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最後のページは<2月27日>です。

2010年2月6日(土)晴れ
宮崎の山旅を終えて
 昨日、宮崎県の森林調査のアルバイトを終えて自宅に帰って来た。2月1日からの丸4日間、熊本県との県境に近い山奥で過ごした。

 今回の仕事も先月三重でご一緒させていただいたKさんとペアで、体力的にはかなり厳しい内容だったが越後の山や関東では見られない貴重な風物を見たり体験できたりした。
 以下は5日間の旅日記です。
2010年2月1日(月)曇り時々雨
宮崎の山旅(1日目、清い身体)

 今日から2月5日まで、森林調査のアルバイトで宮崎出張である。会社を定年退職して以来、飛行機に乗って旅行するのは3年前に同級生仲間と北海道スキーツアーに行ったのと今回の宮崎旅行の2回きりで、嬉しくて仕方がない。

 8時半にKさんと羽田空港で待合わせをして、ANA603便で午前11時前には宮崎空港に着いた。早速予約してある空港近くのレンタカーの事務所で手続をして、勇躍ニッサンの四駆車X−TRAILで目的地へと向った。
 「南国ムード一杯だなあ〜。いや〜感動だなあ〜」と背の高いワシントンヤシの葉がそよぐ植栽道路を走り出した途端に、きょろきょろ助手席から身を乗り出して一気にオクターブが上がってしまった。

 途中、190円のかけうどんと各種トッピングを自分で選んで食べるセルフの食堂で昼食を摂り(安くて実に美味しかった!グルメのKさんはこういう店を瞬時にして探す特殊な才能があるようである)、一ツ瀬川に沿って国道219号線を西にひた走った。
 
 着いた所は、宮崎県西米良村。国道の道路標識には熊本県人吉まで35kmとある。この県境沿いの山々が今回の調査地点だった。

 早速長靴に履き替え、狩猟の鉄砲撃ちから身を守るためのオレンジベストやヘルメットで身支度を整えて最初の調査地に突進した。つい先ほどのトロピカルムードとは正反対の鬱蒼とした暗い森の山は、午前中に降った雨でガラガラと岩石が転がり落ちて危険極まりなかった。

 午後4時過ぎに今日から4日間お世話になる民宿に着いた。夕食には鹿肉の刺身が出た。今日からは身体が資本である。若いKさんは晩酌をやらないので私もお酒抜きでとにかく腹一杯食べた。腹をパンパンにしてアルコール中毒も紛らわせなければならない。そして早々に床について布団をかぶった。久々のアルコールに毒されないこんな清い身体でうまく眠れるだろうか?

2010年2月2日(火)晴れ
宮崎の山旅(2日目、バナナ落とし)
 やはり日本の西に位置する地である。夜明けが遅い。朝の6時半でも外は真っ暗だった。

 7時半に「行って来ま〜す!」と民宿のおかみさんに大声を掛けて宿を出た。そして先ずは昼食の調達である。けれどもここ宮崎県西米良村にコンビニなどはない。そこで何と隣の熊本県まで越境して球磨盆地の中に位置する湯前町まで走ってコンビニに入った。とって引き返して再び県境の横谷トンネルへと坂道を登ったが、朝日を浴びた霧が県境の山肌を覆って何とも幻想的な風景だった。

 午前中、険しいラリーコースのような林道の急坂を、何度も車から降りて道路上に落ちてきた大きな岩石を取り除きながら走り登って調査地点に到達する。

 そして午後一番の調査は、今度はドロドロにぬかる山道である。しかし道路脇は綺麗な渓流で、ここで珍しや谷川を上流に向って飛ぶアオバトを見た。さらに山道を車を大きく揺らしながら走り続けると、今度は道路上につがいのアオバトである。直前まで気付かずにKさんと同時に「おッ!」と声を上げたが、実に美しい鳥だった。この鳥はおっとりと構えて車が直近に寄るまで逃げないのである。この道を走りながら都合アオバトを8羽(同じつがいを2度見たかも知れない)見たが、野鳥観察のプロでも場数を踏まない限り会えない鳥だというから全くラッキーという他ない。(因みにおやじ山でも「ウゥゥ〜」と独特の低音で鳴くアオバトの声を聞いたことがあるが、姿を見たことは一度もなかった)
 眺望のきく山腹に出ると行く手は伐り出した木材を運ぶ架線の土場(どば:運搬する広場)だった。先へと進むことができず残念ながら来た道を引き返す。

 今日最後の調査地の途中に天然のバナナ林があった。正式にはバショウ(英名はジャパニーズ・バナナ)である。霜に当たって葉の一部が黒く萎れていたが、調査を終えた帰りによくよく見上げると、バナナが生っている。それでKさんと二人でこのバナナを落とそうと棒切れを投げたり石ころを投げたりしたがなかなか当たらない。肩が痛くなって止したが、私は「今日は体力消耗し切ったからなあ」と負け惜しみの弁である。Kさんは、「今度ブーメランでも練習して来よう」と悔しそうに呟いていた。

2010年2月3日(水)晴れ
宮崎の山旅(3日目、天包山のクマイチゴ)

 今日も7時半に宿を出て、先ずは県境のトンネルを越えて熊本県湯前町のコンビニで昼食の調達である。
 Kさんは自分の音楽CDを何枚か持っていて、X−TRAILを運転しながら聴いているが、朝一番の曲はいつも決まっていて、女性シンガーの曲である。私はもちろん今まで聴いたことのない曲だが、テンポはいわば100mを全力疾走した直後のドキドキ打つ心臓の鼓動のスピードで、そのリズムで女性が「♪アッ・アッ・アッ
・アッ・アッ♪」とスキャットしたり、「△□×・△□×・・・」(日本語である)と私には意味不明な単語を囁くように歌う。「ほ〜今どきはこういう曲もあるんだ」と最初は何の気なしに聴いていたが、そのうち何やら体が火照ってきてめらめらとヤル気が湧いてくるのである。助手席でうつらうつらしていた身体もシャキンとしてしまうから不思議である。
 そして一仕事終えた後は、「ジャック・ジョンソン」(はい、Kさんから教えていただきました)などのちょっと緩やかな曲がかかる。やっぱりいつまでも森繁だ都はるみだから脱却しないとダメだなあ、と反省する。

  午前の調査地は天包山(1198m)に向ってどんどん林道を駆け登って、かなり標高の高い所の皆伐跡地だった。林道からも相当の距離があり、傾斜40度は超えると思われる土石流の痕跡が残るガレ場を必死にトラバースして調査地点に着いた。一面の枯れた萱の茂みにクマイチゴやタラノキのトゲトゲの茨が蔓延り、その下には運搬不能で切り捨てられた木材がゴロゴロ転がっているという凄い難所である。
 植林地を皆伐した跡や地ごしらえ直後の若苗を植えた場所では、先ずはこのようにキイチゴ属などの先駆樹種が生える。この茨類の刺は植物が新芽や果実を動物の食害から保護するためにある、と言われているが、宇江敏勝氏(紀州の林業家でエッセイスト)によると、茨の刺が風に揺れて植林直後の杉の穂を痛めることから「生存のライバルである身近な他の植物を攻撃する武器だということもわかった」と著書に書いている。

 クマイチゴや萱の難所を無事脱出して、昼飯は麓の民家近くの川縁で摂った。西米良村は「ゆずの里」の看板もあり、この民家の前にもたくさんの実を落としたゆず畑があった。そして綺麗に石組みされた段々の田圃が冬晴れの太陽を浴びて何とものどかな風景だった。

 午後の仕事を終えて猛ダッシュでくねくね林道を下り(Kさんのラリーもどきのハンドルさばきに珍しく車に酔ってしまった)、再び湯前町まで越境して「湯楽里」という温泉に行った。そして広い露天風呂に浸かって体のあちこちにできたクマイチゴの引っ掻き傷とパンパンに張った足の筋肉をほぐした。











2010年2月4日(木)晴れ
宮崎の山旅(4日目、アカガシの森)

 いよいよ今回の調査もラストスパートである。今朝も女性シンガーの「♪アッ・アッ・アッ・アッ・アッ♪」のスキャットにメラメラとファイトを滾らせて急カーブ林道をラリーの如く駆け上った。

 「ここから歩きます。直線距離で600mあります」Kさんがガタンと車を停めて言った。「はい、了解です!」車を飛び降り後方に小走ってハッチを開け、長靴、オレンジベスト、ヘルメット、山刀を手早く身に着け、そして赤白ポールや計測器の入ったリュックサックを背負ってKさんの準備を待つ。ここまでは極めて軽快である。
 「それでは行きま〜す!」KさんがGPSで最初の位置探索をしてから一気に凄い傾斜の斜面を下った。遅れまいとその後を必死で追う。心配になる程どんどん下って上では水音さえ聞こえなかったザーザーの谷川を渡り、今度は急坂の登攀である。足が途端に重くなって両手で木の根っこや枝を鷲掴んで懸垂登攀で足の筋肉をカバーする。

 この調査地の途中でおやじ山ではもちろん、関東の山でも殆ど見られないアカガシの森に出会った。この木は非常に堅くて、カンナの台や木刀、ゲートボールのスティックなどに利用されるという。
 しかし、相当の体力消耗である。アップダウンを入れたら結局何キロ歩いただろう?

 午前中にはもう一箇所調査した。落石がゴロゴロ転がっている林道を車を大きく揺らしながら走って、尾根の端に出た。眼下に一ッ瀬ダムのダム湖が見える急傾斜の伐採地で、やはり跡地は冬枯れた萱で覆われていた。

 2箇所の調査が終わってこの眺望のきく尾根で昼食を摂った。風もなく柔らかい冬の陽ざしがポカポカと顔面を温めてくれて、全く目を閉じて眠ってしまいそうである。

 午後の調査地も車を停めてからの長い徒歩での尾根越えだった。
 終わってKさんが言った。「これで今回の調査は全て終わりました。ご協力ありがとうございました」

 今日の宿は宮崎市内の中心街にあるホテルである。チェックインして早速バスタブに熱いお湯を入れて疲れた筋肉をほぐす。そして夕食はKさんお勧めの宮崎名物「チキン南蛮」のお店だった。柔らかい鶏肉を頬張りながら4日ぶりの冷えたビールがまさに五臓六腑に染みわたった。

 お疲れ様でした。Kさん、今回もお世話になりありがとうございました。

<宮崎の山旅 おわり>

2010年2月10日(水)曇り
煮菜(にな)

 郷里から長岡の郷土料理「煮菜」の贈り物が届いた。まるで「早う長岡に来なせえてえ」と、明日からのおやじ山入りを見通してせっついているかのようである。

 贈り物はHさんの奥さんからで、煮菜の他に筍とジャガイモと身欠き鰊の煮物(それにコンニャクと油揚げも一緒に炒めてある)、甘酒、自家製コンニャク、これらは全て奥さんの手作りである。さらには里芋、さつまいも、そして菜の花(菜花)も添えられて大雪の郷里で春の訪れを待ち望んでいる様子が伝わってくる。
 煮菜は体菜という漬け菜を塩出しして潰し豆と一緒に煮る長岡の郷土料理で、冬季に青物が欠乏する雪国の人たちが、いよいよ春を迎える時期になってこの漬け菜を加工して作るまさに郷愁を誘う食べ物である。  
   
 「ありがとう。届いたよ!」と早速Hさんにお礼の電話をすると、「長岡を思い出してもらおうと思ったこて」と笑っている。明日からおやじ小屋の雪掘り(長岡では屋根の雪下ろしのことをこう呼んでいた)に行く事を伝えると、里の田圃で1.5mほどの積雪だから山では3mはあるかも知れないと言っていた。(インターネットの楽天トラベルで麓の長岡市営スキー場の積雪を調べると、今日の正午時点で2m40cmとあった。おやじ小屋が潰れてないことを祈る)

 今回のおやじ山入りは森林インストラクター神奈川会のNさんと一緒なので心強い。そして13日は楽しみな朝日酒造の第3回日本酒塾に出席して、15日にはNさんと二人で下山する予定である。
 4年ぶりの大雪でおやじ小屋の様子が心配だが、深い雪に覆われたおやじ山に帰れると思うと嬉しくて仕方がない。

2010年2月11日(木)雪
おやじ山の冬2010(小屋を開ける)

 今日から5日間の予定で冬のおやじ山に入ることにした。今回は雪のおやじ小屋を是非体験してみたいという森林インストラクター仲間のNさんと一緒で、小屋の雪掘りも手伝ってくれるという。
 出掛ける前のメールで、「今年は雪が多くてテントや重たい酒瓶も背負って行くので大変ですよ」と伝えると、Nさんは「酒は一斗でも担いでおやじ山に入りましょう」とすこぶる意気軒昂だった。

 約束の午前4時にスノータイヤを履いた4WD車でNさんが自宅まで迎えに来てくれた。「ちゃんと眠れた?」と訊くと、「いや、嬉しくてあんまり・・・」と予想通りの答である。
 中央高速の八王子インターから圏央道経由で関越道をひた走って、長岡南越路インターで下りたのは午前10時半である。インター近くにあるスーパーで当面の食料を買い込み、さらに実家に寄って雪中行軍のためのスキー用のストックを2組借りた。ついでに清酒「八海山」の差し入れまで貰って嬉しい限りである。
 
 おやじ山の麓の長岡市営スキー場は今日が祝日とあって大賑わいだった。そのスキーロッジ内にある事務所に寄って15日までおやじ山で仕事をする旨を伝えてから、Nさんはスノーシュー、私はカンジキを履いて雪山登山の開始である。時間は12時20分、歩き始めると同時に灰色の空からアラレ混じりの粉雪がぱらぱらと降り始めた。この雪は積もる雪である。

 Nさんも私も75リットルの大型リュックサックにテント泊の道具一式と食料、酒(Nさんは「八海山」の一升瓶、私は缶ビール半ダース。これがまた余計に重たいのである)などをぎゅうぎゅうに詰め込んで、まさに汗だくの山行だった。
 見晴らし広場に着いたのが午後2時、雪の無い時期には20分程の距離を1時間40分かかった。そしてここからさらに1時間費やして(普段なら10分足らず)ようやくおやじ小屋に辿り着いた。小屋は、無事だった!
「いや〜先がどれくらいか見えなくて、苦しかったです。私、ナメてました」Nさんの感想である。

 おやじ小屋周りの雪は2m強というところだろうか。そして屋根の雪は杉木立に覆われているせいで1m2、30cmと予想外に少ない。これなら雪降ろしも楽勝でホッと胸を撫で下ろした。

 先ずは暗くなる前に各自のテント設営。Nさんは小屋の前に、私はおやじ池の脇にテントを張った。それからNさんと二人で水場(おやじ池)やトイレまでのルートにシャベルで雪の階段をつけ終えてから、いよいよおやじ小屋の雪囲いを解いた。
 
 早速囲炉裏に炭火を熾してNさんと先ずはビールで乾杯した。「お疲れさ〜ん!!」待ちに待った瞬間である。冷えたビールがピリピリと喉にしみて身体が一気にとろけるような感じである。
 そして「八海山」とNシェフ(滞在中ずっとこの役割をしてくれた)料理の餅入りラーメンで小屋入り初日の楽しい祝宴だった。

 夜中、あまりの寒さに目を覚ます。テントを這い出てブルブルと小屋に置き忘れたホカロンを取って戻り、体中に貼り付けて更に服を着込む。全身火の玉となって、ようやく安堵してぐっすり眠った。

2010年2月12日(金)小雪
おやじ山の冬2010(おやじ小屋の雪掘り)

 目が覚めても寒くてなかなか寝袋を出る気にならない。それで寝袋に包まったままでぐずぐずと歯磨きをして、6時半にようやくテントを這い出た。
 小屋に入ると既にNさんが囲炉裏に炭を熾して朝食も準備してある。カミさんと一緒にキャンプしてもこんな事は皆無で、まったく夢のようである。

 午前中はNさんに屋根に登ってもらいおやじ小屋の雪掘り(雪降ろし)をやってもらった。私はスノーシューを履いておやじ山を一回りし杉林などの様子見である。幸い倒れたり折れたりの被害は殆ど無いようだった。
 雪山のあちこちに獣の足跡が走っていて、ノウサギ(正式にはトウホクノウサギ。昔は山兎と呼んでいた)の「トン・トン・パー」の足跡などを目で追うと、二羽が出会ったり戯れたり(雌をめぐっての雄どうしの決闘かもしれない)の様子などが想像できて思わず笑ってしまう。ノウサギの交尾期は早春で、その頃には積雪の上に濃いオレンジ色の尿を雌ウサギが散らしているので
分かるが、42日間の妊娠期間を経て餌が豊富になった春の終わりには仔ウサギが生まれるという。

 Nさんの奮闘で午前中には懸案のおやじ小屋の雪掘りが終わってしまった。

 そして午後からは、今度はNさんがスノーシューで雪山トレッキングに行き、私は降ろした屋根の雪を積み固めて昔懐かしいカマクラを造った。こんな遊びをしたのは何年ぶりだろう。

 今日は小屋にデポしてあるダッチオーブンを出して豚肉の燻製を作り早々と「八海山」で酒盛りである。(これも全てNさんがやってくれた)
 「艱難辛苦を乗り越えて運んで来た酒は、やっぱり美味いなあ〜!」と二人で盛り上って、今夜もまた沈没してしまった。(写真の一部をNさんからご提供いただきました)

2010年2月13日(土)晴れ
おやじ山の冬2010(第3回あさひ日本酒塾)

 「おはようございます!朝食の用意ができました」Nさんの元気な声がテントの外で聞こえた。(ああ、死ぬまで一度でいいからカミさんのこんな声を聞いてみたい・・・) 昨夜のアルコールですっかり脳が崩れていたが、Nさんのコールに励まされてテントを這い出た。そして今日の朝食は、たっぷりの野菜ときのこ入りの煮込みうどんである。

 今日は第3回あさひ日本酒塾の開塾日で、二人で山を下りてNさんに車で朝日酒造まで送ってもらうことになっていた。
 午前8時、カンジキをつけ素晴らしい冬晴れの中を買出し用の空リュックを背負って麓に向った。三ノ峠山の峰から顔を出した朝日が、裸の木々に積もった雪をまるで宝石のようにキラキラと輝かせて息を呑む美しさである。Nさんと二人で「凄い風景だなあ〜」「感動するなあ〜」と溜め息混じりの歓声を上げながら、今日こそは足取りも軽快である。下山は最短コースの赤道尾根をキャンプ場まで下りて、車が停めてある駐車場に着いた。


 開塾時間ギリギリの10時に朝日酒造に着いて、外で待ち受けてくれた事務局の人に先導されて会場の「朝日蔵」に飛び込んだ。

 最初の講義はY副杜氏の「モロミ」の話と三段仕込みのモロミ樽の見学。発酵段階の違う巨大な樽を覗き込みながら泡の状態を確認したり大きな猪口に入ったサンプルを口に含んだりした。「ぷあ〜」と美味そうに声を出して飲んだら、事務局のKさんから「この後は利き酒の講義ですから、ここであまり飲まないで下さい」と注意されてしまった。

 2番目の講義はいよいよ「きき酒」である。用意された酒は、「大吟醸 朝日山萬寿盃」「越のかぎろい千寿」そして「朝日山 生酒」の3銘柄である。最初にこれらを口に含んでから、次に後ろに並んだノーラベルの酒瓶の酒をそれぞれ口にして、どの瓶がどの銘柄かを当てるのである。
 今日の塾生20名中、全問正解は4名。もちろん、私もその中の一人である。テスト前の講義では「きき酒」をする前夜は決して呑み過ぎてはいけない。何故なら「利き酒」が「迎え酒」になっては官能が働かなくなる、と学ばされたが、その悪条件を見事克服しての全問正解である。(後でNさんにこの事を言うと「やっぱりおやじ山に居ると神経が研ぎ澄まされるんですかねえ」と妙に感心していた)

 午後は、朝日酒造本館のエントランスホールで開催された「酒屋唄」の聴講だった。我々塾生が会場に着いた時にはホール一杯の聴衆で、NHKのテレビまで入っていた。
 「酒屋唄」(または「酒造り唄」)は蔵人が歌う労働歌で、仲間同士の息を合わせて作業を円滑に進めたり、唄で時間や量を計ったり、冬期の寒さ凌ぎや出稼ぎの寂しさを紛らわせたりといろいろな意味合いがあるという。そして近代化された酒造りの中でこれらの唄が廃れつつあり、古くからの「酒屋唄」を守っていこうと朝日酒造が全国で初めて行う酒造りの文化イベントだった。

 <チャリン・・・チャリン・・・チャリン・・・>と凍てつく越後の冬の夜を思わせる電子音から舞台が始まった。そして50人の「越後酒屋唄を歌う会」の混声合唱、川上杜氏の朗読と続き、いよいよ6人の杜氏達の酒屋唄が始まった。「米洗唄」「もとすり唄」「数番唄」「二番櫂」「三ころ」「切り火」などの「酒屋唄」がエントランスホールに響き渡った。最初は午前の「利き酒」が効いてかウトウトしていたが、<エンヤーレ>と高い調子の雄叫びに続く唄に<アー、ドッコイ・ドッコイ>と野太く呼応するハーモニーには打たれてしまった。

 今日の最後の講義は「ぐいのみ作り」だった。隣接する越州陶芸工房に行って初体験の焼き物作りに挑戦である。

 今回は待望の「懇親会」が無かった。何となくガッカリである。それでも課題酒の「久保田 紅寿」「参乃越州」の手土産ににこにことNさんの待つ長岡グランドホテルに帰った。

 夕食は長岡の繁華街に繰り出した。予めNさんがインターネットで探してくれた居酒屋である。このお店名物のつくねや地魚のノドグロを頼んで、久々の熱燗で娑婆の空気を味わった。
 

2010年2月14日(日)晴れ
おやじ山の冬2010(ムササビ対面)

 昨晩はおやじ山の雪のベッドからホテルの本物のベッドに身体を休めて体力を回復し、10時半過ぎに麓から再びおやじ山に入った。もちろんNさんと私のリュックサックには、スーパーで買った食料の他に清酒「朝日山」の一升瓶、それに缶ビールが入っている。

 今日も越後の冬にしては珍しい晴天で、我々の他にカンジキを履いた一人の登山者が同じ赤道尾根のルートを登って行った。そしてポカポカと柔らかい陽ざしの中を、雪景色や動物たちの足跡の写真を撮りながら12時におやじ小屋に着いた。


 早速囲炉裏に火を焚き、昼食は越後の「こがね餅」を焼いて宮内摂田屋で醸造された醤油「越のむらさき」を付けて頬張る。Nさんは頻りに「うまい、うまい」と美味礼賛である。(後日談:Nさんは帰りのみやげに「越のむらさき」の瓶を2本も買った。そして「醤油をお土産に買ったなんて初めてです」と笑っていた)

 午後、Nさんはスノーシューを履いてブナ平まで雪山トレッキングに行き、私は杉の木に縛り付けておいた二連梯子を雪の中から掘り出して、春に取り付けた巣箱の中の掃除をすることにした。積雪がかなりあるので「フクロウの家」の屋根あたりまで梯子が届くし、下に落ちても雪でまあ大丈夫である。
 雪に突き刺し太いホオノキに立て掛けた梯子を上って先ずは巣箱の屋根に積もった雪を手で払った。そして屋根(上蓋)のフックを外して中を覗くと、「あれ〜!ムササビだあ〜」と彼女(彼か?)のクリクリした眼と目が合ってしまった。ムササビにとってはまさに青天の霹靂であったに違いない。慌てて蓋を閉めて梯子を降りて「さて、どうしたものか?」と思案したが、驚かさないようにもう一度梯子を上って彼女の写真だけは撮らさせてもらってそっと梯子を外した。

 Nさんがミズナラの枯立木に生えた立派なヒラタケを採って小屋に戻って来た。デジカメのモニターでムササビの写真を見せると「いいですねえ。おやじ小屋のすぐ脇にムササビが棲んでいるなんて・・・」と驚いていた。
 それからNさんに頼んでヤマガラが巣作りした小さな巣箱を掃除してもらい、今日も早々と夕食である。

 Nシェフの今夜のメニューは、鮭の切身、野菜、キノコの具にバターと塩味を付けたアルミホイール焼き、餅入りガンモドキ焼きの刻みネギ散らし、ネギのホイール焼き「越のむらさき」垂らし、それに身体ポカポカ燗酒である。
 おやじ小屋の外は冬の星座が瞬いていた。
 

2010年2月15日(月)雨
おやじ山の冬2010(小屋を去る日)

 5時半起床。雪ではなく、テントを打つ音は雨である。ラジオを点けるとNHKの全国ニュースで朝日酒造の「酒屋唄」のイベントを報じていた。

 朝食を食べ終わって雨のしょぼ降る中でテントを撤収する。それから小屋を閉め、再びドアの前に雪囲いをして全ての帰り支度を整えた。
 「ありがとうございましたあ〜!」帽子を取って大声でおやじ小屋に挨拶して、山を下った。

 国道17号線沿いの「越後川口道の駅」に寄って買物をしてから関越道で月夜野インターまで走り、老舗「猿ヶ京ホテル」の立派な温泉に浸かっておやじ山での疲れを癒した。

 風呂を上がって格子戸の出入り口から広い脱衣場に出ると、そこの半分程が一段高い畳敷きの座敷になっている。その真ん中の囲炉裏にはどくだみ茶の入った茶釜が沸かしてあって、風呂上りに自由に飲むことができる。
 私が服を着ていると、一人の老人が裸になってこれから風呂に入るところで、何と湯殿ではなくて別方向の座敷に上がった。「あれ?素っ裸でどくだみ茶でも飲むのかな?」と思って見ていたら、そこも通り過ぎて座敷の隅に造作された違い棚の上に立った。そして一瞬考える風にしていたが、その奥の障子を張った格子戸の窓を開けたのである。見えたのは、外の庭である! ビックリしたようにバタンと格子戸を閉めて私の所まで下りて来た。そして「風呂はどこかいのう?」と訊いたので、「そこですよ。ホントにここの入口は小さい格子戸で紛らわしいですねえ」と答えながら思わず笑ってしまった。

 午後8時、再びNさんに自宅まで送っていただいて、おやじ山で過ごした冬が終わった。

「おやじ山の冬2010」おわり

2010年2月18日(木)晴れ
ガーラ同級会

 今日は高校時代の同級生4人で、毎年恒例になったガーラ湯沢でのスキーツアーだった。私以外の3人はつい先日に北海道まで行って滑ってきたので、いわば中高年のスキーオタクの部類である。

 東京駅のホームでKさんFさんと待ち合わせてガーラ湯沢行きの新幹線に乗り込んだ。T君は先に車で行って現地で待っているという。車内はガラガラだった。そして終点のガーラで同じ車両から降りたのは私達3人と若者のカップルの5人だけだった。

 「滑れるうちに滑っておかないとねえ」とKさんもFさんも毎年決まって何やら老人くさく言いつつ、一旦ゲレンデに立つや、今どきの若者を遥かに上回るパワーで雪煙たてて滑り下りる。私がガーラツアーに参加したのは5年前からだが、この二人のダイナマイト滑降はこの先10年は間違いなく続くはずである。(その時、俺はスキーロッジで手を震わせながらお酒啜っているだけだけど、一緒に参加してもいい?)

 「ヤアーヤアー」とT君とも合流して、急ぎ身支度を整えてゴンドラに乗り込んだ。高度が上がるにつれて、見事な冬晴れの雪景色がどんどん眼下に広がってくる。
 スキーロッジのあるゴンドラの終点でスキーを履き、さらに4人乗りのリフトに乗り継いでいよいよゲレンデの頂上に立った。
 全く何という素晴らしい光景だろう!晴天の陽の光に眩しく目を細めながら眼前に広がる雪山の風景に感動してしまった。 左に巻機山、正面が柄沢山、そして小さなマッチ箱を並べたような白い湯沢の街並みの向こうは大源太と奥朝日岳、その奥は幾分霞んで見える谷川連峰の山々である。

 何本かのコースを滑ってからスキーロッジで昼食を摂った。私はKさんやT君と同じ生ビールとT君推奨の銘酒「鶴齢(かくれい)」を飲んだ。地元塩沢では「八海山」よりは人気があるというだけあって、キリリと締まったいいお酒である。(帰りの越後湯沢駅でお土産に買ってしまった)

 午後は一時雪が降ったりして天候が幾分悪くなってきたが、皆元気に滑り下りてはリフトの乗り口に並んだ。そして4人並んでユラリと登った何回目かに、開催中のバンクーバー冬季オリンピックの話題が出て、それからトニー・ザイラーの話になった。(知ってる?1956年の冬季オリンピックで史上初のアルペン競技三冠王となったオーストリアの20才の若者)そのうちKさんとFさんがリフトに揺られながら彼を主人公にした大ヒット映画「白銀は招くよ!」の曲を歌い出したのである。

 ♪処女雪ひかる〜 ひかる〜♪
 ♪冬山呼ぶよ〜 呼ぶよ〜♪
 ♪ヤアヤッホー! ヤアヤッホー!♪
 ♪こだま〜がこたえるよ〜♪

 ♪何だか今日はいいことが、ありそな気がするよ〜♪
 ♪ステキな恋の前ぶれか、カモシカ跳んでいる〜♪
 ♪・・・・・・・・・・・

 リフトの上から白いガーラの山並みに染み入るように響き渡ったその歌声は、じっと目を閉じてさえ聴けば、まさに若き乙女の歌声だった。「ああ!齢60を過ぎてからではなく、46、7年前のあの高校時代に、このようにこの耳元でこの歌声を聴きたかった!」人知れず無念の心を乗せてコトコトとリフトは上って頂上に着いてしまった。「あ〜あ・・・」

 午後4時まで滑ってゲレンデを後にした。そしてT君の車で越後湯沢駅まで送ってもらい、駅構内の「酒の温泉」に浸かった後に天ぷらそばで打上げの夕食を摂った。

 気のおけない昔の同級生仲間との実に楽しい一日だった。

  

2010年2月27日(土)雨
女子フィギュアスケート

 新聞を開いても、どのテレビチャンネルを観ても「バンクーバー!バンクーバー!」でいささか食傷気味になっていた冬季五輪も、いよいよ明日で閉幕である。

 とは言っても、昨日行われたフィギュアスケート女子フリーでの日本の浅田真央と韓国キムヨナとの金メダル争いにはドキドキハラハラと釘付けになった。クルクル回転する前の緊張感がこちらにも伝わってきて、その度に心臓が苦しくなってしまった。無事着地すると「ホッ」と息をついて握り締めていた手を緩め、次にはいつ飛び上がって回転するかと途中の演技など上の空で気が気でない。
 しかしこの女子フィギュアスケートの回転競技は禁止してもらいたいと思っている。理由は「失敗すると転ぶ」からである。短いスカート(あのヒラヒラもスカートと呼ぶのだろうか?)をはいた若い女性が大観衆の前であられもない姿を晒すのは正視に堪えない。私などは選手が転ぶたびに「ああ〜」ともう気の毒で気の毒で、思わずテレビから大きく顔を背け、窓の外に咲いた豊後梅を見て心を静めるほどである。

 2日前の25日には関東地方に春一番が吹いた。そして悩ましかったオリンピックフィーバーもまもなく終わって、ようやく穏やかな春の音が聞こえて来るのかも知れない。

 3月1日から伊豆のある島に渡って植生調査の仕事に加わることになった。一足先に春に出会えそうである。