2015年7月4日(土)雨 |
SEALDsのデモに参加 |
YMさんへ
YMさん、お返事が遅れてスミマセンでした。7月1日の未明におやじ山から藤沢の自宅に着いて、改めてパソコンを開いてメールを読まさせていただきました。メールでご案内いただいたSEALDsの活動や映像ニュースサイトもしっかり拝見いたしました。
6月18日の朝日新聞「声」欄に載った拙稿『デモに若者がいない悲しさ』が、同時に「朝日新聞デジタル」にアップされて、早速本稿に対して、「(6月14日『戦争法案反対国会前集会』の当日の夜には)渋谷で学生たちがデモしたのに、それを知らなかったとは悲しい」とのツィートがありました、とYMさんからメールで知らせていただきました。<これはちょっと放っておけないという思いがあって>小生のメールアドレスをあれこれと探し当ててメールをした、とも書いてありました。
YMさん、どうもありがとうございました。それで、昨日の金曜日、SEALDsが<【毎週金曜日】戦争法案に反対する国会前抗議行動>に私参加してきました。
開始の午後7時半少し前に国会正門前に着いて、早速デモの仲間に加わりました。報道関係者がズラリ演壇前に陣取って、本当はもう少し近くで並びたかったのですが、スタッフの人が「はい、学生は前に。学生、前!前!」と、マスコミには「学生」中心をアピールしたい素振りで、老人はすごすごと後ずさりしてしまいました。
なるほど、6月14日の国会前のデモとは様子が違って、周りは学生とおぼしき若い人たちでいっぱいでした。しかし良く見ると、私のように頭が白い高齢者も少ないながら混じっていて、これは「ちょっといい風景だなあ」と思いました。
集会の最中に時折強い雨が降って、その度に傘が開いたり、また閉じたりしました。リーダーのマイクに合わせて、その傘やプラカードが国会議事堂に向けて波打ちながらシュプレッヒコールが繰り返されたのですが、やはりここでも「学生らしさ」があって、私にとっては実に新鮮でした。
先ずプラカードに英語が多いことです。それとシュプレッヒコールの言葉に、いわば伝統的な「戦争法案反対!」「9条守れ!」「安倍は辞めろ!」などの短語の他に、「なんか自民党感じ悪いよね」とか「民主主義ってナンダ」とか、そのうち「ジス・イズ(多分This is )△×□○・・・」という英語のシュプレッヒコールまで出て来て、フレーズが随分長いのです。さすが学生たちはちゃんとついて大声を上げるのですが、おじさんは顎がくたびれ、英語の意味も分からず、ただ「ジス・イズ・・(無言)・・・」でした。
嬉しいことに、主催者の言葉で「今日の集会は雨にもかかわらず、先週金曜日の集会よりは多い参加者です(3000人と発表)」と報告されたことです。そして「来週はもっともっと皆さんで参加者を呼んできてください」と訴えていました。「民主主義は俺たち自身なんだ」「勝手に決めるな」との言葉も強く印象に残りました。若い学生たちの奮起に、心から期待し、応援したいと思っています。
2015年7月4日
おやじ小屋主より
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2015年7月5日(日)雨 |
南三陸応縁団 |
昨年、一昨年と東日本大震災復興支援ボランティアに参加した縁で、宮城県の南三陸町と関わりを持つようになった。そして昨日は、「南三陸応縁団(応援ではなく応縁である)第一回交流イベントin日本橋」なる集会に出席した。場所は、東京のど真ん中、日本橋にある「豊年萬福」という居酒屋(?)である。
今なお大震災からの復旧復興途上にある南三陸町では、当初の全国からのボランティアによる瓦礫撤去などの復旧から、自立による復興へとその歩みを続けている。それに伴って、ボランティアとの関わりも、震災4年目に入って、支援から協働参画へとフェーズを変えて「縁」を繋いでいこうとしている。その首都圏でのキックオフともいえる交流集会が昨日のイベントである。
南三陸町から案内を貰って、即参加の申し込みをした。何しろ交流会の場所が申し分なく、俄かに南三陸町の海の幸が目に浮かんで、まあ正直言って、ヨコシマな気分を抑えることができなかった。
結果は、「ヨコシマな気分」通りの、全く申し分ないものだった。今が旬の、ウニ、イクラ、銀鮭、それにカツオ、ホタテ、カキ、タコ、イカ、ワカメ・・・(どこかから石ぶつけられそうなので、これ以上書くのやめます)、そして冷えた生ビールと日本酒などなど・・・。
露骨にヨコシマなのは俺ぐらいなもので、会場では若いボランティアたちの賑やかな談笑が続いていた。たくさんの海の幸に満足して、会場からフロアー続きのデッキの椅子に腰かけて休んだ。そこから間近に見える「日本橋」を、こんなにまじまじと眺めたのは初めてである。雨に煙る夜の日本橋の姿も、いいものだと思った。
会場では、まだ賑やかな声が飛び交い笑い声が弾けていたが、受付の人に声を掛けて店を辞した。そして地下鉄の入り口に立って、日本の起点「日本橋」を再度しばらく眺めてから、地下鉄への階段を降りた。
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2015年7月13日(月)晴れ |
最近の言葉から |
安保法案反対の国民の声がようやく高まってきた今、安倍政権は今週中の国会での強行採決を目指している。以下、最近の「言葉」を、雑誌、テレビ、新聞から拾ってみた。
日本総研理事長 寺島実郎「(安保法制を取り巻く人々との議論で発見したことは)彼らに決定的に欠けているものは・・・軍事の議論があって外交の議論がないこと、国家の危機の議論だけがあって国民にとっての守るべき国を創る議論がないことである。」「総じて年配者が興奮して「強い国」を目指して集団的自衛権と安保法制を論じている。いくら法制度を整備して「戦える国」にしても、若者が「守るに値する国」に思える状況を創らねば機能しない。・・・戦後70年、我々は守るべき日本を創ってきただろうか。」(「世界」8月号から)
小泉政権でイラク戦争自衛隊派遣の実務を担った元内閣官房副長官補 柳澤協二「(国際社会からみて日本に求められることは?の問いに)何でも軍事的にやってこいということではなくて、むしろ日本にとって得意な分野は何かを・・・例えば中東などではアメリカと一体と見られないポジションをキープすることで、あとあと出来ることがたくさんある。」「今の自衛隊が国民から一定の支持を受けている理由は、ありていに言えば、外国に行って戦争してない、人を殺してないからです。(集団的自衛権行使も)自衛隊員は覚悟をもってるというが、それは国民の支持、負託があっての話し。だから国民の理解が一番大切なのです。」 (7月12日「NHK日曜討論」安保法案に賛成?反対?専門家が激論から)
(そして近日の「朝日俳壇・歌壇」から)
壊れゆく日本六月豪雨かな (池田 功)
憲法に合う世にすべき政治家が憲法を世に合わす策を練る (由良 英俊)
若者に波及しはじめ漸くに反戦デモは報道さるる (瀬川 幸子)
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2015年7月16日(木)曇り、雨 |
確信の火種 |
猛暑日に近い気温になった一昨日(14日)と昨日(15日)、再びデモに参加した。国会の特別委員会で審議中の安保法案が、自民、公明両党によって強行採決される見通しになったためである。
そして昨日の昼、予想通りの強行採決で暗澹たる気持ちになったが、この二日間のデモを通じて「この安保法案は必ず廃案になる」と、何やら確信めいた思いも抱いた。
14日の集会は、午後6時半から日比谷野外音楽堂で開催された。この会場は消防法の関係で「定員」になると会場の門が閉じられることを知っていたので、随分早めに日比谷公園に着いた。そして懐かしの日比谷図書館に入って時間を潰し、5時には列に並んで開門を待った。
予想通りの凄い参加者だった。野外音楽堂の外は、会場に入れ切れなかった人たちで溢れかえり、はみ出し組からスターとした国会デモの列も大渋滞で、殆ど動かない有り様だった。この日の参加者は2万人と発表された。
そして昨15日、国会議事堂前で開催された大集会は、前日に輪をかけた物凄い人数だった。(午後7時20分時点の参加者は、主催者発表で2万5千人)
昨日は、午後には強行されるという委員会採決に居てもたってもいられず、昼前に家を飛び出た。こんな重要な案件時に、NHKの国会中継が無い、というのも実に不可解だった。
東海道線に乗って新橋駅で降り、「先ずは腹ごしらえを・・・」と機関車広場近くのラーメン屋に入った。これが、いけなかった。地下鉄「国会議事堂前」で下車し、正門前の会場に駆けつけると(午後1時だった)、「先ほど強行採決が行われました!」とハンドマイクが叫んでいた。「出遅れたか!」と鎌倉武士のごとく臍(ほぞ)を咬んだが、仕方なく30分ほど炎天下でシュプレヒコールを繰り返して、夕方6時半からの本集会を待つことにした。
国会正門前の歩道のすぐ脇が「憲政記念館」の大きな公園である。中に入って園内をぶら歩きして、皇居のお堀が望まれる階段に出た。この石段に腰かけて、蒼々と繁る皇居の杜や炎暑に炙られて白づんだ有楽町のビル街、そして眼下の広い道路をゲーム機の映像のように忙しなく走っては停まる自動車の列を眺めていた。議事堂の方からは、宗教団体が叩く抗議の太鼓の音が、熱く乾いた空気に乗って鳴り響いてきていた。
と、階段下の歩道を殆どよちよち歩きの女の子と、若い母親の二人のお散歩の姿が見えた。女の子は少し前を歩いては、くるりと振り返って母親のスカートに飛び込んでくる。また前を向いて歩き出して、くるり、母親のスカートに飛び込む。そしてまたと・・・、その度に若い母親は女の子を抱きしめて朗らかな笑い声をたてるのである。
何と平和な光景だろうか!目の前の都会の喧騒やデモの太鼓、つい先ほどの国会内での狂乱とはまるで別世界ではないか。今自分が座っている場所から手の届くところに、こんな幸せのスポットが厳然と出現したことに、衝撃を受け、感動してしまった。
立ち上がって緑陰場所を探しながら歩いて、「この先進入禁止」のすぐ手前にある石のベンチを見つけた。枝ぶりの良い桜の樹の下である。樹の根元に「安行桜」の銘板があり、<第5回さくら祭り中央大会記念樹 昭和45年3月30日>と書かれてあった。
このベンチで持参した単行本を読みながら時間を潰し、読み疲れてはベンチにひっくり返って真っ青な夏空を見上げ、うたた寝を繰り返した。
集会開始の1時間前に国会前の会場に行くと、続々と集まる人の波である。正門前には装甲車が赤いランプをくるくる回し、警備の警察官も一気に人数が増えた。何やら物々しい雰囲気の中で本集会が始まった。
野党各党の党首や委員会の出席議員が絶叫調の演説をし、憲法学者がスピーチし、度重なるシュプレヒコールの音頭で声を潰した女性が、それでも頭を振り振り、拳を突きながらマイクを握った。
今回初めて、午後6時半から7時半までの「総がかり行動実行委員会」主催の時間帯が終わった直後から、引き続き学生たちで組織する「SEALDs」の運営で集会がバトンタッチされた。つまり老若の垣根を越えた合同集会の初の試みである。若い学生たちが続々と加わって、正面会場の回りは、車道に溢れた参加者と警察官の小競り合いまで起こる大群衆となった。(どうしてこんな時に警察は杓子定規に車道と歩道を厳格にして、車を通そうとするのだろう。臨機応変に車の方を規制したら良いのに)
SEALDsのシュプレヒコールが始まり、学生たち手作りの英語のプラカードが揺れ、年配者も負けじと拳を突き上げ声を絞る。
「アベはやめろ!」「アベはやめろ!」
「民主主義ってナンダ!」「ナンダ!」
「強行採決、撤回!」「撤回!」
そのうちドラムを持った3人組が、群集の間をこじ開けながら、正面会場近くに紛れ込んだ俺の真後ろに来て、「ドンドン・ガラガラ」とシュプレヒコールに合わせて打ち鳴らし始めた。「うるさいなあ~」と最初は思っていたが、ドラムに合わせてシュプレヒコールを繰り返すうちにカッカと興奮してきた。悔しいかな、そのうちドラムのリズムが体に浸透してユラユラ体が動いてきた。後ろを振り返ると、3人のドラマーはいずれも瞑目したままドラムをたたき続けて、何やら神がかりの形相になっていた。 学生たちのシュプレヒコールは、伝統的?な短語もあるが、随分長いフレーズがある。
「なんか自民党って感じ悪いよね!」「なんか・・・・・・悪いよね!」
「www,qqq ,kkk,ggg $$$,&&&, %%%!」「???!???!???・・・」
ついて行けない英語のシュプレヒコールもあって、次第に顎が疲れてきた。更に背後で、神がかりドラムが一層激しく乱打されて、シュプレヒコールのマイクの声が良く聞き取れない。
熱気と騒音、憤怒と興奮、疲労と憂愁・・・・・・そのうち、渇きとビール、空腹と日本酒、などの邪念も浮かんで朦朧となり、「ドンドン・ガラガラ!」のリズムで頭の回路が麻痺してきた。
「戦争反対!」「戦争反対!」「ドンドン・ガラガラ!」「ドンドン・ガラガラ!」
「9条守れ!」「9条守れ!」「ドンドン・ガラガラ!」「ドンドン・ガラガラ!」
「戦争・反対!」「戦争・守れ!」(あれ?)「ドンドン・ガラガラ!」「ドンドン・ガラガラ!」
「9条・守れ!」「9条・反対!」(あれあれ?)「ドンドン・ガラガラ!」「ドンドン・ガラガラ!」
かくして、若者たちに気圧されながら会場から抜け出たのが、午後8時半だった。むせ返るほどの熱気を浴びてぐったり草臥れはした。しかしいつしか俺の心の中でポッと雪洞(ぼんぼり)に灯が点り、あかあかと燃えた確かな手ごたえがあった。その確信の火種を胸に抱きながら、国会を取り巻く群集の中をかき分けて地下鉄の駅に向ったのである。 |
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2015年7月17日(金)曇り |
寺山修司の思い |
今朝の朝日新聞「声」欄に22歳の大学院生の投書が載っていた。要旨は以下の通りである。
<私たちは平成の時代に生まれた。生まれた時、既にバブルは弾けて、それからイラク戦争、リーマン・ショック、東日本大震災に遭い、そして今、自分の国が70年前の教訓と民主主義に別れを告げようとしている。私たちは「捨て駒」としてこの世に生まれたのか。
若者たちの生活は保障されず、庶民の生活や戦場の実情も知らない権力者に支配された国を、なぜ私たちは愛さなければならないのか。愛することもはばかられるこの国を守るために、命を差し出せというのだろうか。>
何度読み返しても涙が出てしまう。今の安倍政権に、この若者の痛憤がどれだけ届くだろうか!若者たちの苦悩を、自らの痛みとして呻吟し煩悶する大人の度量を、政治家たちはどれだけ持ち合わせているだろうか!
今、この国のあり様が大きく変えられようとしている。解釈改憲で集団的自衛権を是とする連中は、こぞって「我々と価値観が異なり」「常識が通じない」周辺国の脅威を口にする。
しかしこの若者が書いているように、<そもそも何から日本を守るのか>と問われた時、「守るに値する我が国の国家の品格とは何だったのか」をもう一度胸に手を当てて呼び起こす必要がある。それが憲法9条を骨格とする日本の平和憲法とその理念だったのではないか。
戦後70年、その長きに渡って先人が守ってきた大切なものを、俺は次の若い世代にきっちりと引き継ぐ義務があると思っている。それらは日本の美しい森や自然であり、日本の憲法だと信じている。脅威を全て軍事力に頼るという発想は、まさに日本も「価値観が異なり」「常識が通じない」かの国と同じレベルになり下がることを意味しているのではないか。
かの寺山修司の歌が聞こえる。
『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや』 ああ~ッ! |
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おやじ山の夏2015
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2015年7月20日(月)晴れ |
おやじ山の夏2015(山入りの日) |
朝9時に車で自宅を出発して、おやじ山に向かう。明日は、かねて依頼されていた猿倉岳(679m)「天空のブナ林」での、地元蓬平町にある太田小学校の児童たちへの課外授業があり、ついでにおやじ山にしばらく滞在して、気になっていた山仕事を片付けるつもりである。
関越道をひた走って国境の長いトンネルを抜け出ると、フロントガラスの前にくっきりと濃い越後の夏山の風景が拡がった。長大なスロープを下って望んだ越後三山は、頂上付近が雲に覆われて、かえって登山心を誘う山姿である。もう随分昔になるが、中の岳は単独で登り、越後駒ヶ岳には、同級生のFさん、ウルフN君と三人で登った懐かしい思い出がある。
午後3時、長岡市営キャンプ場着。早速自然観察林を通っておやじ小屋に向かった。途中の山道では開花していたヤマユリの花も、おやじ山に入るとまだ殆どが白い蕾で、滞在中の開花が待ち遠しい。何しろ枝打ちや間伐が奏功して年々ヤマユリの株が殖え、今では夥しい株数になっているからである。
おやじ小屋を開け、恐る恐る青大将がいないかを確認し(以前、小屋を開けた途端に青大将を見つけ「ギャーッ!」と叫んで卒倒しそうになった)、念のため囲炉裏に杉っ葉を投げ込んで燻してから、ぶらり小屋の周りを見回る。そして今日は、明日の早出に備えて麓でテント泊の予定で、真っ赤な夕陽を見ながらキャンプ場に戻った。 |
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2015年7月21日(火)晴れ |
おやじ山の夏2015(太田小学校野外授業) |
午前4時、ヒグラシの鳴き声で目を覚ます。ラジオ放送が「今日の誕生日の花はヤマユリです」と言っていた。花言葉は「荘厳、人生の楽しみ、飾らない愛」だそうである。『まあ、俺みたいなもんだな・・・』(?)と己惚れて納得する。
今日は太田小学校児童への課外授業で、場所は猿倉岳「天空のブナ林」である。俺の役割はブナ林内を児童たちと歩いて、森のしくみ(森林生態系)や植物の話をすることである。その後は猿倉緑の森の会の皆さんの指導で、子どもたちにブナ林での間伐体験が予定されていた。
午前6時過ぎにキャンプ場を出発して、7時には天空のブナ林に着いた。先ずは遊歩道を歩いて写真を撮りながら下見をする。今年はブナの実の生り年で、太い木にはビッシリと実が付いていた。
8時半に緑の森の会の皆さんがそれぞれ軽トラでやってきて、早速チェーンソーのエンジン音を響かせて間伐作業に入った。
それから間もなく、3人の先生に引率されて太田小学校の児童たちがやってきた。子どもたちにとっては夏休み早々の野外授業である。
今日は35℃近くの猛暑日になり新潟県も梅雨明けの発表があったと知ったが、子どもたちと気持ち良いブナ林の木陰を歩きながら、穂を長く伸ばしたショウジョウバカマの種子を指差して説明したり、森林浴の広場に腰を下ろしてブナの生態を説明したり、猿倉岳山頂では、遠くに見える弥彦や角田山、青々と拡がる越後平野や信濃川の眺望を楽しんだり、子どもたちと一緒に記念撮影をしたりと、実に楽しい時間を過ごした。
その後の間伐体験は、Nさんたちが伐り残してくれた立木の伐倒である。子どもたちはめいめい手鋸を渡されて、まさに彼らにとっては汗だくの悪戦苦闘だった。
「今日はブナの話を聞いて、ここの森が大変貴重だということが分かりました。ありがとうございました」
横一列に並んだ児童代表の挨拶を受けて子どもたちと別れ、萱峠の展望台まで足を延ばした。途中の林道脇ではサルナシの蔓にも実がびっしりと付いて、今年は木の実の豊作年である。
そして展望台に登ると、萱峠の山稜からは夏雲が勇壮に湧き上がり、目を転じれば、山間にひっそりと佇む山古志種芋原(たなすはら)の風景が遥か遠い昔の郷愁を呼び起こさせて、涙ぐむような感情を抑えることができなかった。
作業を終えた猿倉緑の森の会の皆さんと一緒に下山し、昼食はNさん宅にお呼ばれした。冷えた素麺と自家製野菜のてんぷらが山盛りの食卓だった。
午後2時からは、緑の森の会のメンバーに太田小中学校の先生、そして蓬平旅館組合の代表者も加わって、蓬平集落センターで今後の活動についての打ち合わせがあった。会議が終わり、天空のブナ林との関わりを契機に、地域の活性化のために何らかのお役に立てれば、との思いを胸に蓬平を後にしたのである。 |
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2015年7月22日(水)晴れ、猛暑日 |
おやじ山の夏2015(ヒグラシとホトケドジョウ) |
今朝も、午前4時、「カナカナカナカナ・・・」の鳴き声で目が覚めた。日の出前の薄明の時刻から朝日が昇る頃までの時間帯に鳴くが、ヒグラシは夕方よりは朝の方が大声で鳴くようである。昔「サトウサンペイ」の漫画に、ヒグラシの鳴き声を「カネ・カネ・カネ・カネ(金・金・金・金)」と吹き出しに描いてあったと記憶している。「あのヒグラシは何ですか?」「そのヒグラシ(其の日暮らし)です」というジョークもあった。
其の日暮らしの俺は、今朝の朝食は、ホトケドジョウを貰いに行った麓栖吉町のNさん宅でご馳走になった。美味しいコシヒカリのご飯にNさんの庭で育った夏野菜がたっぷり出て、それこそ腹一杯食べさせてもらった。
Nさんは俺が尊敬する巷の大生物学者で、研究室に籠った学者先生の何十倍もの実践的知識がある。今日のホトケドジョウもかねがねNさんからお聞きしていた魚類で、何と!最初の発見地がここ新潟県長岡市栖吉町である。よって学名は「Lefua
echigonia(レフア・エチゴニア)」標本種は栖吉町で登録されている。環境省の絶滅危惧ⅠB類、冷たくてきれいな山間の細流や遊水地を好む貴重種である。
ホトケドジョウはいつもお世話になっている日赤町のSさんのところに持参した。お孫さんと一緒に水槽でメダカやフナなどを飼っていて、予め電話で伝えていたら大乗り気だった。案の定大喜びで、早速準備していた水槽に移して飼育していただくことになった。
Sさんのお宅に今日お邪魔して初めて、俺が春のおやじ山暮らしが終わって山を下りる直前に、実はSさんが病気で入院したことを知った。今は無事退院してご自宅に居るが、春の時点では俺たちに心配かけまいと奥さんが入院を知らせずに隠していたのだという。何ということを・・・!Sさんご夫婦らしい気遣いに思わず涙ぐんでしまった。
つくづく実感するのだが、「越後の女性は日本一素晴らしい!」と断言したい。昨日、蓬平のNさん家で昼食をお呼ばれし、今朝は栖吉のNさん宅で朝飯をご馳走になったが、いずれの主婦も主人が招いた客人との食事中はお勝手に控えて出しゃばらないのである。それでいてSさんの奥さんのように、ご主人をしっかり看護しながらも、他の皆さんには微塵も心配かけまいと細かい気配りと配慮を施すという、何とも素晴らしい人間味である。
街から帰って、キャンプ場に張ったテントを畳み、今日からはおやじ小屋暮らしである。小屋に移って止まっていた谷川の水道を開通させ、午後4時には再び鳴き始めたヒグラシの声を、小屋の前に出した椅子に座ってしみじみと聞いたのである。 |
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2015年7月23日(木)雨 |
おやじ山の夏2015(戻り梅雨の読書) |
昨夜は小屋の窓を開けっ放しのまま眠って、今朝は雨の音で目を覚ました。狭い小屋の土間に設置したキャンバスベッドの上に身を起こして、開けっ放しの窓からシトシトと降る細い銀の簾のような雨を見続けていた。風もなく実に穏やかな戻り梅雨である。小屋向かいの山菜山は、峰の杉林や山腹に生える灌木が、モノトーンのグラデーションで彩られて、ぼんやりと雨の中で霞んでいる。まるで墨絵の世界である。
弱いシトシト雨が、一時「ザ~ッ」と強く降ると、その雨粒だけの圧力で、ミズナラの青い葉がざわめいたり、リョウブの白い花序が首を揺らしたりする。
こんな日は、薄暗い小屋の中だが、窓辺の壁に背を持たせ掛けて読書するに限る。持参した本は開高健の「輝ける闇」。著者が従軍したベトナム戦の体験小説である。この小説は何度読み返しても新たな感動がある。極限状態になった時の人間の赤裸々な本質を抉り出したこの戦記は、おそらく文豪が生涯に書いた渾身珠玉の一冊ではあるまいか。
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2015年7月24日(金)曇り |
おやじ山の夏2015(おやじ山の夕間暮れ) |
昼間は山を下りてホームセンターで刈払機の修理を頼み、それから「お山の家」に行って風呂に入って、コインランドリーで溜まった衣類の洗濯。午後6時半に一通りの用事を終えて、山道をおやじ小屋に急いだ。
道端ではヤマユリの蕾が昨日の雨で次々と弾けて、むせる程の香りである。雨上がりのヤマユリは殊のほか香りが強く、ある種の淫靡で蠱惑的な匂いを放つ。
そして潮騒のように響き渡るヒグラシの声。明け方の弾けるような鳴き方とは違って、まるで鈴を振るような澄明な響きが、暮れなずむ空と、夕間暮れの山と、蒼く沈む森に漂っていた。「カナカナカナカナ・・・・」の「カ」音は、「カ」と「ケ」と「ク」の3音の中間音である。その静謐な鳴き声が、穏やかな抑揚をつけておやじ山の風景の中に吸い込まれていくのである。
小屋に着いて、早速デッキに酒瓶を立て、ヒグラシのメロデーに全身を委ねながら茶碗酒を呑んだ。。静かに夜が浸透してきていた。つい先ほどまで明瞭だった茶碗の中の液体のゆらめきは、いつしか不分明な翳となって底に沈み、ヒグラシの鳴き声は、夜の闇に細消えながら呑み込まれて、プツリと止んだ。午後7時半だった。
この夕間暮れ時に感じる開放と安寧は、果たして何なのだろうか、といつも思う。ヒトが動物の一種として持つ本能と根源的な情動とを呼び覚ます力を、夜の闇は確かに持っているのだと・・・・・・。 |
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2015年7月26日(日)猛暑日 |
おやじ山の夏2015(ドラム缶風呂) |
今日もまた、麓の村に住んでいるNさん家に行って、ホトケドジョウを貰って、有難いことに朝食もご馳走になった。先日のホトケドジョウはSさん家に届けたが、おやじ山の池にも放してみようとNさんに追加で頼んでおいた。上手く繁殖したら、またおやじ山に絶滅危惧Ⅰ類の希少種が保存されることになる。
山に帰って2か所の池に分けて放流したが、うまく育ってどんどん増えて欲しいと祈る思いである。
今日は猛暑の中で、午前中は雪割草の斜面と1段目の杉林の草刈。ついでに杉林に伏せたナメコとシイタケのホダ木の天地返し(菌が良く回るようにホダ木を上下裏表に伏せ換えること)をした。
午前中で汗びっしょりになって、ドラム缶風呂に谷川水を張って行水することにした。しばらく放置したままのドラム缶の中は、まあ清潔とは言いがたかったけど、かまわずモヤモヤ浮かんだサムシングと一緒に入ったら・・・!「ヒエ~ッ!」と冷たくて、「気持ちイイ~ッ!」と叫んでしまった。
午後はミョウガ畑の下の斜面の草刈をして、終わってまたドラム缶の水風呂に浸かった。昼の気温で谷川水もいくらか温まって気持ち良く、今度は網でモヤモヤも綺麗に掬い取り、鳴き出したヒグラシの合唱を聞き、森の梢を真っ赤に染める残照に見惚れながら、どっぷりと今日一日の体の火照りを冷ましたのである。
日が暮れてから、「ゴロゴロ」と遠雷が聞こえてきていた。昼の猛暑で一雨来てもいいなあ、と思っていたが、午後9時にピタリと止んだ。「な~んだ。打ち上げ花火の音かあ~」と一人笑ってしまったが、考えてみれば今日は日曜日で、村祭りの最盛期である。
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2015年7月27日(月)猛暑日 |
おやじ山の夏2015(類人猿の心) |
5時起床。ラジオが猛暑日を告げて、頻りに熱中症の注意を呼び掛けている。
外に出て昨日のドラム缶風呂の水を抜いて、谷川の水道で新しい水に入れ替える。
今日、トイレの斜面の草刈を終えれば、今回予定の山仕事は一応片付いたことになる。そして明日の天気予報は「雨」とラジオが言っている。今日を最後に、明日おやじ山を下りることにした。
そして予定通り最後の草刈を済ませて、今日も水風呂に入った。谷川の水はさすが冷たくて、入った瞬間は身体のどこもかしこもギュッと縮こまってしまうが、冷水の浸透が飽和に達すると、全身の筋肉が途端に弛緩して、目を細めるほどの気持良さである。
さらに水風呂を出て、タオルで身体を拭いて、そのまま素っ裸で小屋の回りを闊歩する気持ち良さったらない!普段は陽の目をみない箇所が大自然の空気にさらされて生き生き(? !)と甦り、その解放感たるや、まさに太古の類人猿の心境である。
こんな時村の人が「やれ、こんにちわ~」とひょっこりおやじ山に入って来て俺の姿を見たら、お互いに「ギャーッ」と叫ぶに違いないのだが・・・。
ともあれ、今夜は最後の夜である。 |
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2015年7月28日(火)雨時々曇り |
おやじ山の夏2015(終章-父なるふるさと 母なる家-) |
4時に起きてドラム缶風呂の水抜き、小屋に持ち込んだクーラーボックスや寝袋や大型リュックなどの所帯道具(?)をネコ(一輪車)に積んで見晴らし広場に停めた車に詰め込み、急いで小屋に戻ってバタバタと小屋の内外(うちそと)を片付け終わった途端、予報通りポツポツと雨が降り出し、そのうち「ザ~ッ」と本降りになった。
雨空で薄暗くなった小屋の中に入って、今回もお世話になったSさんに今日これから下山する旨を携帯電話で告げ、残りのお湯で最後のコーヒーを飲んだ。
そして午前9時半、おやじ小屋に鍵をかけて、いつものように大声で「ありがとう、ございましたあ~!」と頭を下げて山を下った。
Sさんのお宅においとまの挨拶に伺うと、ユーゴー(夕顔)やらカボチャやらキュウリやらが一杯詰まった段ボールが玄関前に置いてあって、いそいそとSさんが俺の車に積み込むのである。涙が出てしまう。
Sさんにお別れを言い、途中のスーパーに寄って花を買った。おやじとお袋が眠っている托念寺の墓参りである。墓前に花を活けてから、やっぱり長い時間手を合わせて祈った。墓の中のおやじもお袋も、「孝雄にこんないっぱい頼み事をされてもなあ~」と思わず苦笑するほどのお願いをした。
托念寺の裏門から境内の外に出ると、広々と青田が拡がり、その向うにガキの頃の遊び場であった信濃川の土手が、一本の緑の線で空と大地を分けて長く延びていた。その土手に向かって青田の道を歩いていった。農道の脇には真紅のサルビアが植えられて、堤に登るスロープまで来ると、堤防の先には信濃川に架かる長い鉄橋のトラスが見えた。この鉄橋を蒸気機関車が煙を吐いて渡っていた幼い頃の記憶が彷彿と甦って、胸が締め付けられるようだった。まさに、
青田道少年の日へ真直ぐに (松本 精)
である。
墓参を済ませて、今は長兄が住んでいる実家に立ち寄った。玄関のチャイムを鳴らしたが誰も出て来ない。縁側からガラス戸越しに家の中を覗くと、洗濯物が干してありラジオも鳴っていたので、ちょっとした用事で出掛けている様子である。
家の回りをぐるり一周して、遠い昔におやじが植えたコブシやアンニンゴの木(ウワミズザクラ)やカキやクリの木を一つ一つ見上げながら、それからの長い長い年月を思った。
玄関先に戻って、ひょいと庭の草むらに隠れるように佇んでいる石に気付いた。昭和39年、おやじが国鉄を定年退職する間際に、ここおやじの故郷に初めて自分の家を建て、長く苦労を共にしたお袋と一緒にこの家で余生を送ろうとした矢先に、お袋は死んだ。結婚以来、ずっと狭い借家や鉄道官舎で暮らし、そしておやじにとっては一世一代の自分たちの家を建て、初めての持家で共に暮らす悲願も叶わず、お袋を一度もこの家に連れて来れないまま先立たれたおやじの落胆は、いかばかりだっただろうか。この庭石に刻まれた文字を何度も読み返しながら、おやじの慟哭が聞こえてくるようで涙が止めどなく流れるのだった。
おやじが自ら彫り刻んだ庭の石には、こう書かれている。
父なるふるさと
母なる家
おやじ~!おやじ~! あ・り・が・と・う~!!
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