2016年1月4日(月)晴れ |
箱根駅伝(やだ~!並んでる~!) |
今日は早4日。現役のサラリーマン達は今日が仕事始めである。遥か昔に現役を退いた俺でさえ、何やら恨めしい程のアッという間の正月三が日だった。
全く年末年始は、あれがあり、これがあり。誰が来て、それを呑み。誰それを見送って、これを呑み。そして呑み過ぎのあまり頭が痛くなり。「こりゃイカン!」と、「箱根駅伝」を応援してふやけた心身をリフレッシュするために、例年の如く駅伝コースの沿道に駆けつけた。
往路の3区、復路の8区のコースが自宅から車で15分ほどの場所にある。戸塚と平塚中継所の間21・5キロのほぼ中間点の国道1号バイパスの沿道である。近くの公園の駐車場に車を停めて、読売新聞社の人から手旗を貰って選手を待ち受けるのである。
2日の往路では、自宅でテレビ中継を観ていて、トップランナーが戸塚中継所に入った時間に家を出る。そしていつもの公園で車を停めて沿道に出たがまだ時間が早く、今年はパナソニックの工場跡地にできた新しい住宅街の入り口にある[SYOUNAN T-SITE]というお洒落なショッピングセンターに入ってみた。そしてテイクアウトのコーヒーショップでコーヒーを買い、階段を登って2階のテラスに出た。真下の国道が丸見えの、まさに特等席である。4つ席の一つが空いていて、「いいですか?」と声を掛けるとOKだという。3人とも同じユニフォーム姿の先客は、朝の5時に東京都のある場所から自転車を飛ばして、ここまで走ってきたのだという。
そして初日はこの人達と一緒に「ガンバレ~!」「ガンバレ~!」と往路の選手達に声援を送ったが、いまいち「天覧席」からだと迫力が伝わらない感じだった。
それで復路の3日は、やはり、ランナーが目の前を走る沿道に陣取った。早めに行って絶好のポジションをキープしたが、いよいよ選手が近づいて来る間際に、俺の目の前のちょっとした隙間に70過ぎくらいのおばあちゃんにスッと入り込まれた。このおばあちゃんの声援が凄かった。トップの青学、2番手東洋大、3位駒沢と選手が通り過ぎる度に夢中になって何か叫ぶのである。そして早稲田と明治の選手が競り合って走って来た時には、「やだ~!並んでる~!」と大声を上げた。思わず俺が「どっち応援してるの?」と訊くと、「両方よ!だって抜かれたら可哀想じゃない」「・・・?」 つくづく、こういう応援の仕方もあるものだと、感じ入ってしまった。
俺も、明日5日から、(駅伝じゃないが)また旅に出る。いつものKさんと一緒の森林調査の仕事である。今日はこれから7日分の出張準備、それから少し身体を動かして山登りのウォーミングアップである。今年の初仕事。頑張って行こう~! |
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2016年1月12日(火)曇り |
南九州「湯の旅・山の旅」(凝脂(ぎょうし)を洗う?) |
昨日(11日)、宮崎、熊本、鹿児島と回った森林調査の仕事を終えて自宅に戻った。自分にとっては今年度(平成27年度)の仕事納めである。7日間と森林調査にしては短期の出張だったが、今回も思い出深い、いい旅になった。
先ず今回は、素晴らしい森に出会えた。調査地に入って思わず深呼吸したくなるような美しい桧林があり、胸高直径84cm、樹高34mの威風堂々とした杉の森にも出会えた。まじまじとこんな大木を見上げていると、いくつ年輪を重ねたらかくも風格が滲み出るのかと、その膨大な年月を推し量って何やら呆然となるのである。
そして今回も、相棒のKさんがあれこれと情報を集めて手配してくれた各地の宿のバライティーさで、楽しい温泉巡りの旅となった。
宮崎入りした初日(5日)の宿が、「日本最大級の湯量」と表看板にうたった(事実、ザ~ザ~ともったいないほどの源泉掛け流しだった)小林市の「神の郷(かんのごう)温泉」。2日目が、今回最後の贅沢と奮発した、熊本県人吉市の老舗温泉旅館・国登録有形文化財「人吉旅館」。3日目、八代海の三角の瀬戸から天草五橋を渡って天草上島に入り、大浦の民宿「あさひ荘」で名物「たこ料理」を堪能。4日目、熊本県八代市の日奈久温泉。部屋の窓を開けると隣の旅館に手が届くほどの古くも懐かしい雰囲気の湯治宿「あたらし屋旅館」。5日目、大きな展望風呂から錦江湾に浮かぶ桜島が望める「霧島観光ホテル」。そして6日目は、何やら怪しげな鹿児島県妙見温泉のバンガロー(離れ)の温泉宿。名は「楽園荘」。「こんな旅館も面白いと思って」とKさんが言った通り、面白かった!寒い部屋でブルブル服を脱ぎ棄てては、四六時中出っ放しの部屋の中の温泉に、何と4回も飛び込んだ。
7日間毎日違った温泉に連続して浸かった経験は、多分初めてである。それぞれの湯殿や脱衣場には温泉の効能書が認めてあって、今回の7日間の入浴を合わせたらどれ程の効能が積み重なったか計り知れない。人吉旅館の湯殿には、ズラリ並んだ効能の最後に<機能の若返り>(!)と書いてあって、上がりかけた湯船に慌てて入り直したほどである。
確か白居易の長恨歌に「温泉水滑らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う」という表現があった。楊貴妃の白く滑らかな肌を賛辞て詠んだのだろうが、俺はもはや丸一日身体を酷使しても凝脂も浮かばず、肌につくのはぱさぱさ乾いた白い粉のような垢かフケだけである。それでも森林調査で山を駆け回って、一日の仕事を終えて、疲れた筋肉を遠い異国の温泉で癒す解放感は格別のものだった。
近く、「森のパンセ」に「日本点景-南九州編」をアップします。 |
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2016年1月20日(水)晴れ |
デモ参加と18歳選挙権 |
昨晩(1月19日)、今年初めての安保法制廃止を求める国会前デモに参加した。実に寒かった!それで衆院第二議員会館前の歩道でブルブル震えながら、主催者(戦争させない!9条壊すな!総がかり行動実行委員会)の代表や野党議員や宇都宮健児氏の演説を聴いていたが、途中のシュプレヒコールで「安保法制~廃止~!」「9条守れ~!」と大声を張り上げてカッカと身体を温めてから、「今日はひとまず、これでいいかな」と自分の胸に呟いて群集から抜け出た。今冬初の関東地方積雪直後の厳しい冷え込みにもかかわらず、国会裏門周辺の歩道がビッシリ埋まるほどの参加者で、「私たちはあきらめない!」の共通意識が確認できて少しホッとした。
しかし、昨年あれほど盛り上がっていた学生たちの姿が、俺が見た限りでは殆ど無かったのは、一体どうしたことだろう?そして昨日の朝日朝刊に載っていた「18歳って大人?」のタイトルで筑波大学教授で精神科医の斎藤環氏のインタビュー記事と考え合わせて、何とも憂鬱な気分になってしまった。
斎藤環氏の論旨は以下の通りである。
『選挙権年齢を18歳に引き下げる論議の発端は、憲法改正の手続きを定めた国民投票法改正が始まりで、改憲のために若い人を動員したいという不純な動機が見え隠れしている。今の18歳の人たちから、選挙権や成人の年齢を引き下げて欲しいという声を、私は聞いたことがない。引き下げるのは(大人が若者に対して)自立を促し、責任を持たせたい、ということでしょう。
しかし選挙年齢を下げることで、若者の政治参加が促されるというのはファンタジーで、最初はお祭り的に盛り上がるかも知れないが、平常運転になれば元の木阿弥で、自分たちには年金は回って来ないと思っている多くの若者は、政治になんか関心がないのだ。やたら自己責任論がいわれ、生活保護はたたかれるような個人がないがしろにされている日本で、18歳で自立しろなんてちゃんちゃらおかしい。権利を与えるということなら、公共の利益とか言い出す前に、徹底して個人を尊重することだ。(18歳選挙権が常識だと言われる)欧米には18歳を大人扱いすることと共存して、担当省庁を設けて若者を弱者としてしっかり支える体制がある。日本は、伝統的に若者対策が遅れていて、専門省庁がない唯一の国だ。
人が大人として成熟する節目は、実質的には就労と結婚、子どもを持つことだが、今の日本では34歳までの未婚者が親と同居する率は70%以上で、引きこもりの平均年齢が32歳という調査結果もある。20代のほとんどが親がかりの生活を送っているこんな現状で、経済的に自立し、行動に責任を負える18歳がどれほどいるだろうか?
(今の政治は)彼らの支援を家族にゆだねることで対策を先送りし、社会から排除された若者を再包摂する場所作りや就労支援を手厚くすることを怠ってきた。ただ自立せよ、活躍せよと発破をかけるのは単なる気合主義でしかなく、引き下げにかける莫大なコストを若者らの支援に回すべきだ。
定職もなく仲間もおらず、自分自身を承認できないまま絶望している若者は、ますます声を上げられず、見えない存在になりつつある。もちろん、結婚して子どもを持つという人生など描きようがない。彼らを救うのに成人年齢の引き下げは有害でしかない。』
以上である。日頃学生たちと接している教師だけに説得力はあるが、何だか悲しくて、涙ぐんでしまう。 |
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2016年1月31日(日)曇り |
現場の声を聴け |
朝起きて毎朝つけている10年日記を開くと、昨年の今日、おやじ小屋の雪掘りでNさんと一緒におやじ山に入り、翌2月1日のページを捲ると、雪山のテントの中で聞いたNHKの「ラジオ朝一番」で、ISに拘束されていたジャーナリストの後藤健二氏殺害のニュースと悲嘆の記述があった。
折しも今朝の新聞には、以前お会いして少しお話ししたことがあるジャーナリストの土井敏邦氏が、(こうした事件が起きるたびに、「なぜわざわざ危険な場所に取材に行くのか」の批判に対して)、「遠く中東や紛争地のことを身近に感じられる素材は、現地で取材しないと手に入らない。日本人が彼らの痛みを共感できる材料を提供するために危険地の取材は必要なのだ」と反論していた。氏はパレスチナなどの紛争地で30年近くの取材経験があり、東日本大震災でも原発事故で全村避難した飯館村にいち早く入って取材活動を開始した国際ジャーナリストの大ベテランである。
そして「現場の声」の重さをつくづくと知らされた新聞記事があったと、慌てて取り出して再読したのが、1月30日の朝日新聞「オピニオン」に載ったNGO「ペシャワール会」現地代表 中村哲氏のインタビュー記事である。氏は1946年、福岡生まれの医師で、32年前にパキスタンで医療支援を始め、現在は紛争地のアフガンで灌漑事業をやっている。
インタビューの内容を要約すると、以下のようになる。
『(医者がなぜ用水路を引くのか?と尋ねられて) 農業の復興が国造りの最も基礎だからです。アフガニスタンでは記録的な干ばつと水不足で何百万という農民が村を捨て、栄養失調になった子が、診療待ちの間に母親の腕の中で次々に冷たくなりました。医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。「100の診療所より1本の用水路」でした。
(故郷の)福岡県朝倉市にある226年前に農民が造った斜め堰を手本に03年から7年かけて27キロの用水路を掘り、3千haが農地になり、15万人が地元に戻りました。20年までに1万6500haを潤し、65万人が生活できるようにする計画も、ほぼメドが立ちました。この作業で毎日数百人の地元民が250~350アフガニ(約450~630円)の賃金で職の確保にもなり、思想とは関係なく家族の飢えを救うために命がけの傭兵(何と、米軍の傭兵にも!)の出稼ぎもなくなりました。』
『(現地の治安を訊かれて) 私たちが活動しているアフガン東部は、この30年で最悪です。地元の人ですら、怖くて移動できないと言います。ただ、我々が灌漑し、農地が戻った地域は安全です。(戦争と混乱の中で約30年も支援を続けられたのは) 日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。戦後は、原爆を落とされた廃墟から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を賞賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです。その信頼感に助けられて、何度も命拾いをしてきました。NGOにしてもJICAにしても、日本の支援には政治的野心がない。見返りを求めないし、市場開拓の先駆けもしない。そういう見方がアフガン社会の隅々に定着しているのです。だから診療所にしろ用水路掘りにしろ、協力してくれる。軍事力が背景にある欧米人が手掛けたら、トラブル続きでうまくいかないでしょう。』
『(日本の安保法制が転換されて、影響は?の問いに) アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する議論も知りません。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米軍に、日本が追随していることだけです。だから、嫌われるところまではいってないが、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。それに、日本人が嫌われるところまで行っていない理由に、自衛隊が今まで「軍服姿」を見せていないことが大きい。欧米人が街中を歩けば狙撃される可能性があるが、日本人はまだ安心です。(しかし新法制で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められるようになれば) 愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と』
そして中村哲氏は、最後にこう結んでいる。
『政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します』
以上である。俺は既に現役のサラリーマンを辞めて10年が経った。あれこれ昔の事を言い出すのは老人になった証拠で悪い癖だ、と陰口をたたかれるのを承知で言うが、35年間のサラリーマン生活で、徹底的に上司から叩き込まれ、自分でも努力した(積り?)の基本スタンスは、「現場の声を聴け」だった。机上の空論ではなく、労を惜しまず現地に出掛け、現場の直視と現地の人達の言葉から解は得られると教えられたのである。
今、日本とは桁違いの厳しい紛争地で30年間の長きに渡ってひたすら活動を続けている中村医師の重い言葉に、かつての自分の現場主義の軽さを赤面しつつ、ほろ苦くも回顧した次第である。 |
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