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2009年2月2日(月)
国家の品格(その3)
 会社を定年退職してから昨年末で3年が過ぎた。人との付き合いは会社時代と比べると格段に減ったが、新たな友人ができ、そして昔の学生時代の同窓生達との付き合いが復活してきている。同窓生達とは年に数回しか顔を合わせないが、いずれもワイワイと肩肘のまったく張らない仲間達で、こんなにありがたい友人はいないと思っている。
 先月末にも久々に高校時代の同窓生7人が都内に集まり、随分遅い「新年会」をやった。Sさんが「関君、ゼンマイって秋生るのよね」と真面目な顔で言ったりして(そりゃ、ゼンマイも秋にはふてぶてしい藪になって繁茂しているが、普通ゼンマイといえばやっぱり春の山菜時期のことで)大声で笑い合ったりした。やっぱり、楽しかったなあ~ 
 昔を振り返ると、例えば会社時代、何やらがむしゃらにやってきて、そのせいか実は大切なものを忘れてしまっていたが、今こうして気のおけない仲間達に出会うと、その大切なものを少しつづ取り戻せるような気がして、嬉しいのである。

 そして先月中旬、私の母校、新潟県立長岡高等学校の同窓生、丸山義雄氏から一冊の本が贈られてきた。題名は「至誠に生きた人々」、日頃彼がブログに書き綴っていたものを一冊の本に纏めて出版したのだという。丸山氏は高校時代生徒会長を務めた校内一の俊秀で、彼の歴史や古典、漢文などの豊富な教養と詳細な調査によってまとめられた一文一文が実に平易で、かつ読み物としても面白かった。そして、今の社会が忘れてしまった大切なものを気付かせてくれる一冊だった。

 「至誠に生きた人々」はテーマ別に第一話から第六話まである。しかしこの著書の中心になっているのは第一話で、北国会津藩幕末期の武士群像とそれを支えた会津女性の事績の紹介である。戊辰戦争により最後の会津藩主となった松平容保(かたもり)公を頂点として、この時代を堂々と武士道精神で生きた秋月梯次郎、山本覚馬、山川浩、健次郎兄弟、そして会津女性の山本八重子、山川唐衣や大山捨松などの事績を鮮やかに描き出している。
 またこの第一話で、慶応四年の戊辰・北越戦争で、長岡藩河井継之助率いる東軍と西軍が朝日山・榎峠で激突したが、ちょうどこの場所が2004年の新潟県中越地震で、当時二歳の皆川優太君が岩の間に90時間も閉じ込められて奇跡的に救出されたエピソードなども紹介している。この場所は信濃川の「妙見堰」がある所で、ここに古くから祀ってある妙見菩薩のご加護があったからではないか、と丸山氏は書いている。
 戊辰戦争の終結となった会津藩の降伏式で西軍の代表となったのは、薩摩藩の中村半次郎である。この降伏式で中村半次郎は敗者の会津藩主松平容保公に対し、勝者の奢りを微塵も見せず、容保公退出まで深く頭を垂れて見送った。会津武士道の「什」と同じように、薩摩藩にも若者を地域ぐるみで教育する「郷中(ごじゅう)」という教育制度があったが、武人が武人を遇するこの中村半次郎の立派な態度は、この「郷中教育」に深く関わっている、と丸山氏は書いている。
 第五話「寮歌」は、旧制第一高等学校から第七高等学校までの寮歌の紹介と、それにまつわるエピソードである。この最後に、我が母校長岡高等学校のことが書いてある。
 新潟県立長岡高等学校は、明治五年に米百俵の精神をもって設立された。その米百俵の精神とは、長岡藩が戊辰戦争で敗北した時、友藩三根山藩から長岡藩に見舞いとして米百俵が贈られ、多くの藩士はそれを分配して欲しいと言ったが、長岡藩大参事小林虎三郎はこう答えた。「これを各人に分けても、直ぐに食べ尽くして後には何も残らない。分配して一時だけ飢えを凌ぐより、皆は苦しいのを我慢して、これを基に将来の人材を育てる学校を建てようではないか。わが藩には『常在戦場』という藩是があるのを忘れたのか」と。こうしてできたのが我が長岡高等学校である。
 因みに「常在戦場」とは「常に戦場に在り」で、いつも戦場にいる心構えで質実に生活し、刻苦勉励の気風を持ちなさい、という教えで、母校の先輩、山本五十六連合艦隊司令長官もこの言葉をよく揮毫してたという。母校の講堂に大きく墨書され掲げられていた額の文字は、「和して同ぜず」「剛健質朴」である。
 以上が、丸山義雄氏が著した「至誠に生きた人々」の大略である。

 彼が、いろいろな事を思い出させてくれたことにも感謝したい。
2009年2月3日(火)曇り
おやじ小屋へ

 今日は節分、そして明日はもう立春である。「おやじ山の雪はどうかな?今年の冬は小屋は大丈夫かな?」などとウジウジ気をもんでるうちに、暦の上では春が立ってしまうという。
 それで突然、真冬のおやじ山に行ってみたくなった。真っ白な雪の世界にどっぷりと一人で浸かりたくなった。しばらく居た娑婆の垢を雪に晒し、年末年始と続いた深酒の血の濁りを、清冽なおやじ山の空気で漱ぎたくなった。今夜の豆まきを済ませ、明日早朝発つ予定である。

 ふっとガキの頃の豆まきを思い出した。長岡の国鉄官舎に住んでいた小学校の頃の思い出である。
 日が暮れると、まさにむこう三軒両隣から「おにわ~そと!ふくわ~うち!」の声が聞こえてきて、今まで恥ずかしくて「おにわ~そと」と言っていたのが、俄然、負けじとばかりの大声に変わるのである。家は貧しくて旅行や外食などは夢のまた夢だったが、私の両親はささやかだが、こういうハレの日の行事を必ずやって子どもたちを喜ばせてくれた。当時の今の季節は、家の表も裏も高い雪の壁で、「鬼は~外」と撒いた豆がこの雪壁に潜り込んで、翌朝早起きしてこの豆を雪からほじくり出して食べるのが実に嬉しかった。
 さておやじ山の雪はどれ程だろうか?
(明日からしばらく日記を休みます)

2009年2月4日(水)晴れ
おやじ山の冬2009(雪明かり)

 今朝早くおやじ山の麓に着いた。地球温暖化で、がっかりする程の積雪量である。麓の長岡市営スキー場もかろうじて営業を続けている程の惨めな雪で(1月には60cmあったスキー場の積雪は、ここ数日の気温上昇で30cmにまで減ってしまったと言う)、勇躍雪山に乗り込んで来た身としては何やら肩透かしを喰った感じである。
 今日は2度、おやじ小屋と麓を往復した。一里一尺と言うだけあって、やはりおやじ山に入ると雪嵩が多い。最初は75リットルのリュックを背負っての荷揚げで、暖冬で弛んだ雪にズボズボと足を取られながら麓から2時間かかっておやじ小屋に着いた。小雪とはいえ、吹き溜まりでは膝上まで雪に潜って全く難儀をした。
 早速小屋の雪囲いをバールで外し、小屋に入って囲炉裏に火を焚いた。そして暗くならないうちにと山を下って当面の食料(とアルコール類)の買出しである。
 そして再び最初の雪の踏み跡
を辿っておやじ小屋に帰った。
 それにしても雪の上には何と多い獣たちの足跡か!トウホクノウサギ、キツネ、テン、それに大きな鳥の足跡はヤマドリである。
 夕食は家から持参した餅を囲炉裏の火で焼いて食べた。そしていつの間に寝てしまったのか、トイレに目を覚ますと午後10時半である。小屋の外に出ると、月光が青白く雪に反射して、裸になった立ち木の影をクッキリと雪原に浮かび上がらせている。まるで昼のような雪明りである。そして杉林の上には壮大な北斗七星の瞬き!直ぐに小屋に戻るのが惜しく、しばらくはパリパリと氷ついた雪を踏み締め星空を仰ぎながら雪明かりの中を歩き回った。
 室温は3℃。眠るのが惜しい。









2009年2月5日(木)晴れ~夜雨
おやじ山の冬2009<ヒラタケ>

 寝袋の中でラジオを聴いていた。「何度かな?」と横になったまま手を伸ばして温度計を見ると、0℃である。6時半になってラジオ体操の歌が流れ、第一体操が始まった。最初は寝袋に包まったままイメージトレーニングをしていたが、途中で「エイッ!」と気合で起きた。
 ラジオを持って小屋の外に出る。そしてパリパリと凍みた雪の上を跳んでラジオ体操を始めた。途中からやると順番が分からなくなって、まあデタラメに体を動かしていた。
 シミワタリ(凍み渡り)が出来るので南の斜面を下って谷川まで下り、上流に向って朝の散歩である。まだ朝日は顔を出さないが、明け方のキリリと締まった雪
の上には無数の獣たちの足跡がついている。夜中にここで遊び回っている動物たちの姿を一度でいいから見てみたいものである。
 朝食後はスノーシューを履いて雪山トレッキングをした。杉林の裏からブナ平へ登る斜面で、コナラの枯立木に大株のヒラタケを見つけた。こんな立派なヒラタケは初めてで、これから冬のキノコ狩りの楽しみが増えた。
 貴重な冬の晴れ間なので、昼前にスノーシューを履いて市営スキー場まで下りて行った。市内の小学校の生徒達が先生の指導で賑やかに滑っている。スキーロッジで缶ビールとマイタケそばの昼食をとってから、スキーはやらないがリフトの1回券を2枚買って、2つリフトを乗り継いでスキー場の天辺まで登ってみた。
 リフトに乗ったのも、こんな所まできたのも初めてである。眼下に白い雪の長岡市が広がり、背後を振り返ると鋸山と風谷山が白く輝いている。誠に絶景である。
 山から下りたついでに町に出て、発泡酒と炭を3キロだけ買って午後4時におやじ小屋に戻った。
 夕飯を食ってすぐに寝袋に潜って寝てしまったが、激しい雨風の音で目を覚ますと午後11時である。小屋に立て掛けておいた雪囲い用のトタン板が「バタン!」と大きな音で倒れたようだが、そのまま深い眠りに落ちた。











2009年2月6日(金)曇
おやじ山の冬2009<Oさんの来訪>
 朝7時前に起きて囲炉裏の灰を穿ると、昨晩のオキがまだ赤く残っていた。そのオキに炭を足してヤカンを掛ける。そしてそのままボンヤリと囲炉裏に目を落としていた。
 山に入って2日間、夢中になって動き回ったので体の筋肉がコリコリと固まってしまった。昨晩からの風雨は止んだが天候は芳しくなく、今日は一日のんびりと小屋で過ごすつもりである。
 そして午前中、小屋から外に出て腰を伸ばして「ウゥゥウ~ン・・・!」と伸びをしていると、おやじ山の入口に人影が現れて「お~い!」と呼んでいる。「・・・?」と見ると、何と友人のOさんである。「よく来たなあ~」とビックリして汗ビッショリのOさんを小屋の中に迎え入れると、「今何時です?」とOさんが尋ねた。「10時」と答えると、「下から1時間かあ・・・。途中苦しくてよっぽど引き返そうかと思ったけど、何しろこれを届けなくちゃと思って・・・」と、差し入れの「いいちこ」1.8リットルパックと、いろんな銘柄の発泡酒をガラガラと私のベッド代わりのデッキの上に置いた。本当にOさんたら・・・感謝・感謝である。
 Oさんの娘さんが長岡に嫁いでいて、昨晩は娘さん夫婦と市内で食事をしてホテル泊り、今日はもう川崎の自宅に戻るのだという。
 Oさんはしばらく小屋の中で横になって休んでから、正午近くに帰って行った。途中の「見晴らし広場」まで送り、別れ際に「ここから麓までのエネルギー残っている!・・・?」と背中に声をかけると、Oさんは振り向かずに黙って片手を高く上げて応えた。
 小屋に戻って、午後はラジオを聴いて過ごした。NHKの「旅の達人」の番組に、長岡市摂田屋出身の女優、星野知子さんがゲスト出演していて、インド、ラジャスタン地方の旅の紹介をしていた。ヒトと動物がまさに一体となって生きている様子や、インドの人気俳優アミターブ・バッチャン主演の映画音楽○△×(題名は忘れてしまった)も心に沁みて良かった。
2009年2月7日(土)霰~晴れ~夜雨
おやじ山の冬2009<獣の耳>

 目を覚まして枕元のラジオをつけると、既にラジオ体操が終わった後である。室温は2度、暖かい。囲炉裏に火を焚く。
 朝飯が終わってまた寝袋に入り、家から持ってきた田中肇著「花と昆虫がつくる自然」を寝転んだまま
ページを捲る。先月、森林インストラクターのTさんに誘われて田中氏の講演会を聴き、実に面白くてアマゾンで氏の著書を取り寄せたのである。
 「シャ~・・・」と外でさざ波のような音がして、「・・・?」と本を置いて頭の上のサッシ窓を開けると、細かいアラレ雪が天から降りそそいでいる。杉林の濃い緑をバックに、無数の白い雪の線が斜めに走って、実に美しい。
 少しまどろんで、明るい陽の光で目が覚めた。それでスノーシューを履いて裏山を登ってブナ平まで雪山トレッキングに出かけることにした。裏山の斜面を登り始めると、遠くの尾根を3人の登山パーティーが三ノ峠山に向って歩いていた。クマ除けの鈴が微かに聞こえてきたので気付いたが、以前はこんな時期に雪山に登る人などいなかった。
 ブナ平までの途中で、今度はナメコを見つけた。雪の下の桜の倒木にシャーベットのようになって生えていた。丁寧に採って夕飯の味噌汁に使うことにした。
 午後からは、今回の主目的である杉林の枝打ち作業に着手した。二段梯子を地面の雪に差し込むように立てて、可なり高い位置の枝打ちである。昨年秋の終わりにもやったが、やはり今の時期は格段に作業効率がよい。安全ベルトはしっかり着けているが、仮に梯子から落ちても下は雪だ、という安心感がある。今日の午後だけで10本を済ませた。
 途中、2時半頃、休憩で小屋に戻ったが、その時今度は西側の遠くの尾根で人の気配を感じて目を凝らすと、やはり午前中に見た登山者である。こうして山に一人で居ると、どんどん神経が研ぎ澄まされてきて、いつの間にか全身が獣の耳になってくる感じがする。小さな物音にも「ハッ」と体が反応するようになってくる。
 夕飯が終わった頃から、雨になった。横になって休んでいると「ゴ~~ッ・・・!」と遥か遠くの斜面で雪崩れが起きているのが分かった。

2009年2月8日(日)雪、夜晴れ
おやじ山の冬2009<大杉の枝打ち>

 6時過ぎに目を覚まし、そのまま寝袋に包まって、今日の仕事をあれこれ考えていた。室温は3℃で、今日もこの時期としてはとても暖かい。
 午前中は時折「シャ~~・・・」とアラレ雪が降って、小屋の中からそんな風景を眺めて過ごした。
 午後になって少し陽が射しはじめたので、思い切って小屋裏の大杉の枝打ちをすることにした。杉材の品質確保のためなどではなく、南の谷方向に伸びた太い下枝がこれからの春の日差しを遮るので、切り落としてしまおうという算段である。位置はかなり高いが、二段梯子を一杯に伸ばせば届きそうである。樹齢80年程の杉の木3本の太い下枝を汗だくになって切り落としたが、やっぱり怖かった。
 それから昨日に続いて杉林の枝打ちをやった。今日から二段目の杉林である。結構捗り、見る見る杉林がきれいになって行くので嬉しい限りである。
 夕飯のおかずは、今の時期突然変異的にホダギに1個だけ生えた巨大なシイタケを焼いて食った。実に美味かった。
 夜8時、小屋の外に出ると見事な満月である。月明かりが雪原を青白く輝かせて、木々の影をまだら模様に写し出していた。

2009年2月9日(月)晴れ
おやじ山の冬2009<買出し>
 雨が降ったり暖かい日が続いて、おやじ山の雪も急ピッチで少なくなってきている。しかし今朝は放射冷却で外の気温は0度以下まで下がった。
 それで食料の在庫も底をついたのでシミワタリ(凍み渡り)で下山して、町まで買出しに出ることにした。湿気を多く含んだ雪が放射冷却などで急激に冷えると、表面が固く凍ってどこでも自由に歩けるようになる。ガキのまだ保育園に通っていた頃、冬のこのシミワタリが出来る朝など、いつもの通園路を通らず雪の積もった田んぼの上や蓮池の中を歩いて保育園まで行った楽しい記憶がある。(一度、蓮池にはまって母ちゃんからこっぴどく叱られたこともあった)
 空の大型リュックを背負って途中写真を撮りながらスキー場まで下ると、「雪不足のため営業は11日で終了します」と看板が出ていた。昨年は1日も営業できなかったし、今年も少雪で何とも気の毒である。
 一番近い越後交通のバス停に着いて時刻表を見ると、まだ大分待ち時間がある。しかし5日ぶりに町に出られると思うと、ウキウキと嬉しい。バス停の前には樹齢何百年という大きなケヤキの樹があり、写真に写したりしてバスを待った。
 長岡駅行きのバスを途中で降りて、可なりの距離をスーパーマーケットとホームセンターが隣接している場所まで歩いた。スーパーで燻製用の豚肉、ご飯パック、ミカン、味噌汁の素、塩鮭、それに発泡酒、そしてホームセンターで囲炉裏用の豆炭1袋(12キロ入り)を買った。大型リュックはこれらを背負うために持ってきたのである。
 これらの買物をリュックに詰めると、相当重い。とてもここから歩いて山まで帰る気になれず、もったいないけどタクシーを呼んだ。おやじ山の麓まで2290円、今日の買物と殆ど同じ金額を取られてしまった。そして麓から15キロほどの買出し荷物を担いで、暖かい日差しで弛んだ雪道を1時間かけておやじ小屋に戻った。
 帰ってからまた杉林の枝打ちをやった。今の時期の作業は幹も裂けず、実に能率が上る。そして夕食は囲炉裏に豆炭をカンカンに熾して豪華な晩餐となった。
 夜中、見事な満月だった。
2009年2月10日(火)雪~小雨
おやじ山の冬2009<杉林の枝打ち>
 いくら今冬が暖かいと言っても、おやじ小屋が5度以上になることはない。朝目を覚まし、ラジオのスイッチをつけたまましばらくグズグズしていて、ようやく6時半のラジオ体操の音楽が聴こえて「エイヤッ!」と気合で寝袋から這い出る。
 今朝も第一体操の途中からラジオを持って外に飛び出し、体を動かす順番が狂って「あれ?どうだったかな?」などとクビを捻っているうちに第一体操が終わってしまった。
 昨晩はダッチオーブンを使って桜のチップをいぶして豚肉の燻製を作り、今朝は昨日買った塩鮭を囲炉裏で焼いた。それで今日の朝飯は肉と魚の動物性たんぱく質のてんこ盛りとなった。これで胃がモタレてしまった。今まで納豆やキノコや海苔といった脂っ気のないものばかり食っていて、いきなり「わ~肉だあ!」と意地汚くガブついたのが拙かった。
 それで外の天気は雪から小雨に変わったが、腹ごなしに3段目の杉林の枝打ちをやることにした。雨降りで高い梯子の上でゲップが出そうになりながらの枝打ちだったが、夕方遅い時間まで頑張って何とか3段目の杉を打ち終えた。(これで今回予定の枝打ち作業は全て完了である)
 それに、昼の時間には昨年3月の大風で倒れたコナラの巨木の枝伐りをした。枝といっても一抱えもある幹から伸びた太さ20cm程の堂々としたものである。この1本だけをチェーンソーで慎重に伐り落としたが、4月頃に玉伐りしてキノコのホダギに使う予定である。
 明日はいよいよ山を下りる日である。
 
2009年2月11日(水)晴れ
おやじ山の冬2009<心臓病?そして下山>
 今日は体調を整えて、下山は明日以降に延ばそうかと真剣に悩んだ。何やら心臓が苦しくて、手首で脈をとってみると、どうも変である。屈みこんでから立ち上がるのさえ、「はあはあ」と息苦しい。胸が閊えるような感じもある。こんなことは、初めての経験である。
 実は午前4時にトイレに起きて、西の空に浮かんでいる黄色い満月にしばし見とれてから小屋に戻り、ぶるぶると寝袋に入ってから昨夜の飲みかけの発泡酒の残りを体を横たえたまま飲んだ。これが昨日からのモタレた胃に入らず、肺に入ったのかも知れない。
 それから考えられるのは、囲炉裏の煙の大量吸引である。おやじ小屋には煙突も煙出しも無いので、スギっ葉や薪を焚く時にはドアやサッシ窓を開け放つのだが、煙にだんだん慣れてきて、これもいい加減になってくる。おまけに今朝は最後の焚き火だと思って、囲炉裏でドンドンパチパチと豪勢な燃やし方をした。この煙で肺がやられたのかも知れない。
 下のトイレに行って、小屋に戻ってくる僅かな傾斜を登るのさえ「ゼーゼー」と肩で息をする始末なのだ。「これは、ヤバイなあ~」と思いながらも、それでもゆるゆると帰り支度を始めた。
 そのうちだんだん軽くなって、いつの間にか治ってしまった。それでも帰りの山道で行き倒れにでもなったら誰も助けに来てはくれないので(携帯電話は「見晴らし広場」の少し下まで行かないと通じない)、背負う荷物の分量は出来るだけ少なくして、重い物は小屋に残すことにした。
 そして正午前には小屋を閉じ、いつものように帽子をとって「ありがとうございましたあ~」と小屋に挨拶してから山道を下った。
 途中何度か立ち止まって「俺の心臓は?」と自問しても、「はい!全く、問題ありません!」と答えは明快である。一体あの苦しさは何だったのだろう?
 余裕ができてから、麓までの道中を写真を撮りながら下った。もう春と言ってもいいようなまだら模様の雪山や、獣の足跡がいろいろと想像をかき立てて、このまま山を下りてしまうのがもったいないような気持ちだった。
 スキー場まで下りると、今日からはもう休業で人気もなくガランとている。そんなスキー場のゲレンデを眩しく望みながら、春のような日差しの中をバス停に向った。
(今日の反省:小原庄助さんのように横になって朝酒をしないこと。早く仙人になりたくて、モウモウと煙に巻かれる生活を少し差し控えること)

<おやじ山の冬2009>おわり
2009年2月26日(木)雨、曇り
暫時休掲

 昨日と今日、荷物をリュックに詰めたり、また出してみたりと、出かける準備をした。明日からしばらくの間、離島でのある自然調査のアルバイトに行くことになった。
 不況の世の中、こういう自分の好きな仕事が少しでもできることがすごく有難く、また嬉しい。

 そのため、しばらくの間ホームページの掲載は休みます。