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2018年8月13日(月)晴れ
おやじ山の夏2018(帰還)
 一昨日(8月11日)おやじ山を下りて藤沢の自宅に帰った。6月17日の山入りから56日ぶりに自宅に戻ってみると、自室の机の上は郵便物の山で、カミさんから「やれ、洗濯物を早く出せ」やら「やれ、リュックサックや寝袋が煙り臭くて早く風呂で洗って」やら「やれ、せっかく綺麗に掃除した部屋に山のガラクタを散らかさないで」やら「やれ・・・・・・もう恥ずかしいから書かない」おちおち書類にゆっくり目も通せずに今日に至った。
 それで今は取り敢えずは、今年のおやじ山の夏をどんな風に過ごしたかを備忘録的に書いておきたいと思う。

 今回の山入りの最大の目的は、ゲストハウス(第二おやじ小屋)の建築である。春の終わりにSさんご夫婦や麓の村のNさん、更に地元のKさん、Nさん、Yさんらの協力で、柱、梁、桁まで建てたが、今回の山入りで最低限屋根までは仕上げたいと目論んでいた。それで春同様、皆さんにお声掛けしてご協力いただき、先ずは梁に溝を掘って束を立て、晴れて棟上げをして、棟木と桁の間に野地板(パネル)を張るための垂木を渡した。さて待望の野地板張りか!と意気込んだが、その前に、桁と垂木間の隙間を埋める大工仕事や、小屋の前後の屋根と梁の間の△部分の壁を工作しておかなければ・・・と段取りが次々と思い浮かんで、とても屋根までとはいかなかった。
 しかしKさんはじめ皆さんがおやじ山に駆けつけてくれると、その都度どっさりと食料やら飲料水、クーラーボックスを冷やす氷やらを差し入れてくれて、全く大助かりで感謝し切れるものではない。


 そして今年の夏は、既に6月末から8月5日まで、長岡では30℃以上の厳しい真夏日と猛暑日が続いた。(7月29日には、長岡で観測史上最高温度の39.4℃を記録した)それで一人で大工仕事をする時は、涼しい朝の5時頃から午前9時頃まで、まさに朝飯前の作業をこなし(高所作業ではヘルメット、転落防止の安全帯を装備して)それからしっかり朝飯を食い、日差しがおやじ小屋に届く時間には山を下りて、日本海に向かった。目指すは出雲崎の井鼻海水浴場である。暑さ凌ぎと心身の鍛錬を兼ねてここで泳ぐのである。(カミさんには長岡郵便局留めで水泳パンツを送らせた)
 井鼻海岸に延べ7日間通ったが、ここは勿体ないくらいに人出も少なく、静かで穏やかな広い海原に身を任せながら、全く心ゆくまで真夏の日本海を堪能することが出来た。真っ青な海の水平線に佐渡島が横たわり、その上にだけ夏の白い雲が浮いて、絵に描いたような風景だった。


 56日間の滞在期間にいくつかの行事やイベントにも参加した。
 7月4日には毎年の恒例になった長岡市太田小学校の5人の児童たちに猿倉岳天空のブナ林で自然環境教育の授業を行った。ブナ苗の植樹、ブナ林内で広葉樹の除伐作業(子ども達が手鋸を使ってリョウブの木を伐る)、ターザンごっこ、ブナの巨木探し、そして最後に、森のコンサート会場(ブナ林の広場)で5人の児童達と一緒に並んで「ふるさと」を歌った。歌いながら次第に胸に熱いものがこみ上げ、涙を必死に堪えながらの合唱だった。




 そして7月6日は市内のホテルで中学校時代の同窓会。47名が集まり旧交を温め合った。
 8月1日から3日までは長岡まつりである。2日、3日と最大イベントの長岡大花火大会で、打ち上げ開始の7時15分には、73年前の昭和20年8月1日の長岡大空襲で犠牲になった人たちを悼む鎮魂の花火「白菊」3発が、夕暮れの空に開いた。


 8月6日午前8時15分の広島原爆の日、そして9日午前11時2分の長崎原爆の日と、ラジオを聴きながらゲストハウス建築の足場の上で黙祷した。更に8日にはオキナワのアイデンテティとも言える翁長沖縄県知事の訃報を知り、戦争や基地が無く、核兵器や原発のない世界を強く願わずにはいられなかった。

 おやじ山を下りる8月11日の朝は、久々に聞くおやじ山に降る雨音と、ストーブの煙突を伝って枕元に雨漏りする滴の音を嬉しく耳にしながら起きた。極度の乾燥で音を上げていた山河も、この雨で一息ついた筈である。おやじ小屋に持ち込んだ所帯道具の荷下しには雨の中で苦労したが、やはりこの慈雨にはホッと胸を撫で下ろさざるを得なかった。

 そしてこの日、実家に寄って昨年死んだ兄貴の遺影の前に蝋燭と線香を灯し、それからお袋とおやじが眠る託念寺の墓に出向いて盆花を供え、長い長い時間手を合わせた。
 お参りを済ませて、いつものように境内の裏門から外に出て信濃川の堤防を眺めた。遥か遠い昔に、小児麻痺を患い片ちんばの足で歩く兄ちゃんの後先で、この土手で無邪気で遊んだ小さい小さいガキの頃を思い出しながら、涙が止めどなく流れ出るのだった。「にいちゃ~~ん!」


2018年8月3日(金)晴れ
おやじ山の夏2018 フォト・トピック(長岡大花火)
 長岡の大花火は毎年8月2日、3日と開催されるが、2日はおやじ山の見晴らし広場の展望台で友人のOさんと二人で、3日は信濃川の河原の桟敷で千楽の会の仲間と見物した。打ち上げの数量も花火の豪華さも俺がガキの頃とは桁違いだが、昔の「それでは打ち上げ開始でございま~す」のアナウンスの後で、「ポ~ン」と一発上がっては、次に打ち上がるまでの長い暗闇の中で、川風に吹かれながらまどろんでいた、のんびりと穏やかな時間が懐かしく思える。


2018年8月4日(土)猛暑日
おやじ山の夏2018 フォト・トピック(日本海、夏)
 余りの暑さで、山仕事を頑張って倒れでもしたらと、カミさんに電話で「水泳パンツ送れ」と頼んだ。もちろんクロネコヤマトの宅配便でもこんな山奥までは届けてくれないので、長岡郵便局留めである。それで仕事は朝の涼しい時間に終えて、日が高くなったら日本海で泳ぐことにした。自慢じゃないが、高校時代は県内初のダイビング(高飛び込み)選手で、春休みには日体大の強化合宿に混ぜてもらって代々木のオリンピックプールでしごかれもした。
 目指すは出雲崎の井鼻海水浴場である。隣の石地海水浴場の賑わいをよそに、美しい海岸には人気も殆ど無く、心ゆくまで日本海を満喫できた。そして延べ7日通って8月4日の今日を最後に、俺の夏が終わった。

 (弥彦山の上にポッカリ雲が・・・)


(そして佐渡島の上にも・・・)



2018年8月11日(土)雨、曇り
おやじ山の夏2018 フォト・トピック(フィナーレ 原風景)
 この日、山を下りた。そして実家に寄り兄の遺影に線香を立て、託念寺に足を運んでお袋とおやじが眠る墓に参った。それからいつものように寺の裏門から外に出て、青田の向うに長く伸びる信濃川の堤防を眺めた。幼いガキの頃の思い出が、彷彿と湧き上がってくるのだった。俺の脳裏に焼き付いている原風景である。
2018年8月27日(月)晴れ、真夏日
我が読書の夏
 俺にとって夏の季節は、じっと胸に手を当てるようにして(「反省」・・・本当はこれをしなくてはならないのだが)静かに本を手に取って「考える」時間である。
 「さて今年の夏はどうだった?」と、そろそろ8月も終わりに近づいたので振り返ってみた。

 1冊目は、川端康成の「雪国」を読んだ。
 6月の山入り出発間際に、本棚で埃を被っていた文庫本を何気なく手に取って鞄に入れたのがこの小説で、当初は雨のおやじ小屋で、夏の盛りの真昼時には、小屋前の百年杉の根元に折り畳み椅子を出して読んだ。何度か映画化もされ、ノーベル文学賞も取り、書き出しの「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は余りにも有名なフレーズで、最もポピュラーな小説と言える。
 ところが、じっくり読んでみると、なかなか難しい小説だと分かった。今でこそあれこれと想像を逞しくして推測できるのだが、多分遥か昔の学生時代に読んだ時には到底理解できなかった微妙な表現や、肝心な場面があえて端折った(と思われる)文章で書かれていて、なかなか解釈が手強いのである。
 「雪国」だから納涼にはもってこいの本だと思ったら大間違いで、行間の文字から駒子と島村の熱いシーンを悪い頭で読み解きながら、脳ミソも身体もカッカと加熱してしまった。

 2冊目は更科功著「絶滅の人類史」(NHK出版新書)である。一言で言うと、「実に面白かった」。   著者は考古学者(専門は分子古生物学)で、人類が約700万年前にチンパンジー類と別れて誕生してから様々な人類種が絶滅と出現を繰り返し、最後に私たちホモ・サピエンス(ヒト)ただ1種だけが「偶然」生き残った壮大な人類史を、実に平易に紹介している。(人類史上では複数の人類種が併存して生きていて、私たちヒトも5万年前に絶滅したホモ・フロレシエンシスや4万年前に絶滅したネアンデルタール人と地球上で同時に生きていた)
 そして著者は最後に、では何故私たちホモ・サピエンス(ヒト)は生き残り、ネアンデルタール人は絶滅したのか?それは私たちは頭がよかった、からではなく(事実ネアンデルタール人の方が現在のヒトより脳が大きかった。ネアン:1550CC対現在のヒト:1350CC)単なる偶然の環境のせいだと詳しく説き起こしている。

 3冊目は鈴木達治郎著「核兵器と原発」(講談社現代新書)を読んだ。
 著者は2010年1月から2014年3月まで内閣府の原子力委員会委員長代理を務め、今は核兵器と戦争の根絶を目指す科学者集団「バグウォッシュ会議」評議員である。
 著者はこの本を著した理由を「はじめに」で次のように書いている。
 (要旨)『2011年3月1日の東日本大震災で福島第一原子力発電所が事故を起こし・・・その後の私の人生と価値観を大きく変えることになった。当時原子力政策をリードしてきた原子力委員会の一員であった私は、「国民的な議論を通じて、原子力政策をゼロから見直す」作業に全力を尽くした。しかし6年以上が経った今、それらは全くと言っていいほど行われておらず、福島事故の教訓を生かした原子力・エネルギー政策の「根本的な改革」が全く見えてこない。むしろ3・11以前の原子力政策に後戻りしているのではないか、という危機感がある。核軍縮・不拡散問題と日本の原子力政策は「原子力の技術が核兵器に転用できる」と言う意味で密接につながっており、日本の政策(*「もんじゅ」が失敗したにもかかわらずプルサーマルによる核燃料サイクルは継続するという方針)が核廃絶という人類究極の目標実現を阻害している。2017年7月7日、被爆者の長年の思いがようやく形となった核兵器禁止条約が国連で採択された。しかし日本政府は唯一の戦争被爆国としての矜持を捨てて、この条約には参加しないと明言している。「核抑止」と「核の傘」依存の政策に拘泥している限り、その効力を少しでも弱めるような政策には反対だからである。これでは「核保有国と非核保有国の橋渡し」などできるはずはなく、「核抑止」依存政策や核兵器の材料であるプルトニウムを再利用する、核燃料サイクル政策も見直す必要がある』

 この夏も、8月6日の広島原爆の日、8月9日の長崎原爆の日の両平和祈念式典で、広島市長と長崎市長は平和宣言の中で、国連で採択された核兵器禁止条約の早期批准を日本政府に求めた。これに対し、式典で挨拶した日本の首相は、一言もこの条約への言及がなかった。これは卑怯を通り越して、広島市民と長崎市民、さらには日本国民全体をバカにしているとしか言いようがないではないか!