(その2)
山で眠る
おやじ山に行く時に限らず、あちこちの山に登る時に小さなテントを背負って行くことが多くなった。歩き疲れたり日が暮れてきたら、いつでもテントを張って休むことが出来て便利だからである。若い時のように体力に任せて頑張ることが出来なくなったせいもあり、山の中で夜を過ごすことの楽しさが分かってきたせいでもある。「もっとアクティブなテント泊にしてよ・・・」と山の先輩達に叱られそうである。
「あんな山奥でよく一人で眠ることが出来ますね。怖くないですか?」と驚かれることがある。いくらか高い山に登ったり岩魚の大物を狙うような釣師なら、山奥でのテント泊は当たり前のことだが、普段都会の中だけで生活している人から見ると、やはり余程の勇気がいるに違いないと思うのだろう。
私にとって夜たった一人でいる時に一番怖いのは、実はヒトである。しんと静まり返った夜中にテントの近くで人の足音などが聞こえてくると、背筋がゾクッとして体が固まってしまう。だから、山の麓の駐車場などに仕方なくテントを張って夜を過ごす時などは、かえって緊張して眠れないのである。私は人間ほど危険な動物はいないと信じている。どんな危害を加えるのか全く訳が分からない動物だからである。
一方夜は決して人が来ないような山奥に入ってしまえば、もはや私にとって怖いと感じる生き物はいない。仮にクマが襲って来たとしても、クマは私にとって怖いと感じる生き物ではない。クマに襲われたら精一杯の抵抗はするだろうが、格闘に負けてもクマとの体力戦なら仕方がないと潔く諦めてしまう。つまり、私が怖いのは物理的な力に対してではなく、感情を気味悪くさせる精神的な圧力なのである。それが人間の悪意ある行為であったり、私が一番嫌いな蛇の、あのヌルリと湿った皮膚やくねくねと体をよじる動作なのである。
夜テントで過ごす楽しさは、自然との一体感と言ったら良いのだろうか。夜の山の中に一人でいると、宇宙を取り巻く巨大な闇の中に自分自身が溶けて行くようで、得も言われぬ自由と開放を感じるのである。晴れて満天の星が降っていればそれはそれで「おお!・・・」と感動するが、曇って漆黒の闇に包まれた夜であっても、雨がしとしとと降り続く夜であっても構わない。やっぱり楽しいのである。
夜テントで寝ている時に、動物の気配を感じて幾分緊張することがある。冒険をする時のわくわく感に似た感情かも知れない。知っている動物の声が聞こえれば途端に気持ちが和らぎ「なぁ〜んだ、お前かぁ・・・」と一人呟いて思わず笑みさえこぼれ出るが、聞いたことも無い鳴き声を耳にした時には、やはり薄気味悪い思いがする。
初めてタヌキの鳴き声を聞いた時である。真夜中にテントの枕元で「ミャーミャー」と猫そっくりの鳴き声がした。「はて・・・?」と思ったが、何らかの動物がテントの中の食べ物の匂いに寄ってきたのだと、咄嗟にテントを叩いて追ってしまった。後で新潟県の森林インストラクター本間英樹氏の著書で、親ダヌキが子ダヌキを呼ぶ時にこんな鳴き声を出すのだと知った。全く残念なことをした。そっとテントから出てタヌキの家族を見てみたかった。
串田孫一氏の「山のパンセ」は私の愛読書である。この著書の中で、氏がわざわざ夜を選んで新島々から徳本峠を越えて上高地まで歩いて行く件がある。歩き疲れて暗い夜道で休んでいる時の氏自身の精神のたゆたいと、闇の中で木霊する鳥の鳴き声、足元を駆け抜ける獣の気配、そして再び立ち上がって歩き始め、暗い山道の曲り角の向こうから咄嗟に何か怖いものが出てきて自分を楽しませてくれないかと願う気持ちなどが、素晴らしい名文で綴られている。 私が夜の山を一層好きになったのは、この文章を読んで心打たれたからである。
私はいつしかおやじ山に入り一人で夜を過ごすことに何ら違和感がなくなった。以前、おやじ山で過ごす夜の時間を、何やら余所者の浮薄な行為のように感じていた時期があった。今ではこの山の木や草やいろいろな生き物を含む全風景の中で自分が認められ、すっかり馴染んで同化してきたように思うのである。
いつか、真夜中のおやじ山の森を一匹の野獣になって奔放に歩き回ってみたいと思う。そしたら昼には会えなかった懐かしい父にもきっと会えるかも知れないと思うのである。
(2005年4月)
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