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最後の更新は8月23日

2007年8月2日(木)晴れ
チベット旅行(旅立ち)

 ひょんな事から中国のチベット自治区に旅することになった。仙台出身でチベット大学の客員教授をやっておられる画家のk先生の企画旅行で、今日から8月9日までの8日間のツアーである。総勢23名、出発地は仙台空港、私以外は全て仙台市内やその近隣の在住者である。(後で私が県外者だと分かったら「な〜んだべしゃぁ〜!こだらとこっしゃぁ付いて来て、どげな訳?」とみんな自分達のことは棚に上げて、まあうるさいことうるさいこと・・・)
 定刻13時45分発の中国航空は北京からの到着便が現地の大雨で2時間遅れてようやく飛び立った。乗り込んですぐに窓際の空いている席に移り、外の景色に見入る。先ずは蔵王の青々としたお釜が真下に見え、遠くに秀麗な鳥海山が何本かの雪形を縦に引いて佇んでいる。何年か前に次兄と登った飯豊連峰はさすが今だに厚い残雪が山肌を覆っている。午後の4時半過ぎに能登半島の上空から日本海に出て午後7時に中国大陸に入った。天津上空からの景色は何とも物凄い工業地帯の様相で、縦横に走る運河の間には巨大なタンクの林立と、臨海の埋立地にはいかにも薬品じみたコバルトブルーの大きな池が薄気味悪く見えたりした。
 19時半、北京空港に着陸した。仙台空港より約3時間半のフライト、夕陽に建物が赤く染まっていた。
 ポプラ(注*)の並木の高速道路を走って先ず中華レストランで夕食を摂り、今夜のホテル「中旅大厦」でようやく靴を脱いだ。同室は二科会の写真家Kさんである。(この方とはずっとホテルや青蔵鉄道で同室となり大変お世話になった)
(注*)この樹は日本では「ヤマナラシ(別名ハコヤナギ)」である。中国ではヤナギ科のヤマナラシ属(学名Populus)を「楊」、ヤナギ属(ヤナギ亜科)を「柳」と言って区別している。日本のポプラは明治以降に導入され「セイヨウハコヤナギ」が属名のPopulusからポプラと呼ばれて親しまれてきた。




翌日のホテルの窓から

「中旅大厦」
2007年8月3日(金)曇り、晴れ
チベット旅行(青海省西寧〜同仁<レゴン>へ)
 北京のホテルをチェックアウトする時に部屋の冷蔵庫から取って飲んだミネラルウォーターの精算をした。何と小瓶1本が30元(約500円)である。「ああ〜損こいたあ!」と思わず溜め息。
 再びバスで高速道路を走って北京空港に行き中国航空で西海省の省都西寧に向かった。西寧は標高2,270mの高地にある。正午前に西寧空港に着き、これからずっと案内していただくガイドのチョルテンさん(チベット語で「仏塔」の意味。立派な名前である)から1人ひとりの首に歓迎のハカ(白い絹布)を掛けてもらって出迎えられた。外の気温は25℃、ギラギラの太陽であるがさらっと爽やかである。
 空港での迎えのバスに乗り込みニレの並木道を走ってレストランに向かった。まあこのバスがひっきりなしに「プープー」とフォーンを鳴らす。(この後もあちこちでいろいろなバスに乗ったが、いずれもけたたましくフォーンを鳴らし続ける運転でそのうち慣れっこになってしまった)交通ルールなどあちらもこちら側も無いようなもので全く恐ろしい限りである。
 レストランでお茶の接待や料理を運ぶウェイトレスはまだほっぺが赤い中学生低学年位の少女達だった。思わずマレーシアに植林に行った時の屋台で働く少女達を思い出してしまった。
 再びバスに乗り込み140km先の同仁(チベット語でレゴン)に向かった。途中までの高速道路は実に快適だったが、一般道に入った途端に数日前に降ったという大雨でがけ崩れたヒヤヒヤのドライブとなった。崩れた土砂を片側だけ除けた道の下は、黄河の支流が茶色く渦巻く断崖絶壁である。これが何十箇所もあって、途中ではヤギを積んだトラックとハチ遭わせになってしまった。明らかにトラック側が強引に突っ込んできたのだがバックして譲る気配はない。こちらのバスの後ろには何台も車が詰まって来るし、相手のトラックの後ろにも見る見る車が溜まって来る。見るとトラックの後ろの何台目かに「公安」と書いた中国のパトカーもいる。しかし警察が車から降りて来て交通整理の仕切りをする気配など全く無い。仕方なしにこのバスのガイドが降りてトラックと交渉をはじめ汗だくでその後ろの車をバックさせている。中国パトカーまでガイドが「オーライ、オーライ」と手を振って先導しているのには全く呆れてしまった。
 3000mを越える峠道を通り、水葬(チベット族は通常18歳未満の子どもが死ぬと水葬にする。因みに老人が死んだ時は鳥葬である)の場所で小便タイムをとったりして夕方5時過ぎに同仁のオッコル村に入った。そしてここはチョルテン・ガイドの出身村であり、この村で今行われている収穫祭を見学するのがk先生企画の今回の旅の1つのイベントだった。
 みんなバスを降りて早速祭りの輪にカメラを向ける。祭りの名をチョルテンさんに聞くと「ラセ」又は「ルル」と教えてくれた。これから10日間ほど行われる大麦や菜の花(菜種油)の収穫を感謝するお祭りで、アニータルジャ(同仁県ではアニーシャキョン)と呼ばれる神様が乗り移った生き仏がいて祭りの主役を務めるのである。このオッコル村の神様は実に怖かった。中腰になって小刻みに歩きながらブルブルと唇を震わせ続ける。このご神託を脇に付いて甲斐甲斐しく神様の世話をしている人が解読して皆に告げるのである。曰く「暑いからビールを頭からかけろ」曰く「カメラを俺に向けさせるな」曰く「今日は村長が来ていないので、俺は怒ってるぞ」(チョルテンさんの長兄はこの村の村長さんで、後刻チョルテンさんから神様がこう怒っていたと教えられた)神様はビールを浴びるように飲み続けながら村角や家の門の前にある供物の果物やお菓子などをばら撒きながら(神様がばら撒くとわ〜!と人が集まってこれを拾う。功徳があるのだという。供物のビールは神様が飲むか頭にかけて冷やす)祭りの行列を引き連れて村の中の道を通り、お寺の広い境内に出てから寺の堂に入り、何やら最後の宣託(やっぱり何か怒ったらしい)をしてドタンと倒れ込んでしまった。(ドンと倒れたのはシャーマニズムのクライマックスの重要な場面らしいが、道々であんなにビールを飲み続けたら誰だって・・・?)
 お祭の振る舞いビールを神様が倒れ込んだ堂の軒下で日本から来た何人かも(私も勿論)頂戴し、何となく高揚した気分でバスに乗り込んだ。そして同仁の町に入りホテルに着いた。
 夕食はホテルと同じ敷地内の中華レストランだった。食事の直前に強い風が吹き出し電気が消えた。昔懐かしい停電である。ロウソクが灯され実にいい雰囲気だったが、厨房で料理が作れないという。仕方なしに別のレストランにぞろぞろと移動する。そしてホテルに戻って部屋に入りオッコル村の神様みたいにドタンとベッドに倒れ込んだ。「いやはや〜疲れたっちゃあ〜!」ともう1人の神様が仙台弁で言った。






















2007年8月4日(土)晴れ
チベット旅行(同仁にて)

 朝食前にホテルを出て周辺を散歩する。ホテル前の広い道路にはまだ車も走らず、若者達が道のど真ん中でのんびり立ち話しをしている。ものの50mほど大通りを歩いてひょいと脇道を見ると、奥の方にオート三輪が停まって人びとが立ち働いていた。ぶらぶら歩いて行くと、そこは野菜市場だった。市場の手前で小さな板張りの台車に乗った少年が洗面器をかざして物乞いをしていた。少年の両足は萎えたまま縮んでしまって、もはや消滅してしまったようにも見えた。少し離れて望むと、黒く小さな1つの肉塊と見間違うようである。何とも残酷なこの光景が私の目の奥に残像となってしつこく張り付き、なかなか消えてはくれなかった。
 まだ市場で陳列最中の野菜を見て回る。スイカが一番多いようだがウリがありネギ、ニラ、白菜、チンゲンサイ、ジャガイモ、ニンニク、キュウリ、細ネギ、そして色んな種類の果物、まるで南国の市場のようである。
 ホテルに帰って昨日停電したレストランで朝食を摂った。はじめてこちらで最もポピュラーなバター茶を飲んだが、実に美味である。発酵したお茶の葉とヤクの乳を撹拌してミルクティーにし、ちょっと塩味で整えた栄養飲料である。
 午前中は1301年に建立されたチベット仏教寺院の「隆務寺」を見学した。盛期には2,300人の僧侶がこの寺に居たというが1960〜70年代の文化大革命で寺が破壊され、今や僧侶の数は300人足らずになってしまったという。しかし細々と復興され続けているこの寺には、大きな寺の守り神の馬頭観音があり、チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパの仏像があり、複雑な政治情勢のチベットでは決して見ることが出来ないダライ・ラマ14世の写真もしっかりと飾られてあった。
 バター灯のゆらめく暗い堂内から外に出ると、全く抜けるような高地の青空である。境内にはリラの花や郷里越後の夏の花タチアオイが咲いていた。
 昼食は再びオッコル村に行ってチベット族の郷土料理を食べるのだという。村外れにあるチョルテン・ガイドのお姉さんの家に招かれてのランチだった。アザミやセリ、ウマノスズクサの咲く全くのどかな村道をぞろぞろと歩いて行くと、62歳だというチョルテンさんのお母上を先頭に歓迎の白い絹布ハカを持った一族郎党が家のずっと先まで出て来て出迎えてくれた。1人ひとりの首に「タシデレ(こんにちわ)」と言いながらきれいな笑顔でハカをかけてくれる。そして家の中に入って一族の紹介があり、バター茶の歓迎を受けながら楽しい食事が続いた。
 チョルテンさんの一族に見送られてオッコル村から浪加村(ランジャ村)の収穫祭(この時期は同仁県の各村で同じ祭りが開催されている)にバスで向かった。途中の村でも同じ祭りに遭遇して30分程立寄った。晴れ着で着飾った子ども達の顔が何と素晴らしかったことか!
 浪加村のお祭りには外国人の観光客が多く来ていた。我々だけだったオッコル村よりは余程知名度が高そうである。ここの神様は年のほど23歳くらいで長く少しウェーブのかかった髪を後ろに垂らしていた。丸顔で垂れ眉、何となく以前出ていたプロサッカーの柳澤選手に顔形が似ている。中に黄色の服を着けその上に金刺繍の入った朱色のドテラ服を半肩に着ている。黄色とピンクの袈裟というか幅広の襷を肩から十文字に掛けてズボンは黒、脛には派手な模様の脚絆を巻いていた。靴は黒色だがどう見てもスポーツメーカーのスニーカーである。この神様はサービス精神旺盛だった。踊りの輪の中に入って「ジャ・ジャジャジャジャ・ジャン」と6拍子で打つ団扇太鼓に合わせて自分も円舞し、停まった時も自身の身体で弱くリズムをとりながら円舞に目を配り、まるでダンサーを従えた紅白歌合戦に出てくる歌手のようである。時たまこの神様が手に持ったムチで団扇太鼓を叩くと周りの踊り手は興奮したように一斉に「オウヒョウ!オウヒョウ!」と甲高く吼えた。オッコル村の神様のようにビールなどがぶ飲みしない。何とも良さそうな神様だと自分は評価していたのだが、ホテルに戻って皆の意見を尋ねてみると、何と断然オッコル村の神様の方が貫禄があると評判が良かった。分からないものである・・・・
 この祭りの広場で私が手帳にメモ書きしていた時である。子どもが寄ってきて伸び上がって手帳を覗き込むのである。(いろいろの所でよくこう言う場面に遭遇したが・・・)現地の子どもに日本語が読める訳は無いが、子ども達は異国の文字に興味津々なのである。そして覗き込まれると、日頃カナ釘文字にコンプレックスを持っている自分は、思わず恥ずかしくて手帳を伏せてしまって自分でも笑ってしまった。何とだらしが無いことか・・・

 























2007年8月5日(日)晴れ
チベット旅行(再び西寧へ−タール寺を見て青蔵鉄道に乗る-)

 6時前にベッドから出る。既に起きている同室のKさんに「おはようございます!」と挨拶する。Kさんは今日も私より早く起きてじっと静かにタバコを吸って、決して私が起きるまでは行動を起こさない。そしていつも適度な距離をとって私に接してくれているのが本当にありがたい。
 テレビのスイッチを入れるとちょうど中国中央電視台からのスタート映像(NHKがその日の最初に放映する日の丸のイントロ映像のようなもの)だった。「ほほう〜」と思ってKさんとテレビ画面を観ていたがすぐにくたびれてしまった。いつもそうなのかはてまた来年の北京オリンピックに向けての中国政府の意気込みなのか、まあこの映像が「皆さん一生懸命ガンバロ〜!」的で日本のおじさん年代にはとてもついて行けない。Kさんと顔を見合わせながら溜め息をついてリモコンスイッチを切る。
 午前中は同仁市内にある「サンゲイション」というチベット仏教寺院に行く。大きな楡の樹がある境内に8つの宝塔が一列に並ぶ「如来八塔」があり、その中の1番目の大きな仏塔に登ってみる。仏塔の中に立派な金剛手菩薩が安置されていた。目を凝らしてよくよく見ると、どうも歓喜天のようである。この寺の境内で一人旅の若い日本女性に会った。「どこから来たの?」と尋ねると「群馬・・・」との答え。「俺、神奈川・・・」と言うと、ちょっと前まで神奈川県で会社勤めをしていて、そこでお金を貯めて日本を出て来たのだと言った。700年の歴史があるというこの寺の大経堂を見てからバスに乗り込む。
 西寧への帰り道は相変わらず崖崩れのままの道だった。断崖のぎりぎりの縁をバスが通過する度にツアーの女性達が「キャー!」と奇声を上げる。途中、回民族の人達が道路の補修作業をしていた。チョルテン・ガイドが説明する。「この人達のアルバイト料は1日20元・・・」「え!・・・1日20元!」北京のホテルで飲んだ小瓶のミネラルウォーター(30元)より安いとは・・・!
 黄河支流の難所を過ぎて1つの村に入り、ちょっとした食堂の前でバスは停まった。ここでイスラム料理の昼食である。やはりここでもかわいい少女が給仕をしている。「何だかウチの孫にお茶こさ注いでもらっているようだっちゃ〜」と仙台弁が飛び交う。料理が出てくる間、外に出てみる。食堂脇のレンガの塀に「制販銃支害人、害己、害国。制販銃支妻離子散、流亡奔命。化隆県公安局宣」と白ペンキで大書してあり「ふ〜ん・・・」と読んでみたりしていた。
 ここでの料理は、ナン、ハルサメのスープ、溶き卵・トマト・ニラのスープ、キャベツ炒め等々だったが、とりわけミャンペンというスイトン料理の味はちょっと忘れがたい美味しさだった。
 バスは2日ぶりに西寧の街に入った。西寧郊外には大きなクレーンが何機も動いて住宅の建設ラッシュである。これらの新築マンションは日本円で200万円位だそうで「皆さん投機対象にどうですか?中国ではすぐ値上がりしますよ」とガイドが冗談を言う。そしてバスは街を通り過ぎてチベット仏教ゲルク派の6大寺院のひとつタール寺(チベット語でクンブム)に向かった。
 タール寺はゲルク派の開祖ツォンカパが生まれた所で1560年に建立された40haの敷地面積を持つ大寺院である。かっては4000人以上の僧侶がいたというがやはり文化大革命で破壊を受け、今や600名の僧が残るのみである。この寺の名物「酥油花館」のバター彫刻(酥油花)を見る。バターで作った花や仏様や動物などが、何と日本からプレゼントされたというガラス張りのクーラー室の中に納まっていた。(でもやっぱり暑さで溶けた動物なんかが下に転がっていたなあ・・・)
 今夜はいよいよここ青海省西寧からチベット自治区の首都ラサまでの全長2,000kmを走る高原列車「青蔵鉄道」に乗車する。昨日ようやくツアー全員の切符が取れたという列車に乗り込み、現地の旅行会社の社員が出発ぎりぎりまで我々の団体を出来るだけ同じコンパートメントにまとめるために他の乗客と指定席切符の交換交渉をして、20時26分青蔵鉄道は静かに西寧の駅を離れた。そしてここでも写真家のKさんと同室になることができた。



















2007年8月6日(月)晴れ
チベット旅行(青蔵鉄道にて)

 昨日書くのを忘れたが、西寧駅では飛行機に乗る時と同じように透視カメラによる手荷物検査があった。勿論航空機の時のやうな厳密さはなく、まあおざなりの検査という感じである。
 乗り込んだ車両は5号車の6番、私は3段ベッドの上段、ホテルで同室のKさんは下段である。中段は中国人の青年である。

 梯子は無くベッドのアームに取り付けてあるわずか10cm四方程の足掛けをパタンと開いて「よいしょ!」と懸垂で登った上段は、実に狭かった。ここは体力の無い老人や女性、そして体重80キロを超えるような太った人は決して利用出来ない。登山のときの山小屋の蚕棚ベッドに転がり込むより余程困難である。(そしてこともあろうにこの後食堂車のお湯で腹をこわし、懸垂でベッドを上り下りすること十数回、下腹に力を込めると何やら漏れそうで腕の筋肉だけで運動するものだからおやじ山の作業よりくたびれてしまった)しかし、毛布も枕のカバーも真っ白で清潔そのもの、枕元には押すと酸素が吹き出るノズルが付いている。
 昨夜の22時過ぎに消灯、今朝7時に標高2800mのコルムド駅に着いた。ここで機関車の交換である。これから4000m級の高地(最高地点は5,072mのタングラ山駅)を走るので中国製に代わって馬力のあるアメリカ製の機関車で走るのだという。ホームに下りて記念撮影をしたり歩いて身体の調子を整える。
 朝8時に予約してある食堂車まで車両を渡り歩きながら行く。途中の3両はシート席で殆どがチベット人、たまにバックパーカーの白人が混じっていたりする。このシート車両は床に落花生やヒマワリの種の殻が散らばっていたり、そこに乳児を抱いてゴロンと眠っている人が居たりといささか凄まじい光景だった。
 食堂車から寝台車に戻ってしばらく、崑崙山脈が見えて来た。左側の車窓に6,178mの玉珠峰(ギョクシュホウ:イューメゥーフン)が純白の山肌を輝かせている。車内から思わず歓声が上った。カメラマンのKさんはこの写真を撮るために新たに買ったという小型ビデオをセットして息を詰めてモニター画面を睨んでいる。
 車内の電光掲示板が標高4,000mのテロップを流した頃、遠くの氷河をバックに広い草原に兵士達の姿が見えた。軍事訓練というよりはのんびりと散歩でもしているようである。K先生の解説では「こんな高地でも中国軍はいつも軍事訓練に余念がありませんよ」という国際列車(青蔵鉄道)向けのデモンストレーションだと言った。
 電光テロップが4,560mを表示した頃から下半身や肩がだるくなって来た。そして4,600mの表示の時に草原の中に1人の子どもを見た。「あれ?」と思って目で追っていると列車がゆっくりと小高い丘を回って小さく煙が出ている白いゲル(テント)を見せた。「すごい所に住んでるなあ!」と全く感心してしまう。
 12時に食堂車で昼食。チョルテン・ガイドの「食堂車でコップを出さないかも知れませんのでお持ちの人は持参下さい」の言葉で自分のリュックからマグカップを持って行ったのが大失敗だった。食堂車のテーブルにトンと置いたマイカップに並々とお湯が注がれた。ツアーの他のメンバーはコップが無い。ちょっと優越感さえ持ってゴクゴクと飲み干す。生水は悪くてもこれは沸騰したお湯である。(これが大いなる錯誤であることが後で分かった。ここは標高4600mの高地。すると沸点は何度になるのだろう?後日3600mのラサのホテルでまたたく間にポットのお湯が沸くのが不思議でようやくこの事に気づいた)
 この後のトイレ通いは悲惨だった。最初は綺麗だった国際列車のトイレも次第に本性を現し、用が終わってから流す水も便器を流れず細かい霧のようになって狭い室内に拡散するのである。果たしてこの水(霧)がブツを流す前の純水か、ひょっとして既にブツと混じってしまった栄養水か、分からない。それで3度目にようやく要領を覚えて、洗浄ボタンを押す前にしっかりと衣服を整えトイレの鍵を開け、押した途端に素早く外に出て急いで「バタン」とドアを閉める。するとその一瞬後、中で「シゥー!」と凄まじいバキュームと水音がして密閉した部屋で(多分)霧が舞うのである。
 14時10分、女性車掌が「タングラ、タングラ」と青蔵鉄道の最高地点(5,068m)を連呼して歩く。この時の私の率直な感想は、タングラよりは一刻も早く終着点の「ラサ、ラサ」の連呼が聞こえないものかと祈るような気持ちだった。
 青蔵列車で仲良くなった中国人。同じコンパートメントの「毛峰さん」と隣の寝台ボックスの6歳の少女。毛峰さんとは漢字の筆談で会話した。
 青蔵列車から見た動物。チベットカモシカの雌と雄。(雌同士、雄同士で数頭づついた) 野生のヤク、野生の馬かロバ、羊、水溜りにカモ。
 21時50分、チベット自治区の首都「ラサ」駅に到着。そして今夜のホテル「拉薩飯店」のトイレに駆け込んだ。この瞬間の安心感たるや、果たして何年ぶりだろうか・・・?
 
























2007年8月7日(火)晴れ
チベット旅行(ラサを見る−ポタラ宮とセラ寺−)

 自分では今までずっと頑健な体だと思っていた。高い山登りも平気だしおやじ山での力仕事もできる。しかしよくよく考えてみるとこの旅行前には腰痛に苦しめられ、出発直前に何とか落ち着いてやれやれと思っていたら最初の旅先の同仁で歯肉が痛んで左のほっぺたがプックリ腫れた。その腫れがようやく引いたと思ったら今度は下痢である。いづれも不注意からの小さな病だが、これらが続くとボデーブローのように体にこたえて来るのである。年をとるとはこういうことかと情けなくなってしまう。
 ホテルでの朝食を抜き(そしてこの後丸々3食絶食した)バスに乗って先ずは午前中の観光地「ノルブリンカ」に向かう。ここは歴代ダライ・ラマの夏の離宮でニレ(楡樹)、ネズコ(ヒノキ?)、マツ、ポプラ(ハコヤナギ)などの木々が茂る公園といった感じである。乾燥した高地にこんな林地を維持するのは余程こまめな手入れが必要と思われる。ここで特段見るべきものはなく(14世と8世の離宮には入ったが)、これから向かう今回の旅のメインイベント「ポタラ宮」見学の体慣らしのようなものである。何しろここラサの標高は3,650m、富士山より少し低い程度で、そしてポタラ宮の高さは115mもある。この標高で(悔しいが腹に力を入れないようにして)ポタラ宮の階段を登っていかなければならない。
 ツアーのグループが楽しそうに食べている豪華な中華料理の昼食をじっと睨んでからポタラ宮に向かった。ポタラ宮とはダライ・ラマの宮殿で7世紀に建設が始まり、政教両面で権力を握ったダライ・ラマ5世の17世紀に完成したという聖(紅宮:霊塔などの宗教に関わる上部の赤い外壁の部屋)と俗(白宮:下部の住居兼政治の執行場所)の複合建築物である。1994年にはユネスコの世界遺産に登録されている。
 先ずはバスを降りて宮殿前の広場から建物全体の記念撮影。そして予約した見学時間の12時50分に宮殿の正門前に立った。(ポタラ宮はいきなりここにポッと立っても入場できない。必ず予約が必要である。外国人はパスポートも提示しなくてはいけない。空港と同じ手荷物検査もある。それで当日入れず泣く泣くラサを去る観光客も多いのだという)現地ガイドの龍さんは、ここでの受付と入場検査の間は決して喋るな、と念を押した。そして必要だと言っていたパスポートも見せてはいけないというのである。そっと耳に届いたことは、ポタラ宮の指定時間の予約はとても難しく我々は入場が比較的容易な本国人(中国人)に化けて入るのだと分かった。(しかし手荷物検査が終わった途端、「いやはや、厳しっちゃあねぇ〜!」とグループの1人が思わず声を出した時には全員がビクッと固まった。丸出しの仙台弁で良かった〜!多分検査官はこれが日本語だとは思わなかったのだろうから・・・)
 ポタラ宮の右側のつづら坂を息を整えながらゆっくりゆっくり登る。ガイドの龍さんが頻りに「早すぎますよ!もっとゆっくりゆっくり!」とグループのメンバーに声をかける。しかしここでの制限時間は1時間と決められている。みんな気が急くのである。見学場所は紅宮のみだった。ダライ・ラマ5世の豪華な霊廟に目を見張り、左側の帰りのつづら坂から望んだラサの風景を楽しんで無事ポタラ宮見学を終えた。
 15時からはセラ寺の問答修行が見られるというのでバスで向かった。ここは明治時代の日本僧「河口慧海」や大正年間に秋田出身の多田等観が長く修行した寺である。私は出発前に河口慧海の著した「チベット旅行記」や河北新報が連載した多田等観の新聞記事を読んでいたので、この寺には是非行ってみたかった。
 セラ寺の問答修行の様子は全く痛快だった。楡の木が茂る石敷きの中庭にはおよそ50組、200名程の僧侶が掛け合い問答をしている。1人が立って大声で怒ったように「ワワワッ!」と質問する。胡坐をかいたり楡の木に寄り掛かって座っているもう1人(又は2人)が質問に答えて「・・・・・△□」と低く答える。それを受けてまた立った僧が「ワワワッ」と質問するのだが、質問の最後に必ず左足を上げ、体の前に左手を延べて、それを高く上げた右手で勢いよくパチンと打つ(同時に左足をドンと地面に下ろす)のである。問答の意味は全く理解できなかったが時間を忘れて見ていたので、気が付いた時にはグループが別の見学場所に行ってしまい慌てて探し回った。
 夕食はジョカン(大昭寺)の周囲をぐるりと巡る道=バルコル(八角街)のレストランだった。やはりここでも料理を睨んだきり一口も食べなかった。(よく体が持ったと我ながら感心!)民族舞踊のアトラクションなどもあって外に出ると、幾分涼しくなったバルコルではマニ車(お経の入ったガラガラのようなもの。回すとお経を読んだことになる)を回しながら「オンマニファニホン・・・・・・・」と経を唱えながら歩く巡礼者、五体投地をする巡礼者、そして観光客とごった返す人並みだった。
 この人並みを分けてピカピカの四輪駆動車が4台、フォーンを鳴らしながら入って来た。(バルコルは車はおろか人力車さえ通行禁止だというのに) 1台目は屋根に青と赤のランプを付けた「公安」(中国警察)の車、2台目、3台目はどうやら中国のVIPが乗っているらしい。そして最後の車はやはり「公安」である。車は全て日本車。トヨタのランドクルーザーと三菱のパジェロだった。「なぁ〜んだっちゃ〜?いばりくさってぇ〜!ふんぞり返ってるっちゃあ〜!」と我がグループの女性連。別に車内のVIPは反り返ってはいない様だったが、やっぱり私にもそう見えてしまうのである。
 ホテルに戻った。ようやく安心してミネラルウォーターの水を口に含んだ。よく1日身体が持ったものである。「オンマニファニホン・・・・・・・・・・・」
































2007年8月8日(水)晴れ
チベット旅行(祈りの民−愛しきチベットの人々−)

 朝ホテルのレストランで1日半ぶりの食事を摂った。中華料理の席ではいつも同じ丸テーブルを囲んだIさん夫婦が先に食事をしていて、ご夫婦持参の手作り梅干を私が掬ったお粥の茶碗に入れてくれた。注意して軽く1膳食べただけだったが、こんな美味しいお粥を食べたのは久しぶりである。
 昨夜は本当にぐっすりと眠れた。
一昨夜のように夜中に頻繁に起きることもなく、ようやく腹の具合も回復に向かったようだった。
 午前10時にホテルを出てバルコル(八角街)に向かう。ここの食堂を兼ねた観光客向けの一軒の店をベースに最後のおみやげ買いとジョカン(大昭寺)を参拝するのが今日の予定だった。
 ジョカンはここチベットで最も聖なる寺院と言われている。現地ガイドの龍さんは次のように説明してくれた。「チベット人が一番大事に思っていることは、結婚でも、お金でも、家でもありません。ジョカンにあるお釈迦様(注*)を拝むことです。そしてジョカンのバルコル(お寺の周りの巡礼道)を巡ることで自分の来世に安心することなのです。そのためにチベットの人々は遠くから荷車やトラックに乗り継いだり、五体投地を続けて2年も3年もかけてここに向かって来るのです。チベットの人たちは今の自分は仮の姿だと思っています。死んで転生した時、今よりもっと良い生き物になって生まれて来るために、ここに来て祈るのです」
(注*)チベットを統一した吐蕃のソンツェン・ガムポ王が唐から迎え入れた王妃「文成公主」が持参した12歳の等身大の釈迦牟尼像。そしてジョカン(大昭寺)は文成公主ともう1人のガンポ王の妃、ネパールから嫁いできたティツェン王女の2人で協力して建てた寺である。建立は648年。
 バルコル一周する距離は2km弱である。最初の一周をグループでチョルテンさんに付いて歩き、皆が買物に散ったところで自分だけでもう一周した。そして、巡礼の人混みの中を一人で歩きながら初めて感じたこの開放感!今までこの旅ではついぞ味わったことが無かった一人旅の自由さ!最後になってようやく掴むことができた「自分の旅」の感触だった。するとどうだろう、マニ車をクルクル回しながら歩く女性の顔や、杖をつき互いに手を携えて歩く連れの巡礼者や、人混みの渦の中で経を唱えながら激しく五体投地する僧侶や、孫の手を引きながら満ち足りたように穏やかな日焼け顔の老婆や、その顔顔顔の素晴らしさが見えて来たのである。厳しい自然の中で過酷な生活と労働とに耐えてきたであろう深い皺の刻まれた老人の顔は、とりわけ私にとって単純に「魅力的な」などと言えない、とっても大切なものに見えてきた。「ああ、この人たちはいかに今まで生きてきたのだろうか?そしてここジュカンに辿り着いてどんな幸せを掴んだのだろうか?」そして今の文明人が外から与えられる物によって得る幸福と、このチベットの人たちが祈ることによって掴み取る内から湧き出す幸福感と、その質と量とは果たしてどちらがどれだけ大きいのだろうかと深く深く考えさせられるのである。
 二周回り、時計を見ると集合時間までまだ間があった。それで三周目を回ることにした。わずか15分ほどの時間だったが、この三周目は実にキツかった。殆ど丸2日間、今朝のお粥一杯の体と標高3,600mの低酸素で途中で頭がス〜ッと空になってフラフラクラクラと体が覚束なくなってきた。「ああ、もう五体投地でいいから無事にベースの店に辿り着きたい」と真面目に考えたほどだった。
 ベースの店のレストランでは昼食に珍しく魚料理が出た。鳥葬と水葬の習慣を持つチベット人は鳥と魚は食べないと聞いていたからである。勿論私は箸はつけず、ここでも大事をとってスープとスイカを口にしただけだった。
 昼食後はジョカンを見て回る。そして念願のお釈迦様の前でしっかり手を合わせ、こもごもをお願いし祈った。
 いよいよ帰国の途である。我々の乗った中国航空4111便はラサ空港を18時に飛び立ち、途中戌都に立ち寄った後北京空港に23時に着いた。この機内でリュックの中に入れて持ってきた森安孝夫著の「シルクロードと唐帝国」(講談社)の残りのページを読み終わり、そして又最初のページに戻って読み返した。旅行前に目を通して知識として覚えた内容が腹の底に落ち始めた。ジョカンで見たチベットの人々のお蔭で、いわゆる「腑に落ち出した」のである。
 来た時と同じ北京市内のホテル「中旅大厦」に宿をとり、明日はいよいよ帰国である。





















2007年8月9日(木)北京曇り
チベット旅行(エピローグ)
 昨夜は一睡もしなかった。幾分夢を見ているような時間もあったが、頭はしっかり覚醒していたはずだ。北京のホテル「中旅大厦」で同室のKさんに「おやすみなさい」を言ってベッドに横になったが、実にいろいろな事が頭をよぎって眠ることが出来なかった。旅が終わるとなると再び現実が顔を出し、これから帰国してのあれこれの課題がぞろぞろと思い出されて、思わずベッドに投げ出した手を指折って「一つ・・・二つ・・・」と数えてみる始末である。
 そっとトイレに起きて、再びベッドに横になった。今度はオッコル村で会ったチョルテンさんの母上の穏やかな笑顔やその一族の子らのきらきらと輝く目や、門の前で祭りの行列を迎えて立つ慈愛に満ちた老婆の佇まいや、さらにはラサのバルコルでマニ車を回しながらコルラ(時計回りに歩く)するまるで哲学者のような顔つきの老人や、五体投地を繰り返す巡礼者の姿が瞼に浮かびあがる。そしてその人たちが今まで生きてきた過去とこれから生きていく未来とに思いが馳せて、そこにしっかりと1本の道が引かれているのではないかと気づかされるのである。我が身を振り返って、果たして私にはその道があるのだろうか?と慌てて探って見るのだが、道はおろか不確かな荒野さえ朦朧として見えてはこない。私がチベットに来て見たものは何だったかを反芻してみると、風景?観光地?それらは確かに目を見張るものがあったが、人間の顔の素晴らしさだった。とりわけチベットの老人のその深い皺の刻まれた顔には長い長い年月、いや人類の歴史を歩んできたと思われる崇高な何かがあった。
 私はこの旅をする前に大きな誤解をしていたようである。私なりのこの旅のテーマの一つに、文明人が起こした地球温暖化の影響を「未開」の高地のチベットの凍土や氷河の凍解に如実に現れていると知って、できればそれらを見てみたいと思っていた。しかしエジプト、メソポタミア、インダス、黄河の四大文明を作り出した源流はここユーラシア大陸のヘソであるチベット高原にあり、近代以前の文明を引っぱって来たのもこの地域に住む遊牧騎馬民族達であった。ユーラシア大陸の地図を見れば、現代文明の牽引車だと豪語するヨーロッパや日本は四大文明圏の西と東の端に位置する「ど田舎」にあり、近代以前にはこの地から一方的に多大な恩恵を受けて来たのである。(西欧の農業技術の水準は18世紀になってようやく中国の6世紀の水準になったといわれる。紙、羅針盤、印刷技術、火薬、銃火器のどれ1つとってもヨーロッパで発明されたものはない。15世紀のグーテンベルグの活字印刷技術も「発明」ではなく8世紀の中国の木版印刷技術の「改良」である)そして今、この成り上がりの「文明人」達は自らが作り出したモノによって縛られ苦しめられ心身が疲弊し切っている。昨日ガイドの龍さんは、チベット人は今の自分を「仮の姿」と考えていると言ったが、その顔の深い皺の襞には厳として人間として生きてきた存在感があり、祈ることによって本来の人類として転生しつつ生き継いでいく何やら崇高なものを見た思いがした。
 私の青いテーマはチベットの人たちの前で木っ端微塵に打ち砕かれた。環境問題は現在の重要課題ではあるが、人類の歴史の中では小さなシミに過ぎない。そして人生に真に相対しているチベット人の生き方を学べば、小さなシミは自ずと消えてしまうのではないかと思うようになった。
 白々と夜が明けはじめた。午前5時20分にモーニングコールの電話が鳴り長い思いから覚めてベッドを降りた。
 CA165便は定刻の8時5分から3時間以上遅れて今だ北京空港を飛び発たずにいる。航路に激しい雷雨があるからだという。お蔭でいささか長い今日の日記を機内で書き終えることが出来た。
 11時45分、ようやく飛行機のエンジンが唸り始めた。       (チベット旅行記 完)
(参考文献:森安孝夫著「シルクロードと唐帝国」講談社)
2007年8月17日(金)晴れ
おやじ山の晩夏(猛暑からの脱出)

 チベット旅行から帰って一段落したのでおやじ山の様子を見に行くことにした。立秋もとうの昔に過ぎたというのにここ数日の猛暑は一体どうしたことだろう。
 午前10時にキャンプ道具一式(もう生活道具一式言った方が当たっているかも知れない)とカミさんを車に積んで藤沢の自宅を出発した。今日もギラギラ太陽の猛暑日である。
 練馬インターから関越道に入り渋川・伊香保インターで高速道路を下りた。高速道路を突っ走ってもお金がもったいないし、急ぐ旅でもなしのんびり国道17号線を行ったほうが面白いからである。
 国境の三国トンネルを越えて「街道の湯
」に寄って疲れを取る。湯船に浸かっているとポツポツと雨が降り始め次第にガラス窓を強く叩く本降りになってきた。もう今日はおやじ山に着いてもテントを張るのは諦めた方がいいようである。
 長岡に着いて午前0時過ぎまで営業している「麻生の湯」に向かい再び温泉に浸かる。今夜は麓のキャンプ場で車中泊である。

2007年8月18日(土)曇り
おやじ山の晩夏(友の霊前)

 朝飯前に車の荷物をキャンプ場に運びあげてテントを張る。今回はいろいろな友人達がここに泊まりおやじ山を訪ねてくれる予定で、6〜7人用の大型テントとテーブルが2脚入るキッチンテント、それに自分達の使う3〜4人用の3張りを設営する。
 張り終わって朝食を摂り、早速持ってきた背広に着替えた。実は私のチベット旅行中に急死した同窓の友の霊前に参るためである。この友とは5月におやじ山に滞在していた時、偶然「麻生の湯」の脱衣場で出会った。確か入院していたと聞いていたのにどうしたのかと尋ねてみると、今日から仮退院で何日か自宅に帰れるのだとニコニコ顔で言う。成る程スポーツマンだった彼の身体は病人とは思えない立派な肉付きで、私の方がアバラっ骨が浮き出て病人のようだった。この時は奥様も一緒に来て居てカミさんも含めて4人で温泉の休憩室でしばし談笑したのである。
 ご自宅に伺うと奥様は私たちの事をはっきり記憶されており、友の生前の写真などを見せて下さりながら今だに夫の急逝が受け止められないご様子だった。
 夜、遠くの方から打ち上げ花火の音が届いて来ていた。「ポ〜ン・・・ポ〜ン・・・」と何やら寂しげである。

2007年8月19日(日)夜中雷雨、のち曇り
おやじ山の晩夏(ほっぺたの腫れ)

 夜中に物凄い雷雨となった。こんな雷鳴は子どもの頃に聞いて以来何十年ぶりである。バリバリと裂ける音ではなく「ゴロゴロゴロゴロ・ド〜ン!!」と全身がビリビリと振動に震えて、まるで地響きのような大音響である。こんな雷鳴を聞けば現代人であってもきっと雷神様は居るに違いないと固く信じてしまいそうである。
 この畏れを抱かしめる程の一種爽快な重低音に体を痺れさせながら、実はチベット旅行中にも腫れた歯肉が痛くて仕方がない。手でほっぺたを触るとぷっくりと腫れて熱を持っている。
 明方を待って実家に行き、今日は休診の長兄の病院に二人で向かった。
長兄から消炎剤、抗菌剤、鎮痛剤、それに強い鎮痛作用があるという解熱剤を調合して貰ってキャンプ場に帰った。
 午前11時に長岡地方の大雨洪水警報が解除されて幾分空が明るくなった。薬のせいで歯肉の痛みも和らいだので明日訪ねて来る藤沢で同じボランティア団体に所属するTさん親子達が希望する川遊びの候補地探しに行くことにした。何と山菜の宝庫「水穴」への入口、栖吉川の○○橋の下に絶好の場所を見つけた。早速Tさんに電話を入れて「水中メガネも忘れないように」と念を押した。
 夜にはすっかり歯肉の痛みが消えた。ほっぺたの腫れも大分引いたようである。長兄は名医だった。

2007年8月20日(月)曇り
おやじ山の晩夏(Tさんご一行来る)

 今日は藤沢からTさん一行が来る日である。それで午前中は受け入れ準備でちょっと忙しかった。先ず朝早くおやじ小屋に行って追加の折りたたみ椅子2脚とスズメバチ退治の強力スプレー、ポイズンリムーバーなどの安全対策用品をテントに運び、それからカミさんと一緒にスーパーに行き食材の調達、その足で長岡駅に回り11時56分に到着する一行を改札口で待った。
 ゾロゾロと乗客が降りて来たがTさん達が現れない。初対面とはいえカミさんも首を長くして改札口の方を見ている。殆ど最後の乗客となってTさん、息子のK君、Y君、そしてTさんの友人の息子さんT君が大きなリュックに虫捕り網を持って改札口を出て来た。残念ながら今回予定のもう二人が来れなくなってしまったようだ。カミさんを紹介しTさんご一行にはそれぞれ自己紹介してもらって早速車に乗り込んでキャンプ場に戻った。
 キャンプ場に着いた途端、もうこども達は網を片手にコナラの樹々を走り回って虫探しである。コクワガタを捕ったり蝶を追ったりと歓声をあげている。
 昼食後は皆で昆虫採集を兼ねておやじ小屋まで散歩した。途中ルリタテハやミヤマカラスアゲハを見つけて追ってはみたが、これらの蝶は飛翔の達人で慣れないこども達の網は空振りばかりだった。
 おやじ小屋に着いて早速Tさんは小屋の中を覗き込んでいる。私のホームページを訪れてくれているTさんには興味津々の場所らしい。こども達はおやじ池を覗き込んでクロサンショウウオを探したり、下の谷川まで下りて行ってオニヤンマのヤゴ捕りなどに夢中だった。
 夜は鉄板焼きの焼きうどんを作った。こども達の豪快な食べっぷりが見ていて実に爽快である。そして夕食後は高台に出て花火大会をやった。長岡の街を見下ろしながらの愉快なひと時だった。
 たっぷり疲れてこども達は皆ぐっすり寝込んだと思っていたが・・・(T君がホームシックにかかったと聞いたのは翌日のことだった)
 

2007年8月21日(火)晴れ
おやじ山の晩夏(川遊び)

 天気予報が外れて、幸い晴れた。今日は待望の川遊びができそうである。朝食時に昼の分までご飯を炊いてカミさんとTさんにおにぎりを作ってもらった。そうそう朝食の時、私が鍋で炊いたご飯を(いつも山では私が鍋で炊く)K君が「関さんのご飯おいしいね」と誉めてくれた。とっても嬉しかった。
 皆で車に乗って、いざ栖吉川へ。途中、キャンプ場を出てすぐの橋下の河原で釣り餌の川虫捕りをした。K君の目当ては魚釣りである。ところが今の時期は殆どが羽化してしまって1pにも満たない小っちゃな虫しか捕れないのである。その数匹をバケツに入れてお目当ての源流部に向かった。
 目的地の橋の上で車を停めて「あそこだよ」と谷川を指差すとこども達は「わ〜!」と歓声を上げた。小さな滝があってその上流にはパチャパチャと泳げるほどのいくつかのトロ場がある。思い出すと何年か前の春、この滝壷で大きな岩魚を釣った事があった。向こう側の岸には支流の滝があって、清水がさらさらと岩肌を波立たせて落ちていた。
 荷物を川岸に下ろし終わると早速Y君とT君は水中眼鏡を着けて川に入る。K君は釣り竿のセットである。Tさんもズボンの裾を捲り上げて川に入った。カミさんは持って来たトマトとペットボトルを谷川に冷やし、流されないように小石で堰を作った。昼食のおにぎりを頬張り冷えたトマトも実に美味しかった。残念ながら魚釣りの釣果は無かったが本当に楽しいひと時だった。
 2時過ぎにキャンプ場に戻り、Tさん達に「少し昼寝をしたらいいよ」と言い残してカミさんと食材の買出しに出掛けた。帰ってくると炊事場が賑やかである。何とTさんが寸胴を火にかけて草木染めをやっている。こども達も昼寝どころか染め付け布に輪ゴムを巻いている。「こども達、昼寝しないんです」とTさん。そのうちカミさんも教えてもらって草木染めに加わった。
 夕食は炭火を囲んでのバーベキューである。Tさんが持参してくれた豚肉の味噌漬けもなかなかの味だった。やっぱり今夜も飲み過ぎてしまった。
(写真はTさん提供)

2007年8月22日(水)土砂降りの雨
おやじ山の晩夏(テントの中のパーティ)

 朝起きると風に雨の匂いがする。ラジオをつけると長岡地方に大雨洪水警報が出ていた。それで今日はアウトドアは止めてインドアのスケジュールにした。信濃川の向こうにある県立博物館にTさん達を案内することにした。
 朝食を済ませて皆を車に乗せた途端、雨が降り出した。県立博物館に着いた時には雷が「ド〜ン」と鳴って土砂降りの雨である。館内に逃げるようにして駆け込みチケットを買って皆で観て回る。雪国の暮らしの大きな模型があり、雁木通りの通路に沿って昔懐かしい雑貨店やおもちゃ屋が並んでいる。縄文時代の暮らしぶりの模型も、春の山菜のウルイやゼンマイなど本物そっくりで、越後の山を知り尽くした人の作品だと感心させられた。
 館内のレストランで昼食を摂り、途中実家に少し立ち寄って中央図書館に行った。図書館はK君の要望である。しかしこども達3人は実に本好きである。各々好きな本を手に取って一心不乱に読み耽っている。(Y君は不乱過ぎて後で「頭が痛くなった」と呟いていたが・・・)
 その間、カミさんとTさんは連れ立って夕食の買出しに行った。この天候では炊事も出来ず、夕食は大型テントの中で弁当かおにぎりで済ます算段である。
 図書館を出る頃には雨も小降りになった。テントに戻り買出しの品を持って大型テントに入る。そしてこれも又賑やかなテントパーティとなった。食事後、Tさん達は持参のトランプ遊びである。カミさんも加わってやっていたが、私は相変わらず米の汁を飲み続けていた。

 午後9時、自分のテントに戻って横になった。こども達に本を読んで聞かせているTさんの声が静かに届いていた。

2007年8月23日(木)曇り
おやじ山の晩夏(ドラム缶風呂)

 今日はTさん一行が帰る日である。それで朝食後にもう一度おやじ小屋まで行くことにした。いくらか疲労が溜まったせいか「食欲がない」と言っていたY君やT君も、しらばくれて普通の盛りでご飯を出すと二人ともぺろっと食べてくれた。
 おやじ小屋に着いてTさん達はミョウガ採りをした。今年はミョウガの出が早くタイミングよくTさん達のおみやげが出来て良かった。皆におやじ山の案内もした。小屋裏の峰を登ってカタクリの丘を見せ、今度は百年杉の森を下まで下って森の中の水場の将来構想などを話して聞かせた。おやじ池から流れ出た水や清水が湧き出して湿地になっている谷地を、溝を掘ってきれいな小川と池に仕立てたいのである。
 本当は湯を沸かして入れてやりたかったが自慢のドラム缶風呂も見せてやり、服を着たままだったがこども達や何とTさんまでも中に入って記念撮影をした。そして最後におやじ小屋の前で揃って写真を撮り、小屋を後にした。

 午後2時、長岡駅で皆と手を振って別れた。(その後、小屋の戸板に絡んでいたヘビの抜け殻をTさん達がキャンプ場に忘れたので、こんな気持ちが悪いものを預かるわけにもいかず、慌てて長岡駅に届けに戻った。間に合って良かった!)
 一度キャンプ場に戻ってから実家の墓参りに行くことにした。おやじとお袋の墓に花を活けてカミさんと二人で手を合わせた。
 山に戻るとテント場が急にさびしくなっていた。