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2014年12月4日(木)晴れ~雨
最近の新聞から
 河上肇の「貧乏物語」を読み、宇沢弘文の「経済学は人びとを幸福にできるか」を繙きはじめたら、さすが経済感覚ゼロでいつもカミさんからガミガミと小言(大言?)を言われているわが身であっても、何やらその方面の新聞記事に目が留まるようになった。折しも衆院選が今月2日に公示されて、「アベノミクス!アベノミクス!」とやたら煩くなってきたし・・・

 以下はその目に留まった最近の新聞記事の抄録である。(*は小生のコメント)

<今の日本の格差の実態>(11月28日朝日新聞)

『安倍政権下で進んだ株高で、富裕層が増えている。金融資産(預貯金、株式など)を1億円以上持っている「富裕層世帯」は、2013年に初めて100万世帯を超えた。一方で、資産を持たない「ゼロ世帯」も3割と高止まりしている』
『13年は1億円以上が100万7千世帯で、全世帯の約2%』(*何と!100年前に河上肇が「貧乏物語」で著した英・米・仏・独の最富者の比率と同じ!)一方『金融資産を持たない世帯(2人以上)は30.4%。1人世帯に限ると金融資産を持たない世帯は38.9%に上る』(*つまり1人世帯では約4割がその日暮らし生活か?)
『お金持ちのビジネスは盛り上がりを見せており、証券各社は富裕層に対象を絞った豪華な店舗開設や富裕層向け運用相談に力を入れ』『百貨店の高額品の販売は好調で、美術品や宝飾品、貴金属の13年の売り上げは、前年比15.5%増』『輸入高級車(1千万円以上)の今年1~10月の販売額は前年同月比で5割増』(*ひがむ訳ではないが、まあ、ひがんでいるんだけど、こんな金持ちには奢侈ぜいたくを戒めた「貧乏物語」を是非読んでもらいたい)

<アベノミクス批判と課題>(12月2日朝日新聞オピニオン 同志社大学教授 浜矩子氏)

『アベノミクスは円安、株高を導き出したけれど、輸出数量は期待したほど伸びず、輸入価格が上昇して生活と生産のコストが上がっている。株価が上がれば、経済が良くなるという考え方は本末転倒です。本来は、実体経済がよくなって株価が上がるものです。株をたくさん買っているのは外国人投資家で、長続きしない。円安と株高の二つの芸だけでは経済政策の限界は明らかです。』
『アベノミクスは強い者をより強く、弱い者はそのままにしておく政策だと言わざるを得ません。株高などの恩恵に浴した富裕層から富が滴り落ちる「トリクルダウン」が効くのだと称して、熱い部分をどんどん熱くしている。その結果が人手不足で、中小企業は人手が足りず増産もできない。富はしたたり落ちていないのです。』
『消費税を引き上げていくなら軽減税率の導入は当然です。生活必需品の税率を下げ、ぜいたく品には逆に「重増税率」を適用していい。高額所得者に対する金持ち増税、企業の内部留保への課税も考える必要があります。』
『めざすべきは、多様な人々が参画できる社会です。強い人たちだけが生き残る均一化した社会は、必ず滅びます』


おやじ山の冬2014

2014年12月7日(日)雪
おやじ山の冬2014(雪中の読書)
 昨6日におやじ小屋に入った。途中の山道は予想外の積雪で、麓のスキー場では2、30cm程の雪が、見晴らし広場を過ぎたあたりから膝上までの積雪量になった。そして今日もまた、終日しんしんと雪が降り続いた。

 秋の下山時の予定では、おやじの命日(11月23日)には再び山入りして、墓参りを兼ねて小屋の雪囲いを済ませる積りだった。それが森林調査の仕事で叶わなくなって、天気予報の大雪警報を聞いて慌てておやじ小屋の雪囲いに駆けつけた次第である。

 しかし、この雪である。小屋でじっと待機して晴れ間を待つしかなかった。昨日は気温がマイナス5℃近くまで冷えて囲炉裏とストーブの両方で火を焚いて暖をとったが、如何せん煙くて煙くて仕方がなかった。それで今日はストーブだけにした。


 昨日薪小屋から運び込んだ薪束が残り少なくなって、朝、段ボール箱で追加の薪を小屋に運び込んだ。そしてストーブの火を絶やさないようにしながらキャンバスベッドの上でずっと鎮座していた。

 昨晩から夜通し点けていたラジオの音が掠れ擦れになってついに切れた。気温が低いと電池の消耗が早くなるのだ。それでハッと気付いて、気になっていたNさんへ携帯メールを送った後は、バッテリーの消耗を防ぐために携帯電話も電源を切った。来週一人でおやじ山に来たいと言っていたNさんだが、この雪ではどだい無理だと、昨日途中の山道で撮った写真も添えてメールした。

 それで今日は、手元が暗くなるまで、ずっとキャンバスベッドの上で本を読み続けていた。先日届いた宇沢弘文著「経済学は人びとを幸福にできるか」(東洋経済新報社)である。

 第2部「右傾化する日本への危惧」第4章「戦争の傷を抱えた経済学者」では、宇沢氏の同僚で戦後のオーストラリアを代表する経済学者キース・フリアソンの事が書かれてあった。
 キース・フリアソンが戦争中オーストラリア空軍の戦闘機パイロットとなり、日本軍の捕虜となったこと。そして酷い拷問にあって、身体的にも、精神的にも、トラウマに等しい傷を受けたこと。それは「教育勅語」に則って、『国体の本義』にもとづく教育を徹底して受けた日本人は、「天皇のために」どんな残酷なことも、非人道的なことも平気でおこなうのだということを、戦争が終わって50年以上経っても、キース・フリアソンの記憶に生々しく残っていたという事実である。
 第3部「60年代アメリカ」の第6章「レオン・フェステンガーを偲ぶ」では、アメリカ陸軍のチーフ・サイコロジストを務め、第二次世界大戦後のアメリカの心理学に革命的な影響を与えた心理学者レオン・フェステンガーが、日本の大江健三郎や阿部公房の作品に精通しており、特に阿部公房に魅せられたがために(ヴェトナム戦争で自分の理論が応用されていることへの良心の呵責と相俟って)、スタンフォード大学のスター・プロフェッサーの地位も、魅力的な奥さんや三人の子ども、数多くの友人たちも全て投げ捨ててカフカ的転身をはかり、壮絶な人生を送ったことなどが書かれている。

 手元が暗くなって時計をみると午後3時半だった。ページに栞を挟んで書を傍らに置きストーブに薪を足した。パチパチと薪が爆ぜて著者の怒りが伝わってくるようだった。宇沢弘文がここで伝えたかった世界の知の巨人たちが、良かれ悪しかれ日本という国に深い思いを寄せているという事実と、一方では心無い日本の政治家たちの不用意な発言(2000年5月の森喜朗首相の「日本は『天皇を中心としている神の国』発言など)や行動が、世界の知識人に深い憂慮を与えているという訴えに、激しい悲憤とともに忸怩たる思いを禁じ得なかった。


 午後10時半、キャンバスベッドから下りて、用足しで小屋の外に出ると、雪がやんで東の空に月が出ていた。少し滲んでぼんやりとした十六夜の月だった。その月明りがおやじ山の百年杉の枝々に降り積もった雪の塊を透過して、夜の雪原に届いていた。まるでぼんぼりの灯である。その様々な形状のぼんぼりの灯が、白い雪のキャンバスの上に無数に散らばっていた。
2014年12月8日(月)晴れ~曇り
おやじ山の冬2014(持続可能な里山への想い)
 今日はある相談事があって長岡市のSさんと会う約束をしていた。しかしこんな大雪になるとは思ってもみなく、取り敢えずは朝一番でSさんと連絡をとることにした。(そしてバッテリー確保で切っていた携帯電話の電源を入れると!ビックリするようなメールが入っていたのだが・・・それはさて置き・・・)結局はSさんとの会談は来年に持ち越しとしたが、相談とは以下のような事である。そしてそのためにはいろんな人たちの協力と支援を仰がなければならないが、行政からの支援も不可欠だと考えたからである。

 将来のおやじ山についてずっと考え続けていたことがある。そして最近になってその想いがますます強くなってきた。おやじ山を理想的な里山として整備・保全して未来に引き継ぎたいということである。
 植物園的な山ではなく、まさにガキの頃におやじと一緒に駆け回っていた頃の昔の里山を理想とする、多様性に富む森があり、陽の当たるのびのびとした林があり、そこにキノコが生え、山菜が採れ、そこから伐り出した材はバイオマスとして燃料やホダ木として使い、清水の湧き出る場所では池や小川やビオトープとして整備をし、様々な生き物が棲める環境づくりを目指す、そんな山におやじ山を仕立てて、持続的な姿で後世に遺し伝えたいのである。
 60歳で会社勤めを終え、1年の150日近くをこの山で過ごすようになってもう10年になるが、多分俺の理想の1割か2割か?程にしか仕立て上げてはいない。そして俺に残された年月はそう長くはないと思い始めている。

 強いて名付けるとしたら『Sustainable里山・構想-おやじ山プロジェクト-』である。
 皆さん、如何でしょうか?
2014年12月9日(火)雨
おやじ山の冬2014(再び"There is no wealth, but life."のこころ)
 キャンバスベッドに横になったまま滴の音を聞いていた。外は雨かミゾレのようである。もう今日の外仕事はお預けで、再びおやじ小屋でじっと待機である。そう思うと余計グズグズと寝袋に包まったまま這い出す気力も無くなってしまった。

 ようやく起き出したのが8時半だった。朝飯は「どん兵衛」のカップ麺に七輪で焼いたモチを2個浮かべて食った。「どん兵衛」のカップ麺は、この秋、日赤町のSさんから「これ、小屋で食べるのに持ってけてえ」と一袋ごと渡されたのを、そのまま小屋にデポしておいたのである。お蔭で今日まで何とか喰いつなげて助かった。

 そして今日もまた、朝のうちに薪小屋から段ボール箱一杯の薪を小屋に運び入れて、ストーブを焚きながらベッドの上で宇沢弘文の
「経済学は人びとを幸福にできるか」を読み続けた。昨日雪囲いの板を小屋の窓に打ち付けたせいで中が随分と暗くなって、ヘッドランプとストーブの火の明かりが頼りの読書だった。ヘッドランプを消せば、まさに二宮金次郎の世界である。

 本書の冒頭で宇沢弘文はこう書いている。「今から五十年前、私は数学から経済学に移った。その直接的なきっかけは、河上肇の『貧乏物語』を読んで、大きな感動を覚えたからであった。とくに、序文で、河上肇がジョン・ラスキンの有名な言葉を引いて、経済学の本質を説いたが、その言葉は、当時の私の心情にぴったり適合した。"There is no wealth, but life." 若いころお寺で修業したことのある私は、この言葉を「富を求めるのは道を聞くためである」と訳して、経済学を学ぶときの基本的姿勢をあらわすものと大切にしていた。」

 そして本書の中で、彼が展開してきた経済学とは「社会的共通資本の概念を中心に据え、資本主義、社会主義を超えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような経済体制を実現しようとするものである。」と述べている。社会的共通資本とは、大気、水、森林、河川、海洋等の「自然環境」、道路、交通機関、上下水道、電力などの「社会的インフラ」、そして、教育や医療といった「制度資本」の3つの範疇からなる。そしてこれらの社会的共通資本は、「決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。」と繰り返し強調しているのである。

 今日読み進んだ第4部「学びの場の再生」の第11章「果たせなかった「夢の教科書」作り」では、先ず制度資本としての教育の重要性を、「教育とは、人間が人間として生きてゆくということをもっとも鮮明にあらわす行為である。一人ひとりの子どもについて、その置かれた先天的、歴史的、社会的条件の枠組みを超えて、知的、精神的、身体的、芸術的な営みをはじめとしてあらゆる人間的活動の面で、進歩と発展を可能にしてきたのが教育の役割である。学校教育は、このような教育の理念を具体的なかたちで実現するための社会的制度であって、その社会の社会的安定性、文化的成熟度をあらわすものであるといってよい。」と述べている。

 その上で著者が二十年間にわたって監修にたずさわってきたある書籍会社の小学校社会科教科書編集で、文部省の学習指導要領に拘束され、書籍会社が文部省による深刻な「いじめ」にあった事実を挙げて、「文部省は、教科書検定制度を悪用して、自民党のもっていた、時代錯誤の、偏向したイデオロギーを基礎教育に持ち込んだ。日本社会は現在、経済的、技術的観点からみて、世界でもっとも高い水準を誇っているが、その反面、知性の欠如、道徳的退廃、感性の低俗さという面で、おそらく日本に比較できる国は少ないのではないかと思われる。その、もっとも大きな原因は、戦後50年にわたって、日本の基礎教育が文部官僚によって管理、支配されてきたことにあるといっても過言ではないであろう。」と激しく批判している。

 この批判が一老経済学者のたわごとではなく、欧米各地の名門大学のプロフェッサーを歴任し、彼の教え子からノーベル経済学賞の受賞者を出し、さらにはローマ法王ヨハネ・パウロ二世から請われて、ローマ教会がそのときどき、世界が直面するもっとも重要なことがらについて教会の正式な考え方を通達する文書「レールム・ノヴァルム」のアドバイザーとして宇沢氏がローマ教会二千年の歴史で外部者が参与した最初の人物であり、そして日本の文化勲章受章者でもある世界の知の巨人としての、痛烈な批判であることに心する必要がある。

 揺れ動くストーブの炎に照らされた書物のページが、著者の激憤でメラメラと燃え上がるようだった。文字を追いながら終に息苦しくなって本を傍らに置いた。「パチン」と大きく薪が爆ぜて「フ~ッ」と溜息が漏れたが、その音でようやく心に隙間ができて、書物の緊張から開放されたのだった。

 
2014年12月10日(水)曇り~晴れ
おやじ山の冬2014(山を去る日)
 今日、山を下ることにした。束の間の晴れ間で、再び大寒波の恐れがあった。それに食料も底をついて、何やら体に力が入らなくなった。カミさんは「仙人、仙人っていうわりには、不思議にお酒だけは山小屋にしっかりキープしてあるのね」と嫌味を言うけど(まあ、その通りなんだけど)、やっぱり霞(カスミ)と御神酒(オミキ)だけでは仙人といえども身体が持たないのである。

 それで午前中にはストーブの火を落として、屋根に上って煙突の雪囲いをし、トイレの扉も衝立で覆ってロープを掛けた。

 それから先日(まだ山に入る前に)日赤町のSさんから電話をいただいて、今秋全くダメだったキノコが、今の時期になってようやくナメコとヒラタケ(カンタケ)があちこちに発生した、と連絡があったので、帰る前に山を一回りしてみることにした。
 そしたら、あった!のである。ナメコは傘が大分開き気味だったが(しかしこの方が美味い)、ヒラタケはちょうど採り頃で、ビニール袋に入りきれない程の収穫だった。つい先日、シリーズで随筆を書いている朝日酒造の「千楽の会」の会報で、『今年はおやじ山のキノコはさっぱりで、10年来の不作・・・』と載せたばかりなのに、早速訂正しなくてはならない。

 午後2時半、おやじ小屋の扉を閉め、雪囲いの衝立をロープで縛った。そして大型リュックを背負ってから帽子を取って、おやじ小屋に向かって大声で「ありがとう・ござい・ましたあ~」と頭を下げた。そして小屋を背にして雪の中を歩き始めたのだが、毎年毎年、この瞬間には何故か胸が一杯になって泣きたくなるのである。

 麓のスキー場まで下りると、スキーロッジまでのアスファルト道路の雪はきれいに除けられて、いよいよスキーシーズンの準備が始まっているようだった。そこからバス停のある栖吉の村まで、里の雪景色を眺めながら歩いた。途中、いつも目をとめている柿の木には、まだ赤い実がいくつかぶら下がっていて、白い田圃の風景に幽かな彩りを添えていた。
 
2014年12月25日(木)曇り~雨
御用納めの山旅
 昨日森林調査の仕事から帰って来た。今回は千葉と静岡両県を忙しく梯子で歩く2泊3日の短い出張だったが、俺にとっては今年最後の御用納めの山旅となった。

 幸いこの3日間は素晴らしい冬晴れが続き(ドカ雪に悩まされている越後や北海道の人たちには申し訳ないような・・・)、今回もまた相棒のKさんのお蔭で、旅先では心に残る素晴らしい思い出を刻むことができた。平成20年1月から数えて7年近くこの仕事(アルバイト)を続けて来て、期せずして出会った見事な森や美しい風景、そして郷愁を誘う村落の佇まい、その土地の珍しい風物や食事など、本当に良い仕事に恵まれたと感謝している。

 今回の出張では、一夜を伊豆半島の松崎に泊まった。宿に着いて、そこの女将さんから急かされるようにして海岸に出て見ると、全く涙ぐむほどの真っ赤な夕日が駿河湾に落ちるところだった。こんな夕日に出会えたことで、まさに今年の有終の美を、今回の出張で飾ることができたように思えたのである。

2014年12月31日(水)晴れ
「5年日記」果つ
 6時起床。玄関に新聞を取りに行き、それから毎朝の日課の「5年日記」を書く。いつもは前日の事と、今日の予定などをメモ的に少し書くのだが、今朝は5年間の総括の積りで、気合を入れて本日分も一気に書いた。というのも今日が「5年日記」の最後のページで、明日からは新しく買った「10年日記」にバトンタッチだからである。
 5年間、1825日の様々な思いが込められた俺の「5年日記」である。

  ためらわず十年日記求めけり   水原春郎

 皆様 よいお年を・・・