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最後のページは<7月16日> 2ページに「おやじ山の夏2014」(故郷は緑なりき)をアップしました 

2014年7月3日(木)晴れ
東日本大震災ボランティア(モアイ像に希望を託して)
 昨日(7月2日)午前2時に自宅に着いた。6月21日に藤沢を出発して宮城県南三陸町志津川に入り、正味9日間の震災復興支援のボランティア活動を終えて帰って来た。

 1年前にも同じ南三陸町志津川に行ってボランティア活動に参加したが、その場所が今どうなっているのか、実際自分の目で確認したい気持ちもあった。詳しくは6月日記に譲るが、実際ため息が出る思いだった。自宅に戻り、久々に観るテレビや新聞は、中央政治のゴタゴタと首都圏の喧騒とで満ち溢れていたが、残念ながら東北の復興と人々の苦しみ、悲しみは昨年と同じに取り残されたままになっているようだった。
 確か今の日本国首相は「東北の復興無くして、日本の再生なし」と豪語した筈だが、他にうつつを抜かしているうちにすっかり東北を忘れてしまったように思える。

  しかし今回も、地元南三陸町の人たちからは、微力な俺たちへの限りない優しさと深い感謝の恩を受けた。そして今年も、同じボランティア仲間との嬉しい再会を果たし心からの旧交を温めることができた。

 そして今回の滞在期間中には、通常の農業支援や漁業支援の他に丸太をチェーンソーで彫り刻むモアイ像作りをやらさせてもらった。過去のチリ地震でやはり津波被害を受けた南三陸町は、チリ共和国から友好の絆の証としてモアイ像を贈られて町のシンボルとなっているが、(この像は今回の大津波で頭と胴体がバラバラになってしまった)思わぬ仕事で俺の処女作1体を完成させることができた。そしてモアイ像の背面には希望を託して、「祈 復興」とチェーンソーで彫り刻んだのである。

(6月日記「東日本大震災ボランティア」に続く)
2014年7月16日(水)晴れ
おやじ山の夏2014(故郷は緑なりき)
 7月7日に新幹線で長岡入りして、この日は市内のホテルに泊まり、翌8日から14日までおやじ山で過ごした。
 今回の目的は「猿倉緑の森の会」代表のNさんを通じて、地元長岡市立太田中学校の総合学習授業で講話をして欲しいという依頼があり、それで出掛けて行ったのである。しかし生徒たちに話をするだけでトンボ返りはもったいないと、ぐずぐずとおやじ山で1週間過ごしてしまったが、生徒たちとの触れ合いも楽しかったけど、おやじ小屋で過ごした時間もまた、何ともいいものだった。

 8日は、太田中学校1年生6人と膝つき合わせての授業で、与えられたテーマは「ブナを植林する理由(生徒たちは緑の森の会の指導を受けて猿倉岳にブナを植林している)」、そして「ブナ林がどのように環境に寄与しているか」、さらには「地域のために生徒自身が何ができるか考える」だった。教室には担任のY先生の他に、校長先生や教頭先生、それから他の学年の先生方も聴講に来て下さり、「これは迂闊に冗談など飛ばせないな」と一瞬焦った。しかしやっぱり俺がガキの頃におやじと一緒に山を駈け回っていた時のエピソードなどを長く話して、時間を費やしてしまった。座学の後は車で「天空のブナ林」に移動し、ブナ林の中を歩きながら生徒たちに現在の森の生い立ちや林床の植物などを説明した。

 中学生たちと別れて、今度はNさんたちが太田小学校の子供たちに山の斜面に階段作りを指導している現場に行った。大きなカケヤを持って、周りの大人たちの「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声で必死に杭を打っている子どもたちに目を細めていると、「関さん、この子らにも少し話をして下さい」との予期せぬリクエストである。慌てて車の中から中学生たちの講話で使った「紙芝居」を取り出して説明したが、皆真剣な表情で聞いてくれて、俺の方が嬉しくて感動してしまった。

 そしてこの日から過ごした7日間は大型台風8号の影響で物凄い雷雨に見舞われたりと天気には恵まれなかったが、おやじ山で舞うホタルに出会えた。
 初日の8日午後8時過ぎ、少し小雨がパラつき始めた時刻だった。谷川から1頭のホタルが山の斜面を漂いながら上って来た。そしてそのまま小屋の屋根を一越えしてすぐ脇のおやじ池の上でしばし浮遊してから、今度はまるで急流を流れ下るように漆黒の闇の中を谷川の方に落ちて行った。このホタル一頭が放つ光の、何という強さだろうか!数年前に出会ったこの谷川での驚くべき数のホタルの乱舞を密かに期待していたが、この1頭のホタルに出会えただけで満足だった。

 さらに台風8号が九州に上陸したという10日の午後7時半過ぎ、今度はおやじ池から流れ出る「中の小川」でホタルが2頭出た。初日同様強い光の2頭が闇の底で浮遊していたが、1頭がス~と流れるように薪小屋を越えて、俺の方に飛んで来たのである。そしてあろうことか、俺の足元に纏わり付くように漂ってから、また小川の闇の中に戻って行った。「あれ~」と思わず声が漏れ出て、このホタルには紛れもなく意志があると思った。間違いなく俺に会いに来てくれたのだと確信した。「ありがと~!ありがと~!」と胸が一杯になってしまった。

 おやじ山自慢のヤマユリが咲き始めたのは台風一過の12日だった。この日は30度近い夏日になって、ライトグリーンだったユリの蕾が一気に白さを増してパチンと弾けるように大輪のヤマユリが花開いた。あと一週間もしたら、まさにおやじ山は妖しい濃厚なユリの香りでいっぱいになる筈である。

 そして今回も地元のSさんからは青天井のご親切を受けた。一日、山を下ってSさん宅で夕食を御呼ばれし昔懐かしいクジラ汁や丸ナスの蒸し料理などをご馳走になった。「やっぱし夏野菜のゆうごう(夕顔)やら丸ナスが出てくると、長岡ん者は塩クジラと一緒にクジラ汁で食わんと納まらんがいねえ」とSさんは言った。

 一晩泊めてもらった翌朝には、Sさん家からほど近い来月2日、3日開催の「長岡大花火」の打ち上げ会場の信濃川河川敷に案内していただいた。仕掛花火「ナイアガラの滝」の長生橋の袂まで歩いて行ったが、つくづく長岡市民が誇る名橋だと改めて感じた。

 思い起こせば遙か昔、俺がまだ青かった昭和36年、この信濃川の土手や実家の直ぐ裏を走る信越本線を舞台にした「故郷は緑なりき」(村山新治監督)という青春映画が長岡で上映された。母ちゃんに内緒でこっそり映画館に忍び込み、主人公志野雪子演じる佐久間良子の余りの可憐さ美しさに、抵抗力0の当時の少年S君がどんなにか身悶えしたことか!

 しかし、それから53年が経った今回の山入りでも、おやじ山に向かう途中の田園風景は思わず涙ぐむほどの懐かしさと郷愁で俺を迎えてくれた。夏空の下で青々と早苗がそよぎ、農家の庭先には立葵や百日草がひっそりと咲いていた。やはり今も「故郷は緑なりき」だったのである。