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2010年9月9日(木)曇り
岐阜の山(台風からの脱出)

 昨8日、第4回目の岐阜森林調査から帰って来た。(またまた岐阜の山日記で、本来の「おやじ山日記」が「義父(岐阜)の山日記」になってしまった。どうもスミマセン)
 折りしも昨日は台風9号の直撃を受けて岐阜県内は物凄い雨に祟られた。午前中、根尾谷手前の「道の駅 織部の里もとす」に車を停めて車内でしばらく様子を窺っていたが、空が夜のように暗くなって、ラジオが西濃地区のあちこちに洪水警報を出すに及んで急いで新幹線で逃げ帰って来た。

 しかし調査の最終日が雨で良かった。今回は9月4日に山入りしたが相変わらずの猛暑日が続き、「クソったれめ!」と連日天を仰ぎ見ながら悪態をついていた。しかしこんな雨台風が調査の中日あたりに襲ってきたらガラガラと岩石が崩れて、その後晴れても危なくて調査などできなかった。
 さらに雨上がりにはヤマヒルが発生する。9月7日に入った春日村六合の山地では地元の人から「ここはマムシとヒルと熊が居りますけんご注意下さい」「・・・!」(ご注意と言われても・・・一体どうすりゃ・・・)と脅されたばかりだった。連日のギラギラ太陽で山が乾燥していたのと相棒のTさんが「入るぞ〜!」「入るぞ〜!」と藪漕ぎしながら何度も大声で熊脅しをしてくれたので救われたようなものである。

 実はこの日の午前中に同じ春日村の野原谷という所に入った。途中林道でウリン坊(イノシシの子ども)に出会ったりして思わず頬が緩んだが、野原谷の渓に踏み込むと一変して頬が引きつってしまった。美しい渓沿いの道は崩れた廃道となって一度雨が降ったらとても歩けない危険極まりない所だった。林道から1100m程遡行して大きく崖が崩れたところで鹿に出会った。そして「ピ〜ッ!」とまさに刺さるような甲高い警戒鳴を浴びた。こんな鹿の鳴き声にも怯んでしまって目的地の探索を断念した。

 今回の調査で訪れた揖斐川町は「美濃いびがわ茶」の産地である。家へのみやげに一袋買った。そして春日村には国歌君が代に詠まれている岐阜県天然記念物の「さざれ石」がある。(今回は看板だけ見た)そして伊吹山地の池田山の森に入る途中、峠の林道からは美しい養老山脈が望まれ、眼下に広がる濃尾平野の遥か向こうに名古屋の街並みとJRタワーが幽かに望まれた。木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川によって形成された美濃から尾張に広がる平野を目にできたことは、まさにこの仕事に就いたればこその幸運である。
 昨年少なかった赤トンボが、今年の山には多いようである。おやじ山でも同じだろうか?やっぱりおやじ山が恋しくなって来たなあ〜

2010年9月10日(金)晴れ
四尺玉花火の夜(華を見ながら)
 岐阜から帰って藤沢の自宅で一日疲れをとり、今日は新幹線で長岡に出掛けた。「あさひ日本酒塾」の卒塾生の集まりである「千楽の会」の例会に参加するためである。

 今回のスケジュールは、5月8日に千楽の会で田植えをした酒米の稲刈りを昼間やってから、夜は小千谷片貝まつりの花火見物が予定されていた。朝、自宅を出掛けに観たNHKの全国ニュースで昨夜打ち上げられた四尺玉花火が放映されたが、今日はその2日目で、何と言っても全国一という大玉花火の打上げがこの祭りのメインイベントである。

 各地からやって来た20名ほどの会員が塚山にある朝日酒造の棚田に集まり、今だ夏日のような陽射しの中で稲刈りをしてから、一旦今日の宿「中盛館」に引揚げて汗を流した。

 そしていよいよマイクロバスに乗って花火会場へ向った。さすが、人、人、人でぼんぼりが立ち並ぶ桟敷会場は打上げ2時間前だというのに既に大賑わいである。打上げ場所だという山の峰の空も今だ白々として、「やれやれ」と桟敷席に座ってみてもぼんぼりの灯のように何やら虚ろな感じだった。
 しかしさすが千楽の会である。豪勢な折り詰め弁当と朝日酒造のあれこれの銘酒がたっぷり用意されていて、先ずはこれらを手元が明るいうちに、という実に配慮の利いた手筈になっていた。

 中学、高校と同級生だったA君と向かい合って弁当を広げ酒を飲み始めたが、ひょいとA君の頭越しに一段上の桟敷席を見ると、若い女性の2人連れである。思わずコップ酒の手が止まって眇め見たが(ゆめゆめイヤラシイ気持ちなど微塵もなく、誠に清い心で)紛れもない越後美人である。私の実家や本家があった村もこの町からはさほど離れてはなく、今にして思えば昔はこのような雪国美人が村の中には一杯いた。
 紫紺に暮れなずんでいく夕空をバックにその美人のシルエットを何度も何度も眺めながら「やっぱり越後の女性はきれいだてえ・・・」と今更悔やむような気持ちでコップ酒を啜り続けた。(日が暮れた頃になってA君に「お前のすぐ上に越後美人が居るよ」と教えてやったら、「な、何でもっと早く!」と凄い顔付きで睨み返されてしまった)

 午後7時半、ようやく花火が上がった。花火も、勿論良かったが、「ド〜ン」と開いた花火に越後美人のシルエットが幽かに浮かびあがって、全く二つの華を同時に鑑賞できたことは望外の喜びと言わざるを得ない。

 俺は断言する。花火と美人は雪国越後である。
2010年9月13日(月)
おやじ山日記(森に刺さる雨)
(今朝、朝刊は休みで長岡の天気をインターネットで調べてみると、24時間降水量が112ミリと9月の観測史上最大の豪雨となっている。大きな災害が起きないことを祈っている)

 千楽の会の例会が終わった11日朝、富山から参加したTさんご夫婦の車で宿泊の中盛館からおやじ山の麓まで送ってもらった。
 前日の酒(正確には深夜2時まで宿で呑んでいた)がまだしっかりと身体に残っていて、酒、食料、寝袋の入ったリュックを背負っておやじ小屋までの山道を登るのさえ辛かった。しかし久しぶりの小屋に着いて野営用のベッドに横になると、どっと安心したせいか昼から眠るのも惜しくなって、横になったまま持参の日本酒をまた飲み始めた。
 暗くなりランタンの灯りを点けるのも億劫になってそのまま沈没して眠ってしまった。

 そして昨12日、「ドド〜ン」と雷の音で目が覚めた。朝の5時か6時かその時刻でパラパラと森を打つ雨の音も聞こえてきた。そして7時頃からは猛烈な雷雨となった。
 もう一歩も小屋の外に出ることなどかなわない程の凄まじさで、跳ね上げ窓から外を窺うと、風は無く、それだけに天から垂直に落ちてくる太い雨のシャワーが一気に森に突き刺さる感じで降りしきっている。そして頻りに暗い上空で「バリバリ、ドッス〜ン!!」と片貝まつりの四尺玉花火のような雷鳴が轟いて思わず首をすくめてしまう。
 こんな激しい雨を見たのは初めてである。

 腹を括ってコーヒーを沸かし、昨日の残りのおにぎりを喰っていると土間に水が滲みるように上がってきた。まあこれも一種の床上浸水かと笑ってしまったが、土間にそのまま置いてある茶箱だけを少し持ち上げて、他に濡れて困るものは無かった。そして後は何もすることが無くてベッドの上にボンヤリと座っていた。

 「雨降れば 人の声する・・・」と何かに詠われていたと記憶するが、ピシャピシャとした小降りの雨音を耳にしていると、時折それが人の声に擬音化されて聞こえてくることがある。特に山小屋などにじっと一人で居る時などがそうで、思わず「どなたですか?」などと外に出てみることがある。
 ところが昨日のような凄まじい雷雨ではかえって不貞腐れた心理が働くためか、不思議なことだが心がシ〜ンと沈潜したように内に向いていろいろな事が断片的に想い出されてきた。
 実につまらない事ばかりが頭をよぎったが、「俺はひょっとして早死にするかもしれないなあ」という思いも一瞬浮かんだ。(こんなことも書くととっても恥ずかしいことだけど)昔なら人生50年で、そんな年もとっくに過ぎてしまったので「早死に」などとチャンチャラ可笑しいけど、今の時代ならあながちそう言っても、と何となく納得してしまった。確か10代の終わりの頃にそんな事を思ったこともあったが、この年でこんな気持ちが浮かんで来るとは実に意外だった。

 それにしてもダラダラと長引いた猛暑続きの2010年の夏を一気に成敗でもするかのような、ある種の怒気をも感じさせる雨の降り様である。

 午後3時、山を下った。中一日置いてまた岐阜の山でのアルバイトを控えていたからである。
2010年9月19日(日)晴れ
おやじと飲んだ酒
 昨日、5回目になる岐阜の森林調査から帰宅した。これからはしばらくアルバイトは止めておやじ山暮らしの予定である。

 今回はJR大垣駅のすぐ脇にあるホテルに連泊したが、ホテルの窓からは駅構内の広いヤードが一望できて何となく懐かしい感じだった。郷里の長岡駅と宮内間にも広い鉄道の操車場があって、昔おやじがこの構内にある線路分区に勤めていた時にはよく弁当を届けに行ったものである。
 そしてサラリーマン時代、汽笛一声の新橋駅近くの繁華街で酒を飲んでいて、何度も23時58分発の東海道線最終列車に駆け込んだが、これが大垣行だった。その終着駅大垣も鉄道唱歌35番に、

 ♪父やしない養老の
 ♪滝は今なお大垣を
 ♪三里へだてて流れたり
 ♪孝子の名誉ともろともに

と歌われている。何しろ明治17年に東海地方で最初に鉄道が開通したのは大垣−関ヶ原間なのである。

 そんなことが頭に浮かんだせいか、ホテルでの連泊3日目におやじと酒を飲んだ夢を見た。
 こんな夢は生まれて初めてである。第一カミさんにグズグズ言われるほど毎晩酒を飲んでいるくせに、悔しいながら夢で一度も酒を飲んだことはない。ましてやおやじと二人で酒を酌み交わす夢など皆無だった。
 おやじはお袋が50前にして亡くなるまで酒など飲まなかった。あるいは家計が貧しくてとても酒など飲む余裕が無かったのかも知れない。そしてお袋が死んだその年には俺は東京に出ていて、たまに実家に帰ってもおやじと二人だけでゆっくり酒を飲んだという記憶がない。それがこの年になって大垣のホテルで夢見るとは、全く不思議で仕方がない。

 夢では「お福」という長岡の地酒をおやじと二人で飲んでいたが酒が無くなって店に買いに行き、他の酒は置いてあるのに「お福」だけが見当たらず、あれこれ探しているうちに目が覚めてしまった。(だいたい夢が覚めるのはこんなシーンの時で残念でしょうがない) ベッドの灯りを点けると午前4時40分だった。

 そのままベッドの上に起き上がってしばらくぼんやりしていたが、突然今見た夢を思い起こして懐かしさと悔恨の情で胸が一杯になってしまった。
 「ああ、おやじが生きている時に、こうしておやじと二人きりで酒を飲みたかったなあ〜。そしたら俺の愚痴や、泣き言や、いろんな悩みなど、おやじはじっと黙って聞いてくれただろうになあ〜。そしたら・・・そしたら俺はどんなにか心が休まり、安心したことだろうか」

 「コト、コト、コト、コト、コト・・・・・・・」
 まだ夜の明けない大垣駅の構内を、長い車両の貨物列車が関ヶ原方向に走り去って行く音が聞こえていた。
 新鉄道唱歌43番

 ♪ 天下分目の戦の
 ♪ 史跡伝うる関ヶ原
 ♪ 剣戟の音いまいずこ
 ♪ 風雲ここに四百年
 
2010年9月28日(火)冷たい雨
労働と思想

 今日も冷たい雨である。
 岐阜の森林調査から帰って殆ど自宅に閉じ籠って、ある一つのことを考え続けている。

 それは、今はまだ言葉で正確に表現ができないけれど、人間には肉体労働を通じてのみ形成される考え方(思想)というものがあるのではないか、ということである。肉体労働者には(あるいは肉体労働をすることによって)自らの肉体の使役によって世の中を生きていくというストレートで確実な自己認識があって、その労働行為から生じる様々な思いを(思想として)素直に身体に落とし込んで行ける素地がある(又は肉体労働をすることによってできる)のではないか、とそんな気がしている。それは時には今の日本では蔓延り過ぎている知識(頭脳)労働者の意識と鋭く対立するものでもあるようである。

 まだまだ休む時ではない、しっかり考えなければ・・・と思って、先日<エリック・ホッファー著
「波止場日記〜労働と思索〜」(みすず書房)>を買ってきて読み始めた。そして今日も、本著の「11月13日」から読み継いでいる。
 外はシトシト雨でこんな読書には誠に好都合である。

(ヘンリー・D・ソローの「ウォールデン 森の生活」にも何かヒントになることが書いてあるかも知れないなあ、と思い出した。今週末からおやじ山に入るが、持って行ってじっくり読み返してみようと思う)