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最後のページは<3月31日>です。

2010年3月1日(月)晴れ
早春の歌三首
 昨日曜日は時節がら税務署も開いているというので、冷たい雨の降る中を娘と二人で確定申告に行った。そして午前中には二人とも無事確定申告を済ませホッと一息ついた。

 それからせっかく雨の中を藤沢まで出て来たので「お茶でも飲んでから帰ろうか」ということになって、繁華街にあるコーヒーショップに二人で入った。丸テーブルに座り、やっぱりテレ隠しなのか娘が普段よりは饒舌に喋る話しを「フムフム」と聞いてやる。コーヒーショップを出てからも娘と一緒にデパートや大型店に寄り道して、これからコンサートを聴きに行くという娘と駅前で別れた。
 全く、娘と二人きりでこうして歩くなんて何十年ぶりである。「自分の娘と二人きりで歩くのが何十年ぶり?!」と信じられない人がいるかも知れないが、俺と同年代以上の男親とは所詮そんなだったのではないだろうか?
 久々の驚くべき体験だったが、なかなかいいものだった。

 今日からいよいよ3月になった。机の前のカレンダーを捲ると、「三月<萌月(もえつき)−若芽の萌え出ずる光まばゆい季節−>」と印刷してあった。
 今朝の朝刊に載っていた歌三首。

  初蝶へ手を伸べし兵狙撃さる (川辺 了)

 「西部戦線異状なし」のシーン。初蝶は兵の故郷への思いか?

 うつし世の闇深ければきこえけり寺山修司のマッチ擦る音 (岡田正子)

 どうかわが祖国が平和でいい国になりますように・・・  

 吾が魂も不屈なるべし蕗の薹 (野尻徹治)

 俺も我が身を励まして、今夜10時の船で伊豆七島へと旅立ちます。最後の帰還は3月20日過ぎ。その頃にはずっと春も深まって、まさに光まばゆい季節になっていることでしょう。
 
2010年3月2日(火)曇り
利島村にて(荒波越えて)

 昨夜の10時に東京竹芝桟橋を出航した「かめりあ丸」が朝6時に大島に着いた後、目的地の利島を通り越してしまった。4mの波で接岸できないのだという。2等船室のDデッキから甲板まで上がって出てみると凄い風と波で、三角形の利島が白波を被って遠のいて行く。それで次の式根島もパスして8時半に新島に着岸した。
 
 今回の利島での植生調査のメンバーは合計4人で、3名はバリバリの専門員で私は補助員としての参加である。その4人が新島で下船し、漁船をチャーターして利島に渡ることにした。こんな荒海を果たして小さな漁船で乗り切れるのだろうか?

 これから10日以上滞在するそれぞれの大きな荷物をゆらゆら上下動する漁船の船長に受取ってもらい、船に飛び乗って急いで船室に潜り込む。東海汽船で既に船酔いしたというMさんは早速ビニール袋を手に握り締めている。

 それからおよそ1時間の航海は悲惨そのものだった。あぐらをかいた尻が50pも飛び上がってはドスンと船底に落下して腹にズシリと響くのである。その度に「オォ〜!オォ〜!」と声を上げていたMさんを笑っていたTさんも、途中からMさんと一緒に悲鳴に近い声を上げたほどである。

 荒波に翻弄された漁船も無事利島の漁港に着岸した。岸壁に上がったMさんに、「酔いませんでしたか?」と聞くと、「こんなに揺れると怖くて酔って吐く暇などありませんでした」と真顔で答えていた。

 一年前の調査でも滞在した民宿「しんき」に荷物を下して、早速仕事開始である。車で島内の何箇所かを回ったが、夕方ウグイスの初鳴きを聴いた。

2010年3月3日(水)晴れ
利島村にて(島の春)

 今日のひな祭りに相応しい利島の穏やかな春の陽ざしだった。

 6時に起きて朝食までの間散歩する。ウグイスの上手な鳴き声が青空に抜けるように響いて、「ケ〜ン、ケ〜ン」とキジの鳴き声
も聞こえてきた。
 午前7時半、利島着岸を知らせる東海汽船の汽笛が「ボ〜!」・・「ボ〜!」と二度響き渡った。

 今日は仕事の合間に、スミレの仲間では一番咲きのアオイスミレを見つけた。島の春である。

2010年3月5日(金)晴れ、気温20度、南西の風強し
利島村にて(平和な海)

 昨日は気温が一気に下がった。強い北風も吹いてホカロンを両足と背中に貼り付けて作業をした。午後4時頃からは冷たい雨も降り出して辛い作業となった。
 
ところが今日は一転、全く夏の気候である。天気予報では最高気温20℃と報じていた。

 午前中の仕事が早く終わったので、11時に一度宿に帰った。そして昼飯までの間カメラを持って島内散策である。
 朝の散歩でいつも立ち寄る長久寺にも行ってみた。お堂の裏手には直径が1mもあろうかと思う威風堂々のクロマツが生えている。そしてお寺の境内には村民有志で昭和20年代に建立したという「戦死者の碑」があって、日中、太平洋戦争でこの島から出征して犠牲となった11名の若き兵士の名が刻まれてあった。
 ・・・・・・
梅田良一 昭和十八年三月三日 ニューギニア方面にて戦死(行年二十二歳)
前田 隆  昭和十八年六月八日 戦艦むつの艦上にて殉職(行年二十四歳)
笹岡文夫 昭和二十年七月一日 レイテ島カンキーポット山にて戦死(行年二十六歳)
 ・・・・・・
そして碑文の最後の方にはこんな言葉(歌?)も書いてあった。

・・・嘆けども、散る花は枝にかえらず。・・・

胸がしんとなって静かに境内を後にする。民宿に戻る坂道からは今は平和となった太平洋の大海原が青々と広がって見えた。

午後は標準調査。17時に終了し宿に帰る。





2010年3月6日(土)大雨
利島村にて(雨に打たれて)

 午前に標準調査2箇所実施。途中から強い雨になる。
 
昼食で一度宿に戻り、午後の出発を見合わす。部屋で待機していると激しい雨足がガラス窓に打ち付けてちょっと首をすくめる感じである。
 3時前、雨の中を調査に出掛ける。ビショビショになって午後5時宿に帰る。

 夕食の時、食堂で宿の女将さんから「3時ごろ出掛けて行ったけど、あんな雨の中何処に行ったのよ?」と聞かれたけど、4人ともむっつり黙って何とも答えようが無かった。

2010年3月7日(日)風雨、気温低し
利島村にて(雨・・・雨)

 冷たい雨である。南の島なのにもろに強風が吹くと気温がぐっと下がる。ぼうぼうと唸りながら吹き付ける雨風にツバキ林が大きく揺れて、ビショビショの手先がかじかんで直径巻尺が上手く持てなかった。
 夕方、宿に帰ってからの熱い風呂が嬉しい。

2010年3月8日(月)曇り〜晴れ
利島村にて(タカの渡り)

 ようやく雨が上がった。しかし風は収まらず、朝5時の村内放送で本船の欠航をアナウンスしていた。
 朝の散歩を再開。黒々と広がる海に盛んに白兎が跳んでいる。


 昼間は幾らか日射しが出てきて、身体が温まって嬉しい。そして今日の午後4時半ごろ、仕事を終えて車に乗ろうとした時、この利島と大島の中間の海上高く50羽ほどのタカの群を見た。集団で北上しているようだったがサシバの渡りだろうか?そしてこれらの何羽かがおやじ山にも来てくれるのだろうか?胸が高鳴る思いだった。

 民宿「しんき」には何組かの仕事で来ている人達が泊っているが、夕食時、数日前まで泊っていたヤー君(タイ出身の自動車整備士)から女将さんに電話が入った。女将さんがニコニコ話してから「はい、ノブちゃんに代わるね」と受話器が渡った。ノブちゃんと言っても建築現場の社長さんである。こうして食堂で何日も顔を合わせているとみんな仲良くなってしまうのである。

2010年3月9日(火)暴風雨
利島村にて(「エェ〜!」の効果?)

 朝のテレビが「関東地方は雨雪の大荒れ」と報じている。最高気温は6℃までしか上がらないという。

 今日は「しんき」に新たに
何組かの作業者が入ることになっていて、我々4名は民宿「かおり荘」に宿替えである。それで朝食の時、会計係のMさんが女将さんに今までの宿代の精算をしてもらった。
 女将さんがテーブルの上で電卓を叩きながら4人分の宿代を計算して、紙に書いてMさんに渡した。その精算書をTさんが横から覗き込んで、いきなり「エェ〜!」と大声を発した。食堂で飯を食っていたみんながビックリして一斉に顔を向けたほどである。民宿料金としては安いくらいだと思っていたのでTさんの反応に私もビックリしたが、訳知りのMさんとSさんは笑っている。
 4人で食堂を出た途端、「居酒屋の勘定ではこの手で値切ってたけど、最近はさっぱり効果なしです」とTさん。「ここでいつものエェ〜!が出るとは思わなかったなあ。エェ〜!はもうTさんのトレードマークみたいなもので・・・」とMさん達も苦笑いである。(しかし、こんな手を平気で使えるTさんは可なり胆の据わった御仁である)

 午前中、軽トラで「かおり荘」に荷物を運び入れて早速宿を飛び出て調査地を回る。何箇所かの花実調査と伐倒地の下見。
 午後は予報通り大嵐になってSさん達は部屋で内業と打ち合わせ。私は高橋八十八氏の「森の手紙」の再読。そして自分でまとめた「アウトドアーノート」のページを捲って殆ど消えてしまった知識の再インプットをはかる。

 夜10時からのNHKテレビで「プロフェッショナル<仕事の流儀>」を観る。石川県能登出身の77歳の現役杜氏農口尚彦氏がゲストで、司会の茂木健一郎の「酒造りで一番大切なことは?」の質問に次のように答えていた。

「物(酒l麹)に対する愛情」
「ごまかそうと思ったら駄目」
「人としての生き様が酒に出る」
(そして「プロフェッショナル」とは・・・)
「自分に厳しいこと」

「エェ〜!」と値切りつつ、俺も農口杜氏の爪の垢でもと・・・

2010年3月10日(水)雨〜曇り
利島村にて(利島村小・中学校)
 自分だけ予定より1日早く明日の本船で帰ることになった。天候が荒れ模様で機会を逃すと島を脱出できなくなるというメンバーの皆さんの配慮である。

 それで今朝の散歩ではデジカメを持っていろいろな所を写真に撮った。早出の学校の先生に許可を貰って校庭に入り、創立120周年の利島小学校と創立50周年の利島中学校の校章のモニュメントをデジカメに収めたり、全校の生徒達で自画像を描いた大きな壁画を撮ったりした。利島小学校の校章は利島の名花サクユリのデザイン、利島中学校の校章は島内に20万本あるという島の花ヤブツバキのデザインである。

 午前中は、今日も雨の中の仕事。昼飯で宿に戻ると部屋の窓からは荒波の中を東海汽船の本船が大きく揺れながらの着岸中で、その上をチャーター便のヘリコプターが飛んでいるのが見えた。

 午後は幾分空が明らみ、作業を終えてから島内を熟知しているSさん達に南ヶ山園地に案内して貰った。強風が吹いていたが、白波が立つ眼下の海原に、一番手前が鵜渡根島、その奥が新島、左に三宅島と御蔵島、右の手前が式根島、その奥に神津島が霞んで見えた。まさに伊豆七島中5島が望まれる絶好のビューポイントだった。
2010年3月11日(木)晴れ
利島村にて(くさやの食べ方)

 朝8時半、宿を出て仕事に向うSさん、Tさん、Mさんを車の脇で見送る。「かおり荘」の主人は、今日の本船の着岸は「条件付き」(つまり、船が近くまで来て様子を見て決める)だと言う。乗船予定は正午頃で、それまで大分時間がある。部屋に居ても落ち着かず、ガラス窓を何度も開けては海の様子を確認した。

 「今日は本船に乗って帰る」と一旦決めると何としても船に着岸して欲しいという思いが強くなって、港まで歩いて様子を見に行った。赤灯台の桟橋は大きな波が打ち寄せて、じっと見続けていると何やら不安が募ってくる。 「こんなに真剣に海を見続けたことって、今までなかったなあ〜」と不思議な感慨を覚えてしまった。

 踵を返して村への坂道を登り始めると坂の途中に軽トラが停まっている。赤ちゃんを負ぶったままの若いおカミさんで、運転席から心配そうな顔つきでじっと海を見つめている。本船での夫の帰りを待つのか、あるいは漁に出た漁船の帰りを心配しているのか・・・。「島の人たちの生活は、いつもこの風と波とともにあるんだ」と今更ながらしみじみと思った。

 待望の(東海汽船にこんな思いを持つとは・・・)本船が利島港に着いた。降りて来た人3人、乗り込んだ人、私ともう一人のたった2人。そして大島で本船を降りて熱海港行きのジェット船に乗り換えて帰ることにした。

 早速時間までの間、岡田港のみやげ物店の食堂に飛び込んで島焼酎(御神火)と名物の「くさや」を注文する。くさやを焼いてる独特の匂いが食堂中に広がって待望の(またまた待望ですが)皿が出てきた。「・・・ん?」箸が付いてない。テーブルにも?置いてない。「スミマセ〜ン!あの〜箸が無いんですが〜」と奥に向って頼むと、「あれまあ!あんた見たらお箸使わないヒトだと思っちゃった」と言われてしまった。酒の肴でくさやを食う時は、食べなれた人なら手で毟りながら食う。そして指に付いたくさやの脂(汁?)をチュッとしゃぶっては島焼酎を煽るのが粋な島男の作法みたいなものである。という事は・・・すっかり島の男に見られたという実に名誉なことではなかったか?

 島での滞在中に身体の中の酒の浸透膜がすっかり抵抗力を失ってしまい、全く清純な乙女のような吸収力である。島焼酎にすっかり酔ってしまって全身脱力したままジェット船の人となった。

2010年3月13日(土)雨
第4回あさひ日本酒塾(卒塾の日)

 利島の出張疲れが残っていたが、今日は記念すべき「あさひ日本酒塾」卒塾の日である。

 朝5時前に起きて身支度を整え(何年ぶりかでスーツに赤色のネクタイを締めた
)、辻堂5時50分発の東海道線に乗って東京駅に着いた。7時の新潟行Maxときに乗るつもりで新幹線ホームに上がると、何とスノーボードを抱えた若者達でごった返している。自由席でもゆっくり座れると思っていたが今が大学の春休み中だとは迂闊にも気がつかなかった。満員の自由席で立ったまま越後湯沢まで行き、ここでようやくガラガラに空いた席に座った。

 午前10時から始まった第4回あさひ日本酒塾のスケジュールは、午前と午後で代表者4名づつの卒論発表、同じく午前と午後に記念講演が1講演づつ(午前の講演は元朝日酒造専務で銘酒「久保田」を創った嶋悌司氏、午後は先の2月13日開催の「酒屋唄コンサート」をプロデュースした茂手木潔子氏)、3時過ぎからは卒塾式で朝日酒造の社長さんや朝日蔵と松籟(しょうらい)蔵の杜氏さんも参加される。そして最後は料亭「彦三楼」での待望の卒塾記念懇親会である。

 まさか「あさひ日本酒塾」で卒論があるとは思わなかった。ましてやみんなの前で発表させられるとは夢にも思っていなかった。私の発表は午後の部のトップで、何と午後からは地元のテレビ局も取材に来ていた。
 午前の4名の発表は「酒の歴史」だったり、毎回の帰りに渡された6銘柄の酒のマッピング評価だったりと凄く格調が高いのだ。俺の卒論というと、利島行きの前に慌ててパソコンで叩いたA42枚にも満たない作文のようなもので、朝日酒造のCSRの取り組みに対する評価と、今回の塾に参加したことで松代町のHさんと知り合い、Hさんのお蔭で同じ松代町に住む「森の手紙」の著者高橋八十八氏のご夫婦の写真を頂戴したり尊敬する氏との手紙の交換ができたことのお礼を述べた。

 卒塾式では司会の小嶋さんから一人一人の名前を呼ばれて、松井塾長から「久保田」のラベルと同じ和紙で作った修了証書を受取った。その様子をプロカメラマンの鈴木孝枝女史が盛んにフラッシュを光らせ、取材のテレビ局もレンズで迫って、なかなか緊張感のあるいい式典だった。

 そしていよいよ待ちに待った宴会である。ここでは今年の新酒品評会に出したという朝日酒造自信の極上酒が膳の前に並んだ。そして「乾杯〜!」の大合唱で呑んだこの酒のうまいことと言ったら・・・もう・・・
 宴が盛り上って朝日蔵の木曽杜氏、山賀副杜氏、そして松籟(しょうらい)蔵の郷杜氏の3人が会場の裾に立った。これから「酒屋唄(酒造り唄)」を披露してくれるという。会場がしんと静まり返って3人の杜氏の歌声が朗々と響き渡った。

 ♪ヤー 櫂玉揃えて ヨーイガサイサイ ヨーイガサイサイ
 ♪ヤー 目出度ナー 目出度いヤー (ハー ヨーイガサイサイ) この屋の館
 ♪ヤー 黄金ナー 切り窓ヤー (ヨー ヨーイガサイサイ) これさ銭すだれ
 ♪ヤエ 目出度ナー 目出度のヤー (ハー ヨーイガサイサイ)若松様ヨ
 ♪ヤエ 目出度ナー 栄えてヤー (ヤー これこそ銘酒だ) コレサ葉も繁る
 ・・・・・・・
(「ス・ス・ス・スバラシイ!!」)涙が出てきた。品評会用極上酒を飲み過ぎて感情の糸がプツンと切れてしまったのかも知れない。

 長岡駅に着いてから同級生だったA君を電話で呼び出した。A君は私を「あさひ日本酒塾」に誘った張本人で卒塾者の長岡OB会のまとめ役でもある。A君明日新潟で日本酒の何とか検定試験を受けると言っていたけど、夜遅くまで私に付き合ってくれた。A君、大丈夫だっただろうか?

2010年3月20日(土)夜から大荒れ
大島にて(アルバイト終わる)

 「あさひ日本酒塾」から帰っての翌3月15日、伊豆大島に渡ることになった。利島の植生調査に引き続いての大島での調査である。

 熱海港発9時50分のジェット船で大島岡田港に着くと、利島でご一緒だったTさんとMさんが東京便で先に着いていて桟橋まで車を用意して待っていてくれた。 「またよろしくお願いします」と互いにニコニコと挨拶を交わして、これから1週間ほど
滞在する元町港近くの民宿「大陣」に荷物を下した。

 早速午後からは作業着に着替えて島内を車で走り回った。そして17日までの3日間を車を駆っての同じ調査に費やしたが、ずっと昔、もうかれこれ30年も前になるが大島と三宅島での魚釣りに凝ったことがある。波浮港近くの磯であったり大島飛行場下の磯に入って釣竿を出して夢中になっていたが、それらの思い出の場所を車から垣間見て実に懐かしかった。いつも大物狙いで餌はサザエ、トコブシ、ウニと奮発して高級食材を使ってやったが、何年間で本命が釣れたのは1匹だけ、それも30cmにも満たない子どもの魚だった。全く夢や幻を追いかけて益々頭に血が上っていた時期だった。
 島での魚釣りが昂じて、ある年の正月を波浮港近くに宿をとって家族で過ごしたこともある。その時にぶらついた町のあちこちも今回の調査で思い出深く立ち寄ることが出来た。

 18日からは伐倒調査が始まった。島内の業者さんのグループも加わってピリピリと張り詰めた空気の中で作業が続いた。
 期間中は20℃を超える日があると思うと一転して冬の寒さになったりと、目まぐるしく天候が変わった。そして3月20日から21日の春分の日にかけては「日本列島大荒れ」の天気予報で、また今回も自分だけ一足先に島を出ることになった。

 20日午前中の仕事を終えて、昼食前にSさん、Tさん、Mさんの3人に岡田港まで送っていただいた。港で「お世話になりました」と頭を下げて3人と別れ待合室に入る。まだ出航までには時間が早く、待合室はガランと人気が無かった。二階への階段を上がって畳部屋に腰を下ろし、ゆっくりと汗ばんだ作業着を着替え始めた。身体が徐々にほぐれて、安堵といくらかの満足感が込み上げてきた。

 3月1日から続いた伊豆の島でのアルバイトがようやく終わった。
 






2010年3月31日(水)曇り
サクラ咲く

 昨30日は風もなく穏やかな春の陽ざしに誘われて近くの大庭城址までジョギングに出かけた。伊豆大島から帰って以来、殆ど家に居て運動らしい運動もしていなかったので桜の花見を兼ねての身体慣らしである。

 城址公園に着くとさすがこの辺りの桜の名所で、ウィークデーにも拘わらずあちこちにグループが陣取って賑やかにやっている。若い大学生のグループがあり、業界団体らしき花見酒で顔を赤らめているグループがあり、可愛い幼稚園児の集まりがありと、全く微笑ましい日本の春の風物詩である。

 開花宣言以来、寒波襲来で足踏みしていたソメイヨシノも4分咲きといったところだろうか?大庭城址の奥の方にあるヤマザクラの大木は2分咲き程度と見た。少し散り気味だったがコブシの白い花が青空に眩しく映えて、公園の坂道の法面にはタチツボスミレが所々に咲いていた。








 そして今日で3月も終わって明日からは春本番の4月である。今朝のNHKのテレビニュースの合間に中継でチラリと長岡の東山が映り、「オッ!おやじ山の場所だ」と身を乗り出した途端に映像が切り替わってしまった。未だ雪に覆われた白い連山の風景がしばらくの間瞼に残った。あと数日後にはその山に入り雪解けの山懐で暮らしを始める予定である。