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おやじ山の夏2016
2016年7月29日(金)晴れ
おやじ山の夏2016(プロローグ-山入りの日)
 午前7時50分に藤沢の自宅を車で出発し、おやじ山に向かう。

 毎年この時期には、森林インストラクターの行事で、神奈川県内の子ども達の野外キャンプの指導員に駆り出されていたが、今年の夏はこれをパスしておやじ山で過ごすことにした。
 ちょうどこの時期、おやじ山のヤマユリが盛期を迎え、ミョウガ畑ではカミさんや友人達に送って大好評な上質なミョウガが山ほど収穫できるのである。ここ数年はこれらの恩恵に浴する暇もなく、みすみすおやじ山の宝を見過ごしてきたことになる。

 今回の長岡までのドライブルートは、ちょっと寄り道をした。関越道の藤岡JCTから上信越道に入り、北陸道まで一気に突き抜けて、日本海を臨む柿崎ICで下りた。長岡に住んでいた少年時代には、夏休みになるとこの辺りで海水浴を楽しんだ懐かしい場所だった。
 
 国道8号線を走って、やはり昔何度か来たことがある笠島海水浴場に立ち寄った。臨海学校の子ども達が賑やかに歓声を上げている海を少し離れた漁港に立って眺めながら、ふっと少年時代の記憶が蘇ったりした。

 8号線沿いにある鮮魚センターにも寄って、今晩のおかずを物色したが、器に山盛りのサザエが○百円の安さで目が眩んで買ってしまった。

 長岡でいつもいつも大変お世話になっているSさん宅に寄ってご挨拶し、午後4時半、おやじ山に着いた。残念ながら期待したヤマユリの花は殆どが既に盛期を過ぎて萎れてしまっていた。暖冬小雪だった今年は、やはり季節が随分早く進んだようである。

 おやじ小屋に背負ってきた大型リュックを置いて、早速七輪を外に出して炭を熾した。今日の晩飯はサザエの壺焼きである。電気は無く冷蔵庫も無い小屋では、真夏のナマモノはその日のうちに全て始末するのがおやじ小屋の鉄則である。七輪の網の上でジュージュー、ブクブク焼いてはほじくり食い、またサザエを載せてはほじくり食い、いかに貝好きの俺でも、一晩でこんなにサザエを食った経験は、生まれて初めてである。

 暗くなって、ホタルが飛んだ。2頭のホタルが光の音符となって俺を出迎えてくれたのだった。
                                 (つづく)
2016年8月1日(月)曇り、雨
おやじ山の夏2016(長岡まつり)
 今日から3日間、長岡まつりである。昭和20年8月1日、午前10時30分、米軍爆撃機B29が長岡市街地の上空に襲来し、1時間40分に渡る爆撃によって市街地の8割が焼け野原と化し、1486名もの市民の命が失われた。そして翌21年8月1日、市民の心を慰め、町の復興に励もうと「長岡復興祭」が行われたが、これが長岡まつりの前身である。

 毎年8月1日には市内を流れる柿川で灯篭流しが行われる。小学4年で転校してこの川のすぐ近くの旭町の鉄道官舎に住んだが、長岡まつりになると、決まっておやじに連れられてこの川で灯篭を流した。当時は空襲の犠牲者を鎮魂する行事などとはつゆ知らず、灯篭には何やら自分の志を手作りの灯篭に書いて、「きれいだなあ~」と揺らめきながら流れ行く灯篭を見送っていた記憶しかない。

 朝6時半からのラジオ体操が終わって小屋に戻りかけると、麓の村のNさんが「おっはよ~!」とやって来た。随分早い来訪だが、朝飯は5時には食べるというNさんにとってはもうこの時間はエンジン全開モードに入っているのだろう。
 Nさんには昨日山道で偶然出会った。Nさんが樹木の根元にしゃがんで写真を撮ったりメモしたりしていたので、「何してんの?」と訊くと、「着生植物のシダを調べてる」とのことだった。そこには微細なノキシノブが木の根元にくっ付いていたが、さすが俺が敬愛する巷の大博物学者で、一般の植物からシダ類に入って(Nさんが発見した新種もある)、今や着生植物という微分域の調査に踏み入っている。
 Nさんは背負って来たリュックを下ろして、新聞紙に包んだ自宅の朝採りキュウリと新しい抹茶缶を差し入れてくれた。それからNさん手作りの抹茶茶碗2つと持参の野点セットを取り出して抹茶をたててくれた。外のデッキテーブルの前に2人並んで抹茶を啜りながら、あれこれとよもやま話に耽ったが、いい朝のひと時だった。

 今日は、何年も前から構想だけに頭を巡らせていた「おやじ山ゲストハウス」の建築場所の整地を始めた。おやじ小屋の東側2段上の大きな杉に囲まれた小広場である。先ずは何年も降り積もった枯れ杉の枝葉を集めて焚火で焼却する。山火事にならないように、バケツとジョウロで水を汲み置き、枯葉は少しづつ焼却した。

 夜は激しい雨になった。明日からの長岡まつりの大花火が無事打ち上がるか心配である。
2016年8月2日(火)晴れ
おやじ山の夏2016(おやじ山からの長岡花火)
 昨晩の激しい雨が、今朝上がった。どうやら今日から2日間続く長岡まつりのメインイベント「世界一の大花火」(実物を見れば納得すると思うが、本当に長岡花火は凄い!)は、無事打ち上がりそうである。

 今日は小屋の中の片付けや清掃、囲炉裏にもしっかり薪を燃やして小屋の隅々まで煙で燻した。そしたら小屋に棲んでいたヒメネズミ君が煙たがってどこからか飛び出し、ウロチョロウロチョロ駆け回った挙句、外に出てしまった。
 午後からは街に下りてホームセンターで刈払機やチェーンソー用の混合ガソリン、卓上コンロのガスボンベ、小屋の外壁を手入する防腐塗料、そして酒屋にも寄って一升瓶を仕入れた。

 そしていよいよ夕方になって、一升瓶を抱えて長岡の街が一望できる見晴らし広場に向かった。ここは花火見物の隠れた特等席で、下の駐車場からも歩いて20分ほどかかり、帰りは真っ暗になる山道なので俺の他は誰も来る筈はない。と、思って着いてみると、何と!若いカップルが二人仲よく並んで座っているではないか。ムッとしながら「こんばんわ」と声を掛けると、振り向いた二人は本当に若い清々しい顔立ちの少年と少女で、こちらは一気に和んでしまった。

 俺も展望台に上って二人の脇に座り、話を聞くと地元の大学の二年生同士で、女性は福島の郡山、男性は九州福岡の出身だという。「いいなあ、こういう二人」と何回も胸の中で羨ましがりつつ、「俺、あんた達の邪魔しないからね」と冗談混じりにわざわざことわったりした。

 しかし花火の打ち上げが始まって、俺の酒のピッチも上がり、何やら興奮してくるにつれて、先ほどの断りもすっかり忘れて、うるさいおじさんの花火解説が何度も飛び出した。(お二人さん、ゴメンね)

 三尺玉が打ち上がって、二人が展望台を下りて帰って行った。二人は小さなペンライトのようなものしか持っていなかったので、俺のヘッドランプを貸してやった。「返すのは、来年の今日、この場所でいいからね」と二人に言うと、女の子が「はい、ありがとうございます」と小さく鈴のような声で答えてくれた。
 
 展望台の上に一人残って、酒を呑みながら遠い花火を見続けていた。このままここで、寝てしまってもいいと思った。     
遠花火胸に咲かせて孤独感   (田中和女)
 
2016年8月3日(水)晴れ
おやじ山の夏2016(もみじ園からの花火)
 朝、谷川に下りて、渓流の水を引いている受水槽の泥出しをする。雨の後は、この点検だけは必須の作業である。Sさんが作ってくれた水道施設だが、この簡易装置があるだけで長期の小屋暮らしもできるようになった。
 それからカミさんから頼まれていた山のミョウガ採りである。例年ならパンパンに身が張った自慢のミョウガが山ほど採れる筈だが、今年は高温日照り続きで全くの不作である。ミョウガ畑の中を這い蹲い、呆れるほどの子どもミョウガも掻き集めて、何とか宅配便で送る程度の量を確保した。

 そして今日は、千楽の会(朝日日本酒塾のOB会)で、越路の「もみじ園」の庭から長岡花火を観賞する会に参加した。それで他の参加者に失礼がないようにと囲炉裏で燻された体を事前に洗い流すために「お山の家」(老人福祉センター)の風呂に行った。すっかり燻製になった身体を生身に戻して(のつもり)サッパリした気分で休憩室で休んでいると、突然目の前に男性が現れて「センター長のHです。遠く湘南からお越し下さり、誠にありがとうございます」と丁寧に挨拶された。外に停めてある俺の湘南ナンバーの車を認めてわざわざ挨拶に来られたようだ。たった200円の入浴料しか払ってないのに恐縮してしまった。

 実家に車を置いて、近くのローカル駅から信越線に乗って来迎寺駅で下りた。駅を出ると富山のⅠさん夫婦と東京から来たKさんが待っていてくれた。そして会場のもみじ園の山荘に入ると、MさんやK杜氏、H塾長、Wさんらが居られて、間もなく豪華な弁当や差入れの地元の夏野菜料理がテーブルに並んで、山荘での優雅な宴会となった。

 キリリと冷えた何種かの利き酒ですっかり上気分になって庭に出ると、既に村の人達もそれぞれシートを敷いて集まって来ていた。生憎の風向きで、開いた花火が煙で邪魔される花火見物だったが、美味しい銘酒を口に含みながら「ド~ン!ド~ン!」と時間差を置いて響き渡ってくる花火の音に酔いしれた。

 宿は来迎寺駅前にある西九旅館をⅠさんが手配してくれていた。宿に入っても、花火の余韻と呑み直しの銘酒で、いつまでも心地よい酔いが覚めることはなかった。
2016年8月4日(木)晴れ
おやじ山の夏2016(再び、故郷は緑なりき)
 朝、西九旅館でⅠさん夫婦とKさんを見送り、しばらく旅館の部屋で一人のんびりとしてから、自分も旅館を出た。「上りの電車ですか?」と女将さんが訊くので、「いや、実家がある隣の駅まで歩いて帰ります」と答える。「あら~!この炎天下に歩いて前川まで・・・!」と驚かれた。事実、田舎の一駅間は半端な距離ではなく、信濃川に架かる長い越路橋も渡らなくてはならない。
 しかし、真夏の今だからこそ、ガキの頃に信濃川で遊び、長い堤防を駆けながら補虫網を振り回し、風にそよぐ青田の稲の香りを懐かしんでみたかった。

 油照りの太陽がぎらつく猛暑日だったが、越路橋を渡りながら何度も下を覗き込んで信濃川の流れを追った。上流の信州あたりで大雨が降った模様で、茶色い濁流が渦巻くように流れていて、村のガキ大将に命じられて鉄橋から飛び込んだ遥か昔を追憶して、「死ななくて、良かった」と今更ながら安堵した。

 越路橋を渡り切って堤防道を青島の村に向かった。直ぐに信越線の鉄橋があり、この信越線の通学列車で長岡の高等学校に通う若い男女の恋愛映画、「故郷は緑なりき」(村山新治監督)が昭和36年に上映された。当時俺は長岡に住んでいて徒歩で通学していたが、お袋に内緒でこっそりこの映画を観て、主人公志野雪子演じる佐久間良子の、その可憐な美貌にカーッとのぼせ上がり、「ボクは何で列車通学できなかったのか」と(当たり前だ。歩いてものの15分で学校に着いた)激しく悔やんだ。

 それから炎天下の堤防道を汗を拭きながら歩いたが、堤防には昔通りにツルフジバカマが生い茂り、やはり昔通りにジャコウアゲハが吸蜜していた。


 堤防の坂を下りて、空に浮かぶ真っ白な入道雲を眩しく眺めながら青田の道を歩いた。風がそよぎ稲の匂いが鼻をついた。やはり一気にガキの頃のあれこれが頭を巡って、懐かしさで胸が一杯になった。

青田道少年の日へ真直ぐと  (松本 精)




 実家に着いて車を引き出し、おやじ小屋に戻った。そして残した山径の草刈り、それからドラム缶風呂に谷川の水を張って、びっしょり汗をかいて火照った今日一日の身体を冷やした。
 夕方、外のデッキに一升瓶を立てて、酒を呑む。実に、良し。
2016年8月6日(土)晴れ、33℃の真夏日
おやじ山の夏2016(石仏安置)
 今日は広島原爆の日、そして兄嫁の実家(旧高田市)の裏山にあった古い石仏をおやじ山に搬入する日でもあった。兄嫁の実家では跡継ぎがなくなり、実家に隣接する菩提寺にあったお墓は永代供養するために無縁墓地に移されたが、裏山に100年以上前からあったというお地蔵さんと石碑は、お経を上げて壊してしまい裏山に埋めてしまうという事だった。たまたま実家に寄った時、姪っ子のボンちゃんからこの話を聞いて、兄嫁や兄嫁の実家の村の人達の意向も踏まえて、おやじ山に引き取って安置することにした。 そして今日の搬入予定は新潟の次兄や兄嫁にも伝えていて、立ち合いもお願いしていた。

 日中は猛烈な暑さになる予報で、遠く高田から石仏を運んでくる石材店の社長さんには涼をとりながら作業してもらおうと、朝早く鋸山の麓にある冷たい湧き水を汲んできた。さらに新潟から兄も来るのでスーパーに走って氷やノンアルコールビールも準備した。

 約束の10時半前には石材店のOさんが予想外の大きなクレーン車で待ち合わせ場所のスキーロッジに着いて、早速見晴らし広場まで車で先導した。それからまだ来ていない兄達を迎えにスキーロッジに再び戻り、ボンちゃんを含めて3人を見晴らし広場まで連れて来た。
 ここからおやじ山までは小型のキャタピラ車での運搬である。さすがタフな専用車で、エンジン音を響かせて難無く山径を運び、11時半には予め整地しておいたおやじ山の一画に無事安置することができた。

 「お母さん叔父さんの山にお地蔵さんが安置できて良かったね」とボンちゃんが言い、次兄は石仏の写真や我々を入れた記念写真を何枚も撮ってくれて嬉しそうだったので、本当にホッとした。

 石材店の社長さんが帰り、兄嫁が持ってきたおにぎりの昼食を皆で食べてから、次兄達も帰って行った。ホッとしたせいか何やら疲れがどっと出てしまった。
2016年8月7日(日)晴れ
おやじ山の夏2016(温泉で骨休め)
 今日は立秋。だというのに、今日もまたギラギラの夏空である。夏大好き人間の自分だが、雨も降らず、こんなに真夏日が続く年は珍しい。さすがに自分の体力がかなり消耗した感じで、今日は山を下って川口温泉で少し贅沢してゆっくり休んでくることにした。

 朝の焚火を済ませ(乾燥した日が続き、殆ど風も無いので、散らばっている枯れ枝葉の始末や古材を片付けるための焚火が毎日の日課になった)おやじ小屋を出た。山を下って作業道の出口まで来ると中越高校の陸上競技部の生徒達が朝錬をやっていた。「おはよう!頑張ってるね」と声を掛けると、皆口々に「おはようございます」とはっきりした返事である。教師や先輩達にしっかり指導されていると感心する。

 越後川口道の駅「あぐりの里」に寄って、近隣の農家から持ち込まれた野菜類をぶらぶら見て回る。旬の夏野菜が驚くほどの安さで、自分用とカミさんへの宅配便用に少し奮発してまとめ買いする。

 日曜日といえ、午前中の川口温泉は客もまばらで、ゆっくりと温泉に入れた。広い露天風呂で肩まで浸かっては湯船を出て縁石に上がり、素っ裸の仁王立ちで眼下に見える魚野川でアユ釣りする釣り人の姿を目で追ったり、山本山の上に沸き立つ真っ白な雲の峰を眩しく眺めたりした。この風景を見る限り、まだ夏真っ盛り。俺の大好きな夏の風景である。

 昼は館内のレストランで奮発して津南ポークの生姜焼き定食(1,000円)を食った。そして生ビールも・・・。それから2階の休憩室でごろり横になって昼寝。起きて更に温泉に再び入ってから帰途についた。

 おやじ小屋での夕飯は、「あぐりの里」で買ったナス、ピーマン、ゴウヤ、それに豚肉を混ぜた味噌油炒めを作った。やはりおやじ山のミョウガを刻んで白飯に載せ、醤油をぶっかけただけの食事では体力も消耗する。少し時間を掛けた料理で食事時には日も暮れてしまったが、カナカナの鳴声が静かに響き渡って、「やはり今日は立秋か」と感じた夕間暮れだった。
2016年8月8日(月)晴れ、猛暑日
おやじ山の夏2016(展望台からの夏雲)
 嬉しい。昨日の骨休めで体調が元に戻った。温泉と津南ポーク、それに味噌油炒め料理のお蔭である。しかし今日からは余り頑張り過ぎず、多少セーブしながら山仕事をすることにした。

 午前中は腐った古材と拾い集めた杉の枯葉を一緒に焚火で焼却処分しながら、鎌、鉈、ナガサ、皮むき斧、手斧と山仕事の刃物をズラリ取り出して砥石で砥いだ。
 そして昼食後は昼寝。夕方にはドラム缶風呂でサッパリしてから見晴らし広場に停めた車に行き、中の衣類バッグを開けて新しい下着に着替えてリフレッシュした。後は小屋に戻って「のどごし一番」と朝日山のコップ酒をキュッと引っ掛ければ、まさに完璧である。(リフレッシュが・・・?完璧?)

 しかし、今日も猛暑の一日だった。8月1日夜に降った雨以来、7日連続の油照りの日が続いている。今日の見晴らし広場の展望台からは、モクモクと立ち昇る夏雲の下で、長岡の街がジリジリと焼かれているような感じだった。

2016年8月9日(火)曇り
おやじ山の夏2016(長崎原爆の日)
 朝8時、日赤町のSさん家に行き、溜まった塵の処理をお願いする。これが本当に有難い。おやじ山暮らしを長く続けられるのは、こうしたご親切が無ければ到底できないことなのである。
 Sさん宅で朝のコーヒーをご馳走になりながら、テレビ中継の愛ちゃんの卓球の試合を観た。リオオリンピックをテレビで観戦したのは今日が初めてである。

 奥様からおにぎりや梅干しや栄養ドリンクなどの差し入れ品を頂戴してSさん宅を辞し、おやじ山に戻る。そして見晴らし広場に車を停めて、ナビのテレビに映し出された長崎平和祈念式典の中継を視聴した。11時3分、長崎の鐘が鳴り響いて自分も車から出て黙祷し、再び車のナビで中継を観た。田上長崎市長の平和宣言、続いて被爆者代表井原東洋一(いはらとよかず)氏の「平和への誓い」。井原氏は先に成立した『憲法違反の安保法の廃止』と『ヒロシマ、フクシマ、オキナワと強く連帯』すると、力強く、堂々と、スピーチした。

 明日は地元の人達と猿倉岳「天空のブナ林」の樹木に樹種名を書いた銘板を取り付ける作業があり、その下調べで午後から現地に入った。そして銘板を付ける候補の木にピンクテープを巻き付け、午後4時半過ぎにおやじ小屋に戻った。おやじ小屋近くの山径で「ピュ~!ピュ~!」と鋭く笛を吹くような鳴き声が聞こえてきたが、初めて耳にする声である。タカの種類だろうか?はてまた他の獣属の鳴声だろうか?
 
2016年8月10日(水)晴れ
おやじ山の夏2016(夏から秋へ)
 4時50分起床。小屋の外に出ると、肌に触れる空気が今までの感触と違う。夏の熱気が後退して、秋の清涼な気配が忍び入って来たように感じる。顔を上げて百年杉の梢の上空を見上げると、この夏初めてのウロコ雲がたなびいていた。

 8時少し前に猿倉緑の森の会の中村代表と約束した天空のブナ林の南入口に着いた。ここにサルナシの蔓があって、今年はたわわの実りである。1個もぎ取って齧ってみると、爽やかな酸味のまさにキウイフルーツの香である。程なく中村さん等がやって来て、早速天空のブナ林に入る。そして昨日ピンクテープを巻いた遊歩道沿いの樹木を1本1本確認しながら樹銘板を結び付けていった。


 猿倉岳からは、地平線沿いに湧き上がる猛々しい夏雲と、空高く浮かぶ鰯雲の両方が見え、今日が夏から秋の季節への分岐点であるように思えた。

 10時前には樹銘板の取り付けが終わり中村さん等と別れてから、ここ蓬平町の隣、新潟県中越地震で全村避難した山古志まで足を延した。11時に「おやじ山ゲストハウス」造りの応援を申し出てくれた長岡のNさんと会うことになっており、それまでの時間潰しである。山古志の村に入り復旧した美しい棚田の風景や山古志小学校の校庭に建てられた「ありがとう」の石碑を写真に撮ったりした。

 Nさんと太田地区コミュニティセンターの前で落合いおやじ山まで案内して、早速ゲストハウスの設計図を見せ、小屋裏の建築場所を見て貰った。そして柱材に利用予定のピンクテープを巻いた2本の立杉を説明すると、「じゃあ、今からすぐ伐倒しましょう」とNさんの電光石火の判断である。バタバタとチェンソーや誘引ロープを倉庫から持ち出して、お蔭で難無く樹齢70~80年もある杉の高木を倒してしまった。

 Nさんを見送り、いつものように小屋前のデッキで、中村さんから頂戴した絶品の枝豆をプチプチと口に入れ乍ら酒を飲んだ。日暮れるにつれて、おやじ山に忍び寄る秋の冷気が肌を刺して、往く夏が何やら惜しまれる気分だった。
2016年8月13日(土)晴れ
おやじ山の夏2016(盆の入)
 朝、カナカナの鳴声が共鳴し合いながら潮騒のようにおやじ山に響き渡っていた。
 8時に下山し、越後川口道の駅に向かう。おやじとお袋の墓に供える盆花を買うためである。到着してみると県外車で駐車場は溢れ、売り場は盆休みの帰省客でごった返している。幸い花売り場は外に張った特設テントで、スムースに買うことができた。

 そして昨日から始めた伐倒した杉丸太の皮むきで汗にまみれた身体を、墓参前に身綺麗にしておこうと、開館早々の川口温泉の一番風呂に入る。それから小千谷のコメリ(ホームセンター)で線香と蝋燭も買って実家の村の托念寺に向かった。

(伐倒した杉で建てるおやじ山ゲストハウス柱材の皮むき)
 今日は盆の入で、本堂の扉は広々と開けられて、堂前には高い幟が掲げられていた。お墓に買ってきた花を供え、蝋燭に火を灯して線香を焚いた。そして長い間手を合わせて、例によって実に沢山の願い事を亡き両親にした。「また、また・・・」ときっと墓の中でおやじもお袋も苦笑していたに違いない。墓参りを済ませ、寺の裏門を出て、穂の出始めた青田の奥に伸びる信濃川の堤防を望んだ。子どもの頃に、村のガキ大将の後についてこの堤防を歩いた遠い遠い昔の幻影が、瞼に浮かんで来るようだった。

 今日の墓参りを済ませて、実に安心した。この夏の大きな役目を終えた気がした。
2016年8月14日(日)晴れ
おやじ山の夏2016(最後の山仕事)
 朝目覚めるとすぐに、枕元に置いた携帯ラジオのスイッチを入れるが、今朝は珍しくオリンピックの実況中継がない。毎朝寝起き早々、早口で捲し立てる煩いアナウンサーの声に辟易していたが、今朝は落ち着いて朝の放送が聴けた。

 明日のお盆と終戦の日はゆっくりと山で過ごすつもりで、今日が山仕事の最終日である。
  ゲストハウスの建築現場で、伐倒した2本の杉丸太の皮を全て剥き終わり、杭で組んだ「馬」に運び上げた。それから剥いた杉皮は現場で全部焼却し、綺麗になった敷地にゲストハウスの外郭スペースを杭打ちした。設計図通りに打ち終えて眺めてみると、テラスの部分がいまいち狭い感じがして、幅160cmに広げて杭を打ち直した。杭打ちしたスペースを何度も眺めて、まだ外側を杭で囲っただけだのに嬉しくて仕方がない。ここに囲炉裏を切って、お世話になった人や友人達を呼んで・・・と想像するだけでワクワクと胸が高鳴った。

 ドラム缶風呂で汗を流し、昼食を摂った後に小屋で横になってウトウトしていると、麓の村のNさんがやって来た。「そろそろ帰られる頃だと思って、最後に顔見に来たて」と、自宅で採った野菜を手渡しながら言った。それから1990年1月発行の「新潟県植物保護 第7号」(新潟県植物保護協会発行)という貴重な冊子も頂戴した。
 例によってNさんは背負ってきたリュックから自作の抹茶茶碗と野点の道具を取り出し、外のデッキで美味しい抹茶をたててくれた。そして太陽が西に傾き、黄金の輝きが朱色に染まった午後4時過ぎ、、Nさんは「それじゃあ、元気でね」と言葉を残して帰って行った。
2016年8月15日(月)曇り、夜15日ぶりの雨
おやじ山の夏2016(撤収準備)
 朝起きると真黒い雲が空を覆って、今にも降り出しそうな空模様である。雨の降る前にと、家に持ち帰る倉庫のガラクタやクーラーボックスを見晴らし台に停めた車に運ぶ。そして午前6時半、デッキに置いたラジオの音を高くして、いつものラジオ体操を元気にやる。それからお世話になったSさんに、明日山を下りて帰宅する旨の連絡を入れた。

 ラジオから流れる正午の時報で黙祷。戦後71年、俺が産まれて生きた人生と同じ年月が過ぎたが、この先も「戦後」が永遠に続くことを祈った。

 午後は山を下りて「お山の家」で風呂に入り、帰りにスーパーに寄り夕飯の巻き寿司を買っておやじ小屋に戻った。
 夕方からポツポツと雨が降り出し、暗くなってから「ザ~!!」と音を轟かせて猛烈な雨足になった。8月1日の夜以来の久々の雨音に、却って爽快な気分である。

 お盆と終戦の日をおやじ山で過ごしたのは、多分今回が初めてである。一人でゆったりと、熱暑で乾ききったおやじ山に降り頻る雨音を聴きながら、おやじ小屋の中で静かに酒を飲み続けた。
2016年8月16日(火)晴れ
おやじ山の夏2016(ああ!湯檜曽川)
 4時起床。まだ薄暗い外に出ると、星が瞬いていた。下山の日である。お湯を沸かしこの小屋で飲む最後のお茶を啜りながら、朝一の日課の日記をつける。池に落ちる谷川の引水の音だけが小屋に届いていた。

 ドアに鍵を掛け、それから「ありがとう、ございましたあ~!」と大声でおやじ小屋に向かって挨拶して、山を下った。
 Sさん宅にお別れのご挨拶に伺うと、アツアツのユーゴ(夕顔)のクジラ汁やら村上の塩鮭など、食べ切れない程のご馳走が並んだ朝の食卓が待っていた。そして腹一杯に食べた朝食の他にどっさりとお土産を頂戴して、ご夫婦に見送られてSさん家を発った。

 帰りは関越道には入らず、国道17号線をのんびり帰ることにした。車を走らせながら魚野川に立つ釣り人を眺め、国道をそれて車を停め、夏の越後三山を写真に収めたりした。
 越後湯沢を抜け芝原峠の坂道に差し掛かって、突然湯檜曽に立ち寄ることを思いついた。当初予定していた途中の「峠の湯」もパスし、三国トンネルを走り抜け、猿ヶ京温泉も素通りして、赤谷湖から左に折れて270号線に入った。そして水上温泉を通り過ぎて湯檜曽駅の前で車を停めた。

 昭和24年の夏、この駅の長い階段を、臨時雇員の貧しい鉄道員の夫婦に手を引かれて3人の男の子が下りた。小児麻痺の足を引きずった小学6年の兄と小3の次兄、そして父の故郷青島村から宮内町に越して地元の保育園に通い始めた4歳のガキ(自分)の3人兄弟である。
 鉄道員の一家族だったが、それまで汽車に乗って旅行したことなど一度もなかった。極貧生活の中で日々の暮らしに精一杯で、とても家族で汽車旅行などできる余裕はなかったのだろう。ずっと後になって聞かされたおやじの回想では、当初の計画は、国鉄の家族パスでタダで行ける新潟鉄道管理局管内の一番遠い駅「水上」で下車する積りだったという。子ども達にも「汽車に乗って温泉に行く」と告げて手を叩いて喜ばれたのだという。ところが乗車途中でお袋と相談し「水上は立派な旅館しかなく、買ってやれない子ども達には目に毒な土産物屋も建ち並んでいて、まずい」と判断して、急遽手前の湯檜曽で汽車を下りたのだと言った。

 それから家族は湯檜曽の温泉街を通り過ぎ、旅館に入れると思った兄達を両親がなだめながら湯檜曽川の河原に下りた。そこで持参のおにぎりを頬張り、家族全員が素っ裸(お袋も!)になって湯檜曽川の浅瀬で水浴びを楽しんだ。子ども達も家族揃っての水浴びを「温泉だあ!温泉だあ!」と盛んにはしゃいだという。そしてまた兄弟3人は、両親に手を引かれて湯檜曽の駅に戻り、この一家で最初で最後になった家族旅行を終えたのである。

 行き帰りの車中の記憶は残っていないが、この湯檜曽川で遊んだ記憶は、今でもハッキリと脳裏に焼き付いている。お袋が裸で浅瀬で佇んでいる67年前の情景も、俺はまざまざと思い出すことができる。

 再び湯檜曽駅から車を走らせ、湯檜曽川に架かる橋を渡ると旅館街に入る。ここを右に折れて河原に下りられそうな場所を探した。ブルで更地にしたような広場に軽自動車が停めてあり、河原を覗くと人影がある。自分もここに車を置いて河原に下りて行った。

 この河原からは、湯檜曽駅から間もなく渡った橋が近くに見え、その奥に上越線の鉄橋が見えた。多分この場所なら、駅からは11歳の小児麻痺の子どもでも連れて来られる距離である。そして川の下流を振り向きじっと風景を確認し、再び上流を見て、橋や鉄橋や、その奥の山の風景に目を凝らした。次第に胸が高鳴って来るのが分かった。紛れもなく67年前、貧しい鉄道員の家族が、この河原で夏の一日を過ごしたのだと確信した。

 河原には、若い夫婦と2、3歳の小さい子どもが遊んでいた。「どこから来たの?」と声を掛けると、「地元です」との返事。「いいねえ、ここでお子さんを水浴びさせて」と言うと、「ええ」と若い夫婦はニコニコと答えた。「おじさん、60年以上も前に、多分、ここに来たことがあるんだ」と、やっぱりこの人たちに知らせたくなって言葉が出た。「え!それで、前と変わってますか?」と驚かれたが、「分からない。当時はまだこの子より少し大きかったぐらいだからね」とだけ答えた。

 今朝Sさんから頂いたおにぎりとおかずの入った弁当を車に取りに行って、河原に戻った。そして河原で遊ぶ若い夫婦と子どもの3人家族を少し離れた水辺で眺めながら、おにぎりを頬張った。ポタポタと涙がこぼれて、少し塩味がついたおにぎりになった。

 午後9時過ぎ、藤沢の自宅に着く。

(おやじ山の夏2016   終わり)