岐阜県の森林調査の仕事を終えて、一昨日(7月31日)夕刻に家に戻った。7月22日の午後に山入りし、31日の午前中に最後の17箇所目を踏破して今回の調査を終えた。
今回の調査地は西美濃地方で、徳山ダムを持つ揖斐川水系の森林、そして国指定天然記念物「根尾谷の淡墨桜」で有名な根尾川水系、さらに奥長良川の山地にも入った。
最初の調査地は、滋賀県境にある関ヶ原の山林だった。そして10日後の最終調査地は、「谷汲山 華厳寺」近くの塔の倉山頂付近の森である。
天下分け目の関ヶ原決戦場からまなじり決して仕事のスタートを切り、最後は西国33番満願霊場「谷汲山華厳寺」で有終の美をかざった訳である。(・・・と思いたい)
<猛暑の記憶>
しかしこの10日間、もの凄く暑かった!俺の人生で果たしてこんな多量に水をガブ飲みした10日間があっただろうか?何しろ岐阜では68年ぶりの35℃を超える連続の猛暑日記録だそうで、吹き出る汗の補給と熱中症対策でペットボトルの水が手放せなかった。
お蔭で無事帰還できたが、日頃米の水や麦の水を(それに芋の水も)こまめにしっかり飲んでいた成果が遺憾なく発揮できてしまった。(・・・と思いたい)
藤沢の自宅を出発する直前、岐阜の天気予報を確認すると、何と「最高気温38度!」とあって既にたじたじとなってしまった。そして22日正午、今回調査でご一緒するIさんと約束の新幹線岐阜羽島駅前のレンタカー店で合流したが、互いに顔を見合わせた最初の挨拶が「くそ暑っついですねえ〜」だった。
この日から7月28日までのテレビが伝えた岐阜の最高気温は、翌23日も38度、24日37度、25日と26日36度、そして27日に68年ぶりの連続猛暑日が報じられ、28日は35度だった。
7月29日には待望の雨となった。実に岐阜県では14日ぶりの雨で気温は一気に10度以上も下がった。しかし雨は雨でも朝から激しい雨粒が叩きつけるように降り続いた。この日も調査に出掛けたが、岩石がゴロゴロと崩れ落ちた山道をGPSで探りながら、まさにハラハラドキドキのルート探査だった。
そして翌30日、31日と再び蒸すような猛暑日に戻ってしまった。
<水の記憶>
しかし連日の猛暑日にあって、今回は行く先々に素晴らしい水場があったことは幸運の一言に尽きる。まさに西美濃地方は「水の国」である。
最初の滞在地大垣は「水都」と呼ばれ、一昔前は多くの家庭に自噴井戸があったという。そして宿のすぐ近くにある八幡神社の境内には「大垣の湧水」が滾々と湧き出ていた。
5日目に入った7月26日の午前は、三重と滋賀県境近くの時山薮谷の渓を遡行しての調査だった。林道に車を停めてから、直線距離で約1000mの谷川歩きだったが、全く素晴らしい渓流の連続だった。谷川のワンドや瀬でアマゴの魚影が走り、綺麗な模様の鹿が俺達に驚いて渓流脇の斜面を駆け上がって行った。蒼緑の翅を光らせたミヤマカラスアゲハが水辺を飛翔し、渓畔にはフサザクラやチドリノキが漏れ射す太陽の光に美しく青葉を透かしていた。
既に窯を閉じて何十年も経ったであろう炭焼きの家と炭焼窯の跡もあった。調査地への遡行の途中、ここで一息入れて谷川の清水で喉を潤した。腰を下ろして息を整えながら気付くと、神楽の鈴を振るようなヒグラシの鳴き声が共鳴するように森の中に響き渡っている。暑い夏日をこんなに美しい静かな渓流の畔で暮らしていた昔の山人を思って、羨ましくて仕方がなかった。
68年ぶりの連続猛暑日となった7月27日には、揖斐町瑞岩寺の「二條関白蘇生の泉」に出会った。調査地に向って走っていた県道脇に何台も車が停めてあって、「はて、何かな?」と思って通り過ぎたが、道路地図で調べてみると「蘇生の泉」と出ている。
それで午前中の汗だくの調査を終えて引き返す途中で、関白公にあやかってヘトヘトになった身体を蘇生するためにここに立ち寄った。立て看板にはおおよそ次ぎのような説明が書いてあった。
<南北朝も終わりの頃、美濃国守護大名の土岐頼康に守られながら輿に乗っていた関白二條良基公が、猛暑で熱病にかかり(やっぱり昔からこの辺りは暑かったんだ)、この清水を飲んで生き返ったと伝えられている>
そして7月30日には、高賀の美代ちゃん(仮称)からご神水を飲ませてもらってまた生き返った。この日はずっとやってきた揖斐川水系、根尾川水系の森から離れて、奥長良川の高賀川の山林に入った。
一仕事終えて汗びっしょりになって立ち寄ったのが、高賀神社の神水庵である。
入口で初穂料100円を払って竜神の祀ってある湧き水の場所に来ると、白いポリタンクをいくつも持った家族などがホースで水を汲んでいる。こっちは小さいペットボトル1つ持って入ったが、その水の冷たいこと美味しいこと、充分初穂料の価値はあった。
更にである、道路の向かいに「高賀ふれあいらうんじ」と大きな看板文字の建物があった。どうやら食堂のようであったが、昼食用のおにぎりはコンビニで買ってあったので、中に入ってテーブルだけ貸してもらうことにした。そこにはお店の美代ちゃんが居ただけで他に客は誰も居なかった。美代ちゃんはニコニコと「ええ、どうぞ!」と食堂の椅子に座らせてくれた。そして何も注文せずにコンビニおにぎりだけ頬張っている俺達に、何と「はい、お疲れ様〜!」と冷たいおしぼりと氷の入ったご神水を出してくれたのである。「・・・!」と見上げた美代ちゃんの笑顔が何と神々しく美しく見えたことか!(Tさんも店から出て、「あの人の笑顔、可愛かったですね、実に良かったですね」と感心頻りだった)
美代ちゃんに丁寧にお礼を言って、また道路向かいの神水庵の駐車場に戻った。そしてTさんがRAV4のエンジンをかけて出発する直前、俺はどうしても美代ちゃんの写真を記念に撮っておきたい衝動に駆られて、デジカメを掴んで美代ちゃんのお店に走った。 「はい、パチリ!」、美代ちゃんが恥ずかしそうに小さく手を振ってくれた。
(皆さんがたまたま「高賀ふれあいらうんじ」に行って、「あのう、美代ちゃんいますか?」と尋ねても、誰も返事をしてくれない。美代ちゃんという名前は、俺とTさんが付けた名前である。実はここに来る数キロ手前に「美代ちゃん」と染め抜いた幟旗が道路脇に立っていて、多分飲み屋か何かの看板代わりの旗なのだろうが、Tさんと二人で「男連中は、この美代ちゃん旗に騙されて店に入ると、60年前の美代ちゃんが出てきたりしてねえ〜アハハハ・・・」と笑い合っていた。それで「高賀ふれあいらうんじ」に入ったら実に親切な娘さんに出会ったので、「これぞ真正美代ちゃんだ」と勝手に名づけさせてもらったのである)
<人々の記憶>
7月29日、14日ぶりに雨が来て、それも朝から激しい降りとなった。しかしこの日もトヨタRAV4を駆って仕事に出た。そして昼食は揖斐川流域の「道の駅 星のふる里ふじはし」でかき揚げうどんを食べた。
その敷地内に建っていたのが「徳山民族資料収蔵庫」である。Tさんはこういう歴史物が大好きらしく昼食の腹ごなしに入ってみるという。それで俺も一緒に腹ごなしをすることにした。
入館料は300円、展示物は全て国の重要有形民族文化財に指定されているにも拘わらず、入館者は俺達2人だけである。
受付の係員が、多分今日初めての入館者のためにパチンと展示室の電気を点けてくれて、右手の民具の収蔵品から見て回った。何種類かの大きな鋸がそれぞれ束になって網戸の箱に入っており、手垢と煤で黒光りした斧や鉈などの山道具があり、農具や紙漉きの諸道具、生活用品などが収蔵されていた。
そしてぐるりと収蔵庫を回って、明るい部屋に入ると大きな写真パネルがあった。徳山ダムの底に沈んだ徳山村2,294人の家族写真である。
そのズラリと並んだ家族写真を丹念になぞってみた。ニコニコ親子3代が笑っている大家族の写真があり、仏壇の前で戦死した夫の額縁写真と一緒に写っている1枚があり、照れている妻と初めて肩を組んで写っているような夫婦の写真があり、手拭いの鉢巻を頭に巻いて大徳利を肩に乗せた印半纏のおっさん写真があり、その1枚1枚からこの土地に暮らしたそれぞれの家族の様子が浮かび上がってきて、いつまでも見飽きなかった。
最後に、館の入口正面に掛けられた今は消滅してしまった徳山村長斉藤一松氏の「ごあいさつ」のパネル文を読んだ。悲哀はあるが、重厚な名文である。
ごあいさつ
・・・・今、この村の歴史を閉じるにあたり、集められた一点一点の民具を手に取ると、祖先の血のたぎりが伝わってくる感じがするのは気のせいでありましょうか。麻の仕事着やイラソの着物を身に着けて、山で熊を狩り、川でイワナを捕った祖父。身の丈程もあるダイギリを使って巨木を倒し、オガを使ってトチ板を挽いた父。タスを背負って山に入り、トチの実をひろった母。・・・・・集まった一つ一つの道具が村の歴史を語ってくれる。この先祖の生きざまを、子に、孫に語り継がねばならない。口で語れぬ何かを手あかとユルエのススで黒ずんだ民具が語ってくれる。・・・・・
昭和62年3月 徳山村村長 斉藤一松
この日付、昭和62年3月31日は、昭和32年に徳山ダム建設の話が出てからちょうど30年後、人口2,294人の徳山村を丸ごとダムの底に沈めてしまい、村を消滅せしめた日である。
調査6日目は、大垣市内の宿から谷汲山華厳寺の山門前の旅館に宿替えの日だった。猛烈な暑さが続き、今までの疲労も大分溜まっていたので、宿替えを機にこの日は調査は1箇所のみで新しい宿に移ることにした。
ところがいざ午前の仕事が終わって宿に電話をすると、壁の修理中で入館は午後5時以降にして欲しいとのことである。せっかく早引きして宿で身体を休めようとしたのにガッカリである。
そこで、根尾谷にある国指定天然記念物の「淡墨桜」を見物することにした。この桜を見たいと思ったのはずっと以前(もう20年以上も前かも知れない)、作家の宇野千代が神津カンナとラジオで対談して、この淡墨桜の話題が出たのを憶えていたからである。
それは昭和42年4月に宇野千代が根尾村のここを訪れて、昭和34年の伊勢湾台風で無惨な姿になったままのこの老木を救おうとグラビア誌「太陽」で訴え、当時の岐阜県知事に嘆願の手紙を送ったという逸話である。神津カンナとのラジオ対談で宇野千代は確か、「私は何でも思い立ったらすぐやってしまう性分で、<駆け出しお千代>と呼ばれていたの」と朗らかに笑いながら喋っていた。
このくそ暑い最中、それも桜の花の時期から程遠い真夏、勿論見物客など誰も居なかった。草刈りのおばさん連中も吹き抜けの休憩所のテーブルに突っ伏して昼寝の最中である。
それでも俺は樹齢1500年と言われるこの老大木を見て、感動した。山桜の若根238本を根接ぎして蘇った桜は、太い枝に何本ものつっかえ棒をして痛々しくはあったが、背後の青々とした杉山を前にどっしりとした孤高の美しさがあった。
今回の仕事中には、いくつかのアクシデントもあった。大嫌いなマムシに会って肝を冷やしたり、得体の知れないヘビを見て思わず「ギャー!」と叫んで、すっかり相棒のTさんの信頼を無くしてしまった。山ビルやダニに喰い付かれて、ホテルのバスタブが真っ赤に血に染まってようやく気付いたりした。マダニによるライム病は何日か後に発症する病気でいささか心配もあるが、毎日体内をアルコールで消毒しているので大丈夫のはずである。
最終日の朝は午前5時に起きて、華厳寺に参って来た。そして本堂の裏に回って満願堂のタヌキにも無事に過ごせたお礼を言って来た。愉快なタヌキだが、なかなかのご利益が授かりそうである。
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