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最後のページは9月11日(シルクロード・トルパン出会いの旅)

2007年9月13日(木)
シルクロードから帰る

 昨日、中国の新彊ウィグル自治区トルパン(トルファン)から帰ってきた。トルパンに実家がある画家のナイム氏の案内で義兄共々3人で、かつてのシルクロードを車で走り、オアシスの邑を訪ね、一昨日はタクラマカン砂漠の熱い砂山を歩き回った。そして昨日、自宅のある駅に降り立つと雨上がりの町に心地よい秋の涼風が吹いていた。
 行きと帰りの日数を含めわずか9日間の旅だったが多くの素晴らしい人々に会うことが出来た。今日の午前、旅行中のメモを見ながら不在中の3年当用日記を簡単につけたが、トルパンや省都ウルムチで紹介を受けて食事を共にした人の数は28人に上った。その他町や村で出会った人々、とりわけこども達の素晴らしい笑顔が何と素敵だったことか!
 先ずは旅行中に溜まった郵便物の処理や用件を片付けてから、トルパン滞在の日記を徐々にアップしていきたいと思っています。

2007年9月15日(土)
シルクロードの旅(序-トルパンのこども達)

 今日は今回のシルクロードの旅で撮ったデジカメ写真の整理をした。その中でこども達の写真がたくさんあって(殆どピンボケ写真だったが)見ているうちに自然に笑みがこぼれ出した。1人のこどもの写真を撮ってその子にデジカメのモニター画面を見せてやると、どこから湧き出してくるのかどんどんこども達が集まって来て、その屈託の無さ、いささかも恥ずかしがったり照れたりしない無防備でストレートな感情表現に全く感心させられてしまった。大げさに言うと「こんな民族がまだ地球上に残っていたのか?」という驚きにも似た感動である。
 それで旅行記をアップする前にそれらの写真の何枚かを紹介します。

葡萄棚の通り(青年路という)を歩いて下校する小学生 
           ロバ車の中でお留守番

                 バザール(トルパンの新拓商城)のこども達

                 バザールの屋台で働く家族と一緒に過ごす

               小学2年の女の子は空のペットボトルを        イスラム寺院のある村で
               集めて売り、自分の学費にする(交河故城にて)         

2007年9月16日(日)
シルクロードの旅(序の2−トルパン出会いの人々)

 今回のシルクロードの旅では案内してくれたナイム氏のお蔭で実に多くの人たちと出会った。その誰もが陽気で朗らかで話し好きの人達だった。(パリダだけはちょっと違ったが・・・)その何人かの写真を紹介します。

ナイム氏と82歳の母上(ナイム氏の実家にて)            ナイム氏の妹さん(母上のお世話をしている)

タクシードライバーのアキパル・ママット(ずっと一緒だった)アキパルのカミさん  トルパン塔管理人アキパル氏

1904年生まれ(103歳)の老人 葡萄溝のモデル(とても人懐っこくてカワユイのだ) タンブルを弾くウィグル美人

水墨画家・劉新貴氏、書家・王氏、劉秘書長、水墨画家・趙氏、歴史家・馬氏夫妻 馬に乗る76歳の超愉快老人

トルパン師範学校教授・マフマ、アーレム、マホモ各氏と楽人ママト パリダと息子のノルママ(パリダの誕生会)

<9月4日からの「シルクロード・トルパン出会いの旅」に続く↓>

2007年9月4日(火)
シルクロード・トルパン出会いの旅(旅立ち)

 昨日、義理の兄Tさんが仙台から上京し藤沢の我が家に泊った。そして今日は二人でいよいよシルクロードの旅の出発である。
 7時過ぎに自宅を出てJR大船駅から成田エクスプレス13号で
成田空港へ。大韓航空のカウンターでソウル(インチョン)までのKE704便とソウル(インチョン)ーウルムチ間のKE883便の搭乗券を受取って飛行機に乗り込む。乗り継ぎのインチョン空港ではたっぷり時間があって旅先のホテルで飲む寝酒用のウイスキーを免税店で買ったり、レストランで6000ウォンの油揚げうどんを食ったりした。
 中国新彊ウィグル自治区のウルムチ空港に着いたのは5日の午前1時20分(北京時間午前0時20分)である。空港出口で今回案内してくれる画家のナイム氏と滞在中ずっと運転してくれることになるタクシードライバーのアキパルさんが出迎えてくれた。ナイム氏は5年前から日本に滞在しているが故郷はここウィグル自治区のトルパンである。年1度の帰郷で1週間前に帰国をしており、今日は我々を迎えるために180km離れたトルパンから駆けつけてくれていた。
 挨拶もそこそこにナイム氏に言われて北京時間からさらに2時間遅い新彊時間に腕時計を合わせる。(日本時間から3時間差)そしてナイム氏が予約してくれたウルムチ市内の立派な5つ星ホテル「新彊大酒店」に宿泊をとって長い1日を終えた。(因みに一部屋(二人で)800元:約13,000円だった)
 

2007年9月5日(水)
シルクロード・トルパン出会いの旅(オアシス都市トルパンヘ)

 せっかく省都のウルムチに来たので、午前中は「新彊ウィグル自治区博物館」に行ってみることにした。義兄は元高校の歴史の教師でこういう所にはとりわけ関心がある。
 早速アキパルの車に乗り込んで街に出たが、ここでも「ブーブー・ブーブー」とまるで交通ルールなど無い無法の大通りである。(しかし20年間無事故のアキパルはちゃんと信号を守っていた)対向車はセンターラインを越えて突っ込んで来るわ、人も平気で車の間を縫って道路を横切るわで、義兄と二人で「あ!危ない!」「わ〜ッ!」「お〜ッ!」と絶叫しながら手に汗を握り、博物館に着いたときにはぐったり疲れてしまった。(これも次第に慣れっこになってくるから不思議である)
 博物館ではウィグル自治区に住む14の民族の衣装や住居のモデル展示、最近発掘されたという45歳と推定される楼蘭美女のミイラを見たりした。しかし3800年前といういささか薄気味悪いガラスケースの中のミイラに「これが
美女?」とナイム氏に聞くと、彼も薄ら笑って脇に飾ってある<多分こんな顔であったであろう>という似顔絵と、さらにご丁寧に蝋人形で再現した美女を指差した。
 博物館を出て近くの中国銀行で円を人民元に換金する。とり敢えず義兄は3万円、ナイム氏は2万円、私は1万円である。この換金でおおよそ4〜50分も時間が掛かった。先ず窓口の女性が万円札をじっとすがめてから後ろの席の主任とおぼしきメガネ女性に札を渡す。するとこの主任が再びメガネ越しに万円札をじっと睨んでニセ札チェックをするのである。(こんなことで分かるのだろうか?)やれやれと思っていると今度は窓口女性が我々のパスポートを持って事務所の奥に引っ込んでしまった。待てど暮らせど出て来ない。「怪しまれた!きっと関さんだ!」と義兄もナイム氏も言い出す始末である。
 実はこの日の昼食をナイム氏の母校「新彊芸術学校」の学生で民族舞踊の研究生アリアと一緒に摂る約束があった。銀行で大分手間取り遅れてレストランに着くとアリアの他に日本人のO氏と観光ガイドをしているというアユプ氏が待っていた。アユプは日本語がペラペラである。O氏によると「このウィグル自治区で一番日本語が上手い」人である。(多分、その通りである)ナイム氏とアリアの関係は聞いていたがアリアと他の二人の男性との関係は分からない。しかし10年前に日本を飛び出しウルムチに住み続けているO氏の話しは実に興味深かった。「何故10年ここに居るの?」と私。「人がいい。特にこども達が素晴らしいね」と即答してから「カシュガルの古い町なんかもいいねえ・・・」とちょっと照れたように付け加えた。O氏との話しは尽きなかったがナイム氏に急かされてレストランを後にした。そして一路180km先のトルパンに向かう。
 高速道路に入ると草原の荒野が広がる。草を食むラクダの何頭かが見え、羊の群れが見え、中国一という発電用の大風車の林立があり、そして最後のゲートを越えてトルパン盆地に入った。ここからは昔のシルクロード、荒涼とした砂漠の中を上下二本の高速道路が南東に真っ直ぐ伸びている。道の両脇には、何もない。「この先が私の故郷のトルパンです。更にその先は敦煌そして西安になります」とナイム氏が言う。
 日も暮れかけた頃、トルパンの市街に入った。通りの飾りつけは8月26日から始まった「ぶどう祭り」のもので今日が最終日だという。そして枝垂れ桜のような樹形をしたカラガシの街路樹の大通りを走って、これからずっと滞在することになる「西州大酒店」にチェックインした。一部屋(二人で)568元(約9,000円)である。
 夕食は近くのレストランでナイム氏、アキパルを含め4人の宴会となった。何度「ホシュ〜!(乾杯!)」と叫んだことか!そのローランワインの美味いこと美味いこと・・・

2007年9月6日(木)曇り
シルクロード・トルパン出会いの旅(ナイム氏の母上を見舞う)

 朝食前に我々のホテル「西州大酒店」の周りを散歩してみた。ホテルのすぐ脇に「青年路」と呼ばれる南北に走る葡萄棚の歩道がある。10mほどの幅広いアーケードのような通りで、天井にはたわわに実った葡萄の房がびっしりと垂れ下がっている。端から端まではおよそ1km程で、途中に小学校がある。ちょうどこども達の登校時で葡萄棚の下はこども達の元気な声が飛び交っていた。 
 ナイム氏がホテルに迎えに来て先ず「トルパン博物館」へ。ロビーの売店で「新彊遊覧」という写真がたくさん載っているガイドブックを買って展示室に入った。ところが1時間も見ないうちに追い出されてしまった。中国のVIPがここに見学に来るというのである。なるほど外に出ると「公安」がぞろぞろいて、ナイム氏がうっぷんやるかたないといった表情で首を振った。(この後何回か氏の漢民族(又は北京)に対する不満を漏れ聞いた。民族間の確執の何と根深いことか・・・)
 午前11時過ぎに「カレーズ民族園」という所に行った。シルクロードのオアシス都市には3つのタイプがある。ひとつはカシュガルのように河川の水を利用したオアシス、二つ目は湧き出る泉を利用した都市、そして3つ目がここトルパンのように天山山脈からの伏流地下水(カレーズ=涸れ〜ず?なんちゃって!)を利用したオアシスである。葡萄棚の続く広い園内にはナイム氏の知り合いも多く、あちこちから彼を呼び止める声が掛かり、ナイム氏も友人を見つけては親しく話を交わしていた。ここでは地下に降りて行って地下水路を見学したりナイム氏お目当ての美人モデルと記念撮影をしたりした。(1回パチリで20元)
 市内に戻ってBarman Resturantで昼食を摂る。このレストランは以後何回となく利用したが、とりわけ木の熾きで焼く「シシカバブ」という羊の串焼きは絶品で、毎回必ず注文した。この日は他にパスタ料理のような「ソーメン」を食べる。
 昼食後はナイム氏の実家を訪問した。病気がちな83歳のお母上をお見舞いするためである。葡萄農家のその家の大きな木戸を押し開けると、前庭にしつらえたデッキ(大きなベッド)の上に歩行が困難になったお母上とその脇にお世話をしている妹さんの姿があった。全く精一杯の歓待を受け、普段お母上が寝起きしているデッキの上に招かれて2時間ほど歓談した。
 街に戻ってバザール(新拓商城といった)を見て回る。小間割りの店がずらりと並び、それは布地屋、衣類、帽子、肉、野菜、果物、金物、雑貨、刃物、鍛冶屋、漢方薬、香料、豆、貴金属、裁縫、スカーフetc とありとあらゆる店がひしめいて、女や男やこどもや赤ん坊、それに病人を連れた物乞い、歩けなくて台車に伏した物乞いなどの人々でごった返していた。ナイム氏が言う。ここはウィグル民族のバザールでウィグル人は全てここで買物をします。漢民族の店では買いません」「・・・・・・」
 このバザールで運転手アキパルのカミさんが裁縫の仕事をしているというので呼び出したり、スカーフ店で美人の売り子を見つけたナイム氏の長い長い口説き話しに付き合ったりと(氏はこの面では実にマメである。淡白な日本人男性としては見習うべき点である。え〜?いまさら・・・)時間を過ごした。
 夕食後はウィグルの民族舞踊を見に行った。市の中心部からちょっと南に下った5つ星ホテル「トルパン賓館(ナイム市はトルパン第一ホテルと言った)」に隣接した舞踏会場である。ここでも開演前にナイム氏と美人踊り子との長い長い会話があり(「この女性は典型的なウィグル美人です」と氏はわざわざ私と義兄のところに踊り子を連れて来た。氏は実にマメマメしいのである)、お蔭ですっかり親しくなったダンサーに大声援を送ってしまった。そして偶然にも、この会場で昨日ウルムチで出会ったO氏とアユプ氏に再会した。O氏はずっとビデオカメラを回し続けていたが、舞踏が終わって外に出ると、私に「ビールでも飲まない?」と誘ってくれた。義兄もナイム氏もビールだけは飲まない。それで断わざるを得なかったがつくづく残念なことをした。O氏から聞き出したいことがたくさんあったからである。
 

2007年9月7日(金)晴れ
シルクロード・トルパン出会いの旅(劉画伯からの招待)

 朝食前に散歩に出る。葡萄棚の通りから中国郵政のビルが建つ「文化旅游広場」まで歩いて行くと遠くに白い雪を被った天山山脈が望まれた。今日は雲もなく暑い日ざしの1日になりそうである。
 8時半過ぎにナイム氏がホテルに迎えに来た。既に中国銀行に寄って来たというので「へえ〜、銀行も早くからやってるんだねえ」と感心して見せると、昼休み時間は11時半から14時まで2時間半もあってとても困るのだと言った。
 早速アキパルの車に乗って先ずは超市(スーパーマーケットとガラス窓に書いてあった)でミネラルウォーターを買い(1本2元)、およそ6km離れた「蘇公塔(ナイム氏はトルパン塔と言った)」の見学に向かった。ここの管理人のアキパル(運転手アキパルと同じ名前である)はナイム氏の友人でナイム氏はフリーパス、私と義兄はそれぞれ30元の入場料を払って中に入る。230年前に建てられたという円錐型の塔は少し左に傾いていたが、近寄って見ると美しいイスラム建築文様がびっしりと刻まれている。ナイム氏が塔の後ろに我々を誘うので「はて?」と付いて行くと、その土レンガの一つにナイム氏とかつての恋人の名前が落書きされていた。ナイム氏は真面目な顔つきで「まあ、昔のことで、私も若かったものですから・・・」と斯道の練達ぶりを渋く見せつけるのである。
 隣接のイスラム寺院の中も見せてもらい(本来は異教徒は入れない。現在も金曜日の12時半〜13時にお祈りが行われている)外に出て寺院のテラスに上った。素晴らしい天山山脈の眺めである。管理人アキパル氏が葡萄の房を持って上ってきて我々にサービスしてくれた。
 トルパン塔を後にして「葡萄溝」に向かう。溝とは小さな渓谷の意味で一帯が葡萄畑になっている。先ずは渓谷の外れの砂漠まで車で走って干し葡萄の作業場を見た。真四角な透け透けレンガの小屋の中でカギの付いた木のポールに収穫した葡萄の房をひっかけていく作業である。じりじりと太陽に焼かれた丘を登っていくつかのレンガ小屋を見て回ると、崖の下には遥か天山山脈からの雪解け水が水路を走っていた。
 昼食は葡萄棚の野外レストランで摂った。スイカと葡萄とメロンは食べ放題で、ここでも羊の串焼きシシカバブとマンパル(炒面)を食べた。
 葡萄園に入る。長い葡萄棚の通りをぶらぶら歩きながらナイム氏から103歳の老人を紹介され、全く人懐っこくて可愛い写真のモデルと話し、ナイム氏の新彊芸術学校の同窓だというインフォメーションの女性(この女性も美しかったなあ〜)を紹介されたり、そしてここで水墨画家でナイム氏の先生だったという劉新貴氏に出会った。名刺を貰うと「中国国書家協会理事」「新彊美術家協会理事」何々何々・・と物凄い肩書きである。身振り手振りを交えてニコニコと快活に話す劉氏は、まるでテレビで見た中国の政府高官のようだった。そしてこの夜の食事に我々は劉氏から招待されたのである。
 アキパルのオンボロタクシーで立派なレストランに入ると、劉氏の描いた絵が壁に掛けられている個室に案内された。劉氏の他我々を出迎えてくれた人たちは、書家の王文科氏、作家協会秘書長の劉迎春氏、水墨画家の趙江氏(遅れて師範学校教師の夫人も同席)、トルパン雑誌編集部主任でトルパンの歴史家・馬庭寶氏夫妻である。
 劉新貴氏は我々にご自身の画集「劉新貴 西域山水」をプレゼントして下さり、知人だという日本の有名書画家の話に花が咲き、ゲストを代表して私が各氏とアルコール度数50%の「白粮液」で際限なく「乾杯!」を重ねた。
 日本男児の意地を見せていささかの足元のふらつきも無く、超然としてレストランを後にしたのは言うまでもない。そして我が宿「西州大酒店」に着いてベッドにぶったおれた。ホテル名が「大酒店」とは良く言ったものである。

2007年9月8日(土)晴れ
シルクロード・トルパン出会いの旅(ラクダのコブと尾てい骨)

 アキパルのタクシーで市内から東におよそ1時間ほど走ると「西遊記」の中で孫悟空が活躍する「火焔山」がある。この山をぐるりと回って北に走ると6世紀から開削が始まったというベゼクリク千仏洞がある。今日はこの二つの地に行くことにした。
 朝、ナイム氏とアキパルがホテルに迎えに来て、先ずはホテルのすぐ近くの「高昌市場」
で4人分の昼食を仕入れた。ナン4枚(1元)、葡萄2kg(10元)、ナツメ1kg(10元)である。そして高速道路に入って一路東に向かった。アキパルはカーラジオのスイッチを入れ(こんなオンボロタクシーにカーラジオが付いていたんだ!)珍しく鼻歌を歌いながら車を飛ばす。私は後部座席でドアが吹っ飛ばないようにしっかりとロックし、手摺を握りしめて窓から吹き込む風を受けていた。義兄とナイム氏は昨夜の疲れで眠り込んでいる。道路の両側は一木一草生えていない砂漠と赤茶けた岩山である。小さなオアシスの邑を通り抜けさらに走り続けて「火焔山」に着いた。
 40元の入場料を払って地下道に入ると、その両壁に「西遊記」の物語を描いた金属版のレリーフが続いていた。孫悟空、三蔵法師、猪八戒、沙悟浄などが面白く浮き絵で表現してある。
 その地下道から外に出ると、まさにギラギラ太陽に炙られた火焔山が真近に見えた。「ラクダに乗って火焔山まで行ってみない?」とナイム氏が提案するので「乗る、乗る!」と一も二も無く賛成した。義兄は立ってるラクダに三脚梯子を使って乗り、私とナイム氏はペタンと座っているラクダに跨った。ラクダは立ち上がる時も座る時も前足からである。これが凄く怖いのである。長い前足を一気に伸ばしたり折り畳んだりするとガクンと体が浮いて転げ落ちそうになる。慌ててラクダのコブにしがみ付くのである。しかし、初めてのラクダ乗りは実に面白かった。火焔山の麓に着いてラクダから降り、待たせたまま炎天下の山登りをした。高みに登って見渡すとカラカラに乾いた荒野が広がり、そのずっと向こうの地平線に睫毛ほどの緑のオアシスが望まれた。
 ベゼクリクは火焔山から車で40分程山道を走ったところにある。ここにもナイム氏の友人がいて、この観光地を仕切るオーナー共々持参の昼食を摂った。
 ベゼクリク千仏洞は6世紀から唐、宋、元の時代と引き継がれた開削とその洞に描かれた無数の仏像や壁画の石窟である。しかし今や、その石窟は近年ヨーロッパの探検家によって剥ぎ取られた無残な刃物跡で荒れ果てている。そしてそれを知っている観光客は殆どこの地を訪れては来ない。ガランとした千仏洞の中で風邪で体調をこわしたという写真のモデルが一人、民族衣装のベールで顔を覆って長椅子で眠っていた。ナイム氏と義兄がこの女性と話しているのを後にして外に出た。
 オーナーがラクダに乗せてやると言う。砂漠の山を一周できると聞いて喜んでラクダに跨った。若いラクダ遣いに引かれて広い砂山を歩いたが、全く音の無い世界である。パウダー状の砂は全ての足音やラクダの吐息さえ吸収して一種不気味な静寂を作り出してしまう。「こんな所で襲われたらアウトだなあ」と不安がよぎった。そんな気配を察したわけではないだろうがラクダ遣いが私のデジカメで記念写真を撮ってくれた。
 トルパン市内に戻って、夕食はナイム氏の友人ディディシャとマリアが一緒だった。ディディシャはいかにもそんなタイプの銀行マン、マリアは初日ウルムチで会ったアリアの妹さんだった。ここではウィグル民族は兄弟の一番下の弟が家を継ぐという話しや、イスラム教徒のウィグル人がいつから酒を飲み始めたか、との質問にナイム氏は「1949年、中国が侵攻(解放とは言わなかった)した時から」と憮然と答えたのが印象に残った。
 実はベゼクリクを離れてからずっと我慢していたことがあった。ラクダに乗り過ぎて(多分合計2時間は乗り続けたと思う)尻の皮が擦り切れたらしく痛くてしかたがない。推測するにラクダの後ろコブと肉付きの薄くなった我が尻の尾てい骨がユサユサと繰り返し擦れ合ったせいである。我が宿「西州大酒店」に帰り着くやいなや洗面所に入ってパンツを下ろした。そして大鏡を前に菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の「見返り美人」のような格好で調べてみると・・・ああ、恥ずかしい!全くざまあ無かったなあ〜!<大変失礼しました!>

2007年9月9日(日)
シルクロード・トルパン出会いの旅(バザールと故城のこども達)

 朝起きると、昨夜の見返り美人の確認場所の他に内股が筋肉痛になっていた。乗馬の要領でラクダの背から振り落とされないように両足でラクダの胴をぎゅっと締め付けていたからである。義兄はどうかと聞くと「いや、別に・・・」と平気な様子である。「え?胴を締め付けて乗るんですか?私は必死にコブにしがみ付いていただけですから」とも言った。
 今日は日曜日でナイム氏やアキパルに休んでもらおうとフリータイムにした。しかしナイム氏から連絡があって午後から「交河故城(ジャオホーグーチョン)」に案内してくれると言う。それで午前中は1人で市場(バザール)巡りをすることにした。
 先ずは葡萄棚通りを歩いて文化旅游広場脇の市場通りをぶらついてみる。市場通りの入り口が干しきのこを並べた店で「ほほう〜」と覗いてみると、乾燥したキクラゲやマツタケやシイタケなどが器に山盛りになって売られている。「野生秋耳 100元/公庁 天然春耳 100元/公庁」などとダンボールの切れ端に書いてある。その隣が干しえびや干し魚の店で、歯の鋭い大きな魚がミイラみたいに転がっていた。
 この市場を通り抜けて先日ナイム氏に案内してもらったバザール(新拓商城)に足を運んだ。さすが日曜日の午前とあって物凄い人ごみである。その人混みの中で瀕死の病人を連れた物乞いの姿もあってとても直視できなかった。アーケード下の布地や衣服、帽子、スカーフの店が並ぶ通りを人波をかき分けるように抜け出ると、脇道が羊肉や鍛冶屋の通り、そのまま真っ直ぐ歩けば右側が野菜、果物の店、左側の広場が屋台の露天食堂である。この食堂の中に入ってみる。ちょっと離れた店の中で上半身裸の男の子が遊んでいたのでデジカメを向けた。気付いたその子が途端にニッコリ笑ってこちらに駆け寄ってきた。そして私の前にペタンとしゃがみこんでキラキラした目つきでカメラを見つめている。それがまた、凄くカワイイのである。思わずカメラを構えるとすぐ目の前までつつッと寄って来る。顔がドアップになるので「そのまま、そのまま」とゼスチャアして私が後ろに下がると、またつつッと寄って来る。周りの客や店の人たちが笑い声を上げた。それを拍子にどこから湧き出してきたのだろう、こどもが1人増え2人増え、親が子どもを抱えて連れて来たりと、揃ってのこども達の集合写真となった。(9月15日の「序」の写真をご覧下さい)
 肉屋の並ぶ脇道の奥は鳥と動物の商場である。ハト(食べるのである)、猫(食べる?ペット?)、ウサギ、鶏、アヒル、闘鶏、そしてここで女が大声で喚き散らしている夫婦(?)喧嘩も見た。男が裸足で逃げ出し、女が追いかけ、群集がゲラゲラ笑い、遠くでなおも女が大声で喚いている声が響いていたが群衆は白けたようにシーンと静まって、そして散っていった。
 午後2時にナイム氏がホテルに迎えに来て、ナイム氏が拾ってきたタクシーに乗って「交河故城」に向かった。アキパルの運転と違って物凄いスピードである。「ブーブー!」とフォーンを鳴らしながらオート三輪を追い抜き、ロバ車を追い抜き、のんびりと道路を横切る人たちを縫って、まさに真っ直ぐの道をジグザクに走り抜けるのである。後部座席で義兄と私はしっかりと取っ手を握り締めて目を閉じていた。
 「交河故城(ナイム氏はジャオホー故城と言っていた)」は市街地から西に16kmの所にある城址遺跡である。ナイム氏が予め連絡しておいたのか、ここで馬に乗った76歳の老人に出迎えられた。我々がタクシーを降りるや否や遠くからパカパカと馬が疾駆してきた。その馬上からの大音声と豪快な笑い声、こんな愉快な老人は見たことが無い。そしてナイム氏はこの馬に乗って1人で川伝いにスケッチに行き、私と義兄は交河故城に入った。
 この城砦都市は6世紀の初頭から築かれたというが現存の遺跡は唐代以降の建築物である。幅3mほどの南北に貫いている道を進んで展望台から見渡すと、成る程この城址遺跡は2つの河が交わった高台に築かれていることが分かる。私と義兄はゆっくりと一番奥の仏塔まで歩いて見て回った。
 約束の午後5時に故城を出て橋の上に来た。ナイム氏はまだ戻ってきていない。こども達が橋の上で遊んでいて義兄が話しかける。ニコニコとこども達は屈託がない。1人の女の子が空のペットボトルを何本も抱えているので尋ねると、小学校2年でこれを売って学費にするのだと言う。早速私と義兄は持参のペットボトルを飲み干して少女に手渡した。
 一度ホテルに戻り、今夜はナイム氏の師範学校時代の同窓生と会食である。
 7時にナイム氏がタンブル(5弦の楽器。ウィグル民族の代表的な楽器)弾きのママトさんを連れて再びホテルに現れた。そして今夜の会場はもう私たちも常連になったBarman Restruntである。しばらく待ってナイム氏の友人達が笑顔でレストランの個室に入って来た。マホモ、アーレム、ママトの各氏でいずれも母校トルパン師範学校の教授になっている。ナイム氏は3氏に持参のお土産を渡してから自らの日本での仕事ぶりを紹介したアルバムや学位証書などを見せ、義兄と私に向かって「この友人達には本当にお世話になったのです」と言った。そしてお祈りをしてから楽しい会食となった。お酒はアルコール度数50度の「白根」という銘柄である。「ホシュー!(乾杯!)」が続き、タンブル弾きのママトが最初にナイム氏と友達の久闊を叙した「私たちの歌」を奏で、それから「リバヤラ(隣の恋人?の意だという)」、日本から来た義兄と私のために「四季の歌(芹洋子が歌った曲!)」が続き、最後の曲は「キャビアート」という現地では誰もが知っているという7分半の長い曲で締めくくった。
 これらの曲の合間にナイム氏と同窓の友人達がしみじみと語り合っていた長い時間があった。ウィグル語で話す話の内容は勿論分からなかったが、その話しぶりから何となく昔の生活を思い出しながら語り合っているような雰囲気が感じ取れた。そしてナイム氏は私と義兄にいきなり日本語でこう言ったのである。「私はこんな所に生まれて育って、日本に行きました」



























2007年9月10日(月)
シルクロード・トルパン出会いの旅(一瞬の炎)

 教師をしていた義兄は頻りに今回の旅で学校を訪問してみたいと言っていた。義兄の希望は小学校や中学校の子ども達を教えている教育現場を見てみたいのだという。どうもナイム氏の今のツテではそれは無理で、仕方なしにナイム氏の母校トルパン師範学校を訪問することにした。
 今がちょうど新入学の時期で、校庭では土ぼこりを上げて
新入生達が中国軍からの軍事教練を受けていた。義兄の求めに応じてナイム氏が校舎の中を案内している間、私は1週間続くというこの軍事訓練を眺めていた。
 学校を後にし、トルパンのイスラム教徒が昔から通っているという由緒ある寺院を見てから急いでホテルに戻った。パリダという女性と昼食をともにするためである。
 パリダは3歳の息子ノルママを一緒に連れて来て皆で「アウカン・レストラン(Barman Restrunt)」に向かった。この席で今度はパリダから、自分はたまたま今日が誕生日なので、と夕食のパーティに招待された。
 午後はトルパン市街から南に下った郊外の一角で干し葡萄の選別作業を見て回った。ナイム氏が義兄と私をここに連れて来たのには二つの訳があったと思う。一つは早くに父親を亡くしたナイム氏の兄弟(妹)達を母親が干し葡萄の選別作業で家計を支え育て上げたこと(ナイム氏の新彊芸術学校の卒業制作は母親が干し葡萄を選別している姿を描いた油絵である)、二つ目はここで恋人アリアの両親に会えることを知っていて、我々二人にそれらを見せ紹介したかったからであろう。道路脇にシートを広げ、何種類かの干し葡萄の山を切り崩しながら家族総出の選り分け作業はアルバイトの人達もいて、その人々の丸1日の稼ぎは35元から40元程だと聞かされた。やはり選別作業をしていたアリアの両親にも出会い我々は紹介を受けた。ナイム氏がプレゼントしたのであろう日本製の洒落たデザインの皮バッグを、この埃っぽい作業場には全く不釣合いだったが、アリアの母親は片時も離さないとばかりに持っていた。アリア同様、品のある美しい婦人だった。
 作業場を離れ農村風景を見るために再びアキパルの車に乗り込んで南に向かった。途中に「中国内陸海抜零点」のモニュメントがあり、何とこれを見るために門を潜ると、それだけで40元だという(但し現地の人達は無料)。まあこれも話の種だと40元払って海抜零地点に立った。守衛が周りの葡萄畑を指していくらでも葡萄を取って食べろ、という。40元の元を取ろうといささか埃っぽい葡萄畑に入って食べてみると、これが甘味があって実に美味しかった。
 オアシスの邑に入り、畑に植えられた白い綿の花やトウモロコシ、コーリャン、細ネギの畝をぶらぶら歩いてまたアキパルの車に乗り込んだ。既に夕陽が荒野の地平線の上で赤く滲んでいた。途中の車窓からはその頂を次第に朱に染めている天山山脈が望まれ、その前峰の火焔山も山襞の影を濃くしていた。そして夕陽が地平線に落ちる前の一瞬だったと思う。火焔山がまさに燃えるように朱に染まった。私たちは殆ど同時に「あ!」と声を上げて車を停め、そして外に飛び出した。ナイム氏は頻りに「これを砂漠でみたら素晴らしいですよ!これを砂漠で見たら・・・」と同じ言葉を繰り返している。そしてまたたく間に炎は消えて火焔山は闇の中に沈んだ。
 パリダの誕生祝いはダンスホールのある野外レストランだった。息子のノルママとご両親、私たちの他にパリダの同級生の女性3人、男性2人が招かれていた。この席にナイム氏はデリバルさんという女性を連れて来た。5年前に別れた恋人だと紹介して、別れてもこうして時々は会って食事を共にし彼女が困った時にはいろいろな援助をするのだと言った。
 午後10時、人々と別れてホテルに戻った。今日も沢山の人達に出会った。そして明日は、いよいよこのホテルのチェックアウトである。





2007年9月11日(火)
シルクロード・トルパン出会いの旅(砂漠へ/別れの日)

 トルパン最後の日となった。7時に「西州大酒店」のフロントに立ってチェックアウトする。6日間のホテル代は2人で3,408元(約5万5千円)だった。ホテルを出る前に腕時計を2時間進めて北京時間にする。出国は明朝の午前1時55分だがウルムチ空港には今日の午後10時頃には着いていたい。(以降の時間は北京時間)
 迎えに来たアキパルのタクシーに全ての荷物を積んで(といっても私は山用のリュックサック1個だけである)、今日ナイム氏が案内してくれるとっておきの砂漠に向かった。パリダもこの場所は初めてだというのでナイム氏が誘っていた。
 目的地はトルパンから南東に向かった砂漠地帯で広大なタクラマカン砂漠の北東部の入口にあたる。アキパルは例によって高速道路に入る前に中国石油でガソリンを満タンにした。そして9時半に高速道路に乗り入れ、10時過ぎに火焔山を左手に見ながら快調に走り続け、しばらくして砂漠の中の油田地帯に入った。まるで大きな木馬のような形の石油ポンプが緩慢に首を上下に振り続けている。ナイム氏が呟く。「北京はここから石油ドロボーしていって、あっちのガソリン価格が油田地帯のここより安いというんだから・・・」
 高速道路を外れて我々の車は土埃を上げながら一つの村にゆっくりと入った。そしてアキパルが車を停めるとナイム氏が降りて家の前で焼いていたナンを買い、その近くの店でミネラルウォーターを手にして車に戻って来た。殆ど無舗装に近い道を更に走り続け、「中国石油局療養院(?)」(療養院が違うかも知れない。ナイム氏は熱い砂を患部にかけて治療するところだと言った)の先から本格的な砂漠地帯に入った。そして道路が陥没し車が進めなくなると我々はアキパルを残して車を降り、ナンと水を持って砂漠の砂山へと向かった。腕時計を見るとちょうど12時になっていた。
 砂山の麓に着くとナイム氏は靴を脱いで裸足になった。私も真似をして裸足になった。パウダー状の砂地を歩くには裸足のほうが余程歩き易く、それに気持ちがとっても良い。義兄とパリダはずっと遅れて後方にいたが、構わずナイム氏と私は目の前の砂山の頂上を目指して登った。
 砂山を登りきって周りを見回した時の興奮はとても忘れることができない。砂山は奥へ奥へと幾重にも連なって空へと広がり伸びて、今来た方向を振り返るとカラカラに炙られた広い荒原の向こうに赤茶けた岩山が連なっていた。その白い荒原の中にアキパルのアズキ色の車がポツンと点で見えていた。思わず「わ〜!」と何度も声を上げてしまった。
 義兄とパリダが登って来るのを待って砂山の天辺を平に均して4人並んで座り、ナンの昼食を摂った。それから私1人で砂山をいくつか越えながら2km程砂漠の奥へと入ってみた。1人で大海原に泳ぎ出る時のような一抹の不安があったが、ここでの感動はどう表現したらいいのだろうか?恐ろしいほどの静寂と無機質な世界。小さな自分が広大な砂漠に吸い込まれていくような不安と砂の風景が持つ威圧感。それと同時に、なだらかに広がる肌理細かい金黄土の起伏は一種の艶かしい弾力さえ感じさせて、それはそのまま自然という巨大なキャンバスに描かれた見事なフォルムだと思った。私は灼熱の砂漠にいながらまるで新雪の雪原を踏み穢すような不思議な感覚でいくつもの起伏を夢中で歩き回った。(「森のパンセ」<シルクロードの旅−砂漠の風景−>にスライド写真をアップしました)
 砂漠からトルパンに戻る途中、玄奘がインドに仏典を求める途中ここに2ヶ月滞在したという「高昌故城」という城址遺跡に立ち寄った。前涼期から高昌ウィグル帝国の時代にかけておよそ1000年の間国都として栄えた場所である。総面積は200万uという広大な土地は建築物の破損も激しく荒涼とした風景が見えるばかりだった。
 市内でパリダと別れ再びナイム氏の実家に伺った。我々より1日遅れ明後日日本に戻るナイム氏も、今日中にウルムチまでは我々と一緒に行ってしまいたいと言うのである。ナイム氏の実家には今日のお別れのために母上、妹さんの他にナイム氏の兄妹たちと母上を見舞いに来た近所のご婦人達がいた。義兄と私はこれらの人たちに再度温かく歓迎されポロ(ニンジン入りの炒飯)や果物をご馳走になった。母上は義兄と私に何度も何度も「息子の友人として長く付き合って欲しい。よろしく頼む」と繰り返し、そしていよいよ別れる時になってナイム氏と固く抱き合って涙を流した。近所のご婦人達も涙を浮かべてそっとエプロンで拭っていた。斯道の練達も母親の前ではまるで純真無垢な幼児となってしまう姿に、素直に感動してしまった。
 アキパルのオンボロタクシーがナイム氏、義兄、私の3人を乗せて再び180kmの道をウルムチへと向かった。前の助手席でナイム氏はじっと外の景色を眺めたまま押し黙っていた。義兄も私もナイム氏のその姿に口を噤んだままシートに身を沈めていた。
 ウルムチの市内に入る手前で真っ赤な太陽が砂漠の地平線に落ちた。そして暗くなったウルムチ空港で私たちは抱き合って別れを惜しんだ。ナイム氏とはまた日本で会う機会はあるだろうがアキパルとは多分これが最後だろう。愛すべき実にいい男だった。そしてシルクロードの旅は終わった。
<シルクロード・トルパン出会いの旅>完