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最後のページは<1月30日>です。

2011年1月3日(月)晴~曇り
大根と土性骨
 大雪に見舞われた山陰地方の人には申し訳ないような穏やかな正月三が日だった。
 
 1月1日。
 名前も知らない歌手がいっぱい出てきて「もはや俺の時代では・・・」と紅白歌合戦を観ながらヤケッパチ気分で飲み続けた酒が祟って、二日酔の偏頭痛に苦しんだ。
 1月2日。
 箱根大学駅伝を午前8時から午後2時までテレビ観戦。その後NHKテレビが軒並み「特集○○」「特集△△」と長時間番組を流すものだから、ついだらだら観つづけて晩酌の時間に突入してしまった。

 そして今日、1月3日。
 ハッと「来年こそは・・・」という大晦日の決意を思い出して、6時に起きて早朝ランニング。それから箱根大学駅伝を生で応援して選手諸君からパワーを貰おうと、国道1号線バイパスまで駆けつけて「ワ~!がんばれ~!がんばれ~!!」と来る選手、来る選手に見境なく大声で叫んだ。(しかし俺の隣に居た二人の子連れの若いパパは凄かった。多分自分の出身大学の選手だろう、その選手が目の前に来た時の声援たるや地獄の鬼もかくやと思うばかりの号絶叫だった)

 それから、元旦には高知、桂浜からメールが届いた。Mさんからの嬉しい便りである。

 昨年来ずっと考え続けてきた重いテーマがある。いずれにせよ今年も己のやれる範囲でしっかり地に足をつけてひたむきにやるしかない。そして謙虚に新しい知識を身につけてしっかりと深く考え土性骨をすえることである。

 昨年12月、「朝日俳壇」に載っていた一句

 真っ当に 生きて大根 引きてをり (島原市 三好立夏)

 この気概と精神である。


(写真は元旦にMさんから届いた携帯メールより)
 
2011年1月10日(月)
寒(感)極まる

 日本列島に寒気が次々と入り込んで、北日本各地ではこの冬一番の冷え込みになった。
 折りしも今日成人の日を迎えた若者たちにとっては、こんなスタート日の厳しい寒気が今の世情を象徴している風にも思えてしまうだろうが、どうかめげずに頑張って欲しい。

 インターネットで調べたおやじ山の麓にあるスキー場の積雪から推測すると、おやじ小屋の周りは既に1mを超える積雪だと思われる。さらに今夜から明朝にかけての大雪情報で、雪掘りに出かける前に小屋が潰れてしまいやしないかと、いささか気が揉めるところである。

 
 昨夜はNHK大河ドラマ「江-姫たちの戦国」を観て泣いてしまった。織田信長の妹、市(鈴木保奈美)が政略的に嫁いだ筈の主人、浅井長政との間に生んだ三姉妹、茶々、初、そして江を連れて兄信長が攻める北近江の城を、自害する主人を残して脱出するシーンは、男ながらに紅涙を絞るものだった。
 そして何よりも、市を演じる鈴木保奈美の切れ長の大きな瞳が、主人長政を慕う思いの深さと戦国に生きる女の芯の強さを同時に観せて、全く溜め息が出る程に魅了されてしまった。

 ドラマが終わって老眼鏡を外し、感極まったあとの余韻に浸りながら涙を拭いていたら、カミさんが突然「あっ!風呂が冷めちゃう。まだ呑んでるんならワタシ先に入りますよ」とパタパタと風呂場に行ってしまった。「おのれェ~、主人を差し置いて、戦国の世ならば、打ち首だあ~!」と心の中で叫んだけど、漏れ出たのはやっぱり「あ~ァ」と気弱い溜め息だけだった。

 いよいよ明日から10日間、今年初めての森林調査で山に入る。寒の極まった時期で大変かも知れないが、見知らぬ土地でどんな森に出会えるか、大いに楽しみである。
 

2011年1月22日(土)晴
千葉の森旅
 1月11日から20日までの10日間、千葉県での森林調査のアルバイトに出かけて一昨日の夕方自宅に戻った。さすが疲れが溜まっていたせいか、昨晩は爆睡して正午近くになってようやく床から起き上がった。

 日本列島は寒波が押し寄せ1月一杯は寒さが続くとの天気予報だったが、黒潮洗う房総半島のこと、いくらかは暖かいだろうと高を括って出かけたが、寒いの何のって九十九里の浜に雪まで降った日があって、岐阜県調査のあの猛暑の日々が何やら恋しくさえあった。

 今回の調査地は佐倉市を皮切りに、房総半島を北から南に下りつつ佐倉市内、匝瑳市野栄、富津岬と泊り渡って合計20箇所ほどの森林を調査した。
 従来の山岳地帯の奥山の調査と異なり、比較的都市部に近い里山風情の場所が多かったが、林業に見切りをつけたか担い手がいなくなったのか、やはり手付かずのまま放置された森も何箇所かあった。そんな森には竹が蔓延り藪化した無惨な姿になっていたが、里山のこんな森にこそ近くの都市住民がボランティアとして森の再生に汗を流して欲しいと願わずにはおられなかった。

 以下は、期間中に綴った日記の一部の抜粋である。

114日(金)晴 

 佐倉旧城下町を早朝散歩。松山神社大杉を観る。のさか望洋荘泊

 5時起床。佐倉滞在は今日が最後なので朝食前に市内の旧城下町を散歩することにした。しかし6時になっても外は真っ暗である。それでもホテルを出て旧屋敷の残る佐倉新町へと向かった。
 夜明け前の町にはまだ街灯が灯ってその電柱に佐倉城主9家20大名の名前が書かれたのぼり旗が掲げられている。まだ薄暗い「おはやし館」の入口を覗き込んだら防犯用のスポットライトがいきなり点灯してビックリしてしまった。佐倉順天堂に因んだ「蘭学通り」という道もあってすっかり時間を費やし、ホテルには走って帰った。


 今日の調査林は3箇所。最後の調査地の近くに松山神社があり、その境内に「八日市場市指定有形文化財大杉」があった。昨年の三重県調査で立ち寄った伊勢神宮の大杉に匹敵するまさに威風堂々とした巨木である。相棒のMさんに記念写真を撮ってもらった。

 今日から3日間は太平洋を目の前にした「のさか望洋荘」という国民宿舎に泊る。いささか古いが落ち着いた和室の部屋でほっと安心する。

 

116日(日)晴 

 夢の創作力。九十九里浜雪景色

 夢を見て明け方3時に目が覚めた。不思議な夢だった。
 学校の国語の時間で先生に当てられて本を読まされたのである。変な話だけど、この国語の先生が、何と!同級生のKさんだった。(勝手に夢に出てきたりして、困るんだけど・・・)自分より先に当てられた生徒がスラスラ読んで、次が俺の番である。子どもの頃はひどく吃る癖があって本読みは今でも大の苦手である。
 しかしこの本の中の文章は実に素晴らしく、「」付きの会話文も挿入されている。夢の中でどうしてこんな見事な創作ができたのか不思議でしかたがない。
 ところが読んでいるうちに文字がゆらゆら踊り出して、案の定上手く読めない。立たされて読んでいるが、酔ったように足元もふらついて来た。焦れば焦るほどおかしくなって、ようやくK先生が怒ったように「もういい」と許されて椅子に座ったところで、目が覚めた。(ああ、よかった!)
「しかし、立派な文章だったなあ~」と目覚めてから感心したが、「それにしても夢に出てきたKさんは意地悪だったなあ」と苦笑いしてしまった。

 5時起床。窓から暗い外を見ると、大海原の上に明けの明星が周りに小さな星たちを従えて一段と明るく瞬いていた。
 持参した足田輝一著「雑木林の博物誌」を布団の中で外が明るくなるまで読む。

 宿の食堂で朝飯を食っていたら雪が降ってきた。まさに九十九里浜雪景色である。(夜のニュースで全国的に今日は雪降りだったようだ。ますますおやじ小屋の積雪が心配である)

 今日の調査地は山武杉の産地で、さすがしっかりした森である。そして昼飯は長嶋茂雄の出身地山武市成東町の駅前食堂で摂った。タヌキ蕎麦を頼んだが安くて(450円)いい味がでて、さらに食後にはサービスでコーヒーが出た。

 そして今日は調査元から連絡がはいり、引き続き21日からの森林調査を依頼された。既に予定が入っていたが、せっかくの機会でありお引き受けすることにした。


117日(月)晴 

 朝日と夕陽の一日

 5時に目覚めて床の中で読書。ようやく明るくなり始めて部屋のカーテンを開けると、水平線から素晴らしい朝日が昇る。思わず手を合わせてしまう。

            <太平洋から昇る朝日>

 自転車で全国行脚中のMさんは、宮崎県を飛ばして(ここが実家なので)九州各県を回り鹿児島に着いたと先日メールが届いた。「いよいよ最後の宮崎入りですね」と返事を打つと「全国制覇を目指してこれから沖縄です」とのことである。今日あたり、沖縄に渡ったかな?

 今日は2箇所調査。

 そして今日から富津岬荘に宿替え。県立富津公園の展望台に登り、今度は素晴らしい夕陽を拝む。薄い紅色に染まる夕間暮れの冬の富士も良かった。

            <伊豆半島に沈む夕陽>



1月19日(水)晴 

 泉靖一著「フィールド・ノート」。最後の晩餐

 5時起床。夜が明けるまで泉靖一著「フィールド・ノート」ー文化人類学・思索の旅ーを読む。

『民族博物館は、世界のかく民族の伝統的な生活の実態を、物質文化を手がかりに、研究し、教育する制度である。(中略)日本文化を、その周辺との比較において、あるいは世界の文化のなかで位置づけることによって、新しく認識しないかぎり、このめまぐるしい近代文明の嵐のなかで、生活水準があがればあがるほど、日本の文化にたいする国民の意識は荒廃してゆくであろう。日本文化の正しい認識のために、私たちはどうしても、日本に民族学博物館をつくらねばならない・・・・・・とウィーンの芝生のうえで、いまさらながら考えざるをえなかったのである。』(著者が1964年に旅した時の記述である。それから13年後の1977年に大阪千里万博公園に「民博」国立民族学博物館が開館し、先日滞在した千葉県佐倉市に1983年「歴博」国立歴史民族博物館が開館した)

 民俗学に対する認識を新たにし、これらの博物館をいつか訪ねてみたいと思った。

 今日の調査地は大多喜の養老渓谷近辺だった。ようやく山岳地帯のFMらしい調査地だったが、傾斜50度という凄い痩せ尾根の森林だった。

 夜7時過ぎにMさんからメールが届いて沖縄入りしたとあった。これで全国制覇が達成である。とにかくおめでとう!と返信する。

 今夜は、宿の夕飯にアワビの踊り焼きが出た。1日目の料理にはガッカリしたが、2日目にはちょっと良くなり、今日3日目はアワビの踊り焼き、刺身、煮魚、アサリご飯と見違えるほどのグレードアップである。これでもし明日も連泊したらタイのお頭付でも出るのでは?と相棒のMさんと笑い合った。
 お互いに「お疲れさま!お世話になりました~」と乾杯して、ゆっくり酒を呑む。
 明日の木更津の調査地を最後に、今回の仕事は終わりである。


2011年1月24日(月)晴
新聞の投書

 以下は、昨日の朝日新聞の「声」に載った投書である。ちょっと長いが省略せずそのまま書きます。

定年後は女房対策こそ重要  無職 松永 健 (岐阜県池田町 68)

 『定年後、何が一番変わるか。答えは女房とほとんど四六時中向き合っていることではないだろうか。女房との仲がうまくいかなければ毎日が悲惨である。定年後8年経った今、切実に感じるのは女房対策は見逃せない重要なことだということだ。
 対策の第一は台所、掃除、洗濯、買物など日常生活はとうていかなわず、「家来」にならざるをえない。だから、この分野では決して逆らわない方がいい。もし「どうしてもこれが食べたい」と思った時は、自分で台所に立つことだ。できれば、食材の仕入れから皿洗いまで全部、自分でやった方がいい。
 第二に、小遣いは家計費からもらわない方がいい。もらえばますます監視され、従属的になるだけだ。その日のために、現役時代からちびちびとためておくことだ。もちろん、「へそくり」の額は知られてはならない。
 第三の対策は、けんかにならないようにすることだ。その秘訣は会話で「NO」という否定語を少なくすることだ。つまり相手を受容するのだ。生活でどちらが正しく、どちらが間違っているということはないのだから。』

 全く、当たりである。卓見だと言える。「こんな、当ったり前のことを・・・」と思う人もいるだろうが、俺なんかは1、2、3、とも「アチチッ、アチチッ、アチチッ」だった。(別に威張るわけじゃないけど・・・)
 こうして文章で書かれてみると、普段は「へッ」と思っていることも、何やら深く認識させられるものである。いわば法事の時などに拝聴するお寺のお坊さんの説教のようなものである。

2011年1月28日(金)晴
おやじ小屋の雪掘り
 2月1日からの2回目の森林調査出発を前に、明日、明後日とおやじ小屋の雪掘りにトンボ返りで行ってくることにした。(郷里越後では、昔は屋根の雪下ろしのことを「雪掘り」と言っていた)

 関東地方は昨年の大晦日から連続28日間の記録的な乾燥が続いているとテレビが報じていたが、日本海側はこれまた記録的大雪と、NHKやら民放がこぞって長岡の雪掘り風景などを放映して「大変だ、大変だ」と騒ぐものだから、終に意を決した次第である。それに今年も海老名のNさんが一緒に来てくれるというので、実に心強い。

 昨日、郷里に住む同級生のA君に電話を掛けて「雪は、どんな具合?」と訊いてみた。「うん、市内は大したことないよ。何しろ俺達は38(サンパチ)豪雪経験してるからね。それから比べたら・・・」と意外とあっさりした答である。「しかし、山の方はどうかなあ?」と言うので、麓の長岡市営スキー場のホームページを開くと、何と!<積雪200㎝>と載っていた。(・・・とすると、おやじ小屋の積雪は! ひょっとして、小屋、潰れてないかしら・・・)

 1月25日、沖縄に渡ったMさんから、<こんにちわ。今から沖縄を離れ、帰郷します>とメールが来て、昨27日18時に、<おかげさまで無事宮崎の自宅に帰って来ました。ありがとうございました>と知らせが入った。そして早速今日は、前から予定していた電気講習会に間に合い、出席するのだという。休む暇なく未来に向ってキックオフしたMさんに、心から幸あれと願わずにはいられない。

 俺もMさんパワーを貰って、明日からおやじ小屋の雪掘りだあ~!

<写真はMさんから送られた写メールです>
2011年1月29日(土)曇り~雪
おやじ小屋の雪掘り(3時間のラッセル)
 いよいよおやじ小屋の雪掘り決行の日である。

 雪掘り手伝い人のNさんと東京駅の新幹線ホームで落ち合い、Maxとき307号に乗り込む。カラカラ天気の関東を走り抜け、「国境の長いトンネル」を越えると、まさにそこは「雪国だった」。(文豪川端康成でなくとも、列車の中でこの風景の変わりようを体験したら、誰だって自然とこんな言葉が口をついて出てきちゃう)Nさんが「おおっ~」と歓声を上げた。

 長岡駅に着いて二人で持ってきた荷物を振り分け、再度大型リュックをパッキングし直して、先ずは駅近くのスーパーで雪掘り用シャベルと2ℓ入りのペットボトル水を購入した。このシャベルで先ずは山の物置に仕舞い込んであるもう一丁のシャベルを掘り出し、水は勿論山行中の水分補給と、おやじ小屋の清水や池も雪で埋まっているはずなので、2日間の生活用水に使う算段である。

 麓の長岡市営スキー場はカラフルなウエアを身につけた休日のスキー客で賑わっていた。そして普段は車道になっているキャンプ場前の道路はクロスカントリーコースになっていて、少年スキーヤーたちが顔を赤く染めてレースを展開中である。
 そんな少年たちとすれ違いながら見晴らし広場に上る作業道路の手前まで歩いて、ここでNさんと一緒にスノーシューを履いた。そしていよいよ野鳥の森の直登コースをラッセルしながらおやじ小屋を目指した。先発ラッセルはNさんである。

 スノーシューを履いて歩き出してから約1時間で見晴らし広場に着いた。そして二人で仰天したのは、ここの展望台がスッポリ雪に埋まって、豪雪の2006年の冬に一人で雪掘りに来た時以来の光景である。Nさんは頻りに「凄いなあ~ この雪、半端じゃありませんね~」と感心していたが、俺の方はおやじ小屋の様子が俄かに心配になってしまった。

 ラッセルを交代しておやじ小屋を目指す。夏場ならものの10分程の距離だが、ここからは更に雪が深くなって斜面を何度も上がり下りしてルートを探りながらの雪中行軍である。明日、復路でのルート確保のため途中何箇所かにピンクテープを木の枝に結んで印しておく。

 見晴らし広場からおよそ2時間(麓から合計3時間)、ぐったり体力を消耗しておやじ山の入口に立った。「着いたあ~!」そしてここからは「果たして小屋は大丈夫だろうか?」と探るような感じで一歩一歩小屋に進んだ。
 「あったあ~!・・・でも・・・小屋、見えない?」眼前にあるのは大きな雪の塊(モンスター)である。おやじ小屋もスッポリと雪に埋れてしまっていた。「あっはは・・・」「うっふふ・・・」と何やら呆れてNさんと笑い合ったが、果たしてこんな大雪から小屋を掘り出して中に入れるだろうか、と危ぶまれる程だった。

 それで先ずは、おやじ小屋の玄関の掘り出しである。最初に「おやじ小屋」の看板が現れ、更に掘ると玄関の錠が見えた。そこで、「しまったあ~!」と思わず叫んでしまった。「鍵を忘れたあ~」。「エエ~ッ!ビールと酒、小屋の中ですよねえ・・・」と雪の上でテントを張っていたNさんが悲痛な声を上げた。

 こうなったら何としても他の方法で小屋を開けるしかない。大急ぎで同じくスッポリと雪で埋まった物置の掘り出しに掛かった。物置の中に工具箱が仕舞ってある。いろんな工具を取り出せば何とかなるだろう。問題は日が暮れるまでの時間との勝負である。

 奮闘の成果が実って小屋の中に入り、待望のストーブに火を焚いた時の安堵感といったらなかった。

 先ずはNさんとビールで乾杯、それから日本酒をストーブで燗をして、また乾杯。「ナニカ、ウレヒイテスネヘへへへ・・・。コンバンハ、イッショウビン、ノコサナイデ、ミンナノンテシマヒマヒョウ」などと終には酔いが回ってしまったが、夕食はおやじ山で採れたキノコとゼンマイの具で作った越後の雑煮を作って食った。Nさんも大喜びで実に美味かった。

 大雪警報が出て、おやじ山にしんしんと雪が降り続いた。
2011年1月30日(日)雪、大雪警報出る
おやじ小屋の雪掘り(おやじ山脱出)
 Nさんは小屋脇に山岳テントを張って、雪の中での野宿。俺は、Nさんには済まないが、小屋の中でストーブを見張りながら一夜を過ごす。

 昨晩の残りの雑煮汁で朝食を摂って、早速本命の屋根の雪掘りである。梯子も何も要らず、小屋から外に出れば、屋根の上である。(郷里では、昔から屋根の雪下し、とは言わないで「雪掘り」と言っていた訳がお分かりだと思う)
 Nさんは屋根の南側から攻めて、俺は北側からの雪掘りである。問題は朝点けた携帯ラジオが大雪警報を発令して、新潟県の山間部では今後60cm~80cmの積雪だと脅かしている。早く片付けて山を下らないと、昨日の踏み跡も分からなくなって遭難しかねない。

 雪掘りは、実に大変だった。昨年も手伝ってくれたNさんは「今年と比べて、全く昨年の雪下しはお遊びだったですねえ」と溜め息混じりの述懐である。
 しかし、お蔭様で屋根の雪掘りは何とか完了して、一安心である。

 小屋の中で早めの昼食を摂ってから荷物をまとめ、最後に小屋を再び雪囲いして閉じた。
 「ありがとう、ございましたあ~!」Nさんと二人で大声でおやじ小屋に挨拶して、静だが頻りに雪が降り続くおやじ山を後にした。正午を少し過ぎた時間だった。

 昨日のトレールも厚く積もった新雪で殆ど消えかけている。慎重に僅かな窪みの線を見極めながらラッセルを続ける。昨日枝に付けたピンクテープが随分とルート探索に役立った。後に続くNさんにテープの回収をお願いしながら、約1時間で見晴らし広場に着いた。ここまで来れば、もう大丈夫である。

 ここからはNさんがラッセルを引き継いで一気に尾根を下った。
 途中にマルバマンサクの冬芽の中に、1,2輪、微かな黄色い花びらを見つけてNさんが感動しながら写真を撮る。まさに厳冬の雪の中で、小さな小さな春を見つけた思いだった。

 午後2時過ぎ、麓に着いた。そしてスキーロッジの中に入り、Nさんと食堂で買い求めた缶ビールで無事を祝して乾杯した。

 予定より早く山を下りたので、予め実家のボンちゃんに頼んでおいた車での送迎を断るために電話を入れた。「無事で良かったですね。お疲れ様でした」ボンちゃんも無事の帰還を労ってくれた。

 長岡駅ビルの「あさひ山」で再び乾杯してから、新幹線の人となった。