(その4)
2006年早春−獣たちの気持ちとは?−
平成18年豪雪と命名された越後の冬もようやく春の兆しが見えてきたようだ。それで本格的な山菜シーズンの前におやじ小屋の様子を見に行くことにした。
2月に一度おやじ小屋の屋根の雪堀りに行ったが、その時には小屋周りの雪嵩がもの凄く、とても中へは入ることができなかった。大した道具など置いてはいない小屋なのだが2年続きの大雪で四方のトタン壁が隙間だらけになった上に屋根の雨漏りもひどくなった筈である。
3月24日に藤沢を車で発って東山の麓で夜を過ごし、25日の早朝おやじ山への尾根道を所帯道具を詰め込んだリュックを背負って歩き出した。18年豪雪の名に恥じず、まだこの時期でも70pほどの雪嵩だったがスノーシューが無くても歩くことができた。子どもの頃には「シメワタリ(シミワタリだったか?)」と言っていたが、春先に雪が融け始め、雪に変わって雨が降るようになると残雪が硬く絞まり、さらに放射冷却が加わると、早朝から午前中いっぱいくらいまでは雪の上をどふらずに(雪に足を捕られない、という意味の長岡弁か?)楽に歩くことができるのである。
昨夜は車の中で泊まったが、まさに降るような満天の星空だった。そのせいでこの日は絶好のシメワタリの荷揚げ日和となった。(テントや寝袋、毛布、食料から重たい酒の一升瓶まで荷揚げしたので2往復もするハメになった)しかし普段のルートを気にせずに尾根や谷や山腹を自由に歩ける気分は何とも楽しいものである。
そして思い出すのは、まだ宮内の保育園に通っていた子どもの頃に、シメワタリができる朝になるといつもの道を通らずに、線路を横切ってシメワタリで畑や工場裏の野原の上を歩いて行ったことである。この非日常的な「冒険」が病みつきになって、保育園から帰った午後に近所のハス沼の上を歩いて溺れかけたことがある。(びしょびしょになって家に帰りお袋にこっぴどく叱られてしまった)
おやじ山への雪の上にはいろんな動物の足跡がついていた。野ウサギやキツネなどは何となく見分けがつくが、分からない足跡もあった。一直線に伸びているのもあり、2匹が仲良く並んでいるのもあり、踊り場でじゃれあったりして思わず笑わせられるような足跡もあった。一番多いのは野ウサギの足跡である。前後についた前足の前に、それをピョンと飛び越えて着地した平行の後ろ足の足形で分かる。だからウサギの進行方向は前に出た後ろ足側だということになる。キツネの足跡はダンディなほぼ一直線の形である。花魁(おいらん)の歩き方だが高下駄を振り回さないところが人間と違う。キツネは前足5本、後ろ足は4本の指を持つが、前足をついたところに後ろ足を重ねてつくので4本の指型だけが残る。おやじ山にはテンもいるが、テンの足跡は5本の指の足型であること、左右2対の足跡がやや斜めに平行してつくことなどでキツネと区別できる。(しかし実物が雪の上を歩いているところを追いかけて見ていないので特定するのが難しい)
おやじ山に雪のある時期に入れば、それこそいたる所に動物の足跡が見られるが、実際の動物を目にすることは殆ど不可能である。相手はじっとこちらを窺っているのだろうが、残念ながらこちらの感度は相手よりはるかに鈍い。2月に小屋の雪堀りに来た時には新雪の積もった小屋の周りに、直前まで走り回っていたと思われる真新しい足跡が縦横無尽に付いていた。この獣たちに自分か受け入れられ、いつでも目にすることができるようになったら何と楽しいことだろう。
おやじ小屋の周りは、いまだ1.5m程の積雪だった。入口の戸板は土中にめり込み、張ってあるアクリルの波板がひしゃげている。南側の窓の戸板はガタンと下に落ちて上が50p程も開いていた。この窓を外して中に入り、いつものように囲炉裏に火を焚いた。その焚き付けの杉の葉に燻されて外に出て、おやじ小屋の屋根や軒の隙間から青い煙が立ち上っているのを見ると「ああ、またおやじ小屋に帰ってきたなあ」とようやくほっとした気分になるのである。
小屋の南側は谷を挟んで「山菜山」と呼んでいる斜面がある。ここにはウド、ウルイ、ゼンマイ、シドケ、ヤマアスパラ、ワラビ、フキと何種類もの山菜が生えるのだが、今はまだ厚い雪に覆われていた。しかしその雪も何箇所か深く割れて黒い大地がのぞき雪崩れた箇所もあって春を呼ぶ気配だった。早春の陽ざしに真っ白な山肌がきらきらと輝く美しさは得も言われぬものがあったが、殊のほか面白いのはこの雪の上についたいくつもの獣たちの足跡である。山腹を真一文字にトラバースする生真面目なものや、大きな雪の割れ目に沿ってぐるりと回る律儀もの、峰から谷に向かって(あるいは谷から峰に向かって)突進したようなものと、眩しく目を細めながらこれらの足跡をなぞっていると全く飽きが来ない。「これらの獣たちは何をしにここを歩いていったのだろう?ただ単に一種の衝動に駆られて歩き回っているのだろうか?果たして獣たちには目的を持つという意識などあるのだろうか?」しかし何やら深い思いや意思さえ感じられる確かな足跡もあって「さて?」と思わずクビを傾げてしまったりするのである。
午後4時を過ぎると山肌に幾分赤味が差して、同時に急激に冷えが襲ってくる。楽しんでいた想像からはっと我に返り夕食の支度に取り掛かる。きっと向かいの峰の辺りで獣たちが「小屋の住人は何をやり始めたのだろうか?」と窺っているのを意識しながら・・・。
(2006年4月26日記す)
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