山のパンセ(その5)

「無言館」の絵と向き合って

 平成18年5月、この春3回目のおやじ山からの帰り、信州上田市にある「無言館」に立ち寄った。どうしても観たい絵が3点あったからだ。
 「無言館」は平成9年(1997年)5月に開館した太平洋戦争で戦死(または戦病死)した若い画学生たちの絵を集めた戦没画学生慰霊美術館である。館長は窪島誠一郎氏、今は亡き作家水上勉の実子である。
 昨年7月31日の日曜日、NHKテレビの番組「新日曜美術館」で無言館の絵の紹介があった。映画監督の山田洋次氏と窪島誠一郎氏がゲストで出演して、この美術館の絵について二人で語り合うという内容だった。その中でとりわけ中村萬平の「霜子」(しもこ)、伊沢洋の「道」、太田章の「妹」の絵に強く惹かれた。この3点の絵だけはいつか実物をしっかり観ておきたいという思いがあった。
 「無言館」は前山寺への坂道の手前を左に登った丘の上にあった。打ちっ放しのコンクリート造りの小さな美術館である。正面玄関の両脇に美術館にしては小さな木製のドアがあり、まるで潜り戸から別種の世界に入って行くような雰囲気がある。明るい午前の光に慣れた目からはやや薄暗く感じられる館内である。
 「霜子」の絵がすぐ目に入った。入口近くの左の壁に最初に飾ってある。歩み寄って絵の正面に立ち、それからキャンバスに顔を近づけてじっと見入った。裸婦が椅子に腰掛け右足はクロスに乗せて膝を立てている。やや俯き加減で幾分傾げた顔が正面を直視している。描き手をしっかりと見つめて離さないその顔と目に湛えられた何という光の強さだろう。窪島氏は「画家とモデルとの間の濃密な関係」と確か番組で表現した。
 霜子は作者中村萬平の東京美術学校(現・東京芸術大学)時代のモデルだった女性で、中村の妻となった。そして萬平の出征前のこの絵のモデルを最後に、霜子は萬平の一粒種を生んで病死した。
 この前面左側の壁の端に伊沢洋の「道」(館では「風景」と表題していた)があった。その手前がやはり伊沢の「家族」の絵である。伊沢は栃木の貧乏な家で育ち、その家族は伊沢に美術学校で絵を学ばせるため田や立ち木を売って金を工面したという。だから家族への感謝の念が人一倍強い伊沢は家族全員の揃った肖像画のようなこの「家族」の絵を描いたが、召集令状を受取り出征直前に実家に帰って描いた絵が、見慣れた故郷の一本の道の絵である。この道の先には実際には墓地があったというが白く塗り潰してある。「家族の絵を描いていた一人の画学生が、出征を前にして最後に向き合ったのは、自分自身だった」と窪島氏はこの絵について語った。
 右手前の壁に移る。絵の下のプレートに作者の名前と略歴が書いてある。その略歴を読み進んで行く。「・・・ルソン島にて戦死。享年28歳」「・・・東部ニューギニアにて戦死。享年23歳」「・・・満州牡丹江省にて倒れ戦病死。享年23歳」「・・・マレーの陸軍病院にて戦病死。享年28歳」「・・・ルソン島にて戦死。享年27歳」「・・・ニューギニア ニューブリテン島にて戦病死。享年30歳」「・・・ああ!何という・・・!」
 太田章の「妹」(館での表題は「和子の像」とあった)は奥左手の壁の中程にあった。窪島氏は「画学生たちの絵は、自分にとって一番大切なものを描いているのです」と言ったが、太田にとって4つ違いの18歳の妹和子こそが、死を覚悟して戦争に行く自分にとって「一番大切なもの」だったのだろう。

 飾ってある全ての絵の前に立った。その1枚1枚は無言であるが、これらの絵と向き合っている自分の胸の中では様々な思いがかきたてられ、重い言葉となって自問しかけて来るのが分かった。「なぜ、生きるのか?」「なぜ、描くのか?」と・・・
 裏の出口に受付があり、ここで入館料500円(入館料は500円〜1000円とあったけど)を払って、やはり小さな木のドアを押して外に出た。裏庭いっぱいに咲く黄色いタンポポの花が目に沁みる。シンと静まった胸が外の空気に触れていくらか膨らみ、明るい春の陽に溶け出して思わず落涙しそうになった。慌てて空を見上げる。段々畑の向こうに前山寺の木立が見え、その奥に幾分春霞に煙った山並みが続いていた。
 裏庭のベンチに座り、一緒に無言館に入った妻が出てくるのを待った。館のフロアに並べられたガラスケースの中に画学生達が戦地から送ったはがきや手紙などがあり、妻はそれらを丹念に読んでいた。20分か25分か、ようやく妻が庭に出てきた。「これ、買いました」と1冊の画集を少し笑いながらかざしたが、その目が赤く腫れているのが分かった。
 午前9時の無言館の開館前に境内をぐるりと見て回った前山寺に、二人で再び足を運んだ。山門の前に立つと、ここ上田市出身の画学生近藤隆定がかつて描いた上田の町並みが、眼下に広がって見えた。

(2006年5月25日 記)

<<闇の中を見る目>>に続く