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2020年1月3日(金)晴れ
新年に思うこと
 明けましておめでとうございます。
 先ほど、正月3が日の恒例となった箱根大学駅伝の応援から帰ってきた。本当は昨日の往路の応援もしたかったのだが、昨年の積み残しの仕事があれこれとあって、外出する暇が無かった。

 9時半過ぎに長久保公園の駐車場に車を停めて、真近の駅伝コースの国道1号線バイパスの沿道を下見がてら歩いてみる。まだ人混みもまばらだったが出場大学の幟があちこちにはためいて、これを見るだけで正月気分に浸ってしまう。

 いよいよ選手が通過する時間になると一気に人混みも増えて、パトカーが現れ、白バイが走り、テレビ中継車、先導の白バイ、そして選手の姿がみるみる大きくなって目の前を駆け抜ける。思わず「ガンバレ~!」「ガンバレ~!」と大声で叫んでしまう。力走する若者の姿に、ふつふつと胸に湧き上がって来る熱いものがある。もちろん感動である。しかしどうもその胸の内を分析すると、羨ましいような、悔しいような、何か「コンチキショー!」とでも言いたいような嫉妬する気持ちも混ざっていて、我ながらこの複雑怪奇な感情を解しかねている。一言で言うと、老人のヒガミかも知れない。

 昨年末は忙しかった。12月3日に前月に出掛けた和歌山、三重、奈良県の森林調査の仕事から帰り、中1日置いて5日から伊豆、山梨、秩父の山を回り、14日からは1週間、中国地方に出張した。更に23日からは宮崎、鹿児島の山々を巡って29日に自宅に戻った。「あれ?早かったのね」と今回は言われなかったが、帰宅早々、「やれ、庭の掃除を」「やれ、正月飾りを」「やれ、あれの買い出し・・・これの準備を」「やれ、孫達のお年玉を出せ」と、矢継ぎ早の脅迫と恐喝にタジタジとなって自分の仕事も手に付かず、全く除夜の鐘が待ち遠しかった。

 そして明けて令和2年の元旦の朝は、ぶ厚い新聞の束を拾い読みしながら、あれこれと思い巡らすのである。そして今年も、岩波書店の新聞一面の広告文に目が留まった。
 長文の中に、『いま、敗戦とは別の意味での、荒廃した風景が日本を覆っています。表現の自由への攻撃、報道の規制、公文書の改竄、歴史事実の否定・・・。いわば近代国家、民主主義の基盤の破壊です。ネットにあふれる侮蔑の言葉や隣国への敵視・嫌悪の源には、衰退と停滞と閉塞があります。』とあり、そして『日本はまさに敗戦に匹敵する危機に直面しているー』と厳しく警告しているのである。

 なるほど、そうだろう。政治問題だけではなく、地球温暖化にしても、もはやボ~ッとしてはおれない現状なのに、危機に直面してなお、日本には無関心と諦観が曼延しているように見える。

 今、この齢になって、俺に何ができるだろうか?そして、俺は未来に何を遺せるだろうか?新年に思うのである。
2020年1月9日(木)晴れ
静岡と三重の山旅
 新年早々の出張から昨日帰宅した。6日に浜松駅近くのレンタカー会社で相棒のKさんと落合い、今年度(2019年度)最後となる森林に関わる仕事に従事した。場所は静岡県の天竜川上流部と三重県志摩半島の数カ所のポイントを3日間で巡る大忙しの山旅だった。

 6日に藤沢の自宅を出て小田原から新幹線に乗った。車窓からは雲のたなびく青空に真っ白な雪を頂いた富士山が見えて、新年のお目出たい風景に大いに得をした気分になった。
 静岡県の調査を終えた翌7日の午後、新東名高速と伊勢自動車道をひた走ること280km。ずっと以前にも仕事でKさんと泊まったことのある三重県南伊勢町の古い旅館に宿をとった。海の幸満載の夕食が目当てである。
 「これこれこれ・・・!」「絶品だなあ~!」「また正月が戻って来ちゃったねえ~!」と、俺とKさんの二人しか客のいない老舗旅館の接待に、まさに随喜の涙を流しながら舌鼓を打った。

 そして昨日、晴れ男のKさんとの同行には珍しく、激しい雨が叩きつける旅館を出立して今年度最後の調査ポイントに向かった。しかし車を停めて、密に生えたウバメガシの藪が行く手を阻む痩せ尾根の急斜面を喘ぎ登る頃には雨もすっかり上がり、一気に初夏を思わせる青空が広がった。

 最後の仕事も無事に終わった。
 Kさんとの解散地「津」に向かう途中の、穏やかに晴れ渡った伊勢の海を見ながら、やはりホッとした安心と達成感が湧き上がって来る。そして「ここまで来たからには・・・」と伊勢神宮にも立ち寄って初詣することにした。
 さすが伊勢神宮である。「おかげ横丁」はいまだ正月の大変な人混みで、多くの参拝客と一緒に五十鈴川にかかる宇治橋の大鳥居前で一礼し、いささか粛然とした気持ちで内宮へと向かったのである。

 
2020年1月31日(金)晴れ
「風の電話」と「風の小屋」
 岩手県大槌町の海を見下ろす丘に、「風の電話」と呼ばれる電話ボックスがあることは、東日本大震災(2011年3月11日発生)から5年目の、2016年3月10日に放映された<NHKスペシャル「風の電話~残された人々の声~」で知っていた。と言うよりも、このドキュメンタリー映像で大ショックを受けて、以来ずっと俺の心の中で強く記憶され続けて来た。
 電話ボックス内にはダイヤル式の黒電話があり、電話線は繋がっていないが、来訪者は受話器を取り上げ、そっと耳に当て、地震や津波で命を落とした家族や友人たちに思いを伝えるのである。来訪者の一人は言葉少なに心情を吐露し、またある人は、思いのたけを訴え続け、その誰もが受話器を握りながら滂沱と涙する姿には、視聴者をして胸を掻き毟られるような深い同情と憐憫の情とを惹起せしめるのである。電話機の横には次のように記されているという。

 風の電話は心で話します静か
 に目を閉じ耳を澄ましてくだ
 さい風の音が又は浪の音が或
 いは小鳥のさえずりが聞こえ
 たならあなたの想いを伝えて
 下さい

 
 確か1月23日の新聞広告だったと思う。「風の電話」というタイトルの映画が24日に封切られるとあった。早速神奈川県内での上映館を調べてみると、小田原市内の映画館が見つかった。

 モトーラ世理奈が演じる主人公の女子高校生ハルは、故郷・大槌町で東日本大震災に遭い、両親と弟の全家族を奪われ、広島の叔母の家に身を寄せて悲しみにくれている。その叔母が倒れ入院した機会に、ハルは広島から大槌町に向かう。その途中で様々な人たち(三浦友和、西島秀俊、西田敏行などが出演)との偶然の出会いの中で、傷ついた心の救済や人々が忘れかけている大切なもの、を映し出していく。福島第一原発事故で故郷大熊町を追われた役で西田敏行が即興で演じきったというセリフは、まさにフクシマの苦しみを語った真の言葉として圧巻である。
 そしてハルは、故郷大槌町の津波で流され土台だけ残った我が家に帰り、まだ見つかっていない家族の名前を呼びながら泣き崩れる。ここまで車で送ってくれた(西島)とも大槌町の駅前で別れて、ホームに立つ。このホームで中学生くらいの男の子と出会い、この子がこれから行くという「風の電話」に同行する。男の子が先に、交通事故で死んだという父親と話した後、ハルが電話ボックスに入った。電話ボックスの周囲の植栽が風に揺れ動き、時折大きくなびいて風の音が鳴る。ポツリ・ポツリと話し始めたハルの声は、次第に「会いたい・・・会いたい・・・!会いたい!会いたい!会いたい!」の絶叫に変わる。「そっちの世界に会いに行く」と両親や弟に話しかけて自殺を予感させていたハルが、最後に「でもワタシ、その時はおばあちゃんになっているかもね」の言葉で締めくくられる。

 2016年3月10日に放映された<NHKスペシャル「風の電話」>を視聴して咄嗟に思い立ったのは「俺もこれと同じ電話ボックスを作る!」ということだった。場所はおやじ山である。幸いにして、ずっと以前に、東京の親戚の古い家が解体された折、その家にあった黒電話を記念に貰って我が家にあった。心に悩みや苦しみを持つ人が、おやじ山に来て、この電話ボックスで思いのたけを話して、少しでも心の平安を取り戻せたらとの切なる思いだった。そしてカミさんに、その俺のパッションとスピリットを熱く伝えたのだ。そしたらカミさんはこう言ったのだ。「その電話、ワタシが最初に使わせていただきます」「エッ・・・・!」

 事業をやるには、どんな場合であっても挫折もあり、多かれ少なかれ紆余曲折もある。しかし幸いにして、おやじ山版「風の電話」構想はよろよろと立ち上がり、今、おやじ山に集う素晴らしい仲間たちの献身的な協力で、「風の小屋」(第二おやじ小屋)建築で引き継がれ、着々と完成に近づきつつある。そして風の小屋が、大きな包容力と寛容の空気に包まれ、訪れた誰もが心の平安を覚える場所になればと願っている。今は亡き懐かしいおやじのように・・・