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2016年3月11日(金)雨
大震災から5年-記憶の風化を止めるものは
 「2月は逃げる」と言われているが、まさに今年の2月は、この諺とおりの時間の過ぎようだった。あれよあれよと思う間に、今日、東日本大震災から5年目の3・11の日を迎えた。朝起きて早速新聞を開くと、今なお17万4千人もの避難者がいるという。口では「忘れない」と言うものの、やはり年月が経つ毎に記憶の風化を止めることはできない。

 思い起こせば、2013年6月から7月にかけて、宮城県南三陸町と福島県南相馬市小高地区で復興支援のボランティア活動をした。南三陸町では指定された公園に持参したテントを張って15日間滞在した。活動の内容は瓦礫撤去や農業・漁業支援、そして企業や団体でやってくるボランティア達の下準備など様々だったが、滞在中に全国から集まってきたボランティア仲間と心に残る交流があった。
 愛知から来た親子は、駐車場に停めたマイカーで寝泊りしながら活動していたが、ボランティアを引き上げる日に、俺を訪ねて来てこんなことを言った。「家で引きこもっている息子を強引に連れ出して南三陸町に来たが、家では話もしなかった息子が、ここに来てあなたやボランティアの皆さんに声を掛けてもらったり、私とも少し話すようになりました。家に帰ればまた元の木阿弥かも知れませんが、ここに居た間だけでも息子と話ができて本当に良かったと思っています」。
 北海道から来た男性は、テントサイトのお隣さん同士だった。既に3回目のボランティアで「俺は自分のためにやっているんだ」と言っていたので、彼の帰り際に、今回は何か得るものがあったか、と尋ねると、「あんたに会えたからね」と照れながら右手を差し出してくれた。
 被災地を思う心の中の風化を少しでも止めてくれるのは、現地で出会ったこれらボランティア仲間をふと思い出す時である。

 今日の鎮魂の日を自宅で過ごし、明日は自宅を発っておやじ山に向かう。今日、明日のふるさとの天気予報は雪とあるが、一進一退ながら雪融けが進み、確実に春へと向かう
おやじ山の早春が、堪らなく好きである。
おやじ山の早春2016

2016年3月13日(日)晴れ
おやじ山の早春2016(プロローグ-初入山)
 昨3月12日自宅を出発して、信州経由でおやじ山を目指した。長岡に着いて、この日はSさん宅にお呼ばれして豪華な夕餉で歓待され、ふかふかの蒲団で一晩泊めていただいた。

 そして今朝、麓の市営スキー場の駐車場に車を停め、そこから歩いておやじ山まで登った。今日から始まる山籠りのガラクタを大型リュックに詰めて片道1時間半ほどの行程だが、麓からおやじ小屋までの雪道を今日は2往復した。

 今年は全く珍しい暖冬小雪で、マルバマンサクの咲く途中の山道も所々地肌が現れて、履いていたスノーシューも外してしまう程だった。おやじ小屋の周りもせいぜい3~40cmほどの積雪で、何と陽の当たる小屋脇の南斜面に、蕾を付けたカタクリが一株顔を出していた。

 2度の荷揚げを終えて早速山回りをしたが、嬉しかったのは、小屋前のホオノキに掛けた巣箱に、今年もムササビが棲み付いて、丸い穴から顔を覗かせて俺を出迎えてくれたことだった。おやじ池には既にクロサンショウウオの卵嚢があり、今まで2回の産卵があったことをうかがわせた。


   明るいうちは囲炉裏に火を焚き、暗くなってからはストーブを焚いた。2度の荷揚げでクタクタに疲れていたが、全く寝るのが惜しい初日のおやじ小屋の夜だった。
2016年3月14日(月)雨
おやじ山の早春2016(フクロウとヒメネズミと雨の音)
 昨晩から雨になって随分冷えた。昨夜は下の杉林の方からフクロウが頻りに啼き、小屋近くで「コッコッコッコッ・・・」と低く唸るような動物の鳴き声が聞こえた。朝、雨の中、傘を差しておやじ池を覗くと、クロサンショウウオの新しい卵嚢が1対(2個)出来ていた。3度目の産卵である。
 
 午前中はストーブを焚きながら、おやじ小屋の屋根を叩く雨音を聞いて過ごした。
「ポツポツポツポツ・ポツン・ポツン・ポツポツポツポツ・ポツン・ポツン」と同じリズムで繰り返す。小さな雨粒の波動が、狭い小屋の中でじっと座っている俺の身体を撫でてくれるようで、「ああ、いいもんだなあ~」と思わず呟いてしまう。

 午後から小屋の中の片付け。そして、多分、小屋の中のどこかに棲み付いているヒメネズミが、新しい小屋の住人に慣れたのか、ゴミを入れたレジ袋の中に入ってゴソゴソやっていた。それでレジ袋を手に取ってトンと揺すったら、ヒメネズミ君は袋の底に落ちて大慌てのもがき様である。笑ってしまったが、今日からの俺の友人である。
(後日、「コッコッコッコッ・・・」の正体は、フクロウが警戒する時の鳴き声と分かった)
2016年4月15日(金)薄曇り
おやじ山の早春2016(雪国の早春風景)
 昨晩は腰、腹、背中とホカロンをベタベタ貼って寝たので、(フクロウの鳴声を一度聞いたきりで)ぐっすり眠れた。
 今日は11時に下山して「お山の家」の風呂に入り、スーパーに寄って鶏肉と大根、白菜、ネギなどを仕入れた。今晩のメニュー「おやじ山風雑煮」の食材である。

 お山の家の風呂では、殆ど独り占めのチクチクと熱い湯船にゆっくり浸かり、風呂から上がった時には躰の脂がすっかり流れ落ちて肌が生き生きと甦り、まるで皮膚呼吸だけで息ができそうだった。

 それにしても、今日のおやじ山からの行き帰りの風景は実に良かった。雪の山路を下ると、チリチリと金糸卵のようなマルバマンサクの花、そしてオクチョウジザクラの蕾も膨らんで、開花間近である。

 街からの帰りには、「千花」の前に車を停めて、僅かに残った田圃の雪を近景に、スキー場と東山の風景を写真に収めた。子どもの頃の郷愁を誘う、俺が大好きな懐かしいふるさとの早春の風景である。
 
 晩飯の、長岡ブランドのこがねモチを焼いて入れた「おやじ山風雑煮」の旨さは、堪えられなかった!
 
2016年3月16日(水)晴れ
おやじ山の早春2016(雪上散歩)
 5時に目覚めてシュラフに包まったまま上体を起こして、壁に背を凭せ掛けて日記をつける。(こうして毎朝日記を書くのが目覚めた後の習慣となった)
 昨晩、トイレに起きた時は満天の星空で、日記を書き終えて直ぐに、期待通りのシメワタリ(「凍み渡り」が訛った長岡弁で、放射冷却で雪の表面が固く凍って、カンジキを履かずに雪の上を歩くこと)で雪上散歩に出掛けた。

 おやじ小屋からカタクリ広場に出て(カタクリ広場にカモシカの足跡があった。年々おやじ小屋の近くまでカモシカが出没するようになった)、そこから北尾根まで直登し、ホオノキ平直下の丘まで一気に歩いてひと休みする。ここからの見晴らしは抜群で、マンサクの花一杯のこの場所からは、広大な越後平野と、地平線上には弥彦と角田山が望まれる。丘では、珍しい赤い花びらのマンサク(ニシキマンサク)を見つけて、写真を撮る。

 三ノ峠山の尾根に出てから千本ブナまで歩いて再び一息入れた。ここも眺望がきく広場で、正面に雪のついた鋸山が、朝日を背負っていぶし銀の山肌で佇んでいた。
 「そうだ」と思い出して、千本ブナの幹を探ると・・・「あったあ~!」と胸の中で叫んだ。もう何十年も前の罪で、時効にして欲しいのだが、小刀でブナの幹に彫った俺のイニシャルである。まだ少年時代かようやく青い年になった頃の悪さで、当時を懐かしみつつイニシャルの幹を手で摩りながら詫びたのである。

 三ノ峠の頂上を回って遊友小屋に下る尾根に出た。ここからは直下に黄土、その向うには長岡の市街地が望まれる。遥か昔、おやじと一緒に山菜採りをしたメインの場所は、この黄土だった。麓から黄土沢を喘ぎ登って、ここでどっさりと収穫し、重くなったリュックを傍らに下ろして、おやじと二人で眼下に広がる長岡の町並みを眺め、家族が暮らす町内の辺りを探したものである。

 小屋の戻って遅い朝食を摂り、午前中にきのこのホダ木に使うサクラとコナラの木を伐倒した。コナラはこの日のうちに玉伐りして、シイタケ用のホダ木12本を作り終えた。さらに実生から育てた山野草の植え付け場所の杉を倒したりと、今日は山仕事のエンジン全開だった。

2016年3月17日(木)快晴
おやじ山の早春2016(山菜山の夕映え)
 今日は彼岸の入り。朝日も眩く差し込む4月の陽気で、全く気持ち良い快晴の一日だった。
 午前はカタクリの新芽が次から次へと出てくるコゴミ畑のブッシュを刈り払ったり、伐り倒したカスミザクラを玉伐ってナメコ用のホダ木10本を作った。
 午後は小屋周りに落ちた枯れ杉葉や枯れ枝を集めて焚火を焚いて始末し、熾きになった灰でモチを焼いて食った。
 今日は山作業には絶好の陽気で、まさにエンジン全開で働いた。
 
 仕事を終えて小屋に戻ると、向かいの山菜山のはだら雪の表面が昼の気温で融けてさざ波のような雪模様を作り、夕陽を受けて黄金色に輝いていた。「綺麗だなあ~」と溜息をついて見ていると、はだら雪の山肌や峰に立つ裸の広葉樹の幹も見る見る赤味が差して、黄金色からオレンジ色へと色彩が変わって行くのである。

 小屋に入って酒を呑む。陽が落ちるとともに開け放した窓から冷気が雪崩れ込んで、山菜山の斜面の麓から夜の陰が迫り上がってきていた。
2016年3月18日(金)晴れ
おやじ山の早春2016(川口温泉)
 昨晩はフクロウが巣箱の辺りで大きく啼いていた。それに呼応するように多分巣箱の中から「コッコッコッコッ」と低く唸るような鳴き声がしていた。どうも番(つがい)で棲んでいる様子である。

 2日間の労働の疲れを癒すために(!?))下山して川口温泉に浸ることにした。(山入りして早々、もうこの調子だからなあ~) 朝から気温も上がって雪道をドフリながら麓に下りた。途中の山道ではオクチョウジザクラが綻び始め、中越地震で崩れた山の斜面に春の日差しがいっぱいに当たっていた。
 先ずSさんのお宅に寄り(待ち構えていたように「はい、差し入れ」と、カツ弁当とおこわご飯、フキ味噌の瓶詰などを頂戴した)、道の駅「あぐりの里」をひやかしてから川口温泉に行った。

 まだ露天風呂は開放されていなかったが、風呂上がりの休憩所からの眺めは良かった。信濃川と魚野川合流部の広い河面が、豊富な雪融け水で波立ち、そこに燦燦と春日が降り注いで眩く光っていた。

 帰りはホームセンターでナメコの種菌500駒を買い、車に積んだままのクーラーボックスを担いで小屋に戻った。
2016年3月19日(土)雨
おやじ山の早春2016(おやじの遺稿集)
 夜中にフクロウ頻りに啼き、小屋でヒメネズミが騒ぐ。(ゴソゴソやっている辺りを枕元のヘッドランプで照らすと、奴さんは動きを止めてまじまじとこっちを見る。そのつぶらな瞳の可愛いさったらありゃしない!平尾昌晃が歌ったミヨちゃんみたいである)

 朝起きて小屋の外に出ると小雨混じりの凄い霧である。午後からは本降りの雨予報なので、午前中に下山してスキー場に停めてある車から残りのガラクタを荷揚げする。冬季はクロスカントリーのコースだったキャンプ場前の道路も、まだ白い雪道のままである。歩荷(ボッカ)途中で展望台に上がると、霧のたなびく越後平野の向うに銀色に光る米山が見えた。

 今日からカタクリの生長記録をとることにした。スプリング・エフェメラル(春の儚い命)の実態をデータとして残したいとの思いである。カタクリ広場の2ヶ所に目盛を書いた割り箸を挿して日々の生長と株が枯れて消滅するまでの日数を記録するのである。

 予報通り、午後から本降りの雨になった。ストーブに火を入れて、シュラフに包まって家から持参したおやじの遺稿集『腕白の郷愁-
関菊雄 心の遺産-』を読む。この本を開くたびに、新たな認識と理解に驚きながら、その度に更に大きく膨らむおやじの姿をとても越えられないと、自分を気弱く慰めながら吐息を漏らすのである。
 
2016年3月20日(日)雨時々曇り
おやじ山の早春2016(フクロウの吐息)
 今日は大崎山の雪割草を観賞し、傍らの施設「雪割草の湯」に浸ってゆったりと過ごした。昨日Sさんご夫婦がここに来て、ちょうど雪割草が見頃だと知って早速紹介して下さったのである。Sさんにしてみれば、わざわざ私のために2日連続の大崎参りである。

 大崎山は西山の峠を越えて日本海の石地海水浴場に出、浜辺の道路を少し走った海岸端の小山である。なるほど地元の愛好家が丹精込めて整備した雪割草が、山一杯に生えていた。雪割草も見事だったが、園内には線香花火のようなオウレンの花やユキバタツバキも咲いて、以前からユキツバキとの違いをしっかり確認したいと思っていたことがお蔭で実現できた。
 そして「雪割草の湯」に浸かり、休憩所ではSさんから湯上りの生ビールとアジフライ定食(アジフライが2枚も付いて味は絶品だった)をご馳走になり、帰りには館内で売っていた雪割草までプレゼントされて、至れり尽くせりのご案内を受けた。

 小屋に帰ってカタクリ広場の割り箸観察記録をつける。広場の残雪はほぼ5割の面積になっていた。

 夜、小屋で一杯やりながら夕飯を食っていたら、突然フクロウの巣箱から「フーッフーッ」と大きな溜息が聞こえた。青江三奈が歌う恍惚の溜息よりも、もっと切実で苦しげな息遣いだった。時計を見ると夜7時だった。ひょっとしたらフクロウのお産(産卵)の最中かもと思いつつ、ヘッドランプを持って外に出た。真下まで行って巣箱に光を当てた途端、大きな鳥が飛び出して逃げて行った。母フクロウが難産で苦しんでいたか、雄フクロウが交尾中に、思わぬスポットライトの邪魔が入って、仰天して逃げ出したに違いなかった。フクロウさん、ごめんなさい・・・
2016年3月22日(火)晴れ 朝気温0℃
おやじ山の早春2016(クロサンショウウオ大産卵)
 すっかりヒメネズミも慣れっこになって、夜中に俺の枕元まで来てウロチョロするようになった。挙句の果てに俺の毛髪まで引っ張るのには困ってしまうが、奴さんにとっては巣作りには格好の材料なのだろう。まあ、同じ屋根の下の住民だから我慢してやるか。

 5時半起床。気温は0℃である。こんな日は池の水温が下がってクロサンショウウオの大産卵が始まるが、池の中を見ると、投げ込んでおいた杉枝に何匹かのクロサンショウウオが掴まって浮いていた。

 午前中は放射冷却で固くなった雪の上を気分良くシメワタリで下って買い出しに行き、午後からはSさんからプレゼントされた雪割草の地植えをした。この場所がいつか素晴らしい雪割草の花園になることを夢見て、3時間かけて丁寧に植え付けた。
 
 仕事を終えて午後5時、どれどれと池の中を覗くと、夥しい数のクロサンショウウオが絡み合って大乱交である。そして杉枝には、真新しい餃子形の白い卵嚢がびっしりと付いていた。目で追って数を数えてみると、サンショウウオはおよそ50匹、卵嚢の数は38個あった。朝の予想通り、この春一番の大産卵だった。
2016年3月23日(水)曇り
おやじ山の早春2016(特養ホームの跡)
 朝起きて小屋下の谷川沿いでフキノトウを採る。今晩の食材である。雪融けも進んで、いよいよこれからは自給自足体制である。

 自宅から持ってきたおやじの遺稿集『腕白の郷愁』を、暇をみては再読しているうちに、おやじが亡くなる前の5年近くを過ごしていた特養ホームを訪ねてみる気になった。当時俺は会社勤めで地方に転勤したり、東京に戻っても本社勤務で忙しくしていて、おやじをこのホームで見舞ったのは5年間でせいぜい数回程度だった。遺稿集には、この特養ホームで、不自由な躰で渾身の力で書いたと思われる様々な文や手紙が載っていて、再び現地に行って当時を振り返ってみたくなったのである。

 その場所は、長岡市内の外れにある信濃川を越えた丘陵地にあった。いわば終末期医療を専門とする病院に併設されて当時は2つの特養ホームがあった。しかし今日訪ねてみると、1つは現存しているものの、おやじが入療していた建物は無くなっていた。しかし記憶を辿りながら、昔の病棟跡をぶらつき、遺稿集に書いてあったその病棟の庭からの東山やおやじ山の眺めを、俺もその場所に立って眺めてみた。首から下の躰の機能が殆ど効かなくなったおやじは、車椅子に乗ってこの庭まで来て、おれが買ってやった双眼鏡で、親子で山菜採りやきのこ狩りで駆け回ったおやじ山を、ピンポイントで見付けることができたのだろうか? どんよりと曇った肌寒い午後だったが、俺は実に多くのことを考えながら長い間この場所に佇んだ。

 坂道の道路を挟んで病院のレストランがあった。病院従事者の利用する食堂のようだったが、「一般の方もご利用下さい」とあったので、中に入った。お客は俺一人で昼も随分遅い時間だったので、「いいですか?」と言うと、「どうぞ」と返事がきた。コーヒーを頼んだ。実に安くて美味しいコーヒーだった。ホッと身体が温まって、今日はいい時間が持てたと思った。
2016年3月24日(木)雪
おやじ山の早春2016(雪の日の読書と料理)
 雪になった。猛烈に冷えて、朝の気温はマイナス10℃(!)である。
 午前中は少し仕事をしたが、とても寒くてたまらず、昼からは諦めて、小屋の中で過ごした。七輪に炭を熾してシュラフに包まり、殆ど午後一杯『腕白の郷愁』を読み続けた。それから晩飯のおかずと酒の肴にフキ味噌作りである。作り方は次の通りである。

 真っ赤に熾きた七輪に鍋を掛けて湯を沸かし、昨日採った初物のフキノトウをぶち込む。茹で上がったら鍋と笊を両手に持ち、扉を足でドンと蹴って外に飛び出し、清水を受ける樋に向かってダッシュする。(ここで滑って転んだりしたら大火傷である) 冷水に晒す。(今日の水は手を切るような冷たさである) ギュッと絞って水を切り、まな板で細かく刻む。
 次にフライパンに油を敷き(多めが良い)細かく刻んだフキノトウを入れ、酒と砂糖で味付けしてから味噌をまぶす。フキノトウから水分が滲み出てくるので、少しの時間クツクツと煮て水気を飛ばし、「はい、出来上がり!」である。

 これを箸の先で掬っては口に運び、それからコップ酒をクイと煽る。思わず「はあぁぁぁ~」と虹色の吐息が出るはずである。また箸で掬って、「クイ」「はあぁぁぁ~」の無限の繰り返しである。
 小屋のヒメネズミがこの姿を見ていたら、「兄弟分は何やら一人で恍惚感に浸っているようだ」と、さぞや切歯扼腕(せっしやくわん)することであろう。


 夜7時、Sさんからの携帯電話が鳴った。「関さん、生きてますかあ~。街は凄く冷えてますけど、おやじ小屋は大丈夫ですかあ~」と有難い安否確認の電話である。「ハヒ、ダヒジョフデス・・・。イヒハ、チャントヒテオリマヒ。ゴヒンパヒ、アヒガトウゴザヒマヒ・・・」どっと汗が出て温まってしまった。
2016年3月25日(金)雪~晴れ
おやじ山の早春2016(ムササビと雪の風景)
 6時に起きて外に出ると、一面の銀世界である。昨日から日本列島が西高東低の気圧配置になって一気に冬に逆戻りである。ひょいと小屋前のホオノキに掛けた巣箱を見ると、ムササビが顔を出して、外界の様子を窺っていた。本来夜行性のムササビが明るい時刻に顔を覗かせるのは、決まって地震が起きたか、こんな突然雪が降った天変地異の時である。

 午前の雪も昼には晴れて、素晴らしい雪景色となった。池に溜まった枯れ杉を浚ったり、腐ったホダ木を整理しながら気もそぞろで、手を休めてはカメラを手におやじ山を歩き回った。

<今日の写真集>

  巣箱から顔を出したムササビ      ホオノキに掛けた巣箱    小屋から見た「赤道コース」の尾根

   おやじ小屋への山路         オクチョウジザクラ           雪のユキツバキ

    雪のカタクリ広場         雪割草(オオミスミソウ)          おやじ小屋
2016年3月27日(日)晴れ
おやじ山の早春2016(ウグイスの初啼き?)
 4時半過ぎに目が覚めて起きてしまった。昨日のラジオで加藤登紀子が「今は恥ずかし夢のなごり」を歌っていたが、その歌詞が頭に残ってうなされたせいかも知れない。ここ数日、朝の気温は零下だったが、今朝は3℃。これで温かい朝だと感じてしまう。

 外に出ると、満月の月がまだ天空にあった。深夜にトイレで起きた時にはまさに煌々と月明りがおやじ山を照らし、キラキラとした放尿の軌跡とその影までが、くっきりと確認できた。

 5時50分、ウグイスの鳴き声を聞いた。今年の初啼き(!)である。まだ上手く啼けず「キョロ、キョロロ、ホ~~ォ・ケキョ!」と聞こえた。アカショウビンとウグイスの輪唱のようだった。もしかしたら他の野鳥の鳴き声を上手に真似るクロツグミだったかも知れない。

 今日は気持ち良い晴天で、向かいの山菜山の雪もどんどん融けて、黄色いフキノトウが黒い大地から盛んに萌え出ている様子が窺えた。カタクリ広場を見回ると、足の踏み場もない程の芽出しである。

 今日の作業は、杉枯葉を集めて焚火で片付け、雪割草の地植え、カタクリ広場とコゴミ畑のブッシュ刈り払いと精一杯やった。それで午後3時には仕事を止めて、小屋の前に折り畳み椅子を出し、傾く日差しを見ながらビールで喉を潤した。

2016年3月28日(月)晴れ
おやじ山の早春2016(ふるさと)
 朝が暖かくなって4時半に起きた。春のお彼岸も大分過ぎたが、今日はおやじとお袋の墓参りをすることにした。
 山を下りる前に、雪融け跡に散乱している枯れ杉葉を集めて燃やす。
 
 おやじとお袋の墓は、おやじのふるさと青島の「托念寺」にある。長い時間手を合わせてから、3歳で父親と、そして6歳で母親とも生別して本家のお爺(じい)の養子となり、辛い少年時代をここで過ごしたという神社に行ってみた。「腕白の郷愁」には、当時のおやじの深い哀しみと、「今に見ていろ」と、両親がいないために囃されいじめられた子ども達への反逆の気概が綴られてあった。

 小学校から帰ると、いつもあん姉(ねえ)の赤ん坊を小さい肩に背負わされてここで子守りをしたという神社の境内に佇み、「イマニ ミテイロ」と悔し泣きしながら何度も土に掘り書いたという「裏ン川」の土手や(長い歳月で風化したか、土手は消えていた)、大川(信濃川)に架かる鉄橋の下に潜って、頭の上を通過する蒸気機関車の轟に身を委ねて「旅気分」になる遊びに興じたという鉄橋のある風景を、感慨深く眺めた。ここは、俺の幼児期のふるさとでもあった。

 おやじ小屋への帰りの山路では、今年の初蝶を見た。ギフチョウとアカタテハである。昨年の初蝶は4月12日だったから、去年より2週間も早いギフチョウの初見である。
(我がふるさと、青島の「羽黒神社」から、大川(信濃川)に架かる越路橋を望む)

2016年3月31日(木)晴れ
おやじ山の早春2016(早春編エピローグ-雪消える)
 明け方、夢の中で頻りに「ポン、ポン」とテニスボールを打つ音がしていた。目を覚まして「はて、何だったのかなあ?」とぼんやりしていたら、「ホホウ・・・」とフクロウが啼いた。これで疑問が解けた。時間は5時、今朝の気温は3℃である。

 ここ数日晴れの日が続いて、昨日(30日)はおやじ小屋の前でもギフチョウの初蝶を見た。ショウジョウバカマも咲き始めて、今日の日中の気温は15℃まで上がった。

 そして今日で、僅かに残っていた小屋周りの雪や、午前中まであったカタクリ広場の名残雪もすっかり消えてしまった。その雪融け跡には一面のカタクリの芽生えである。

 今日で入山20日目となった。山施業ではカタクリ広場を中心にコゴミ畑やその周りを整備してきたが、好天にも助けられて今日の仕事で一段落した。明日からは早4月、春本番の季節を迎える。