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2020年2月2日(日)晴れ
蕪村の句
  月天心 貧しき町を 通りけり(蕪村)

 この句は知らなかったが(もともと俺に俳句の知識などない)、ある雑誌に連載している伊集院静氏の文章で知った。氏はこの蕪村の俳句を紹介したあと、次のように書いていた。

『(前略) 人間は希望、愛のように感じられるものを持たないと生きて行けない生きものである。希望、愛にはさまざまなかたちがあるが、月の光が人間に何かを与えることもあるはずである。この句の発句の意図はわからないが、彷徨を続け、晩年ようやく創作の人となれた蕪村の句には人々に平等にいつくしみを与える自然の素晴らしさを感じてしまう。』(※下線は筆者)

 伊集院氏は、蕪村の句から、「自然は、富める者、貧しい者を分け隔てることなく誰にもいつくしみを与える。その自然が持つ平等性の素晴らしさ」を感得してこのように書いたのだと思う。

 正直言って、俺は自然に対して今までこういう認識を持ったことは無かった。ただ自然に対峙して、5感で感じ取った自然の美しさや心地良さ、楽しさを利己的に享受し、それをまた他の人たちにも伝えてきたに過ぎない。しかし一歩引いて、何とも説明し難かった自然の持つ優しさや包容力を、「自然の平等性」と言い表したら、成るほど合点がいくような気がする。

 今、世の中に様々な対立と格差が広がっている。そんな中で、おやじ山の自然と風の小屋の存在意義を、改めて心に刻み込んだ次第である。

(出典:SIGNATURE 2018年11月号)
2020年2月13日(木)晴れ
山口瞳著「礼儀作法入門」
 昨日(2月12日)、健康保険組合から毎年案内のある定期健康診断を受けてきた。既に10年近くになるが、毎年最寄りの駅近くにある総合病院で診てもらっている。定期健診の常として、ぐるぐる検査場所を回りながら、ある検査項目によっては可なりの時間待たされる。そこで時間つぶしに書物を1冊持参することにしている。検査着のポケットに入るサイズ、といえば文庫本である。

 自宅の本棚から適当に抜き出した1冊が、新潮文庫平成19年3月20日十七刷、山口瞳著「礼儀作法入門」だった。
 待合場所(病院の廊下)の椅子に座って、名前を呼ばれるまでページを開く。目次には、第1部礼儀作法とは何か 第二部礼儀作法入門とあって、それぞれ小項目が(例えば、病気見舞、手紙の書き方など)せいぜい2~3ページほどで纏められている。

 13年前に買って一読した本を、偶然にも再び手に取って読み始めたら、「こんな為になることが書いてあったのか!」と今更ながら臍を噛むような気持ちになった。本書は無味乾燥なマナー・エチケット本(著者はこれらを礼儀作法の教科書と言った)とは違って、いわば副読本、もしくは参考読物として書いた、と著者は言っているが、作家山口瞳の人生哲学が随所に滲み出て、教科書を遥かに超える生き方の作法を書いた実践書となっている。


 今日は、病院での残りを全部読んだ。実に良書である。そのほんの一部を原文のまま紹介します。

第二部 礼儀作法入門 3 酒の飲み方
<盃をどう持つか>
 たとえば、銀座裏の小料理屋へ行ったとする。銚子、盃、肴、箸、箸置が運ばれてくる。内儀が最初の一杯のお酌をしてくれる。これを飲む。飲んでから、「正しい酒の飲み方を知っているかね。盃をどう持って、どう飲むか」と訊いてみる。私の経験では、答えられた人がいない。私は何人かの女優にも同じ質問をしてみた。これも答えられない。女優は、舞台の上で、酒を飲むという動作を演じなければならない。それも、観客から見て、キレイに見えるようにやらなければならない。それが答えられないというのは不思議ではないか。
 正しい答えを教えよう。まず、盃を持ってくれたまえ。無意識でいい。そうだ。誰でも、ヒトサシユビとオヤユビで盃を持つだろう。この際、ヒトサシユビとオヤユビは、盃の円の直径を差し示す形になる。これも自然にそうなるはずである。そうでないと盃は落ちてしまうし、落ちないまでも不安定で、余分な力を必要とすることになる。
 そうやって盃を持ったら、これを唇に近づける。そうして、ヒトサシユビとオヤユビの中間のところから飲むのである。この際、舐めるようにではなく、盃の中の酒を口の中に放り込むようにして飲む。これが正解である。これが見た目にキレイな酒の飲み方である。
 宴会に行く。芸妓が来る。まあ一杯どうだろうということで酌をしてやる。このとき、若い芸妓が、この動作で、手の甲を見せて、サッと放りこむようにして飲んで、ご返盃、と言って盃を突きだしたらキレイじゃないか。私なら、惚れちまうね。
 さて、それなら、私は常にそのような動作で酒を飲んでいるかというと、そうではない。なあんだと思うかもしれないが、それでいい。礼儀作法とかマナーとかいうものは、知っていてそれを行わないところに妙諦がある。知らなければいけない。しかし、それを常に実行する必要はない。
 もし、かりに、あらゆるマナーに通じていて、常にそれを行っている人がいたとすると、これは、かなりイヤラシイ人間になってしまう。盃の場合でも、私は、ふつうはヒトサシユビとオヤユビの中心ではなく、オヤユビに近いところで飲んでいる。

 まあ、ざっとこんな文章が続く。こんな調子で、酒の注ぎ方、箸の置き方(箸置を左に置いた場合と、右に置いた場合の動作の違い)、箸袋の処理の仕方などの作法が実践的かつ面白く書かれている。