山のパンセ(その6)

闇の中を見る目

 2006年6月6日から5日間ほどおやじ山で過ごした。地震と大雪でダメージを受けて小屋で寝泊りできないのが残念であるが、小屋脇にテントを張っての山生活である。
 出発前に新潟地方の天気予報を見ると、一週間ほどはまあまあの天気である。真夏でも気持ちよくおやじ山で過ごすためには今のうちに最初の草刈りをやっておかないと、ぼうぼうの藪になって手に負えなくなってしまうからだ。

 今回は上越新幹線で行った。長岡駅に着いて構内のコンビニで今夜の夕食と明日の朝食分だけを買ってタクシーで山に向かう。(麓まで行くバスに乗り遅れてしまった)
 車止めの柵の前でタクシーを降り、テントの入った大型リュックを背負って作業道路を歩き始めた。道路の法面いっぱいのハナニガナの絨毯で、午後の遅い日射しにも黄金色にきらきらと揺れて輝いている。
 おやじ山に入る斜面を下って小屋に向かうと、谷間の方からオオルリの甲高い美声が出迎えてくれた。そお〜と足音を忍ばせて小屋に近づいたが、オオルリの鳴き声も遠のいて谷川の水音だけが大きくなった。小屋に着くと山桜の斜面にはエゴノキの真っ白い花がちょうど満開だった。
 小屋を開けて、いつものように先ず囲炉裏に火を焚く。それからデッキの上にテントを張って中にドンとリュックを放り込み、ようやくほっと一息つく。
 夕食は、すっかり濃い緑に覆われた向かいの山菜山の景色を見ながら、外で摂った。この春先に来た時に俄か作りで作ったテーブルの上にコンビニ弁当とお酒を載せてパイプ椅子に座れば、もう立派な晩餐の始まりである。日が長くなって嬉しい限りだが、辺りが闇に包まれてからも、明かりは点けなかった。月明かりも無い夜だったが、目が闇に慣れて不思議に物がよく見えるのである。
 時間は夜の8時近かっただろうか。一人だけの晩餐会が終わってから、無性に夜の山を歩いてみたくなった。明かりは、持たない。先程までじっと椅子に座って向かいの山菜山や足元の山桜の斜面を見つめていたが、自分の目がすっかり獣の目に変わって闇の中のものが判別できていた。
 先ず池の脇を通って若杉の森の中に入る。この森の杉はほぼ30年生で幹周りは20p〜25pほどになっていたが、この冬の豪雪で10本近くが倒されていた。その裂けた幹に手を当てながら杉林を歩き回り、それから「カタクリの丘」に向かった。今年はここのカタクリが本当にいっぱい咲いた。そこも今はテンナンショウや秋に刈った小枝からの芽が伸び始めていた。尾根に出て小屋に向かう。月明かりもなく星の瞬きも無かったが、ヤマユリや伸びたゼンマイ、ウド、それからホオノキの大きな葉の形が、広い夜空からの反射光でしっかりと識別できた。
 再び小屋の前を通って長岡の街が見える所まで歩いて行った。ミズナラの奥に見える下界の街の灯が何と煌々と眩しいことか。闇にすっかり慣れた目には、その遥か遠い街の灯でさえ思わず瞬きするほどの強い光である。
 小屋に戻ってガスランタンに火を点ける。途端に周りの景色が闇の中に融けて、消えてしまった。
 動物界の中にいる人も、闇の中でしか識別できないものがある。光を当てた途端に視界から消えてしまうものが、いっぱいある。そして今の社会で、光を当てられた者達だけが吼え叫んでいるものに従い追い求めて、果たしてそれでいいのだろうか? 闇の中を日々見つめている獣たちにこそ、事物の実相が見えているのだ。その獣達に、我々は頭を深く垂れて真実を見る目の訓練をやってもらうべきではないだろうか?
 今まで鳴いていた池の蛙の声が止み、とって代わったようにフクロウが「ゴロスケホッホ・・・」と低く鳴き始めた。やけに染み入るような響きである。そして、谷川の微かな水音。

<<2006年6月21日 記す>>