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最後の更新は11月14日

2006年11月9日(木)快晴
晩秋の山(小春日)

 昨8日に藤沢の自宅を車で出発し、夜東山ファミリーランドのキャンプ場に着いた。
 今日は朝6時からテントを張って荷物を運び入れ、キャンプサイトで急いで朝食を摂った。昨日に続いて絶好の秋晴れ(7日が立冬だったので、もはや冬晴れと言うべきか)である。好天は今日一杯までの予報で、早く山に入りたくて仕方がない。北海道の竜巻事故で9人が死んだ7日の強風で、トタンで覆っただけのおやじ小屋が心配だったし、(後日、藤沢に戻ってパソコンを開いたらYさんから「見回ったら大丈夫でしたよ!」とメールが届いていた。有難かった!)前回打ったコンクリートの型枠外しと南側の基礎工事の穴掘り作業、そして多分今年最後となるおやじ山を晴れているうちに歩き回ってみたかった。
 8時過ぎにリュックを背負っておやじ小屋に向かう。今年の異常高温のせいでコナラやミズナラの葉はまだ青々としていたが、ヤマモミジの紅葉やウリハダカエデの鮮やかな黄色が快晴の空に映えて、全く息を呑む思いだった。
 無事な小屋を見て大安心である。周り一面、敷き詰められたように杉の枯れ枝が落ちていて相当の大風だったに違いない。リュックを置いて谷川に下りたり南斜面をぶらつき、それからブナ平まできのこ探しに出かけた。暖かい小春日で立冬を過ぎた季節とは思えない陽気である。いつものコナラの倒木に今年もクリタケが生えていてうれしい収穫である。今年の紅葉は気温が高く概して地味な色合いの山の風景だったが、これもまた静かな落ち着きのある秋の色だと思った。
 小屋に戻ると腰の調子が良くない。長距離ドライブと昨夜の車中泊で変な格好で寝たのと、それにウキウキと山歩きをした三重苦で腰を痛めてしまったらしい。さらに腰をだましだまししながら予定の土方仕事をしてしまった。全く腰の四重苦である。
 帰りは小屋のデッキに広げた道具類を片付けられない程の腰の痛みで這うようにしてテントに戻った。先が思いやられる。






2006年11月10日(金)曇
晩秋の山(焚き火と腰痛の行方)

 朝目が覚めたが、起き上がれない。夜中に寝返りを打って、その度にビリビリと腰に猛烈な電気が走って「ウッ!」と息を止めて激痛に耐えた。肘を立ててそろりそろりと腰を回してから、両手を突いてようやく起き上がった。
「もうこれで山に入っても何もできないなあ」と無念で仕方が無い。しかし道具類を小屋の外に出しっ放しのままなので、腰を屈めてゆっくりゆっくり歩いておやじ小屋に行った。途中実家に電話をすると幸いシップ薬が置いてあるという。山から下りたら貰いに行くことにして、単純にもこれで気を良くしてしまった。「もうおやじ小屋へも来れないかも知れない」と、腰に手を当てながら道具を片付けてから、小屋の雪囲いをし、古いトタンの整理をし、周りの杉落葉を山ほど集めて盛大に燃やした。どうも夢中になる性分で、これで腰が更に悪くなったか?仕事に紛れてリハビリになったか?よく分からない。夕方実家に行きシップ薬を貰って貼る。

2006年11月11日(土)雨
晩秋の山(湯治)

 テントの中で12時間以上も寝ていたせいで、今度は寝過ぎてなかなか起き上がれない。全くヤワな体になったと溜め息が出てしまう。しかし昨日よりは幾分良くなった感じでホッとした。テントを這い出して外に出ると、周りは深い霧(靄か?)である。ラジオは今日一日雨だと報じた。
 もう山に居ても何も出来ないし、これからは天気も荒れる気配なのでここを引き上げてもいいのだが、如何せんこの腰では片付けも出来ず長距離ドライブも無理である。「カミさんに新幹線で助けに来てもらおうかなあ・・・」と思ったが、止めた。実は昨日「腰を痛めた」と電話
をしたら、「ほら見なさい。好きで山に行ったんだから治るまで存分にそこに居たら?」と長年連れ添った夫婦とはとても思えない冷たい返事だった。しかしこの言葉も少し当たっていて、こんなに早く帰るのはもったいないし、動けなくても山でこうして過ごしているのは楽しいのである。
 それで午前中に実家に寄って追加の薬を貰い、その足で川口の温泉に湯治に行った。いつもの和楽美の湯である。源泉に2度ゆっくり入り、夜テントに戻った。
 夜は時間とともに激しい雨になった。バラバラとテントを打つ雨音でラジオを耳に寄せて聞くほどの降りである。寝袋に入って横になると、枕元を川のように雨が流れる音が聞こえた。

2006年11月12日(日)雨、みぞれ
晩秋の山(初雪)

 一気に冷えた。昨夜からの激しい雨が今朝も降り続いている。ラジオは新潟県中越地方の今日の最高気温は7度、そして大雨、強風、洪水、落雷、山沿いでは1〜5pの降雪と報じている。東京地方でも木枯らし一号が吹くらしい。
 寝袋に包まったまま横になり、じっと激しく叩きつける雨音とテントを揺らす風の唸りを聞いていた。そして枕元に置いてある読みかけの文庫本のページをまた開く。自宅から持ってきた石川達三の「青春の蹉跌」である。出かける前に読んだ朝日新聞の土曜版で、40年前に新聞記者として佐賀に赴任した執筆者が、「青春の蹉跌」のモデルこそが当時佐賀県天山で起きた女子大生殺人事件だった、と懐かしく振り返った記事だった。この小説には私も深い思い出があった。昭和43年4月から9月まで毎日新聞に連載されたこの小説を、私は関西のある地方都市の下宿で毎日欠かさず読んでいた。当時巷にはピンキーとキラーズの「恋の季節」が大ヒットしていたが、わたしにはシュトルム・ウント・ドランクの実に苦しい時代だった。そしてその何年後かに東京の書店で見つけて買った文庫本を、いまだに捨てずにとっておいた。発行は昭和46年5月25日とある。定価は120円である。
 バタバタとうるさい暗いテントの中で活字を読み続けるのも辛いので(それから腹も減ったので)、また和楽美の湯に行くことにした。テントを出て車を走らせていると雨がみぞれに変わった。今年の初雪である。そして変に腰の調子が急に悪くなって運転が辛くなった。実家にUターンして緊急避難である。実家では昨日から家族旅行に出掛けていたが、幸いボンちゃんが留守番をしていた。実家のコタツに横になって久々に新聞に目を通し、テレビを見た。『気象庁は地球温暖化の気温上昇で全国の紅葉が50年前と比べて約16日遅くなっていると発表』、『NHKスペシャル・日中戦争(再放送)』「昭和12年7月7日の盧溝橋事件を発端とした日華事変からに日中戦争までの日本の犠牲者は310万人、中国人犠牲者は1,000万人を超えると言われている」とナレーションが締めくくった。
 台所に行って勝手に飯を食べ缶ビールを数本貰って夕方テントに戻った。

2006年11月13日(月)晴れ時々曇
晩秋の山(コナラの苗)

 午前3時半、目を覚ますと昨夜来の激しい雨音が止んで、「ササーッ」とナラの梢を切る風の音が聞こえる。テントの外に出ると、雲の切れ間から星空がのぞき薄い雲に隠れたお月様が黄色く滲んで見えた。立って用を足していると遠くの方からコトコトと夜汽車の澄んだ音が響き渡ってくる。ようやく晴れたようだ。嬉しいことに腰の調子も大分良くなっている。もう一度おやじ小屋まで往復できそうである。
 明け方、テントのすぐ脇の木でリスが頻りに鳴いて目が覚めた。8時にスコップを手にテント場を出て、藤沢のグループでやっているこども達向けの野外教室でいつか使えないかとコナラとミズナラの苗を採りながら尾根道を登った。雨と急な冷え込みでようやくナラの葉も色づいてきた。じっと雨に耐えていたヤマガラも頻りにはしゃぎ回って、小枝と地面を忙しく行き来しながら餌をついばんでいた。
 おやじ小屋に着いて、せっかく冬囲いをした小屋の中へは入らずに、前のデッキで長い間休んだ。そしてすっかり深い秋の色合いに染まった谷向こうの山菜の斜面や冬囲いしたおやじ小屋をしっかり目に焼き付けて、山を下りた。
 午後、昨日行けなかった和楽美の湯へ湯治に行った。高台にある露天風呂からは眼下に魚野川の流れが見え、その向こうの山並みに沈もうとする太陽の光を眩い金色に映しだしていた。空の雲も真っ赤な夕焼けである。
明日、帰ろうと思った。





2006年11月14日(火)曇
晩秋の山(越後三山冬景色)

 朝6時に起きてテントの撤収作業。テントを畳み欲張らずに荷物を1つ1つ慎重に車に運んだ。今日は東山ファミリーランドもスキーシーズンまで閉じる様子で、その仕舞い支度のためかキャンプ場の管理人室にはいつもより多い人達が集まっていた。「いよいよ店仕舞いですか。また来年の春、待ってますよ」と声を掛けられて「お世話になりました!」と挨拶する。
 腰が痛くなったらいつでも休めるようにと17号線を走り続けた。途中望まれた越後三山は既に白く雪を被っている。夏に友人達と登った思い出の越後駒ヶ岳も雪化粧で真っ白である。湯沢から国境の三国トンネルまでは除雪車が出て雪をかいた後が残っていた。ゆっくり休みながら車を運転し、藤沢の自宅に夜の8時に着いた。



<<12月の日記>>に続く