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3月27日からの「おやじ山の春2009」をアップしました。(6月16日)

2009年3月3日(火)曇り~雨
ひな祭り
 先月末から伊豆七島の利島に来ている。ある自然調査班のメンバーとして参加させてもらっている。メンバーの殆どが30代、40代のバリバリのプロ集団で、そんな中で自分も混じって仕事ができることが本当に嬉しい。
 調査初日から不順な天候が続いて、冷たい雨の中の調査では手がかじかんでしまったりしたが、昨日は幸い晴れて、朝食前に島内を散歩しながら写真を撮ったりした。
 利島は周囲8kmの円錐形の島で、およそ180世帯300人が住んでいる。逗留した民宿から歩いてすぐの所に利島村小・中学校があり、その校門のすぐ前に長久寺という古いお寺がある。境内には樹齢370年以上、幹周り4.4mというクロマツの大木があり、その脇には30柱の神々を祀った番神堂跡があることから「バンジン山のクロマツ」の名称で地区のシンボルになっているのだと、案内板に説明があった。
 あちこちの角度から写真を撮っていると、早朝出勤の学校の先生だろうか、校門の前から「おはようございます!」と先に大声で挨拶されてしまった。
 そして今日も午後から雨になり、夕方には冷たい風も吹いて南の島とは思えない寒さである。
仕事を終えて食堂に集い、食事をしながらテレビを観ていると東京に雪が降り始めたというニュース、そして今日のひな祭りの行事が画面に流れた。「そうか、もう今日は3月3日のお雛様かあ~」と、何となく以前新聞のコラム欄に書いてあった記事を思い出した。
 それは福井県丸岡町が毎年主催している「一筆啓上賞」が通算100万通を超えたという内容で、その中である年の受賞作が紹介されていた。50代の主婦の作品で、コラム氏のコメントにはこう書いてあった。「娘・妻・母である50代の平凡だが、平穏の半生のハイライトだろうか」と。その作品とは、

<「いのち」の終わりに3日下さい。(1日目)母とひなかざり。(2日目)あなたと観覧車。(3日目)子供達に茶碗蒸しを>

私には、長い闘病生活を送っている一人の女性が、自らの残された命を見据えた末に、女としての人生最後の生き様を激しく願望した文面だと解釈するのだが・・・
 





2009年3月10日(火)晴れ
シマテンナンショウと壁画
 6日、離島での8日間の調査の仕事を終えて家に帰って来た。期間中、お日様の顔を見たのは2日間だけで、南の島でも冷たい雨の降る肌寒い毎日だった。海も白波が立つ時化の日が続き、最後の晴れ間をぬってチャーターした漁船で島を脱出した。
 島に渡り何日か経って、仕事にも慣れ、宿の生活にも馴染んで、ちょっとした仕事の合間に写した島内の自生植物と朝食前の散歩で写した写真である。
 アシタバ(明日葉)やツワブキなどは何の変哲もない植物だが、越後の山菜採りの目からは、島のあちこちに生えているこれらの食材は「ああ、もったいない」とちょっと捨て置けない気持ちになる。
 珍しかったのは「サクユリ(の芽)」と「シマテンナンショウ(島天南星)」である。サクユリはヤマユリが伊豆諸島で分化し、特別大きな花を咲かせるようになった種である。(「利島さくゆり」というこの球根から作った少し甘めの島焼酎があった)
 そしてシマテンナンショウだが、仏炎苞の中からベロンと伸びた黒紫色の紐にぎょっとさせられるが、以前島ではこの根っこから澱粉を精製して食材として使っていたのだという。「ヘンゴダマ」と呼んで、芋を茹でて臼でついて餅のようにし、砂糖やきな粉をつけて食べるそうである。(テンナンショウの種類は概して毒草だが、日本海側に生えるヒロハテンナンショウなども、方言で「ヤマコンニャク」というから、昔は喰ったのかも知れない)
 調査中の一休みで座った傍にいっぱいシマテンアナンショウが生えていて、雄株か雌株か仏炎苞を裂いて調べてみた。(テンナンショウは雌雄異株で生育途中で性転換する)左の並べた写真の左が雌花、右が雄花である。この右の雄花に小さなハエなどが入って花粉を体に付け、筒の底に空いている穴から這い出て、今度は左の雌花の筒に入って受粉させる。ところがこの雌株には脱出穴が無くて、中に入ったハエはこの仏炎苞の中で死ぬのである。(写真の雌株を裂いたら小さな昆虫が飛び出して、命を助けてやった)

 島民の穏やかな人情と篤い信仰心も朝の散歩で確認することができた。全ての家々の玄関には紙垂(しで)を付けた注連縄(しめなわ)が張られてあり、長久寺の境内には、太平洋戦争で犠牲になった島の若者11人の霊を慰める戦死者の碑があった。碑文の中に、望郷の思いも空しく帰らぬ人となった若者達を待つ家族の気持ちだろうか、「嘆けども 散る花は 枝に帰らず」と刻まれてあった。
 そして小・中学校の裏のコンクリートの大壁には、多分全校生徒で描いたであろう壁画があった。この絵を微笑ましく眺めながら、「ああ、この島の子供達は皆が兄弟・姉妹なんだなあ~」と、たまに兄弟げんかはするだろうけど、決してこの村にはいじめなどは無いことが良く良く分かるのである。















2009年3月22日(日)曇り時々雨
島帰り

 日記のタイトルが、何やら流刑地から免罪されて帰還するような響きですが、ちょっとそれに似た感じがしないでもない。 一昨日の夕方、5日間の調査の仕事を終えて大島から帰って来た。前回の利島での調査と合わせて13日間の仕事だったが、無事に終わってホッと解放された気分である。(後はカミさんとアルバイト料の争奪戦をやらないとダメなので、いささかブルーな気分が残っているけど・・・)
 今回は総勢15名のメンバーで、私と同じ補助員の中には、東京大学大学院で森林科学専攻の海外からの留学生なども居て、仕事の合間にいろいろ面白い話も聞かせてもらった。しかし何よりも今回の5日間は好天に恵まれて、利島での冷たい雨の環境からは別世界の感がした。
 例によって、朝6時には床を抜け出て定宿の周りを散歩した。元町港にも歩いて行ける距離に宿があって、その途中の長根浜公園にある藤森成吉の「若き日の悩み」の文学碑を見たり、何と懐かしきゴジラの石像が公園内にあったりして、その脇の看板に「ゴジラは水爆実験の影響で地底から生まれてきたと言われているが、実はここ大島の三原山の噴火口から生まれてきたのです」と力んだ調子の説明文が書かれてあって、笑わされてしまった。
 さらに朝の散歩で、きれいに境内が掃き清められた浄土宗「潮音寺」にも足を延ばし、その近くにある保元の乱で敗れ大島に流された源為朝の館の跡なども観て回った。
 島の森は利島と同じくヤブツバキが優先種だが、原生林にはヤブニッケイやヤマザクラ、シキミ、シロダモ、イヌマキ、それにFさんから教えていただいた「八丈イボタ」などが茂り、ある調査地点の近くには天然記念物に指定されている「シイノキ群叢」(スダジイの巨木林)があったが、見る機会を逸してしまった。
 20日最終日の午後、私は岡田港から出航する熱海行きのジェット船で帰ることにした。メンバーの大半はこの船から約1時間半後に出航する東京竹芝行きである。そしてこれらの仲間の人達に大きく手を振られて熱海船に乗り込み帰途についたのである。






2009年3月25日(水)雨
ホロ苦さ

 まだ現役の方には申し訳ないが、今朝は少し寝坊をしてゆっくり起きた。昨夜は、高校時代のいつもの仲間6人で顔を合わせ、愉快な春の宴となった。おやじ山へ出かける前の壮行会をやってもらったような気分である。
 そしてやはり今月13日と14日、森林インストラクターの仲間の皆さんからは箱根で泊りがけの楽しい壮行会を開いていただいた。昨年秋にそれぞれがおやじ山で摘んだサルナシやガマズミ酒を持ち寄って飲み比べの品評会を開き、大いに盛り上ったのである。この夜はSさん発案の「森の食文化研究会」なるものが立ち上がり(Sさんは万事ネーミングが得意で、自らも「湘南の樵」と称したりしている)、私は晴れてこの会の「名誉会長」に就任させられたのである。
 そして今日は、おやじ山に出かける準備である。昨日新潟に住む次兄からのメールには、新潟地方の花の名山「角田山」のカタクリの花は、「例年より1週間も早く満開です」、と実に気を揉ませる内容だった。
 しかし、いよいよこれから楽しみなおやじ山の山菜シーズンが始まる。今は亡き文豪「開高健」は山菜の味覚について次のように書いている。

<物にはおびただしい味、その輝きと翳があるが、もし”気品”ということになれば、それは”ホロ苦さ”ではないだろうか。 山菜のホロにがさには”気品”としかいいようのない一種の清浄がある。この味は心を澄ませてくれるがかたくなにはしない。ひきしめてくれるがたかぶらせはしない。ひとくちごとに血の濁りが消ていきそうに思えてくる。>

多分、明日にはおやじ山に出発します。またしばらく「日記」を休みますが、どうかご了承ください。






おやじ山の春2009
2009年3月27日(金)雪
おやじ山の春2009(山入りの日)

 昨3月26日の午後藤沢の自宅を車で出発し、今日の午前3時におやじ山の麓のキャンプ場に着いた。 関越トンネルを新潟県側に抜けると凄い雪で、50km/h制限の高速道路をひやひやしながら運転して小千谷インターから国道17号線に出た途端に、何とラッキーな、ラジオが積雪による高速道路の閉鎖を告げた。
 キャンプ場の駐車場で仮眠をとり、午前7時半に見晴らし広場まで通じる作業道路のゲートを開けて車で山道を登った。10cmほどの積雪だったが雪でハンドルを取られたりして途中で車を降り、そこからは当面の小屋生活の道具を背負って雪道を歩いた。

 久々のおやじ山に来て、それも春の新雪に出迎えられて嬉しくて仕方がない。シワシワの若葉を出したばかりのムシカリやピラピラ金糸卵のような花びらのマルバマンサク、それに春一番の桜、オクチョウジザクラの淡いピンクの花筒の上にも真っ白い雪が積もって、ウキウキ・ワクワクと眺めてはカメラのシャッターを押し続けた。越後の県花ユキツバキも純白な雪帽子を被って、紅色の花びらとの見事なコントラストである。

 早春の山の闖入者に慌てて逃げたヤマドリの足跡があり、小屋の脇に積んだ薪の上でホンドリスがビックリしたように一度伸び上がってから雪の上を疾走した。そしておやじ池を覗くと、今年もクロサンショウウオの白い透き通るような卵塊が幾つも産み付けられてあった。
 蕾を出したばかりのカタクリとショウジョウバカマも春の雪に迎えられて何とも寒そうである。

 日中は小雪が降ったり止んだり、そしてぱっと陽も差したりと忙しい天気だったが、夜はしんしんとボタン雪が降り続いた。

 囲炉裏に火を焚きゆらめく炎を見つめながら気を落ち着かせようと試みたが、やっぱり込み上げて来る嬉しさにいつまでも興奮が覚めないのである。
 









2009年3月28日(土)雪~曇り~晴れ
おやじ山の春2009(銀世界)

 朝目を覚まして小屋の外に出てみると、一面の銀世界である。積雪は12,3㎝というところか。気温は0℃、キリッとした素晴らしい雪の朝である。
 朝飯など食ってるヒマは無いとばかりに、急いで昨日作業道路の途中に乗り捨てた車に当面の荷物を取りに行く。雪山歩きに必要なフリース、山用靴下、下着、それに伊豆のKさんに作っていただいた野鳥の巣箱などである。

 それにしても何と言う素晴らしい景色だろう!「昨日おやじ山に着いたばかりで、何も焦ることはないなあ~」と、ようやく我に返って辺りの景色に見入った。これからおやじ山で過ごす時間はたっぷりとある。

”キ・ヴァ・ピアーノ・ヴァ・サーノ・エ・ヴァ・ロンターノ”(ゆっくり行く人は、安らかに、遠くまで行く)
願わくば、イタリアでは有名なこんな格言のようにやってみたいものである。



 山道の途中、新雪がついたマルバマンサクに目を細め、テンやノウサギの足跡に訳もなく「ほほう~」と頷き、エナガだろうか?梢に留った野鳥を見上げながら、「俺一人でこんな景色を独り占めし、何と贅沢な!!」と思ってしまう。

 今日も天候が目まぐるしく変わった。日が差し雪が解け出すと、おやじ小屋から谷川に下りる南斜面にはカタクリとキクザキイチゲの群落が顔を出した。フキノトウ、ショウジョウバカマ、それに春一番のアオイスミレも咲いている。
 
 
 午後には野鳥の巣箱を小屋から見える杉の木に取り付けた。(本当は巣箱の鳥と目が合うと駄目だと言うけど・・・) 早速シジュウカラとヤマガラがやってきて巣箱の争奪戦である。はて?どちらが棲みついてくれるだろうか?

 夜は初物のフキノトウで味噌汁を作って食べた。美味かった。












2009年3月29日(日)雪、時々晴れ
おやじ山の春2009(ダイヤモンドダスト)

 今日も一日中、目まぐるしく天候が変わった。朝7時頃小屋の外に出た時には10cmほどの積雪だったが、午前中に結晶の大きな綿雪が降り、積雪は15cmほどになった。それでも時々ぱ~ッと陽が差し、一瞬にしてモノトーンの世界が眩い光の世界に変わるのである。

 小屋の中のデッキで寝そべったまま、自宅から持参した自然観察会のメモ類をノートに書き写していると、100年杉の葉に積もった雪がこんな一瞬の陽差しに
解けて「ドスン~!ドス~ン!」と屋根に落ちてくる。波板のトタン1枚張っただけの屋根なのでいちいち首をすくめるほどの大音響である。サッシ窓を開けて杉林を見上げると、頻りに杉の梢から雪の塊が落ちてくる。見ているとその雪塊が中空でパッと砕け散り、杉林を射抜いてくる春の陽を浴びてキラキラと輝くのである。
何という美しさだろう!まさに細かく砕いたダイヤモンドを中空にばら撒いたような、息を呑む光景である。

(ダイヤモンドダストとは、正式には気温が氷点下10℃以下で発生する大気中の水蒸気が昇華してできる小さな氷の結晶のことです)

今日はほぼ1日、囲炉裏の火で暖をとりながらメモをノートに書き写し・・・

2009年3月30日(月)晴れ
おやじ山の春2009(99円)

 6時に起きた。東の峰の空の青が見る見る澄んだ水色に変わって、今日は好天の兆しである。一昨日杉の木に取り付けた巣箱に、シジュウカラとヤマガラのペアが代わる代わるやってきて、頻りに下見を繰り返している。そんな光景を目にしながら、昨年の末にやり残した杉林の枝打ちを、ちょっと時期外れになったが、今のうちにやってしまおうか?などと考える。

 しかし今日は、自宅から持ってきた食料(とお酒)が切れたので街に下って買出し
することにした。それに温かいお酒も飲んでみたくなって(こっちの方が本命だったりして)、わずか数日ですっかり衰えた巷の抵抗力を、居酒屋の煙と垢で補強することにした。

 買物が終わって、長岡駅近くの「いさり火」という居酒屋に入った。「どれどれ・・・」とメニューを見ると<○○499円><××599円><△△399円>・・・と殆どの酒肴の値段が99円のオンパレードある。これって、酒飲みを馬鹿にしてないか?本来の数字を偽装し、酒飲みの酔眼で「安い!」と見誤らさせて騙そうとしているのではないか? 例えば、例えばだけど、<501円><401円>と値を付けたとしたら、「う~ん、この店は500円では原価ギリギリ、儲けも出ない。それでせめて1円プラスしてお客様にお願いしましょう」という誠に殊勝な気持ちが表れて来ないか? え?来ない!?

おやじ山の風に晒されてまるで吸い取り紙のように澄んだ心も、あっという間に巷の空気を吸い込んで、垢まみれ煙まみれになってしまった。
 

2009年3月31日(火)
おやじ山の春2009(J子の詩)
 (今までおやじ山に居てこんなことは初めてだけど)昨晩は長岡駅のホテルに泊まった。そしてパリパリシーツのベッドで足をうんと伸ばしたり、ぎゅっと膝を抱えたりする喜びを味わった。寝袋で寝ると袋の筒が狭くて膝を曲げて抱えることができない。それで足がだるくなってしまう。
 
 膝を抱いて眠れる嬉しさで興奮したせいか、夜中に目が覚めた。ベットから起き上がって開け放していたカーテンの窓から下の覗くと、金沢行きのブルートレインがちょうど長岡駅のホームからひっそりと滑り出るところだった。時計を見ると午前3時10分、上野23時3分発のブルートレイン「北陸」である。

 そんな夜汽車をホテルの窓から見送って、ふっと遠い遠い昔のことを思い出した。それは自分のシュトルム・ウント・ドランクの時代、たまたま東京のアパートで隣り合わせた一人の女性のことである。名前はS・Jさん、確か九州の長崎からブルートレインに乗って一人上京してきたのだと言っていた。
 そんな彼女のことを、当時の青い若者が詩に書いた。

「J子の詩(うた)

酒のんで 酒のんで 

たばこを吸って 詩を書いて

議論しかけて バカヤロウ


親は死ね 親は死ね

人は嫌いと 会社やめ

花見て泣いて コンチキショウ

 これからの長い山小屋生活のために、ホームセンターで1.5ℓ入りのポット、ホワイトガソリン2缶、それに小ぶりの鍋も1つ買って、山に戻った。