<<前のページ|次のページ>>
最後のページは8月31日

2008年8月2日(土)晴れ、長岡の最高気温33℃
おやじ山の夏2008(長岡の花火-その1)

 昨日(8月1日)の夜、おやじ山の麓のキャンプ場に着いた。これからおよそ1ヶ月の予定でおやじ山の夏草刈りと春の作業で積み残したおやじ小屋の修理の続行である。小屋修理は杉の背板を内側にも張って内装を完成させること、それから吊り棚を作ったり土間には荒塩を撒いて打ち直しもし・・・と次から次と欲張りなことが思い浮かんで全くキリがない。まあ自分で見切りをつけた時が完成だと思っている。
 それにしても今日は早朝からキャンプ場は大賑わいである。下の駐車場には
品川、練馬といった東京ナンバーから横浜、千葉、愛知、三重と県外車が続々と乗り付けてあちこちでテントを張っている。管理人のKさんに聞くと、「長岡祭りの花火見物で市内のホテルや旅館はどこも満員で、長岡市の観光課は宿の問い合わせがあった人に『テントを持って来てこのキャンプ場に泊ったらどうか?』って案内してるみたいだてぇ」という答えである。
 私も午前中にはいつもの場所にテントを張り終え、午後からおやじ山に入った。おやじ山の入口の坂を下ると予想通り広場や道脇にはヤマユリがいっぱい咲いて、ユリの香りでむせ返るほどである。山菜やキノコといった収穫が何もない夏のおやじ山の楽しみは、この一面に咲くヤマユリに出会うことである。そしておやじ小屋に入って窓を開けて風を通し、囲炉裏に薪をくべて火を焚いた。おやじ池を覗くと雨が少なかったとみえて水嵩が減って水面には薄い藻が張っている。しかし谷川に下りてみるといつもと変わらぬ清冽な水の流れである。
 夕方、山からキャンプ場に戻ると賑わっていたどのテントももぬけの殻でシーンと鎮まり返っている。みんな信濃川河畔まで花火見物に出かけたようである。
 花火の打ち上げは夜7時半からで簡単な夕食を済ませてから一升瓶とランタンを下げて「見晴らし広場」までぶらぶらと登って行った。そして階段のついた展望台に上って一人で高見の見物をするのである。この場所はまさに日本一の長岡花火を見物する特等席で、暗くなってからこんな山奥まで来る人は怖がって誰もいない。
 赤や緑や白やいろいろの花が眼下の遠い夜空に音も無く開いて、しばらく経ってから「ドーン!ドーン」と耳に届く。さすが日本一の長岡祭りの大花火だったが、昨日の長いドライブの疲れと御酒の酔いで展望台のデッキに横になって肘枕で見物しながら半ば夢でも見ているようである。9時にサイレンの音が聞こえてきて名物の2発目の3尺玉が上った。そして確かに「ドスーン!」と腹に響く大音響を聞いたのだが、その音波に身体が砕け散って、そのまま展望台の床に崩れて溶けてしまったようである。(この日の花火見物客は過去最高の45万人と報じられた)

2008年8月3日(日)晴れ
おやじ山の夏2008(長岡の花火-その2)

 今日も暑い日となった。ラジオは長岡の最高気温は35度まで上ると報じている。
 まだ山に来て僅か3日目なのに暑さで体がへばって(昨晩の花火見物の深酒のせいかも・・・)食事を作るのも億劫になってしまった。それでコンビニまで車を走らせておにぎりを買っておやじ山に行った。ヘビが怖いので(山持ちなのにこれだけは親の遺伝か何とも不甲斐無いのである)柄の長い山林鎌を身構えるように持って山を一回りする。春に植えたブナの苗の大部分が枯れて猛々しい夏草に覆われてしまっていた。そしてヤマユリの写真などを撮って午後3時に下山した。
 食欲も湧かずソーメンを茹でて夕食を摂る。(こんなヤワな夕飯を食っていたら山仕事で力が出ないんだけど・・・)しかし毎晩しっかりと米の汁だけは呑めるから呆れたものである。
 テント場の人達が2日目の花火見物で誰も居なくなった頃、埼玉ナンバーのバイクに跨った青年がキャンプ場に来た。そして炊事場の脇の空き地に一人用のテントを張ってぼんやりしている。「あれ?花火見に行かないの?」と声をかけると、「え?長岡で花火やってるんですか?」と全く日本一の長岡花火の存在すら知らない失礼千万、傍若無人な呆れた返事である。<この青年は一体ここに何しに来たのか?>と半ば軽蔑しながら思ったけれども、「今から信濃川河川敷に行っても遅いし俺がとっておきの場所に連れてってやるから一緒に来なさい」と思わず言ってしまった。
 若者はさいたま市のN君といった。それで今の若者は日本酒より焼酎を好むだろと、1.8リットル入りの虎の子の紙パックと蚊取り線香を持って二人でキャンプ場の一番上のテント場に上って行った。ここは最近西側の立ち木を伐採して市街地までの眺望を良くした場所である。ここでもたった二人だけの特等席で高見の花火見物である。
 初めて長岡の大花火を見たというN君の興奮度は、凄かった。(それで私の大事な焼酎も随分呑まれてしまった)「ボク、感動しました!こんな凄い花火初めて見ました。最高です!」ともう涙ぐまんばかりなのである。「だろう〜?」とゆったりほくそ笑んで言ってみたものの・・・帰りの紙パックが殆ど空になって・・・まあ、いいかあ。



2008年8月6日(水)曇
おやじ山の夏2008(被爆63周年)
 長岡祭りが終わり賑わっていたテント場には誰も居なくなった。4日の早朝にまるで3尺玉の花火のような雷雨が「ドド〜ン!!」と来てから、昨日、今日と朝晩が秋の気配になった。今朝もテントを出て高台に出てみると、弱い東風が肌にヒンヤリと感じられた。
 午前8時、点けていたラジオが広島原爆記念式典の中継になった。広島の原爆投下から63年、生存する被爆者の平均年齢は75歳を超えたとラジオが伝えている。8時15分、「黙祷!」の声で私も直立して頭を垂れた。立ち上がった方向が弥彦山に向いていたので、途中で「やっぱり広島方向に向いたほうがいいかも?はて、どっちだろう?」と踵を回しているうちに「お直りください」のアナウンスが流れてしまった。秋葉忠利広島市長は平和宣言で「核兵器は廃絶されることにのみ意味がある」と断言した。そして小学生の今井さんと本藤君は「平和の誓い」で、「大切な人を原爆で失った被爆者の方が、『ワシは生きていてええんじゃろうか?』といまだに言っています。しかし私たちは今まで生き抜いてくれた人たちに『ありがとう!』と言いたいです」・・・・・・
 午前10時におやじ小屋に「出勤」する。途中の作業道路で、春にしばしば出会っていた野鳥観察の女性を見かけて「昨日、瞑想の池でカワセミを見たよ」と声をかけた。そして女性が今観察しているというオオルリの子どものことやサシバやイカルのことなどを話題に立ち話をする。
 今日の作業は珪藻土を煉って背板を張った隙間を埋める小屋修理と南斜面の草刈りをした。運悪くアシナガ蜂の巣にぶつかって左腕を刺されてしまった。痛かった。 午後4時に下山し、たっぷり汗をかいたので「麻生の湯」行ってサッパリとする。
 カナカナとニイニイゼミの鳴き声。そして・・・何やら寂しい秋の風
2008年8月9日(土)晴れ
おやじ山の夏2008(北京オリンピックと猛暑)
 立秋の8月7日から連日最高気温が30度以上の猛暑日が続いている。明方は肌寒いくらいなのだが陽が昇りはじめるとまたたく間にグ〜ンと気温が上る。山の作業もすぐに身体がへばってしまって昼食の後は小屋の前にパイプ椅子を出して昼寝する。すると少し体が軽くなって元気が出るのである。今までの食事で野菜と果物が不足していることに気付いて、今日は山仕事を終えてからスーパーに行ってトマトと何種かのフルーツを小さくカットしたパックとフルーツゼリーというのを買ってテントで食べた。食材を入れたプラスチックのトレイの蓋を開けてただ並べただけの夕食だが、彩りのある何種かが並ぶと食事が豪華に見えるものである。
 昨日の夜は車のカーナビのテレビ画面をつけて北京オリンピックの開会式を観た。それにしても「鳥の巣」の会場で入場してくる各国の選手団を一列に並んでニコニコ迎える少女達の何と可愛いかったことか。白いミニスカートとノースリーブのテニスウェア姿で腰には赤いベルト、首にピンクのスカーフ、そして白い野球帽を被って白いブーツで緩やかにスイングとステップを踏みながらリズミカルに手拍子を打って選手団を迎えているのである。私は選手など見なくてもっぱら画面後方で身体を揺すって微笑んでいる少女の集団に目を凝らしていた。選手が大映しになって少女たちが画面から消えると「あ!ダメ!」と思わず小さく叫んだほどである。(私はどうも性格的に主役よりはあまり目立たない脇役の方に興味がある。歌謡番組などを見ても、マイクを持って歌っている歌手よりはステージの後方で集団で踊っている人達に目が行って、「あんなに頑張って、偉いなあ〜!」と素直に感動してしまうのである)
 今日の夜は柔道の谷亮子選手の試合を見た。期待の金メダルは取れなかったが素晴らしい銅メダルだと思った。
 随分夜遅く車が何台か駐車場に乗り付けて「はて、何だろう?」と思ったら親子のカブトムシ探しの人達だった。そうか、今日は土曜日である。そして満天の星空だった。
2008年8月10日(日)晴れ
おやじ山の夏2008(朝食メニュー)
 今朝の食事です。毎朝至ってシンプルです。今日も暑い1日でしたが午後3時には仕事を切り上げて下山しました。帰り道、山林ガマでブナ平とおやじ小屋の分れ道のところの草刈りをしました。
2008年8月12日(火)晴れ、長岡の最高気温32℃
おやじ山の夏2008(守門岳登山)
 今日は東京から来た高校時代の同級生Fさんと、Fさんの友達のMさんと3人で守門岳(1,537m)登山である。近年Fさんとは毎夏一山登ることが恒例になっており、今年は北アルプスの燕岳の予定だったが都合により守門岳に変更した。昨晩は魚沼市須原にある民宿で3人で盛り上り、今朝は朝と昼のおにぎり弁当を宿で作ってもらって6時過ぎに出発した。守門岳への登山口はいくつかあるが、もう何回も守門に登っているという民宿の女将さんのアドバイスで保久礼(ほっきゅれ)コースにした。標高750m程の保久礼小屋まで車で行けて、大岳から青雲岳のパノラマコースを歩けるからである。
 スタートの保久礼小屋の脇には手が痺れるほどの冷たい清水が湧き出ている。私はここの清水ほど美味い水は全国どこにも無いと信じている。ここで皆で水を汲んで、いざ出発である。
 7時10分に登り始めてゆっくり大岳を目指す。そして大岳から尾根道を一度下り二峰目の青雲岳に攀じるのだが、大岳からの下りでMさんが足に故障を起こした。Mさんは「私ここで待ってますから・・・」という。「いや、時間はたっぷりあるし、ゆっくりゆっくり歩きましょう」とMさんに持参の筋肉鎮痛薬を渡して励ました。
 快晴の守門岳山頂に無事3人が立ったのは、ちょうど正午である。山頂には丸い銅版の地図が周囲360度の山々の名を刻んでいたが、生憎の真夏の蒸気で遠望は出来なかった。それでも山頂の周りや登山道脇にはニッコウキスゲやオヤマリンドウ、アカモノやイワシャジンなどの花々が咲いて目を楽しませてくれた。おにぎりを頬張り記念撮影をしたりしてたっぷり休憩を取ってから、午後1時過ぎに下山を開始した。足を痛めたMさんは相当辛そうだったが、それでも顔を真っ赤にして歩き続けていた。
 午後5時半、保久礼小屋の駐車場着。そして酷暑の中の完走を祝って3人で握手をし合った。
 帰りは国道290号線を走って栃尾経由で長岡に戻り、2人を麻生の湯に誘った。そしてたっぷりかいた汗を天然温泉で流してからFさんを新幹線で、次いで「青春18きっぷ」で来たというMさんを見送った。
 









2008年8月13日(水)晴れ
おやじ山の夏2008(盆入り)

 やはり守門岳登山の疲れが残っていて、ようやく8時半過ぎに起きてテントを出た。そしてFさんやMさんがカンパしてくれたビールで二日酔を醒まし(朝からアルコールなど誠に不謹慎なのだが、二日酔止めと疲労回復剤のつもりで・・・)昨晩頂戴したイカ飯で朝食を摂った。そしたらまた体がぐったりと弛んで眠気が襲い、すごすごとテントに潜り込んで再び横になった。まるで小原庄助さんである。
 それでも午後には、実家の近くにある菩提寺に行っておやじとお袋の墓に参った。今日は盆の入りで、村の人達がお供えの花束を抱えて次から次と墓地に入ってきて手を合わせている。私も傍の水道でハンカチを濡らして墓石を洗ってから、昨日登山のゴールでポットに汲んでいた保久礼小屋の清水を墓石にかけ、花立にも注いで盆花を挿した。そして墓の前で手を合わせながらおやじとお袋にいろいろと長い報告をした。それから最後に、この一年、私や家族を守ってくれたことに感謝して墓を離れた。
 午後5時過ぎにキャンプ場に戻った。今日のキャンプ場には誰も居なくて、実に静かである。
椅子に座って田んぼの広がっているずっと遠くで暮れなずんでいく弥彦山をいつまでも見ていたが、頭の上では夕暮れの風がコナラの葉を静かに揺らし続けていた。

2008年8月15日(金)雨、長岡に大雨洪水警報発令
おやじ山の夏2008(鎮守様の奉納相撲)

 昨日は仙台の実家に帰っていたカミさんが、久々の雨の中を長距離バスとローカル線を乗り継いでキャンプ場にやってきた。そして今朝7時、ゴロゴロと雷が鳴ってる中、深夜に藤沢を発った息子と孫の承太郎がキャンプ場に着いた。息子にとっては生憎の天候のお盆休みだが、今日から5日間、民宿に泊ったりこのキャンプ場で過ごす予定になっていた。民宿はFさん達も泊った須原の宿である。
 雨のキャンプ場にいてもしょうがないので早々とキャンプ場を発って民宿に向った。幸い須原地域は曇り空で、ちょうど村祭りの最中だった。一度民宿に顔を出して到着を告げてから、みんなで村の中を散歩した。ぶらぶら歩きの途中、正午のサイレンが鳴って立ち止まり終戦記念日の黙祷をしたが、孫の承太郎は突然直立して押し黙った大人達を「何やってるの?」と怪訝に見上げていた。
 ある酒蔵がやっている見学館に入って無料の利き酒をたっぷり呑んで、そのまま黙って館を出る度胸もなく、気に入った1本を買ってから近くの神社まで歩いて行った。道路の両脇には何軒かの屋台が出て境内では奉納相撲が行われている。大人の行司が一番一番マイクで呼び出されて土俵に上る小学生力士に、細かく礼儀作法を教えながら勝負をこなしている。遠い昔、田舎で目にしていた実に懐かしい光景だった。
 昼間は多分お盆休みで帰省していた村の若者たちの同窓会か何かで賑わっていた民宿も、夜の泊り客は私達を入れて3組だけだった。久々に孫と一緒に民宿の風呂に入り、広間で楽しい夕食をとった。
 夜は激しい雨となった。そしてザーザー降りの雨音を聞きながら布団の上で寝れる幸せをつくづく感じて眠りについた。

2008年8月16日(土)雨
おやじ山の夏2008(イタドリ笛)
 須原の民宿で遅い朝食をとってから午前10時過ぎに宿を出た。幸い雨は上ったが今にも泣き出しそうな空模様である。ここに来たら川遊びをして孫を喜ばせようと思っていたが、こんな天候ではとても出来る相談ではない。それで宿の女将さんが勧めてくれた入広瀬村の「エコミュージアム」に行ってみることにした。
 先ずビジターセンターで野鳥や動物などの展示物や四季の自然を紹介した記録映画などを観て、広い自然観察林内を散歩した。よく整備された遊歩道脇には美味しそうなチチタケなどが生えていて、思わずキノコ目になってキョロキョロときのこ狩りの態勢になってしまう。遊歩道の途中にある休憩所に入ってパンとおにぎりで昼食をとり、再びビジターセンターに戻った。係の人が「ここで楽しい工作ができますよ。イタドリ笛なども作れますよ?」と勧める。それで息子と二人で挑戦することにした。乾燥させたオオイタドリを節を残して切断し、中空の茎の途中をナイフでV字型にカットしてリードを差し込んで完成させるのだが、これがなかなか音が出ないのである。息子とどちらが早く鳴るかの競争である。承太郎も作業台について笛づくりの真似をしたくて仕方がない風だった。「鳴った!」私の勝ちである。要領を覚えてしまうと簡単で、もう1本作っておみやげにした。
 夕方ベースキャンプの東山のテント場に戻った。雨の降る中、二組の小さい子ども連れの家族がテントを張っていて、「ああ、せっかくの家族キャンプなのに雨が降って・・・」と気の毒な気がした。
2008年8月17日(日)雨〜夕方晴れ
おやじ山の夏2008(高台の花火遊び)
 「ボク、キャンプに行ったら川で遊ぶんだあ〜」と家から水泳パンツを持ってきた孫は、なかなか水遊びに連れて行ってもらえないので機嫌が悪くなってきた。「こんな雨が降っててダメでしょう」と言って聞かせても、すんなり納得がいかないのである。それで来年の新潟国体用に最近できた悠久山の室内プールに行ってみることにした。雨なのに外の駐車場はいっぱいの車で、大きな水泳大会の開催中だった。勿論一般の人は泳ぐことなど出来ない。それで「はっ!」と気付いて、六日町(魚沼市)にある湯之谷温泉郷の大湯温泉の大風呂に行って孫の機嫌を直すことにした。ここのお風呂はプールくらいの広さがあるし深い露天風呂もある。それに孫の承太郎はお風呂大好き人間なのである。
 ピタリはまって孫は大喜びだった。そしてホテルの休憩室で北京オリンピックのテレビ中継を観ながらゆっくりと骨休めをしてテントに帰った。
 夕方近くなって空が明るくなってきた。嬉しい、ようやく天気が回復してきたようである。それで自分の家からカブト虫を入れた虫籠を持ってきた承太郎の手を引いてキャンプ場内の虫探しをした。そして孫が手掴みで捕って籠に入れた生き物は次の通りである。アオガエル4匹、セミの抜け殻1個、以上である。(ゴミムシダマシの仲間も追いかけていたが逃げられた)
 夜はみんなで高台に出て花火遊びをした。遠くの三条辺りで「ポ〜ン!ポ〜ン!」と夏祭りの花火が上り、そのずっと向こうの町からも祭りの花火が音も無く開いては消えていた。雨上がりの満月の夜である。
 夜10時、息子達やカミさんがテントに入り、一人残って酒を呑んだ。青い月が煌々とキャンプ場を照らし、何かもったいない気持ちがして遅い夜のキャンプ場をふらつきながら散歩した。確か昔の歌謡曲で「月がとっても青いから〜♪遠回りして帰〜えろ♪」というのがあったなあ・・・(菅原ツヅ子の歌だったか?俺も古いなあ〜)




2008年8月18日(月)晴れ
おやじ山の夏2008(孫が帰る日)
 5日ぶりに晴れた。朝日が眩しい爽やかな朝だった。そして今日は息子と孫たちが帰る日である。
 ようやく晴れておやじ小屋にみんなを連れて行った。途中のコナラの木には夏場に生えるアマンダレ(ナラタケ)がびっしりと生えていた。入広瀬のエコミュージアムで作ったイタドリ笛をピーピー吹き鳴らしながら山道を歩いて小屋に着くと、新潟の次兄が友人のYさんを連れてミョウガ採りに来ていた。おやじ小屋の周りのミョウガ畑には毎年パンパンに膨らんだ立派なミョウガが山ほど採れるのである。次兄達は既にリュック一杯のミョウガを採り終えて休んでいたが、早速カミさんと息子も軍手をはめてミュウガ畑に入って行った。そこそこの量が採れて息子も家への土産ができて満足気な顔つきである。次兄達は先に帰り、私達も囲炉裏に焚いた火を始末してから山を下りた。
 午後は待望の川遊びである。ようやく日が差したので以前Tさん家族の川遊びで案内したことのある栖吉川上流の河原に行った。持参したトマトや桃を河原の石で囲った水溜りに冷やし、先ずはおにぎりの昼食である。ところが昼食が終わり水パン姿になった息子も孫もなかなか川に入らないのである。それでもようやく膝まで水に入った息子は「お父さん、物凄く冷たい!」と唇を震わせている。孫も腰まで入って「キャー!つめたあ〜い!」と叫んでいる。パチャパチャと手で水をかけてやると「キャーッ、ダメ〜!やめて〜!」と孫は本気で怒るのである。
 午後3時半に川を上った。そしてキャンプ場に戻ってまた承太郎と虫探しである。今日の獲物はカナブン1匹、コオロギ大1匹、小1匹、その他屁っこき虫1匹(その虫は臭いから放しなさいと孫に言ったんだけど・・・)と孫は自分で捕った獲物に大喜びである。
 夕食は麓に下りて回転寿司のお店に行った。そして店で飲んだビールと酒で他愛なくベロベロになって孫に手を取られて駐車場の車に乗り込む始末である。
 一度テントに戻った息子達はしばらく横になって休んでから、「これから帰ります」と小さくクラクションを鳴らしてキャンプ場を出て行った。寂しくて、また酒を呑んでダウンした。






2008年8月19日(火)大雨
おやじ山の夏2008(集中豪雨)

 朝6時から雨が降り出し、佐渡から新潟、そして中越地方へと凄い雨雲が南下してきて、長岡にも大雨洪水警報が出た。目が覚めてもテントから外に出る気にもならず、「バラバラ」とフライシートを打つ雨音の中で枕元のラジオに耳を傾けていた。つくづく息子達が昨夜帰って良かったと思った。
 腹が減ってきて仕方が無いので10時過ぎに大雨の中をコンビニまで車を走らせて弁当を買いに
行った。道路はまるで川のようである。買物を済ませて駐車場の車に走って戻ると、ちょうど伊豆のKさんから携帯に電話が入った。「どうしてる?テレビで大雨の佐渡が映っていたけど、そっちは凄いみたいね」と見舞いの電話だった。そしたら今度は息子から電話が入って、午前3時過ぎには藤沢の自宅に無事着いたという報告である。承太郎も電話口に出て「むし、まだみ〜んないるよ!」と屁っこき虫やアマガエルの無事を伝えてくれた。
 午後もずっとテントの中で、松代町に住む高橋八十八氏の名著「森の手紙」を読み返しながら過ごした。そして夕方には木工房のNさんから、明日朝6時に背板を持って来るとの電話があった。数日前に最後の背板20枚の注文をしていたのである。

2008年8月20日(水)晴れ
おやじ山の夏2008(小屋修理の再開)

 午前5時に起きた。昨日の雨も上って微風がテント場の木々の葉を揺らしている。既に秋の風である。きっちり6時に下の駐車場で小さくクラクションがなってNさんが軽トラで背板を運んで来た。大きなマクワウリをおみやげに持ってきて下さって早速二人で見晴らし広場まで背板を運び上げた。早朝の作業を終えてからNさんをキッチンテントに招きお茶を飲んでもらった。そしてNさんから、先の新潟県中越沖地震で出雲崎海底から上った埋没林の破片を専門家が分析した結果、中に硫黄分が含まれていて、およそ○億年前のものではないかという話を興味深く聞いた。(するとNさんから昨年貰ったあの破片は!・・・ひょっとして!と仙人にあるまじき下衆の勘ぐりが出て、一気に仙人(千人)から百人くらいに品が無くなってしまった)
 朝食を摂ってすぐに背板を一輪車で小屋まで運ぶ作業に取り掛かった。気温が急に上がり蒸し暑さも加わって、1往復する度にガブガブ水を飲んで汗だくの作業だった。
 小屋の内側に目張りと断熱を兼ねたアスファルトシングルを張り、北側の壁面に背板を何枚か打ち付けて、午後5時、今日の作業を終えた。



2008年8月21日(木)雨
おやじ山の夏2008(大人の絵本)

 また新潟県内に大雨洪水警報が発令されて、まさにバケツをひっくり返したようなドシャ降りの天気である。仕方なくカミさんと大雨の中を車を走らせ、朝早くから開いているファミリーレストランを探して今まで食ったこともない不思議なメニューの朝食を摂った。ソフトクリームのような三角形の紙筒の中に煮込んだカレーのようなものが入っていて、「はて?どう食べるんだろう?」と紙筒を開きかけたら、店員さんが慌てて「あ!そのまま紙を持って絞りながら食べてください」という。そしてセロテープで半分開いた紙筒を張り直してくれた。絞って上からだけ具が出ればいいけど紙筒が弛んで下からもグチョグチョと具が漏れて、まあ汚いこと汚いこと、まるで特別養護老人ホームの重症患者の食事のようだった。カミさんは「こんな人の介護はワタシちょっとねえ〜?」と将来に不安を覚えたらしく眉をひそめている。その後カミさんは洗濯物を抱えてコインランドリーに、私は床屋に行って要介護の身を少しサッパリとした。
 テントに戻ってからまた「森の手紙」を読んでいると、傍らのラジオで落合恵子が出演して絵本の話をしている。その中で「ノンチャン雲に乗る」(懐かしいなあ!)の作家、石井桃子訳のバージニア・リー・バートン著「小さなお家」、そしてスーザン・バーレイ著「忘れられない贈り物」の紹介が印象に残った。絵本は何も子どもだけのものではなく、大人も読んで心が癒されるのだという。なら、俺も早速読んでみよっと・・・
 夕方少し晴れ間が出て、習志野ナンバーの若い家族連れがテントを張った。しかし深夜、また物凄い雨になった。千葉から来た家族、大丈夫だろうか?

2008年8月22日(金)晴れ
おやじ山の夏2008(季節のはざ間)

 雨が上って爽やかな朝である。ラジオは9月中旬から下旬頃の気候だと報じている。未明に「リリリリリ・・・」とコオロギの鳴き声を聞いた。朝のキャンプ場はすっかり秋の気配である。
 千葉からキャンプに来た若い家族連れが濡れたテントを撤収してから、わざわざ
こちらのテントまで来て「それでは失礼します」と挨拶して帰って行った。「お気をつけて・・・」と言葉を返したが、昨日炊事場でカミさんがいろいろとこの人達に声をかけていて、それが昨夜のドシャ降りの中では心強かったのかも知れない。
 一人でキャンプ場から歩いて小屋に出勤した。ホームセンターで買った「ハイ壁土」という漆喰を煉って、背板を打ち付けた柱周りやトタン屋根との隙間の目地張りをした。
 午後1時半頃ようやく昼食にした。大杉の枝の間から強烈な日差しが降り注いで、この夏ではあまり聞かなかったミンミンゼミやヒグラシの合唱がうるさく響いていた。しかし今年の夏はセミの声が本当に少なかった。杉林の上空の一方から「ヒュー!ヒュー!」と笛の音が聞こえ、少し離れたもう一方の上空からも同じ鳴き声で「ヒュー!ヒュー!」と呼応している。人間の口笛そっくりなのでちょっと気味が悪い。夕方、タカ(サシバかトビか?)のつがいがこの鳴き方で飛んでいるのを見た。今日は手作りの玄関ドアにニスも塗って、午後5時半過ぎに山を下りた。
 キャンプ場に帰ってスキー場ロッジ脇に備え付けてあるシャワーを使わせてもらった。汗を流して高台に出て飲んだ缶ビールが何と美味かったことか。

2008年8月23日(土)曇り
おやじ山の夏2008(小千谷まつり)

 今日は隣の小千谷市のお祭りで、夜は信濃川の河川敷で花火を打ち上げるので見に行くことにした。それで午前中だけの仕事の積もりでおやじ小屋に行ったが、結局は夢中になってしまって午後3時頃キャンプ場に戻った。「ああ、腹減ったあ〜」とカミさんに言ったら、「ずっと待ってた私こそお腹空きました」と逆襲をくらってしまった。しかし今日の小屋仕事では、西側の内壁を全て張り終え、北側の内壁も梁の下側を全て完了した。
 車を小千谷市総合体育館の駐車場に停めて、そこからシャトルバスに乗ってお祭りの会場まで行った。道の両側にはズラリと屋台が並んで、そぞろ歩きの浴衣姿の人達でいっぱいである。旭橋の河川敷に座って花火の打ち上げを待っていると、昼間は各町内やメーン会場に繰り出していた山車が旭橋の上を一列になってパレードが始まった。まるで東北の「ねぶた祭り」のような大きな張り子の灯りが信濃川の流れに美しく映って、「ドンドン、ピーヒャララ」の太鼓や笛の音が川面の風に乗って渡って来る。何とも郷愁を誘ういい光景だった。
 午後7時半から花火が始まり終了前に河川敷を離れた。川縁の風が肌寒く、帰りのシャトルバスが混みそうなので早目に帰ることにした。通行止になっている中心街の国道でも、道一杯にゴザやシートを敷き、座卓まで家から持ち出して町の人達が花火見物をしていた。
 天気予報では<夜は雨>だったが、外れて良かった。そして午後11時に誰も居ないキャンプ場に帰って来た。

2008年8月24日(日)雨
おやじ山の夏2008(雨の花火)

 未明から「パラパラ」と雨がテントを打ち始めた。そのまま眠れなくなって枕元のラジオを小さくつけて聞いていた。16日間続いた北京オリンピックも今日が最終日だという。そして今回おやじ山で過ごした夏の日々をぼんやり思い出していた。ここに着いたばかりの8月2、3日と長岡祭りの花火を見て、それから広島や長崎の原爆投下の日を迎え、そして北京オリンピックが始まり、盆の入りにはおやじとお袋の墓参りをし、友人と守門岳に登り、それから家族と民宿に泊ったり栖吉川で川遊びをして、そして今日がオリンピックの閉会式かあ・・・などど思い起こしているうちに、何となく「そろそろ潮時だなあ」と思ってしまった。しかし藤沢の自宅に帰る前に小屋の修理だけは完成させておきたくて俄かに忙しい気分にもなった。
 午前7時半から北京マラソンの放送が始まり、8時半スタートだという。この雨では仕事もできないので街に下りてどこかでテレビ中継を観ることにした。しかし目星をつけた街の場所ではこんな朝の時間からテレビを観れる場所などなく、結局は中央図書館の駐車場に車を停めてカーナビのテレビでマラソン競技を見ていた。
 マラソンが終わり中央図書館に入って、鋸谷茂著「これならできる山づくり」を「なる程、なる程」と納得しながら読んだ。要は、手つかずのまま放置された線香林(細い木が密植された人工林)の再生は思い切った間伐(及び巻き枯らし)をやって、従来のような間伐材の利用など考えずに伐り置きで森に放置し(省力化になり土砂流出防止や動物の食害防止に役立つ)優良残存木の利用だけを考えるという発想の転換が必要だというのである。それからしばらく新聞も読んでいないので新潟日報の綴りをパラパラ開いていると8月21日朝刊の投書欄に「森の手紙」の著者、高橋八十八氏が「タヌキの子離れ、野生は厳しく」と題する投書が載っていた。夜中に家の庭でタヌキの鳴き声がするので出てみると、この春生まれた子タヌキを母親が威嚇して追い出しにかかっている。子タヌキは哀願して悲痛な鳴き声を上げているのだが、母タヌキにとっては次の繁殖に備えて体づくりが必要で、野生では厳しい親子の関係がある、という内容だった。
 そして午後はホームセンターで念願のエンジン草刈り機を買ってようやく古い刈り払機のリニュアルをはかった。
 雨が降り止まず、夕食はスーパーで買った寿司弁当をテントの中で食べた。こんな雨なのにテントの西側から可なり大きな打ち上げ花火の音が聞こえていた。そして東方向のずっと遠いところからも「ポ〜ン、ポ〜ン」と小さな花火の音が雨音に混じって聞こえてきていた。夏の終わりのお祭りが涙雨になって何とも寂しげな花火の音だった。

2008年8月25日(月)曇
おやじ山の夏2008(静かなる死闘)

 今日の日記はヘビ嫌いの人はパスしてください。何とも写真が恐ろしいですから・・・
 今日の午前中は信州から友人のOさんが来る予定だったが、長岡に嫁いだ娘さんに会ってからここに来るというので、おやじ小屋の修理に山に入った。小屋に着いて早速昨日買ったエンジン草刈り機で池の手前の広場とおやじ山の入口から小屋までのアプローチの草刈りをした。すこぶる快調で、果たして今までの刈払い機は何だったのだろうと長年の恩も忘れて思ってしまった。
 そして昼食の前に何気なく小屋の裏に回ると、古いトタンを重ねて置いてある所に大きなヤマカカシがいた。「ギャー!!」と思わず両手を胸の前ですぼめて飛び退いたが、何か様子が変である。ヘビの動きが実にスローモーで前後に行きつ戻りつといった風である。よくよくトタンの下の暗がりを覗き込むとヤマカカシが大きなアズマヒキガエルの尻に食いついている。何と自分の頭の4、5倍の大きさはあろうかというヒキガエルのメスを呑み込もうというのである。恐ろしさと気持ち悪さで仕方がなかったが、前ににじり出て見物することにした。ここまで大きな獲物を呑み込んでいたら途中でヒキガエルを「ぺっ!」と吐き出し自分に向って牙を剥くこともあるまい、と少し安心したからである。大きな口を気味悪く開けたヘビは勿論無言だが、食い付かれたヒキガエルも全くの無言で、時折前足だけで地面を掻いて逃れようとしている。その度に大きなヘビの体が前に引き摺られ、そしてヘビも反撃して体をくねらせながらバックして獲物を引き戻そうとするのである。このくねりながらのヘビのバックがとっても気持ち悪く、思わず私も「おお〜ッ!」と身を震わせて後ずさりしてしまう。多分ヒキガエルは「痛い!コラ!放せ!」と言い、ヤマカカシは「コンチキショウ!放すもんか!」と言いつつ死闘をやっているのだろうが、こちらの耳には不気味なほどの静けさである。
 20分も見ていただろうか?ヘビやカエル以上にこちらもぐったりとくたびれて、昼飯のインスタントラーメンもあまり喉を通らなかった。
 5時半にOさんが寺泊で買ったというカニやボタンエビの高級食材のお土産を持ってテントに来た。そして酔うほどに昼間見たヘビの話が繰り返し出て、カミさんから「もう同じ話、先ほどから何回も聞きました。私までヘビの夢を見そう」とすこぶる顰蹙をかってしまった。
 深夜12時までヘビを肴にOさんと酒を呑む。
  

2008年8月29日(金)曇
おやじ山の夏2008(嬉しい客人)

 昨夜からの雨が上って、朝6時過ぎにOさんが帰って行った。昨夜は今日の私の誕生日の前夜祭だと言って深夜近くまで二人で酒を呑んでいて、Oさんが朝テントの外で「今から帰ります。さようなら」と声を掛けるまでぐっすり寝込んでいた。「えっ、もう今から!」とビックリして声を上げると、0さんが「そのまま、そのまま、休んでいてください」と言ってテント場から駐車場に下りて行った。そしてすぐ自動車が発進する音がしたので飛び起きて高台に出、田んぼの中の道を走り去っていくOさんの車に向って大きく手を振った。そして手を下ろして空を見上げると、もうすっかり秋の空だった。
 作業道路を歩いておやじ小屋に出勤する。車止めの前に宮城ナンバーのジープが停めてあって、運転席の前に「全国土石流災害渓流調査」と書いた表示があったが、途中の黄土沢の堰堤で赤白ポールを持って調査している二人の青年がいた。作業道路から沢沿いの道まで下りてこの青年達としばらく話をする。どんな調査なのか興味を持ったからである。
 小屋に着いて早速最後に残った北側の梁の上の板張りに着手し、昼前には全て終えた。これで小屋の内壁も完成したことになる。バンザ〜イ!バンザ〜イ!

 午後を少し回った頃、何とカミさんが日頃お世話になっているキャンプ場管理人のIさんとKさんを案内しておやじ小屋にやってきた。いつかこの小屋を見たいと言っていた二人だったが、ようやく実現したのである。Kさんは小屋を見て「な〜んだ、掘立て小屋だとばっかり思っていたら立派な山小屋でないの。これならここで寝泊りできるわ。いや〜驚いたなあ」と、つい先ほど完成したばかりのリニューアル山小屋を誉めてくれた。ずっと越後の山間地で暮らしていたというTさんは驚くほどの物知りだった。おやじ池を見て「ツブガイ(タニシのこと)を撒いてたら水の汚れがなくなるよ。あとで食べても美味しがね」、小屋の前の大杉の木を見上げて「これは○年くらい経った木だねえ。昔は元口と末口に橇をつけて雪の谷を滑らせて丸太を運んだこってえ」、小屋の脇に咲いている花を見ても「この山女郎花は高級な花だてえ。女郎花と違って臭くなくていい匂いだてえ」と、次から次と言葉が出て全く感心してしまった。
 仕事中だと言って少しの時間居ただけでまたカミさんと一緒に帰って行かれたが、お二人がおやじ小屋に来てくれて本当に嬉しかったなあ。
 残りの仕事を終えて私も山を下った。山道の途中、雲の間から一瞬の夕陽が山を燃え立たせてすぐに墨染め色の闇となった。そしてテントに着くと誕生日のささやかなご馳走が待っていたが、どのパックにもスーパーの閉店間際の半額シールが張ってあるものばかりだった。俺もだんだん半額商品になって・・・まあ、いいかあ〜









2008年8月30日(土)曇〜雨
おやじ山の夏2008(小屋の棚作り)

 ラジオが東京八王子や藤沢辻堂の大雨のニュースを伝えている。この夏は猛暑や豪雨と気象変動のブレが大きくて、いよいよ気球温暖化現象が身近に迫ってきているように思える。
 朝食後、一人でおやじ小屋に向かう。8月後半からの雨続きで今年のキノコの出はなかなかいいようである。まだ本格的なキノコシーズンには早いが、道端にはイグチ類や綺麗な毒茸が割合多く生えている。昨日小屋の内壁を全て張り終えたので余裕が出来て、そんなキノコ類を写真に撮りながらのんびりした小屋への出勤だった。
 今日は小屋の中に吊り棚を作ることにした。小屋修理の付録のようなもので、木工房のNさんから頂戴した角材と余った杉背板を使えば割合簡単に出来そうだった。
 夢中になって作っているうちに雨になった。大工道具を全て小屋の中に入れて時計を見ると、既に午後3時である。釘を打つ手元がどんどん暗くなって、終には釘を逆さに持って打つほどになって「こりゃあダメだ」と作業を諦めた。
 午後5時、雨の暗い道を傘をさして山を下った。





2008年8月31日(日)晴れ
おやじ山の夏2008(夏燃え尽きる)

 いよいよキャンプ最終日になった。まるまる1ヶ月間滞在したことになる。
 朝5時半に起きておやじ小屋にデポする幾つかの道具を持って山に行き、昼食に一度テントに戻ってから再びおやじ小屋に引き返した。

 今日も小屋修理の付録で、薪と炭を入れる道具箱を余った木材で作った。そして表面に防腐剤を塗って完成させてから、箒で小屋の土間を綺麗に掃き清めた。それから外の木材を積み直して整理し、「おやじ小屋」の看板をかけた入口のドアに鍵をかけた。時計を見ると午後5時10分だった。そしていつものように小屋に向って帽子をとり、大声で「長い間、ありがとうございました!」と挨拶しておやじ小屋を後にした。
 帰りの山道から望んだ西の空は、真っ赤である。まさにこの夏一番の夕焼けで、最後の夏の季節の翳を全て放出して燃え尽きんとするばかりのエネルギーの全開ぶりだった。「ああ、夏が終わったなあ〜」と思わず溜め息をついて、真っ赤に燃える夕焼け空を眺めていた。

(おやじ山の夏2008 おわり)