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沖縄を辿る旅

2019年5月22日(水)晴れ
沖縄を辿る旅(プロローグ)
 昨日、沖縄から帰って来た。そして、明日またおやじ山に戻る予定なので、急遽記憶が定かなうちに5月18日の沖縄入りから昨日までの旅での出来事を綴っておくことにした。

 そもそも沖縄旅行は、数年前から年1回程度、カミさんと娘が航空会社のマイレージを溜めて二人旅を
計画していたもので、今回はそこに俺が便乗した格好の沖縄への旅だった。
 きっかけは今年2月24日に実施された国が計画している名護市辺野古の米軍基地建設の埋立てについての賛否を問う沖縄県民投票である。結果は、反対が72%(43万4千票)と圧倒的多数の沖縄県民が埋め立て反対の意思を示したにもかかわらず、国は耳を貸さず工事を強行している現実に大いに腹を立てているからである。その理不尽な現実をこの目で見て、出来れば辺野古のテント村で一緒に座り込みでもする決意だった。

 今回の旅で、沖縄の苦難の歴史もより深く胸に刻むことができた。遠くから眺めていても、頭では分かってもなかなか腑に落ちづらい。その点では有意義な沖縄旅行になったと家族に感謝したい。
 
2019年5月18日(土)
沖縄を辿る旅(第一日目 街宣車の暴挙)
 15日におやじ山を下りて16日に藤沢の自宅に帰り、昨日はバタバタと沖縄への旅支度をして、今日は7時半にカミさんと娘と3人で家を出た。

 搭乗機はJAL909便、羽田発10:50である。那覇空港に着いてモノレールで5つ目の駅が、娘がインターネットで予約してくれたホテルの最寄り駅である。午後2時からチェックインできるというので、ほぼ2時の時報と同時にフロントで手続きをして部屋に入る。娘の説明では、最上階のクラブラウンジでは時間によってタダ酒が飲み放題だという。嬉しい!この時間帯をしっかり頭に入れて、先ずは3人で那覇のメインストリート国際通りへと繰り出した。

 沖縄県庁前近くまで来ると、何台もの右翼の街宣車が交差点のあちこちに停まってスピーカーで何やら喚いている。がなり立て過ぎて良く聴き取れないが「お前ら非国民が日本をダメにする!」などと言っているようだ。見ると県庁前に「沖縄全島ゼネストで辺野古新基地建設を止めよう!」と書かれた横断幕を持ったデモの集団がいて、この人たちへ罵声を浴びせているのである。さらにデモ隊が行進を始めると、そのすぐ後ろに街宣車が付いて、シュプレヒコールの妨害である。この行為はもう犯罪ではないのか?機動隊や警察車両が周りに何台もいるのに、街宣車の妨害行為を阻止もせず傍観しているだけなのは何故なのか?全く旅行初日から腹立たしい限りである。

 一人でホテルに戻り、クラブラウンジに行ってヤケのタダ酒を呑む。43度の泡盛、バーボンウイスキー、また43度の泡盛、またバーボンウイスキーとちゃんぽんを繰り返し、べろべろになってまあ初日の憂さ晴らしである。
2019年5月19日(日)晴れ
沖縄を辿る旅(第二日目 辺野古へ)
 朝飯を済ませて早々にホテルを出る。モノレールで空港まで行き、レンタカー会社の店で最終日まで予約したレンタカーを借りる。そしていざ名護市辺野古を目指す。

 沖縄道をひた走り、宜野座ICで下りて国道329号線を北上する。目指すは米軍基地キャンプシュワブである。信号で止まると「辺野古」の表示で、「いよいよ来たか」と少し胸が高鳴る。キャンプシュワブ第一ゲート前に来ると、329号線を挟んで対峙した埋め立て反対派のテント村は、静まり返って誰一人居ない。この日は日曜日だからだろうか?基地のゲート前には真っ黒に日焼けしたガードマンが数人居て、まさかこの人たちに「テントの人たちはどこですか?」とも聞けないので、「あの~埋立地はこの奥なのでしょうか?」とガードマンの1人に聞いてみた。「そのような質問にはお答えできません」「そうですか。失礼しました」まあ、当然である。

 近くの路上に車を停めてテント村を覗いてみる。寄せ書きやら檄文やら地図やらが張ってあって「ほほう~」と頷きながら歩く。

 どこかで辺野古の埋め立て現場を見られないかと車のナビ地図で探すと、辺野古岬の対岸の大浦湾沿いの国道331号線に回れば遠望できそうである。沖縄独特の墓が並ぶ墓地の空き地に車を停める。見えた!青く澄んだ美しい大浦湾の向うに、テレビで観た黄色いブイが湾内に長く延び、クレーンが水平線上に黒く突き出ていた。
 ジュゴンが棲み貴重なサンゴの生息する美ら海が戦争のための基地づくりで埋め立てられようとしている。暗澹たる思いで大浦湾を見続けていた。

 辺野古からは本部半島へ回り、海洋博公園の沖縄美ら海水族館で巨大なサメやマンタの回遊を楽しみ、西海岸を南下しながら万座毛に立ち寄ったりして、少し遅くなってホテルに戻った。
 
2019年5月20日(月)雨
沖縄を辿る旅(第三日目 ひめゆりの塔と平和祈念公園)
 二晩を過ごしたホテルをチェックアウトしてスーツケースをレンタカーに積み込み、雨の沖縄本島を南下する。最初の目的地は糸満市字伊原にあるひめゆりの塔である。

 太平洋戦争で米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒(彼女らは愛称でひめゆりと呼ばれていた)222人と教師18人の総勢240名は、沖縄陸軍病院に配属された。病院といっても沖縄でガマと呼ばれる自然洞窟の中である。このガマの場所にひめゆりの塔がある。塔の前には何束かの花が沖縄の雨に打たれて濡れていた。

 動員されたひめゆり学徒と教師は、5月下旬米軍が迫る中、日本軍とともに病院を出て本島南端部に向かい、激しい砲爆撃が続く中で運命の6月18日を迎える。軍から突然の「解散命令」が出され、逃げ場を失ったひめゆり学徒と教師は、戦場を逃げ惑いながら、砲弾やガス弾、そして自ら手榴弾でと大多数の命が亡くなったのである。

 ひめゆり平和祈念資料館の薄暗い一室に、動員された240名一人ひとりのうら若き顔写真と名前や性格、そして何故死んだかの説明文が書かれている。その一人ひとりの何故の文が戦争の悲惨さを如実に炙り出して涙を誘うのである。

 ひめゆり平和祈念資料館を後にして平和祈念公園に向かう。先ず訪れたのは平和の礎(いしじ)である。ここには沖縄戦で亡くなった沖縄県の人たちと、国内外の24万1525人の名前が118基の刻銘碑に刻まれている。モモタマナの木の下で、ずらり並んだ刻銘碑は、雨に濡れながらまるで泣いているようだった。

 赤い瓦屋根が並んだ沖縄県平和祈念資料館に入る。ひめゆり資料館同様、ここでも惨たらしい沖縄戦の実相が展示されていた。そして沖縄戦展示室の最後の部屋には、以下の文が掲げられていた。
      


 新しいホテルにチェックインして少し部屋で身体を休め、読谷村に出掛けた。ここは人間国宝となった金城次郎さんが造った大きな壺屋焼きの登り窯がある所で、40数年前に訪れて次郎さんに会い、氏の作品を買った(まだ人間国宝になられる前で安かった)懐かしい場所である。次郎さんは亡くなったが今でもこの登り窯は3カ月に一度使われて健在だそうだ。
2019年5月21日(火)晴れ
沖縄を辿る旅(第四日目 首里城訪問)
 最終日は首里城で締めくくることにした。絶好の旅行日和となり風も爽やかである。

 先ずは守礼門を潜り、城壁の中の石段を登って首里城正殿を見る。煌びやかな大龍柱や唐破風妻飾に息を呑み、殿内に入って様々な展示物を見ながら首里城の歴史、即ち沖縄の歴史を再び学ぶことになる。

 1429年の琉球王国の成立から1609年の島津の琉球浸入、そして1879年の首里城明け渡しと琉球王国の崩壊。1945年の沖縄戦による首里城焼失。(更には米軍による戦後統治や本土復帰、そして辺野古の新基地建設と・・・・・・)まさに沖縄の象徴首里城こそがこの島の苦難の歴史を体現してきたと言える。
 世誇殿で行われた琉球舞踊を観た後、東(あがり)のアザナに登って眼下に広がる那覇の街並みを見た。南国の日差しの下で静かに佇んでいながら、沖縄の揺るぎない強靭な意志をじっと秘めているような街並みの姿を、俺自身の目にしっかり焼き付けてこの旅を終えることにした。
城内の月桃の花に見送られて・・・・・・


 「もっとのんびりしたかったのに、誰かさんのお蔭で随分忙しかったね」とは、今回の旅の家族の感想である。