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最後のページは<7月1日> 2ページ目(6月21日日記)から「東日本大震災ボランティア」を掲載しました。

2014年6月10日(火)薄曇り
おやじ山の春2014(プロローグ)
 一昨日(6月8日)の夜、おやじ山から藤沢の自宅に戻った。
 3月16日に藤沢を出発して翌17日に山入りし、途中3日ほど山を下りたもののそれから6月7日までおやじ山暮らしを続けた。およそ80日間の滞在である。

 山入りした当初は積雪が昨年の半分程しかなく、「今年は春が早いぞ!」と予感させられたが、3月21日、4月5日と山入り後に2度も雪が降って氷点下の日が続き、結局は雪の多かった昨年と同じ季節の推移となった。
 4月10日頃からほころび始めたカタクリの花は4月20日には一面見事なピンクの花園となり、翌21日の雨を境に、カタクリはスプリングエフェメラル(春のはかない命)となって、おやじ山は早春から春の季節へと一気に切り替わった。そして23日にはおやじ小屋の前に生えるカスミザクラの枝がぼんやりとした色付いたかと思いきや、26日には豪華な花盛りの大木となった。わずか2、3日で冬枯れていた木々から眩い新緑がわ~と萌え出し、まさに「山笑う春」に突入したのである。

 そして今回の滞在中も、いつもと同じ友人や知人たちがおやじ山を訪ねてきてくれた。さらにその友人たちに誘われて遠来からの新たな客人も加わって、いつものことながら身に余るお世話を受け、本当に楽しく愉快な時間を過ごすことができた。

 長年おやじ山で年間の三分の一を過ごしているが、年々再々全く飽きるということがない。山の表情は年々異なり、毎年俺を驚かせるいくつもの発見や珍事がおきてわくわくと胸弾むのである。
 この春は、フクロウの巣箱には待望のヒナが育ち、正面の朴の木の巣箱にはムササビが棲み、何と!コナラに括り付けたシジュウカラの巣箱はアオダイショウに乗っ取られて、穴からチロチロと首を出して気持ちが悪いったらなかった。(カミさんが巣箱から下りてくるヘビをむちゃくちゃに棒で叩いて殺してしまったけど、この残酷シーンも、チョー気持ち悪かった。こんなおっかない女を女房にしたと思うと・・・)
 それから伊豆のKさんに作っていただいたミツバチの置き巣箱に、待望の二ホンミツバチが入った。(数匹だったけど・・・)もしこれが大成功したら、俺は山師から養蜂家に変身するつもりである。

 キャンプ場に張った最後のテントを撤収し山を下りた6月7日は、帰途に長岡で一番お世話になっているSさん夫婦と一緒に野沢温泉まで小旅行をした。
 途中、Sさんの案内で八海山酒造を見学し、50年ぶりの雲洞庵を訪ね、外山康雄のギャラリーで野草の花々の絵を鑑賞した。

 そして野沢温泉に宿をとって、Sさん夫婦と小宴をはり今回の山暮らしを締めくくったのである。

<3月17日日記(おやじ山の春2014)に続く>
 

   東日本大震災復興支援ボランティア活動日記

2014年6月21日(土)曇り
東日本大震災ボランティア(南三陸町に入る)
 東日本大震災復興支援のボランティア活動に参加するため、昨年に続いて2度目の南三陸町行きである。昨年は6月19日に同じ南三陸町志津川に入って15日間の活動をやったが、今年は6月末までの9日間を予定していた。

 朝6時半に藤沢の自宅を車で出発し、東名町田IC~首都高速道路~東北道~仙台南部道路~仙台東部道路~三陸道~東浜街道とひた走って、午後4時前に南三陸町志津川のベイサイドアリーナ大駐車場の端に設営されたボランティアセンターに到着した。自宅から520キロメートルの距離である。
 「やれやれ」と車を降りると、ボラセンの大テントから真っ黒い顔の老人(失礼!俺とあまり歳は変わらないかも?)が目をすがめるようにして俺の方に寄って来た。松本のWさんで、1年前のボランティアでも二人で刈払い機をブンブン回して瓦礫場の草刈をした仲である。「Wさん!」と俺の方から呼びかけたら、「確か、会ったことあるよね」とつれない返事である。「ほら、昨年一緒に・・・」と勢い込んで説明すると、途端に破顔となって真っ黒な手を差し出した。Wさんは3・11直後から東北入りして、南三陸町では大ベテランの先輩ボランティアである。

 午後4時を回りボラセンの受け付けは明日朝からだと告げられて、取り敢えずはテントの設営許可証だけを貰って近くの児童公園に行った。

 公園には見覚えのある釧路のSさんのテントがポツンと一個張ってあった。事前のSさんからの電話連絡では、2日前にここに着いて、1日南三陸町で活動したあと、今日、明日の2日間は福島の南相馬で復興支援に加わっている筈である。

 懐かしい気持ちでテントを張り終えて、近くの食品店「ヤマウチ」に買い出しに行く。冷凍ケースに並んだ魚介類の中から刺身用のホタテの臓物(中の身を外したあとのビラビラの貝ひもと内臓)(6個分も入って100円!)と自家製イカの塩辛、それに仙台の銘酒一ノ蔵を買ってテントに戻る。
 公園のベンチに座って生臭さいっぱいの一人宴会になったが、何とも懐かしい南三陸町の初夜だった。
2014年6月22日(日)晴れ
東日本大震災ボランティア(第1日:山を崩して畑を作る)
 朝4時過ぎに目が覚めてしまった。児童公園から車で5分ほどの荒島の浜に散歩に出掛ける。昨年は栃木県から来たというSさんとこの浜で会って(Sさんはアリーナ駐車場に停めたマイカーの中で寝泊まりしていて、毎朝ジョギングでこの浜まで駈けて来ていた)、「震災の年にボランティアで来てこの浜で瓦礫の処理をやりましたが、ドロドロの海で酷かったです。でも今はこうして綺麗になって嬉しいです」と話されたが、感慨深くその静かな志津川湾を眺める。

 今日の初ボランティアは12人のメンバーで田ノ浦地区の畑作りだった。依頼主のSさんの山をツルハシとスコップで切り崩して畑にし、仮設住宅の仲間と一緒にここで農作業をしたいというのである。リーダーは嬉しいことに若い女性2人で、1人は切り崩し組、もう1人は土砂の整地組である。
 それで午前中はシャベルを持って切り崩し組に入った。この組は力自慢の若者がツルハシとタイタンパーを揮って山の斜面を切り崩し、俺はその土砂をシャベルで掬ってネコ(一輪車)に入れ、整地している下の段にザ~!と捨てるのである。

 気温がどんどん上がって給水タイムを何度かとったが、昭和15年生まれだという依頼主のSさんが甲斐甲斐しく冷えたリポビタンDやら缶コーヒーを俺たちに振舞って、全く恐縮してしまった。
 Sさんの家は大津波でひとかたもなく流されてしまって、津波が引いた後に行ってみたら大きな石臼だけが残っていたと話してくれた。「何処さから来たんだす?」と聞かれたので、「神奈川県の藤沢です」と言ったら、「オラが若い時分に、横浜さ2年居たっけなあ~」と深く刻まれた顔の皺をくしゃくしゃにして小さく笑った。

 午後からは整地作業に回った。段の上から放られた土砂を若い女性リーダーが整地している場所までネコで運ぶのである。おやじ山では何百回となく山道をネコで往復しているので手慣れたものだったが、ちょっとよろつく度に女性リーダーが「あれ、大丈夫ですか!」「ワタシ、交替してやりましょうか?」といちいち声を掛けるので、心の中で(クソッ!俺を老人扱いしやがって!)と腹を立ててしまった。どうもこういう場所に来て若い連中の中に入ると、何やら意地を張ってしまって俺はまだまだ悟りの境地には程遠いのである。

 午後3時に作業を終えてボラセンに戻る。そっと手を開くと、豆ができていた!午前中、若い連中のツルハシの扱いを見かねて見本を見せてやったせいである。正直言っていきなり頑張り過ぎて、これが苦しかった。あ~あ・・・。
2014年6月23日(月)晴れ、日中28℃
東日本大震災ボランティア(2日目:モアイ像磨き)
 朝のラジオが「今日は沖縄慰霊の日」だと告げている。何年か前に「朝日歌壇」に載った短歌を思い出す。
 
 
六二三 八六八九八一五 五三に繋げ我ら今生く  (西野防人)

 朝5時に南相馬でボランティアに行っていたSさんから電話が入り、「今そちらに向かっている途中で、今日からご一緒できます」と元気な声が届いた。そしてボラセンテントの脇の水道を使って洗面と歯磨きをして児童公園に戻ると、Sさんがニコニコと笑いながら手を差し出した。「お久しぶりです。お元気そうで」と互いに固く握手を交わす。

 8時過ぎボアセンに行くと、Wさんから「今日は一緒にモアイ像やりましょう」と言われた。南三陸町のシンボルであるモアイ像の歴史は1960年まで遡る。この年、チリでマグニチュード9.5という巨大地震に見舞われ1,600人超の人々が犠牲になった。そしてこの地震は太平洋を隔てた日本にも津波被害をもたらし、南三陸町では41人が亡くなったのである。それから30年後の1990年、津波被害を忘れず防災意識を高めるために南三陸町では記念行事を計画し、翌年にはチリ共和国から「友好と防災のシンボル」としてモアイ像が贈られてきたのである。しかし湾岸沿いの松原公園に設置されたこのモアイ像は、2011年3月11日の大津波で被害を受け胴体と頭部が離れてしまったと聞かされた。

 ボラセンの脇のテントに直径が60cm以上もある松の丸太が10本程転がっていたが、今日の作業場はここである。Wさんら腕に覚えのあるチェーンソーマンが既にこの丸太で何体かモアイ像を彫っていて、公共施設のあちこちに飾られてあった。なかなかの評判らしくてリクエストが多く、さらに彫り続けているのだが、今日の俺の仕事は彫り終えたモアイ像の仕上げのグラインダー掛けである。
 Wさんをリーダーに彫り作業はKさん、Mさん、磨き作業は大阪から来たという若いNさんと俺である。

 「さて、作業開始を・・・」という時間に不思議なオッサンが現れた。白い巡礼衣装の真っ黒に日焼けした人で、初日からボラセン前で何度か見かけていた。Oさんという74歳の大分の人で、東日本大震災復興祈願で本州一周4,100kmを歩いて旅をし、数日前からここに留まり、そして今日また旅立つので皆さんに挨拶に来たというのである。新人の俺にまでがっしり握手して荷物満載の乳母車を引いて歩き出したが、74歳とは思えない足取りでスタスタと遠ざかって行った。

 午後4時、作業を終えてSさんと一緒に「ヤマウチ」の店内にある食堂に行った。そして早速店で買った缶ビール、豆腐、イカの煮付けなど(皆なSさんにご馳走になった)テーブルに並べて再会の乾杯である。

 そしてほろ酔い気分で児童公園に戻り、二人でベンチに座って再び呑み出したが、さすがにテントに倒れ込むと同時に寝入ってしまった。
2014年6月24日(火)晴れ
東日本大震災ボランティア(3日目:俺は南三陸のゴッホになる)
 朝起きて児童公園の向かいにある高台移転の造成地を見に行った。1年前には小高い丘陵地だった所だが、今やブルトーザーで平らに削られて法面の吹き付け工事などが行われていた。工事現場のパネルには志津川中学校の生徒さん達から寄せられた「復興への思い」のメッセージが書かれていた。

 前の町よりもより活性化している町をつくりたい  佐藤かおり

 高台にともるあかりは希望の灯 礎を築くぼくらの高台に  阿部穂菜美

 しかし4日前に南三陸町に入って、津波でやられた港から防災庁舎に広がる荒涼とした更地を見ても、その姿は1年前の風景とほとんど変わっていなかった。そして児童公園から望まれる仮設住宅は、ひっそりとはしているがやはり1年前と同じように夜には全戸に灯が点り、いまだ不自由な生活を余儀なくされているように見受けた。
 そしてこの高台移転造成地では、鹿島・三井建設などの大手建設会社が名前を連ねた共同企業体の看板に、工期が平成27年12月15日と遙か先の日付が書かれて、現場には重機の影もなかった。阿部穂菜美さんの「高台にともるあかりは希望の灯」とは何と遠くかけ離れているのだろうか。町中に槌音が響き渡って復興のエネルギーで湧き立っていると夢想していたが、とんでもない思い違いだった。

 大震災を蒙った日本が、世界各国、とりわけ貧しいアフリカの国々からも義援金を受け取り、国民こぞって寄付をしたり復興税を払ったりした厖大な復興資金は、いったいどこに行ってしまったのだろうか?

 今、東京電力福島第一原発が立つ福島県の沿岸部で国の除染と復興工事が急ピッチで進められているという。放射能に汚染された土地に戻るあてのない住民のためではなく、2020年の東京オリンピックまでに復興したフクシマの姿を世界に見せるための「住民不在」の突貫事業である。大熊町の町道ではわずか2、3分の間にダンプカー30台が通り過ぎたという報道があったが、復興資金のほとんどが地震や津波ではなく人災である原発事故の尻拭いと国のメンツのために使われているのではないかと勘ぐらざるを得ない。

 今朝も荒島の浜に散歩に出ると、Sさんも来ていた。そしてSさんに誘われて津波で折れた鳥居の前から階段を上って島の頂上にある荒嶋神社に参拝した。

 そして今日からは初挑戦の丸太をチェーンソーで刻んでのモアイ像作りである。おやじ山では間伐や雑木林の整備でチェーンソーは使い慣れているが、丸太を刻むカービングは初めてである。Wさんから最初の手ほどきを受けたあとは、全くの一人作業である。いささか不安ではあるが、心意気だけは「俺は南三陸町のゴッホになる!」である。

 午後3時、作業終了。まだ2割ほどの出来具合である。
2014年6月25日(水)晴れ
東日本大震災ボランティア(4日目:最良のモデル)
 昨夜はモアイ像が夢にまで出て来てうなされてしまった。耳がどうの、鼻がどうの、顎がどうのと四六時中作りかけのモアイ像が頭に浮かんできて困った。そして今朝は、いつも車を停めておく志津川保健センター駐車場脇の草むらを何の気なしに覗くと、何と!あの大津波で被害にあったチリ共和国から贈られたというモアイ像の胴体が転がっていた。最良のモデルがテントから50m先に転がっていようとは全く灯台下暗しで、慌てて写真に撮ったりスケッチしたりした。

 午前中は横浜出身で既に1年前から南三陸町の隣町登米市内に住んでボランティアを続けているというAさんと一緒にモアイ像作り、午後からは俺1人になったが全身ゴッホと円空の化身となって像作りに励んだ。

 昼近く、きちんとした身なりのご夫婦が俺たちの所に見学に来た。アリーナの玄関に置いてあるモアイ像を見て、興味を持って見に来たのだという。手を休めてご夫婦と会話しているうち、昔は森林組合で働いていたこと、娘さんが3・11の大津波で行方不明になり現在も分からないままであること、そして大好きだったカラオケもショックの余り2年間歌うことができず、ようやく1年前から声がでるようになったことなどを話された。

 Wさんが自宅に帰られ、入れ替わるように大阪からボランティアの大先輩SYさんがボラセン入りした。モアイ像と格闘している俺のところにも来て「ガンバッテルやねん。オレ大阪から自家製のお好み焼き作って持ってきたやけん、今晩食べてくれはらへんか」と嬉しいご挨拶である。

 そして作業が終わって午後4時半、Sさんと一緒に志津川高校まで車を乗り付け、情報で探し当てたチリ共和国から贈られたモアイ像の頭の方を見に行った。教員室で許可を貰って校庭に置かれた2mの頭部を、これまた写真に撮りスケッチして頭に叩き込んだ。

 帰りに仮設商店街の「さんさん商店街」に立ち寄ったが、ここには3・11後にチリから新たに贈られたというモアイ像が立っていた。マジマジ眺めたが、今朝目に焼き付けた保健センターの胴体とも、つい先ほど校庭で頭に叩き込んだ頭部とも全然違うのである。つまりこっちの方が随分モダンな感じで全く頭がこんがらがってしまった。

 夕飯は、今日もSさんと一緒に児童公園のベンチ(バー・サンセット2と名付けた)でSYさん差し入れのお好み焼きで盛り上がった。さすが本場の味で、こんな美味いお好み焼きは生まれて初めてである。
2014年6月26日(木)曇り~晴れ
東日本大震災ボランティア(5日目:美味しい1日)
 朝、最寄りのコンビニ店で河北新報を買って読む。岩手、宮城、福島の被災3県でいまだプレハブ仮設住宅に4万3,796戸、93,000人が入居。そして27面には6月25日現在の宮城県、福島県内の主な放射線量が地図に記されていたが、原発事故前の時間当たりのマイクロシーベルト最大値(宮城県:0.05、福島県:0.04)と現在の数値(丸森:0.13、伊達:0.21、飯館:0.49、南相馬:0.12、双葉:6.46・・・)を見比べながら溜息が出る思いだった。

 今日はSYさんと一緒に2つの団体のボランティアリーダーを務めた。大型バスでやって来た業界団体の37人とある会社の社員30人の合同作業である。
 場所は50戸のうち15戸が津波で流されたという大久保地区のいちご農家で、450坪の2つのビニールハウスに入って収穫の終わったいちごの苗を引っこ抜く作業である。俺は業界団体のグループを担当したが、採り残したいちごを食べながらの美味しい作業で楽しくも貴重な経験だった。

 今日も真夏日のビニールハウスの中の作業で皆さんの熱中症を随分心配したが、給水タイムには珍しい蒸しホヤのおやつなども出されて、午後3時には無事終了した。

 漁業支援に向かったSさんが立派なクリガニを10匹ほども貰ってテントに帰ってきた。料理人のSさんはバー・サンセットのベンチで瞬く間に見事なイタリアン料理を作ってくれたが、早速アリーナの駐車場で車で寝泊まりしているSYさんにも届けた。そしてこの夕餉時に、先ほどまで2歳と4歳の子供を連れてこの公園で遊ばせていた若い奥さんが、お漬物の差し入れに来てくれた。ビックリしてベンチから立ち上がって押し頂きながら、嬉しくて涙がこぼれてしまった。
2014年6月27日(金)曇り~晴れ
東日本大震災ボランティア(6日目:Rちゃんのプレゼント)
 昨夜はトイレに起きたら深い霧だった。ここ三陸海岸は日中は真夏日でも夜には肌寒いほどの気温になる。そして霧が出るとやはり寺山修司の句を想い出す。放尿しながらそっと口ずさんでみる。

 マッチ擦るつかの間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや

 S料理人の昨晩のクリガニ料理は絶品だったが、とても食べきれなかった。Sさんはその残りを今朝の味噌汁にしてくれたが、これがまた出汁がたっぷりと出て美味いの何のって!!多少二日酔い気味だった体もシャキッと治ってしまった。俺はこんなボランティア仲間を持って何と幸せ者だろうか!

 今日はSYさんがリーダーでモアイ像作りの再開である。今回がモアイ像8体目だという大ベテランの若いTさんが加わり、2日目で磨きで一緒だったNさんも手伝いに入っての作業だった。

 3時に仕事を切り上げ児童公園に戻ると、小さな女の子が一人で遊んでいた。脇の駐車場には軽自動車が停まっていて、運転席に老人が座っていたが、ここでお孫さんを見張っている様子だった。女の子に「こんにちわ~」と声を掛けて、発泡酒を手にしてバー・サンセットのベンチに座った。すると女の子が近寄って来て5m先でピタリと止まって俺の方をじっと見ている。胸に名札が縫い付けてあってその文字を目でなぞりながら「○○Rちゃんですか。何歳ですか」と話しかけた。すると可愛い手をパッと広げて「5さい・・・」と答えてくれた。それから踵を返すと、おじいちゃんの車からシャボン玉を取って来て、また俺の5m前でピタリと止まってフーフーとシャボン玉のプレゼントである。「わあ~きれいだねえ。ありがとう」と言ってしばらく見ているうちに、老人の呼び声がして女の子は走り去ってしまった。

 そして今日の夕飯もSキッチンのクリガニ酒蒸し料理だった。クリガニにかぶりつきながら頻りに「Sさん、今日のRちゃん可愛かったよ~本当に可愛かったよ~俺にシャボン玉吹いてくれてね・・・」俺は酔っ払うと同じ事を何度も繰り返す癖がある。Sさんしつこくてゴメンナサイ。
2014年6月28日(土)曇り~夜雨
東日本大震災ボランティア(7日目:モアイ像完成。Sさんの誕生日)
 漁の解禁を「開口」(かいこう)と呼ぶらしい。それで26日に初開口を迎えた南三陸のウニ漁の様子を朝の散歩がてら荒島の浜に見に行った。低気圧が近づいて多少海面がざわついていたが、小舟に乗った漁師たちが船縁から箱メガネで覗いていた。

 今日は福井から来ているMさんと二人でモアイ像作りだった。Sさんは栃木からの団体2グループ、航空会社、宗教法人など珍しく総勢160人の大ボランティア集団と一緒に畑の石拾い作業で出掛けて行った。

 俺のモアイ像もいよいよ今日が最終日の予定である。明日は雨の予報で多分作業は中止。最後のラストスパートである。
 そして今日の昼は、ボラセンのテントでスタッフ手作りの蕎麦をご馳走になった。少し常連の仲間入りができたようで嬉しかった。午後3時、最後に像の背面に「祈 復興」とチェーンソーで刻んで俺のモアイ像第一号が完成した。バンザ~イ!

 Sさんが石拾いから帰ってきて二人で「さんさん商店街」の食堂に向かった。何しろ今日はSさんの誕生日なのである。Sさんはずっと狙っていたというあなご丼、俺は刺身定食を頼んでSさんの誕生日を祝った。Sさん誕生日おめでとう!

 夕方から雨になった。気温が一気に下がって肌寒い夜となった。
2014年6月29日(日)雨
東日本大震災ボランティア(8日目:雨のお別れ会)
 雨になった。ラジオが宮城県東部に大雨注意報が出たと報じている。それで今日はボランティアを休むことにした。しかしよくぞ今まで天気が持ちこたえてくれたと天に感謝である。

 6時半にコインランドリーに行き溜った洗濯物を洗った。それからアリーナの大駐車場では「福興市」が開催されているので、Sさんと一緒に傘を差して冷やかしに出掛けた。いつも俺達にサービスしたり我がままをきいてくれる「ヤマウチ」も出店していて、Sさんは早速名物のタコの唐揚げを買ってやっていた。
 俺の大好きなホヤがボックス一杯に何箱も並べられていて、見ると「ホヤ詰め放題!¥500」と張り紙が出ている。これに挑戦しない手はない。渡されたビニール袋にぎゅうぎゅう17個!詰め込んで満面の笑みである。 しかしホヤは鮮度第一で傷みが早いのでコンビニに走って板氷を買ったのだが、ほとんど氷代がホヤの値段近くなった。

 そして明日は釧路へ帰るというSさんのお別れ会を、Sさんのテントの中に入ってやった。バー・サンセットは生憎の雨で使えず、Sさんのテント内の荷物は帰り支度で車に殆ど積んだせいでテント内が晩餐会場に早変わりしたのである。そして今夜もSさんが料理人の腕を振るって、アサリの酒蒸しを作り、モヤシと裂きイカ!をフライパンで炒め、最後にカシューナッツを散らした絶品料理を作ってくれて、テント打つ雨音を聴きながらのお別れ晩餐会となった。
2014年6月30日(月)曇り~晴れ
東日本大震災ボランティア(9日目:フィナーレのカキ磨き作業)
 朝、荒島の浜に散歩に行って児童公園に戻るとSYさんが居た。SYさんも今日南三陸町を離れて、これから東北の山巡りをするという。そして6時50分、先ずSYさんの車が出て行った。
 8時になってテントの片付けをしているSさんに「俺これからボラセンに行くから」と声を掛けた。そしてSさんと固く握手をして児童公園を後にした。

 ボラセンで「今日は関さんには漁業支援の作業に加わってもらいます」と告げられて、リーダーの車の後に付いてマイカーで港の現場まで行くことにした。ボラセンを出てすぐ児童公園の脇道を通るので、ここでスピードを緩めてクラクションを鳴らした。Sさんが公園内を走って手を振っている。「Sさ~ん、お元気で~。ありがとうございましたあ~」車の中から大声で叫んだ。

 志津川漁港の漁業生産組合の建物に入って、今日の作業は水揚げした養殖カキの出荷前のお化粧、つまりブラシと小型ピッケルを使って殻に付いた海藻やフジツボを落とす「カキの磨き」作業である。
 午前中は10人で作業していたが、午後からは4人の社員グループが帰って、個人ボランティア6人での作業となった。

 午後3時、最後のボランティアが終わった。ひっそりとなった児童公園に戻り、ヤマウチで最後の夕食を買い、そして一人でバー・サンセットのベンチに座って酒を飲んだ。Sさんが居なくなって、やっぱり寂しかった。

 そしてテントに入ってもなかなか眠ることが出来なかった。最後の夜を早々と眠ってしまうのが惜しかったからである。身体を起こして再びチビチビと酒を飲み始めた。


(この下のページに「7月1日日記」を追加します)
2014年7月1日(火)晴れ
東日本大震災ボランティア(帰還の日)
 5時起床。今朝も荒島の浜まで散歩する。3年前に大津波が荒れ狂ったとは信じ難い穏やかさである。テントに戻り片付けを始める。中の荷物を車に運び込んで、9時には濡れたテントも乾いて全ての片付けが終わった。それから児童公園に向かって頭を下げて「ありがとうございました」と小声で挨拶をした。

 9時20分、ボラセン前で車を停めて「テント設営許可証」を返しに行った。只一人残っていたスタッフの女性に許可証を渡し別れの挨拶をすると、テントの外まで出て来て見送ってくれた。

 帰りは45号線の東浜街道を通らず海岸沿いの398号線を走った。昨年のボランティア期間中に行った「大川小学校」を再び訪ねてみたかったからである。3・11の当日、校庭で引率された児童と教職員の84名が津波で犠牲となった場所である。

 北上川の河口近くに立つ大川小学校の残骸は、ひっそりと静まり返っていた。1年前は引きも切らない観光バスや乗用車でごった返していたが、その事が嘘のような寂しい光景である。現地には10時40分に着き、昨年8月に建立されたという慰霊碑に手を合わせ、その中央の「恩愛」と彫られた石碑に84名の刻まれた1人1人の名前を目で追った。それから昨年は思わず涙したあの校庭の足洗い場の壁に描かれた卒業記念の生徒たちのペンキ画、宮沢賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」を見に行った。やはりじっと見ているうちに目頭が熱くなるのである。

 再び慰霊碑の前に立って石碑に刻まれた大川小学校校歌「未来をひらく」をメモする。その二番の歌詞はこう書かれてあった。

二、船がゆく  太平洋の
  青い波   寄せてくる波
  手をつなぎ 世界の友と
  輪をつくれ 大川小学校
  はげむわざ 鍛えるからだ
  心に太陽  かがやかせ
  われらこそ  あたらしい
  未来を   ひらく

 慰霊碑にたむけられた花束にキアゲハが2頭舞っていた。黄色い菊の花にとまり、白い菊に移り、グラジオラス、そしてアスターの花へと繰り返し行き来してなかなか離れないのである。この蝶も鎮魂の思いを込めて舞っているのであろうか。

 約1時間の滞在だった。その間、この場所を訪れた人は、宮城ナンバーの軽自動車に乗った夫婦と、仙台ナンバーの乗用車で花束を手向けに来た夫婦のたった4人だった。もう東北は人々の記憶から忘れ去られてしまったのだろうか。

 11時35分、大川小学校を離れる。

東日本大震災復興支援ボランティア活動日記 おわり