった。
 ここは自分の気に入りの場所で、鎌倉の繁華な場所からは大分離れて人気も少なく、今まで何回となく足を運んだ古刹である。
 案の定、人影もまばらな境内には、白梅、紅梅がちょうど満開で、花の咲いた梅の枝から透かして見るお堂の風情がまるで絵に描いたようである。

 お堂の左手に抹茶が飲める喜泉庵がある。いつも通り靴を脱いで上がり込んで、枯山水の庭園を見ながらしばし静かで贅沢な時間を過ごした。

 帰りの江ノ電では「鎌倉高校前」で途中下車した。ホームから続く小さな石段の脇は墓地になっていて、振り返ると、江の島に傾きかけた日ざしが穏やかな大海原に照り返って、反射鏡のようである。
 石段を下りて国道を横切り、浜辺に出た。
 波打際で青年がラジコンを操作している。何と波に浮かんでいるのは本物そっくりのサーフボードに乗った人形で、打ち寄せる波に乗って見事に動き回っている。「本物より上手いなあ〜」 すっかり感心してしまった。

 授業が終わったのか、坂道から高校生達がぞくぞくと下りてきて、江ノ電のホームが一杯になった。そんな高校生達に混じって電車に乗り込む。
 車内は賑やかな男子高校生達のお喋りと女子生徒の笑い声である。
 いいなあ〜青春! GO!GO!GO!エイッ!クソッ! 何だか一人で勝手に興奮してしまった。