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2015年12月10日(木)晴れ
中国地方1300kmの山旅
 12月2日から7日までの6日間、森林調査で中国地方に出張した。相棒のKさん運転のスタッドレスタイヤ付き四駆車「ニッサンX-TRAIL」を駆って、調査箇所の兵庫、鳥取、岡山、島根、そして広島の5県を走破し、総走行距離は1300キロに達した。「こんな短い期間で、これだけ走ったのは初めてです」とKさんはしみじみ呟いたが、若くて体力があり、運転上手のKさんでなければ成し得ないロングランだった。

 新大阪で借りたレンタカーのボディー色は赤。Kさん好みの色である。これで錦秋に染まる但馬の厳しい山道に乗り入れ、白波立つ冬の日本海が洗う山陰富浦海岸を駆け抜け、雪景色となった奥津の峠を乗り越え、そして美しい石州瓦の家々が並ぶ長閑な農村を脇に見て走り続けた。

 調査の日を重ねるうちに、すっかりこの車に愛着がわいた。林道の終端で車を乗り捨て、そこからはGPSを頼りに調査ポイントに向かうのだが、仕事を終えて荒い息を弾ませながら山の斜面を下って来ると、眼下の遥か向うに、冬枯れた木々の隙間を通して、赤い車がポツンと我々の帰りを待っていてくれるのだった。この色を認めた時のホッと安らぐ気持ちは、今までに無かったことである。寂しい冬の山中で目立つ、温かい赤色の車だからのことだろうか。

 そして今回の山旅でも、この仕事ならではの偶然出会った美しい風景や、珍しい発見と邂逅があった。

 鉄橋の町、兵庫県余部の「空の駅」から見下ろした、山陰の海を望む穏やかな町並み。ヤマタノオロチ伝説の島根県斐伊川上流の出雲湯村温泉に一夜の宿をとり(湯の上館)、前庭の小庵で囲炉裏の火に高級魚ノドグロを炙って束の間の贅沢な夕食を摂った。Kさんと二人だけで貸し切ったこの庵に掲げられた額には『山色不離楼』(山色楼を離れず)と揮毫してあった。

 更に驚くべきことだが、このホームページ「山の仕事道具・鉈(1)」で紹介している俺が一番愛用している雲州幸光作の鉈を作ったご本人の鍛冶屋の前を偶然車で走って慌てて立ち寄ったが、残念ながら留守だった。たたらの町、島根県仁多郡横田町(現奥出雲町)である。

 広島県庄原市惣領町では、Kさんが前々回と前回の出張で立ち寄ったという小さな山間のパン工房「ル・サンク」で、俺も香ばしい焼きたてのバケットを1本買った。これだけで日頃納豆と焼き海苔の暮らしで老け込んだ性根が、途端に若々しい息吹を吹き返すのである。

 そして最終日には、安芸の宮島に渡って名物「あなご飯」で昼食を摂り、6日間に渡った仕事の打ち上げとしたのである。


 
2015年12月21日(月)曇り
中国・九州森林調査(忘れ得ぬ人)
 今月12日から、再び森林調査の仕事で広島、山口、福岡、佐賀と回って、18日に帰宅した。

 今回も西日本を巡る冬の旅路で夜明けが遅く、朝7時にホテルを出た広島の市街では、煌々とライトを点けた市電やマイカーが行き交い、関東人にとって、暗い朝のラッシュ時はちょっと珍しい光景だった。

 そして山口入りした初日には、錦帯橋を望む河畔の旅館に泊まり、次いで山口市湯田温泉に移動したが、そのホテルの近くに満30歳で夭折した詩人、中原中也の生誕地があった。夕飯を食いに湯田の町に出て、宿への帰り道で既に閉館した「中原中也記念館」の庭に迷い込んだ。庭の壁看板にライトに照らされた中也の「風の詩」が掲げられていた。

    汚れつちまった悲しみに
    今日も小雪の降りかかる
    汚れつちまった悲しみに
    今日も風さえ吹きすぎる

    汚れつちまった悲しみは
    たとえば狐の皮裘
    汚れつちまった悲しみは
    小雪のかかってちぢこまる

    汚れつちまった悲しみは
    なにのぞむなくねがふなく
    汚れつちまった悲しみは
    倦怠(けだい)のうちに死を夢む

    汚れつちまった悲しみに
    いたいたしくも怖気づき
    汚れつちまった悲しみに
    なすところもなく日は暮れる・・・

 冷え込んだ夜だったが、じっと立ち止まって文字を追っているうちに、中也のやり場のない悲しみがしんしんと胸に刺さり込んで、身震いする思いだった。

 そして翌15日が、山口県萩市の川上という場所が調査地だった。そしてここで、決して忘れられない一人の老人に出会った。
 生憎の小雨混じりの天候だったが、午前中に何とか調査を終えて山を下り、村落の外れの農道に車を停めて、朝の出がけにコンビニで買った昼食を摂っていた。そこに、この老人が現れたのである。
 名前は「烏田(からすだ)」さん、87才だと言った。最初は車の外に居たKさんと話していて、「我々を不審者と見て近づいて来たのかな?」くらいに思っていた。それで俺も車の外に出ると、二人とも和やかな会話である。俺も中に加わって、この村が昔は30世帯あったが、今は僅か9世帯になったこと、「今、何人住んでおられますか?」と尋ねると、「は~て?二人おる家が3世帯で・・・」と指折り数え始めるほどで、せいぜい20人ほどではないだろうか。我々が東京と神奈川から来たと言うと、「自分の息子が埼玉にいる」と嬉しそうに話した。それから自分が小学校2年まで身体が弱かったことや、これから迎える正月の行事のことなどを、ニコニコと俺たちに聞かせてくれた。
 そして「それじゃあ、どうかお元気で・・・」とお別れを言うと、烏田老人がやおら胸ポケットから財布を取り出したのである。「名刺でも下さるのかな?」と窺っていると、何と!千円札3枚財布から抜いて(見ると、これで財布の中が空っぽになった)こう言ったのだ。
 「ここはな~んもないけんな、萩の町に行って旨いもんでも食べてくれ」
 「・・・!!!」
 僅か10分か15分の会話で、まるで自分の息子か孫にでも接するように心を開いてくれる人が、果たしているだろうか。大げさでも何でもなく、Kさんが傍に居なかったら俺は感動のあまり老人にひしと抱き付いただろう。俺はこの森林調査の仕事を2008年から続けてきたが、この8年間の仕事で最大の収穫は、今回のこの烏田老人に出会ったことだと言っても過言ではない。
 
 もちろん3千円は受け取らなかったが、Kさんと二人で最敬礼をして烏田氏と別れた。しばらく二人とも黙ったまま車を走らせていたが、Kさんがポツリと言った。「お金、貰ってやった方が親切だったですかね?」「俺も考えていたけど、分かりません。貰った方が良かったのか・・・貰わなくて、良かったのか・・・」 。でも俺は、このような、烏田さんのような老人になりたいと痛切に思った。

 16日には、下関から関門トンネルを通って九州福岡の門司に渡った。何度も九州に来たが、トンネルで九州入りしたのは、生まれて初めてである。
 そして佐賀の調査では、この冬一番の冷え込みで雪に見舞われたが、最終日は佐賀の名湯武雄温泉で身体を温めて、今回の出張を締めくくったのである。
  
2015年12月31日(木)晴れ
70年目の大晦日
 今年の大晦日を迎えた。ここ藤沢は穏やかな冬晴れの日差しだが、おやじ山の長岡の天気を調べると、「雪時々止む」とあった。しんしんと雪の降るおやじ小屋の風景が、瞼に浮かんで来る。今年もまた、多くの時間をおやじ小屋で過ごすことができた幸せを胸に、感謝の気持ちでいっぱいである。

 今朝は、自宅では毎朝つけていた10年日記の今年一年の記述に目を通しながら、俺なりに今年を振り返った。

 おやじ山の作業では、カタクリ広場の整備や希少種の山野草の実生苗作り、きのこのほだ木の量産に取り組んだりと、ようやく面の森林施業から点(部分々々)の山仕事に軸足を移せるようになった。人生の残された時間でおやじ山の素晴らしさと魅力を未来にしっかり引き継ぎたい思いと、おやじ山に来てくれる家族や友人達への感謝の気持ちである。
 そして来年からは、訪問者を受け入れる囲炉裏を備えた小さな「ゲストハウス」を、こつこつと手造りで建て始めたいと夢見ている。

 今年一年のマスコミ報道では、「戦後70年」のあれこれが取り上げられた。それは「一区切りついて、これからは変わりましょう」的なニュアンスで語られることが多かったが、戦後70年は俺が生まれて現在までとイコールの年月である。だからこそ、この間の貴重な体験を、平和(戦争で人を殺し、殺されることがなかった)の尊さを子や孫らに引き継ぐ義務が、戦後の70年を生きた俺にはあると思っている。
 安倍政治がすすめる安保法制阻止のために、国会前のデモに6月14日を皮切りに9月16日まで7回参加した。残念ながら法案は成立したが、この期間に間近に見て格段に向上した若者達の政治参加に光明を見出している。

 しっかり時流に目を向け、時宜を得た知識の修得と感性を磨き続けたいと思う。今年はトマ・ピケティの「21世紀の資本」を何とか読了して「格差」の実態を学んだが、今の時代世の中に蔓延る理不尽な事象は山ほどある筈だ。
 ずっと以前に読んだ宮本輝の小説「骸骨ビルの庭」に、記憶に残っているこんな会話があった。孤児を引き取って育てている主人公のパパちゃんにサクラちゃんが訊くのだ。「人間は何のために生まれてきたの?」(サクラ:即答できるような質問でないことくらいわかる・・・。しかしパパちゃんは即答し、かつ断言したのだ)「自分と縁する人たちに歓びや幸福をもたらすために生まれてきたのだ」
 俺もパパちゃんの境地に到達すべく、「知って行動し、行動して知る」をモットーに来年もがんばるぞ~!

 皆さん、今年はありがとうございました。そして、どうかよいお年を。(2015年 大晦日 15:20)