2007年8月2日(木)晴れ |
チベット旅行(旅立ち) |
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2007年8月3日(金)曇り、晴れ |
チベット旅行(青海省西寧〜同仁<レゴン>へ) |
北京のホテルをチェックアウトする時に部屋の冷蔵庫から取って飲んだミネラルウォーターの精算をした。何と小瓶1本が30元(約500円)である。「ああ〜損こいたあ!」と思わず溜め息。
再びバスで高速道路を走って北京空港に行き中国航空で西海省の省都西寧に向かった。西寧は標高2,270mの高地にある。正午前に西寧空港に着き、これからずっと案内していただくガイドのチョルテンさん(チベット語で「仏塔」の意味。立派な名前である)から1人ひとりの首に歓迎のハカ(白い絹布)を掛けてもらって出迎えられた。外の気温は25℃、ギラギラの太陽であるがさらっと爽やかである。
空港での迎えのバスに乗り込みニレの並木道を走ってレストランに向かった。まあこのバスがひっきりなしに「プープー」とフォーンを鳴らす。(この後もあちこちでいろいろなバスに乗ったが、いずれもけたたましくフォーンを鳴らし続ける運転でそのうち慣れっこになってしまった)交通ルールなどあちらもこちら側も無いようなもので全く恐ろしい限りである。
レストランでお茶の接待や料理を運ぶウェイトレスはまだほっぺが赤い中学生低学年位の少女達だった。思わずマレーシアに植林に行った時の屋台で働く少女達を思い出してしまった。
再びバスに乗り込み140km先の同仁(チベット語でレゴン)に向かった。途中までの高速道路は実に快適だったが、一般道に入った途端に数日前に降ったという大雨でがけ崩れたヒヤヒヤのドライブとなった。崩れた土砂を片側だけ除けた道の下は、黄河の支流が茶色く渦巻く断崖絶壁である。これが何十箇所もあって、途中ではヤギを積んだトラックとハチ遭わせになってしまった。明らかにトラック側が強引に突っ込んできたのだがバックして譲る気配はない。こちらのバスの後ろには何台も車が詰まって来るし、相手のトラックの後ろにも見る見る車が溜まって来る。見るとトラックの後ろの何台目かに「公安」と書いた中国のパトカーもいる。しかし警察が車から降りて来て交通整理の仕切りをする気配など全く無い。仕方なしにこのバスのガイドが降りてトラックと交渉をはじめ汗だくでその後ろの車をバックさせている。中国パトカーまでガイドが「オーライ、オーライ」と手を振って先導しているのには全く呆れてしまった。
3000mを越える峠道を通り、水葬(チベット族は通常18歳未満の子どもが死ぬと水葬にする。因みに老人が死んだ時は鳥葬である)の場所で小便タイムをとったりして夕方5時過ぎに同仁のオッコル村に入った。そしてここはチョルテン・ガイドの出身村であり、この村で今行われている収穫祭を見学するのがk先生企画の今回の旅の1つのイベントだった。
みんなバスを降りて早速祭りの輪にカメラを向ける。祭りの名をチョルテンさんに聞くと「ラセ」又は「ルル」と教えてくれた。これから10日間ほど行われる大麦や菜の花(菜種油)の収穫を感謝するお祭りで、アニータルジャ(同仁県ではアニーシャキョン)と呼ばれる神様が乗り移った生き仏がいて祭りの主役を務めるのである。このオッコル村の神様は実に怖かった。中腰になって小刻みに歩きながらブルブルと唇を震わせ続ける。このご神託を脇に付いて甲斐甲斐しく神様の世話をしている人が解読して皆に告げるのである。曰く「暑いからビールを頭からかけろ」曰く「カメラを俺に向けさせるな」曰く「今日は村長が来ていないので、俺は怒ってるぞ」(チョルテンさんの長兄はこの村の村長さんで、後刻チョルテンさんから神様がこう怒っていたと教えられた)神様はビールを浴びるように飲み続けながら村角や家の門の前にある供物の果物やお菓子などをばら撒きながら(神様がばら撒くとわ〜!と人が集まってこれを拾う。功徳があるのだという。供物のビールは神様が飲むか頭にかけて冷やす)祭りの行列を引き連れて村の中の道を通り、お寺の広い境内に出てから寺の堂に入り、何やら最後の宣託(やっぱり何か怒ったらしい)をしてドタンと倒れ込んでしまった。(ドンと倒れたのはシャーマニズムのクライマックスの重要な場面らしいが、道々であんなにビールを飲み続けたら誰だって・・・?)
お祭の振る舞いビールを神様が倒れ込んだ堂の軒下で日本から来た何人かも(私も勿論)頂戴し、何となく高揚した気分でバスに乗り込んだ。そして同仁の町に入りホテルに着いた。
夕食はホテルと同じ敷地内の中華レストランだった。食事の直前に強い風が吹き出し電気が消えた。昔懐かしい停電である。ロウソクが灯され実にいい雰囲気だったが、厨房で料理が作れないという。仕方なしに別のレストランにぞろぞろと移動する。そしてホテルに戻って部屋に入りオッコル村の神様みたいにドタンとベッドに倒れ込んだ。「いやはや〜疲れたっちゃあ〜!」ともう1人の神様が仙台弁で言った。 |
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2007年8月4日(土)晴れ |
チベット旅行(同仁にて) |
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2007年8月5日(日)晴れ |
チベット旅行(再び西寧へ−タール寺を見て青蔵鉄道に乗る-) |
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2007年8月6日(月)晴れ |
チベット旅行(青蔵鉄道にて) |
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2007年8月7日(火)晴れ |
チベット旅行(ラサを見る−ポタラ宮とセラ寺−) |
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2007年8月8日(水)晴れ |
チベット旅行(祈りの民−愛しきチベットの人々−) |
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2007年8月9日(木)北京曇り |
チベット旅行(エピローグ) |
昨夜は一睡もしなかった。幾分夢を見ているような時間もあったが、頭はしっかり覚醒していたはずだ。北京のホテル「中旅大厦」で同室のKさんに「おやすみなさい」を言ってベッドに横になったが、実にいろいろな事が頭をよぎって眠ることが出来なかった。旅が終わるとなると再び現実が顔を出し、これから帰国してのあれこれの課題がぞろぞろと思い出されて、思わずベッドに投げ出した手を指折って「一つ・・・二つ・・・」と数えてみる始末である。
そっとトイレに起きて、再びベッドに横になった。今度はオッコル村で会ったチョルテンさんの母上の穏やかな笑顔やその一族の子らのきらきらと輝く目や、門の前で祭りの行列を迎えて立つ慈愛に満ちた老婆の佇まいや、さらにはラサのバルコルでマニ車を回しながらコルラ(時計回りに歩く)するまるで哲学者のような顔つきの老人や、五体投地を繰り返す巡礼者の姿が瞼に浮かびあがる。そしてその人たちが今まで生きてきた過去とこれから生きていく未来とに思いが馳せて、そこにしっかりと1本の道が引かれているのではないかと気づかされるのである。我が身を振り返って、果たして私にはその道があるのだろうか?と慌てて探って見るのだが、道はおろか不確かな荒野さえ朦朧として見えてはこない。私がチベットに来て見たものは何だったかを反芻してみると、風景?観光地?それらは確かに目を見張るものがあったが、人間の顔の素晴らしさだった。とりわけチベットの老人のその深い皺の刻まれた顔には長い長い年月、いや人類の歴史を歩んできたと思われる崇高な何かがあった。
私はこの旅をする前に大きな誤解をしていたようである。私なりのこの旅のテーマの一つに、文明人が起こした地球温暖化の影響を「未開」の高地のチベットの凍土や氷河の凍解に如実に現れていると知って、できればそれらを見てみたいと思っていた。しかしエジプト、メソポタミア、インダス、黄河の四大文明を作り出した源流はここユーラシア大陸のヘソであるチベット高原にあり、近代以前の文明を引っぱって来たのもこの地域に住む遊牧騎馬民族達であった。ユーラシア大陸の地図を見れば、現代文明の牽引車だと豪語するヨーロッパや日本は四大文明圏の西と東の端に位置する「ど田舎」にあり、近代以前にはこの地から一方的に多大な恩恵を受けて来たのである。(西欧の農業技術の水準は18世紀になってようやく中国の6世紀の水準になったといわれる。紙、羅針盤、印刷技術、火薬、銃火器のどれ1つとってもヨーロッパで発明されたものはない。15世紀のグーテンベルグの活字印刷技術も「発明」ではなく8世紀の中国の木版印刷技術の「改良」である)そして今、この成り上がりの「文明人」達は自らが作り出したモノによって縛られ苦しめられ心身が疲弊し切っている。昨日ガイドの龍さんは、チベット人は今の自分を「仮の姿」と考えていると言ったが、その顔の深い皺の襞には厳として人間として生きてきた存在感があり、祈ることによって本来の人類として転生しつつ生き継いでいく何やら崇高なものを見た思いがした。
私の青いテーマはチベットの人たちの前で木っ端微塵に打ち砕かれた。環境問題は現在の重要課題ではあるが、人類の歴史の中では小さなシミに過ぎない。そして人生に真に相対しているチベット人の生き方を学べば、小さなシミは自ずと消えてしまうのではないかと思うようになった。
白々と夜が明けはじめた。午前5時20分にモーニングコールの電話が鳴り長い思いから覚めてベッドを降りた。
CA165便は定刻の8時5分から3時間以上遅れて今だ北京空港を飛び発たずにいる。航路に激しい雷雨があるからだという。お蔭でいささか長い今日の日記を機内で書き終えることが出来た。
11時45分、ようやく飛行機のエンジンが唸り始めた。 (チベット旅行記 完)
(参考文献:森安孝夫著「シルクロードと唐帝国」講談社) |
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2007年8月17日(金)晴れ |
おやじ山の晩夏(猛暑からの脱出) |
チベット旅行から帰って一段落したのでおやじ山の様子を見に行くことにした。立秋もとうの昔に過ぎたというのにここ数日の猛暑は一体どうしたことだろう。
午前10時にキャンプ道具一式(もう生活道具一式言った方が当たっているかも知れない)とカミさんを車に積んで藤沢の自宅を出発した。今日もギラギラ太陽の猛暑日である。
練馬インターから関越道に入り渋川・伊香保インターで高速道路を下りた。高速道路を突っ走ってもお金がもったいないし、急ぐ旅でもなしのんびり国道17号線を行ったほうが面白いからである。
国境の三国トンネルを越えて「街道の湯」に寄って疲れを取る。湯船に浸かっているとポツポツと雨が降り始め次第にガラス窓を強く叩く本降りになってきた。もう今日はおやじ山に着いてもテントを張るのは諦めた方がいいようである。
長岡に着いて午前0時過ぎまで営業している「麻生の湯」に向かい再び温泉に浸かる。今夜は麓のキャンプ場で車中泊である。
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2007年8月18日(土)曇り |
おやじ山の晩夏(友の霊前) |
朝飯前に車の荷物をキャンプ場に運びあげてテントを張る。今回はいろいろな友人達がここに泊まりおやじ山を訪ねてくれる予定で、6〜7人用の大型テントとテーブルが2脚入るキッチンテント、それに自分達の使う3〜4人用の3張りを設営する。
張り終わって朝食を摂り、早速持ってきた背広に着替えた。実は私のチベット旅行中に急死した同窓の友の霊前に参るためである。この友とは5月におやじ山に滞在していた時、偶然「麻生の湯」の脱衣場で出会った。確か入院していたと聞いていたのにどうしたのかと尋ねてみると、今日から仮退院で何日か自宅に帰れるのだとニコニコ顔で言う。成る程スポーツマンだった彼の身体は病人とは思えない立派な肉付きで、私の方がアバラっ骨が浮き出て病人のようだった。この時は奥様も一緒に来て居てカミさんも含めて4人で温泉の休憩室でしばし談笑したのである。
ご自宅に伺うと奥様は私たちの事をはっきり記憶されており、友の生前の写真などを見せて下さりながら今だに夫の急逝が受け止められないご様子だった。
夜、遠くの方から打ち上げ花火の音が届いて来ていた。「ポ〜ン・・・ポ〜ン・・・」と何やら寂しげである。
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2007年8月19日(日)夜中雷雨、のち曇り |
おやじ山の晩夏(ほっぺたの腫れ) |
夜中に物凄い雷雨となった。こんな雷鳴は子どもの頃に聞いて以来何十年ぶりである。バリバリと裂ける音ではなく「ゴロゴロゴロゴロ・ド〜ン!!」と全身がビリビリと振動に震えて、まるで地響きのような大音響である。こんな雷鳴を聞けば現代人であってもきっと雷神様は居るに違いないと固く信じてしまいそうである。
この畏れを抱かしめる程の一種爽快な重低音に体を痺れさせながら、実はチベット旅行中にも腫れた歯肉が痛くて仕方がない。手でほっぺたを触るとぷっくりと腫れて熱を持っている。
明方を待って実家に行き、今日は休診の長兄の病院に二人で向かった。長兄から消炎剤、抗菌剤、鎮痛剤、それに強い鎮痛作用があるという解熱剤を調合して貰ってキャンプ場に帰った。
午前11時に長岡地方の大雨洪水警報が解除されて幾分空が明るくなった。薬のせいで歯肉の痛みも和らいだので明日訪ねて来る藤沢で同じボランティア団体に所属するTさん親子達が希望する川遊びの候補地探しに行くことにした。何と山菜の宝庫「水穴」への入口、栖吉川の○○橋の下に絶好の場所を見つけた。早速Tさんに電話を入れて「水中メガネも忘れないように」と念を押した。
夜にはすっかり歯肉の痛みが消えた。ほっぺたの腫れも大分引いたようである。長兄は名医だった。
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2007年8月20日(月)曇り |
おやじ山の晩夏(Tさんご一行来る) |
今日は藤沢からTさん一行が来る日である。それで午前中は受け入れ準備でちょっと忙しかった。先ず朝早くおやじ小屋に行って追加の折りたたみ椅子2脚とスズメバチ退治の強力スプレー、ポイズンリムーバーなどの安全対策用品をテントに運び、それからカミさんと一緒にスーパーに行き食材の調達、その足で長岡駅に回り11時56分に到着する一行を改札口で待った。
ゾロゾロと乗客が降りて来たがTさん達が現れない。初対面とはいえカミさんも首を長くして改札口の方を見ている。殆ど最後の乗客となってTさん、息子のK君、Y君、そしてTさんの友人の息子さんT君が大きなリュックに虫捕り網を持って改札口を出て来た。残念ながら今回予定のもう二人が来れなくなってしまったようだ。カミさんを紹介しTさんご一行にはそれぞれ自己紹介してもらって早速車に乗り込んでキャンプ場に戻った。
キャンプ場に着いた途端、もうこども達は網を片手にコナラの樹々を走り回って虫探しである。コクワガタを捕ったり蝶を追ったりと歓声をあげている。
昼食後は皆で昆虫採集を兼ねておやじ小屋まで散歩した。途中ルリタテハやミヤマカラスアゲハを見つけて追ってはみたが、これらの蝶は飛翔の達人で慣れないこども達の網は空振りばかりだった。
おやじ小屋に着いて早速Tさんは小屋の中を覗き込んでいる。私のホームページを訪れてくれているTさんには興味津々の場所らしい。こども達はおやじ池を覗き込んでクロサンショウウオを探したり、下の谷川まで下りて行ってオニヤンマのヤゴ捕りなどに夢中だった。
夜は鉄板焼きの焼きうどんを作った。こども達の豪快な食べっぷりが見ていて実に爽快である。そして夕食後は高台に出て花火大会をやった。長岡の街を見下ろしながらの愉快なひと時だった。
たっぷり疲れてこども達は皆ぐっすり寝込んだと思っていたが・・・(T君がホームシックにかかったと聞いたのは翌日のことだった)
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2007年8月21日(火)晴れ |
おやじ山の晩夏(川遊び) |
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2007年8月22日(水)土砂降りの雨 |
おやじ山の晩夏(テントの中のパーティ) |
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2007年8月23日(木)曇り |
おやじ山の晩夏(ドラム缶風呂) |
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