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最後のページは<8月31日>です。

2010年8月2日(月)晴れ
岐阜山中猛暑紀行

 岐阜県の森林調査の仕事を終えて、一昨日(7月31日)夕刻に家に戻った。7月22日の午後に山入りし、31日の午前中に最後の17箇所目を踏破して今回の調査を終えた。

 今回の調査地は西美濃地方で、徳山ダムを持つ揖斐川水系の森林、そして国指定天然記念物「根尾谷の淡墨桜」で有名な根尾川水系、さらに奥長良川の山地にも入った。
 最初の調査地は、滋賀県境にある関ヶ原の山林だった。そして10日後の最終調査地は、「谷汲山 華厳寺」近くの塔の倉山頂付近の森である。
 天下分け目の関ヶ原決戦場からまなじり決して仕事のスタートを切り、最後は西国33番満願霊場「谷汲山華厳寺」で有終の美をかざった訳である。(・・・と思いたい)

<猛暑の記憶>

 しかしこの10日間、もの凄く暑かった!俺の人生で果たしてこんな多量に水をガブ飲みした10日間があっただろうか?何しろ岐阜では68年ぶりの35℃を超える連続の猛暑日記録だそうで、吹き出る汗の補給と熱中症対策でペットボトルの水が手放せなかった。
 お蔭で無事帰還できたが、日頃米の水や麦の水を(それに芋の水も)こまめにしっかり飲んでいた成果が遺憾なく発揮できてしまった。(・・・と思いたい)

 藤沢の自宅を出発する直前、岐阜の天気予報を確認すると、何と「最高気温38度!」とあって既にたじたじとなってしまった。そして22日正午、今回調査でご一緒するIさんと約束の新幹線岐阜羽島駅前のレンタカー店で合流したが、互いに顔を見合わせた最初の挨拶が「くそ暑っついですねえ〜」だった。
  この日から7月28日までのテレビが伝えた岐阜の最高気温は、翌23日も38度、24日37度、25日と26日36度、そして27日に68年ぶりの連続猛暑日が報じられ、28日は35度だった。
 7月29日には待望の雨となった。実に岐阜県では14日ぶりの雨で気温は一気に10度以上も下がった。しかし雨は雨でも朝から激しい雨粒が叩きつけるように降り続いた。この日も調査に出掛けたが、岩石がゴロゴロと崩れ落ちた山道をGPSで探りながら、まさにハラハラドキドキのルート探査だった。
 そして翌30日、31日と再び蒸すような猛暑日に戻ってしまった。

<水の記憶>

 しかし連日の猛暑日にあって、今回は行く先々に素晴らしい水場があったことは幸運の一言に尽きる。まさに西美濃地方は「水の国」である。

 最初の滞在地大垣は「水都」と呼ばれ、一昔前は多くの家庭に自噴井戸があったという。そして宿のすぐ近くにある八幡神社の境内には「大垣の湧水」が滾々と湧き出ていた。

 5日目に入った7月26日の午前は、三重と滋賀県境近くの時山薮谷の渓を遡行しての調査だった。林道に車を停めてから、直線距離で約1000mの谷川歩きだったが、全く素晴らしい渓流の連続だった。谷川のワンドや瀬でアマゴの魚影が走り、綺麗な模様の鹿が俺達に驚いて渓流脇の斜面を駆け上がって行った。蒼緑の翅を光らせたミヤマカラスアゲハが水辺を飛翔し、渓畔にはフサザクラやチドリノキが漏れ射す太陽の光に美しく青葉を透かしていた。
 既に窯を閉じて何十年も経ったであろう炭焼きの家と炭焼窯の跡もあった。調査地への遡行の途中、ここで一息入れて谷川の清水で喉を潤した。腰を下ろして息を整えながら気付くと、神楽の鈴を振るようなヒグラシの鳴き声が共鳴するように森の中に響き渡っている。暑い夏日をこんなに美しい静かな渓流の畔で暮らしていた昔の山人を思って、羨ましくて仕方がなかった。

 68年ぶりの連続猛暑日となった7月27日には、揖斐町瑞岩寺の「二條関白蘇生の泉」に出会った。調査地に向って走っていた県道脇に何台も車が停めてあって、「はて、何かな?」と思って通り過ぎたが、道路地図で調べてみると「蘇生の泉」と出ている。
 それで午前中の汗だくの調査を終えて引き返す途中で、関白公にあやかってヘトヘトになった身体を蘇生するためにここに立ち寄った。立て看板にはおおよそ次ぎのような説明が書いてあった。
<南北朝も終わりの頃、美濃国守護大名の土岐頼康に守られながら輿に乗っていた関白二條良基公が、猛暑で熱病にかかり(やっぱり昔からこの辺りは暑かったんだ)、この清水を飲んで生き返ったと伝えられている>

 そして7月30日には、高賀の美代ちゃん(仮称)からご神水を飲ませてもらってまた生き返った。この日はずっとやってきた揖斐川水系、根尾川水系の森から離れて、奥長良川の高賀川の山林に入った。
 一仕事終えて汗びっしょりになって立ち寄ったのが、高賀神社の神水庵である。
 入口で初穂料100円を払って竜神の祀ってある湧き水の場所に来ると、白いポリタンクをいくつも持った家族などがホースで水を汲んでいる。こっちは小さいペットボトル1つ持って入ったが、その水の冷たいこと美味しいこと、充分初穂料の価値はあった。
 更にである、道路の向かいに「高賀ふれあいらうんじ」と大きな看板文字の建物があった。どうやら食堂のようであったが、昼食用のおにぎりはコンビニで買ってあったので、中に入ってテーブルだけ貸してもらうことにした。そこにはお店の美代ちゃんが居ただけで他に客は誰も居なかった。美代ちゃんはニコニコと「ええ、どうぞ!」と食堂の椅子に座らせてくれた。そして何も注文せずにコンビニおにぎりだけ頬張っている俺達に、何と「はい、お疲れ様〜!」と冷たいおしぼりと氷の入ったご神水を出してくれたのである。「・・・!」と見上げた美代ちゃんの笑顔が何と神々しく美しく見えたことか!(Tさんも店から出て、「あの人の笑顔、可愛かったですね、実に良かったですね」と感心頻りだった)
 美代ちゃんに丁寧にお礼を言って、また道路向かいの神水庵の駐車場に戻った。そしてTさんがRAV4のエンジンをかけて出発する直前、俺はどうしても美代ちゃんの写真を記念に撮っておきたい衝動に駆られて、デジカメを掴んで美代ちゃんのお店に走った。 「はい、パチリ!」、美代ちゃんが恥ずかしそうに小さく手を振ってくれた。

 (皆さんがたまたま「高賀ふれあいらうんじ」に行って、「あのう、美代ちゃんいますか?」と尋ねても、誰も返事をしてくれない。美代ちゃんという名前は、俺とTさんが付けた名前である。実はここに来る数キロ手前に「美代ちゃん」と染め抜いた幟旗が道路脇に立っていて、多分飲み屋か何かの看板代わりの旗なのだろうが、Tさんと二人で「男連中は、この美代ちゃん旗に騙されて店に入ると、60年前の美代ちゃんが出てきたりしてねえ〜アハハハ・・・」と笑い合っていた。それで「高賀ふれあいらうんじ」に入ったら実に親切な娘さんに出会ったので、「これぞ真正美代ちゃんだ」と勝手に名づけさせてもらったのである)

<人々の記憶>

 7月29日、14日ぶりに雨が来て、それも朝から激しい降りとなった。しかしこの日もトヨタRAV4を駆って仕事に出た。そして昼食は揖斐川流域の「道の駅 星のふる里ふじはし」でかき揚げうどんを食べた。
 その敷地内に建っていたのが「徳山民族資料収蔵庫」である。Tさんはこういう歴史物が大好きらしく昼食の腹ごなしに入ってみるという。それで俺も一緒に腹ごなしをすることにした。

 入館料は300円、展示物は全て国の重要有形民族文化財に指定されているにも拘わらず、入館者は俺達2人だけである。
 受付の係員が、多分今日初めての入館者のためにパチンと展示室の電気を点けてくれて、右手の民具の収蔵品から見て回った。何種類かの大きな鋸がそれぞれ束になって網戸の箱に入っており、手垢と煤で黒光りした斧や鉈などの山道具があり、農具や紙漉きの諸道具、生活用品などが収蔵されていた。
 そしてぐるりと収蔵庫を回って、明るい部屋に入ると大きな写真パネルがあった。徳山ダムの底に沈んだ徳山村2,294人の家族写真である。
 そのズラリと並んだ家族写真を丹念になぞってみた。ニコニコ親子3代が笑っている大家族の写真があり、仏壇の前で戦死した夫の額縁写真と一緒に写っている1枚があり、照れている妻と初めて肩を組んで写っているような夫婦の写真があり、手拭いの鉢巻を頭に巻いて大徳利を肩に乗せた印半纏のおっさん写真があり、その1枚1枚からこの土地に暮らしたそれぞれの家族の様子が浮かび上がってきて、いつまでも見飽きなかった。

 最後に、館の入口正面に掛けられた今は消滅してしまった徳山村長斉藤一松氏の「ごあいさつ」のパネル文を読んだ。悲哀はあるが、重厚な名文である。
 
        ごあいさつ

 ・・・・今、この村の歴史を閉じるにあたり、集められた一点一点の民具を手に取ると、祖先の血のたぎりが伝わってくる感じがするのは気のせいでありましょうか。麻の仕事着やイラソの着物を身に着けて、山で熊を狩り、川でイワナを捕った祖父。身の丈程もあるダイギリを使って巨木を倒し、オガを使ってトチ板を挽いた父。タスを背負って山に入り、トチの実をひろった母。・・・・・集まった一つ一つの道具が村の歴史を語ってくれる。この先祖の生きざまを、子に、孫に語り継がねばならない。口で語れぬ何かを手あかとユルエのススで黒ずんだ民具が語ってくれる。・・・・・
   昭和62年3月                     徳山村村長 斉藤一松

 この日付、昭和62年3月31日は、昭和32年に徳山ダム建設の話が出てからちょうど30年後、人口2,294人の徳山村を丸ごとダムの底に沈めてしまい、村を消滅せしめた日である。

 
 調査6日目は、大垣市内の宿から谷汲山華厳寺の山門前の旅館に宿替えの日だった。猛烈な暑さが続き、今までの疲労も大分溜まっていたので、宿替えを機にこの日は調査は1箇所のみで新しい宿に移ることにした。
 ところがいざ午前の仕事が終わって宿に電話をすると、壁の修理中で入館は午後5時以降にして欲しいとのことである。せっかく早引きして宿で身体を休めようとしたのにガッカリである。
 そこで、根尾谷にある国指定天然記念物の「淡墨桜」を見物することにした。この桜を見たいと思ったのはずっと以前(もう20年以上も前かも知れない)、作家の宇野千代が神津カンナとラジオで対談して、この淡墨桜の話題が出たのを憶えていたからである。
 それは昭和42年4月に宇野千代が根尾村のここを訪れて、昭和34年の伊勢湾台風で無惨な姿になったままのこの老木を救おうとグラビア誌「太陽」で訴え、当時の岐阜県知事に嘆願の手紙を送ったという逸話である。神津カンナとのラジオ対談で宇野千代は確か、「私は何でも思い立ったらすぐやってしまう性分で、<駆け出しお千代>と呼ばれていたの」と朗らかに笑いながら喋っていた。
 このくそ暑い最中、それも桜の花の時期から程遠い真夏、勿論見物客など誰も居なかった。草刈りのおばさん連中も吹き抜けの休憩所のテーブルに突っ伏して昼寝の最中である。
 それでも俺は樹齢1500年と言われるこの老大木を見て、感動した。山桜の若根238本を根接ぎして蘇った桜は、太い枝に何本ものつっかえ棒をして痛々しくはあったが、背後の青々とした杉山を前にどっしりとした孤高の美しさがあった。

 今回の仕事中には、いくつかのアクシデントもあった。大嫌いなマムシに会って肝を冷やしたり、得体の知れないヘビを見て思わず「ギャー!」と叫んで、すっかり相棒のTさんの信頼を無くしてしまった。山ビルやダニに喰い付かれて、ホテルのバスタブが真っ赤に血に染まってようやく気付いたりした。マダニによるライム病は何日か後に発症する病気でいささか心配もあるが、毎日体内をアルコールで消毒しているので大丈夫のはずである。

 最終日の朝は午前5時に起きて、華厳寺に参って来た。そして本堂の裏に回って満願堂のタヌキにも無事に過ごせたお礼を言って来た。愉快なタヌキだが、なかなかのご利益が授かりそうである。
 

2010年8月7日(土)晴れ
山を想へば人恋し、人を想へば山恋し

 <山を想へば人恋し、人を想へば山恋し>
 昭和5年に北アルプスで針ノ木小屋を創設し58歳で亡くなった百瀬慎太郎氏が、ある随筆の中で書いた有名な一文である。
 俺も一応山男を自称している人間なので、アルピニストの間で親しく口ずさまれているこの言葉は良く知っていた。しかし今回、この一文をものした百瀬慎太郎氏のお孫さん堯氏に会えるとは思ってもみなかった。百瀬堯氏は現在の針ノ木小屋の3代目のご主人で(2代目は慎太郎氏の長女美江氏。堯氏は美江氏の長男)、何といつもおやじ山に信州から来てくれるOさんの中学と高校時代の同級生だという。
高校は創設135年の歴史と伝統を持つ長野の名門校「長野県松本深志高等学校」である。(そして今回ご一緒したFさんのお父上も偶然本校の大先輩と知って、全く驚いてしまった)

 昨日、そのOさんにガイドされて、こちらも創立139年の歴史と伝統のある高校時代の同級生Fさんと3人で針ノ木岳(2,820.6m)に無事登頂し帰ってきた。
 事前にOさんから百瀬氏に連絡してくれて、4日正午にその針ノ木小屋に入ったが、残念ながら百瀬氏は下山していてこの時は不在だったが、我々3人はまさに山小屋での特別待遇を受けた。
 そして昨6日朝に針ノ木岳を征し再び針ノ木小屋に戻ってから大雪渓を下った。そして初代の慎太郎氏が針ノ木小屋開設前の大正14年に創設したという大沢小屋に辿り着くと、ここでもオーナーの百瀬堯氏が旧友のOさんを待ち構えていた。
 「やあ、やあ・・・」と二人は旧交を温めて話が弾み、Fさんと二人でその輪に入って堯氏自ら入れてくれた実に美味しいコーヒーを飲みながら談笑が続いた。

 温厚な堯氏とOさんの遠い昔の思い出話に耳を傾けながら、つくづく同級生同士の交わりとは実にいいものだと改めて感じた。


 Fさんと新宿発の特急あずさ13号に乗って松本で大糸線に乗り換え、信濃大町には4日の午後3時に着いた。ニコニコと改札口でOさんが出迎えてくれて、早速Oさんが手配してくれた大町温泉郷の宿に入った。そしてここでの夕食は3人揃っての出陣の膳となったが、この宿もOさんの伝手があって食べきれないほどの大ご馳走である。
 時間の遅い昼食を乗り換え駅の松本で押し寿司弁当を買ってローカル線の景色を見ながらパクパク食ってしまったが、「あれ喰ったのが間違いだったなあ〜」と食べ残しのご馳走を見ながら思わず呟いてしまった。

 翌5日の4時過ぎに宿を発って、3人で扇沢の針ノ木登山口から登り始めたのが5時半である。途中、苔沢の湧き水で喉を潤し(この沢水は百瀬氏いち押しの名水である)、大沢小屋に寄って小屋前に造られた百瀬慎太郎氏の銅版のレリーフに頭を下げ、そしていよいよアイゼンをつけての針ノ木雪渓の登攀である。
 雲一つ無かった真っ青な空も、両側に岸壁が迫る「のど」を過ぎた辺りから雪渓から湧き立つ靄でかすみ始めた。前方の雪斜面を俯いて喘ぎ登るOさんFさんの二人が、何やら霧に煙る越前海岸を親子で旅する松本清張の「砂の器」のシーンのようであった。
 そして最後に雪渓の切れたガレ場の急坂をつづら折に登って、その昔富山城主の佐々成正が雪山越え(!)をしたという針ノ木峠に着いた。この左手(西)に針ノ木岳、右手(東)が蓮華岳(2,799m)である。ここに百瀬氏の針ノ木小屋が建っていて、針ノ木、蓮華の頂上を極めるにはそれぞれ1時間ほどのロケーションにある。

 初日は3人で蓮華岳を目指したが、他の二人にそれぞれのアクシデントがあって俺だけが頂上に立った。頂上付近はコマクサの群落があって二人の観察官がその調査をしていたが、Fさんを途中で残してきただけに早く戻らなければと気が気でなく、その調査官の前を走って頂上に着いた。こんな高い標高を走って登る馬鹿者は居ないと見えて、二人の調査官も「おお〜」と呆れて口を開けていた。

 2日目の針ノ木岳は全員目出度く頂上に立って、3人揃っての笑顔の記念撮影をした。右手には岩峰スバリ岳が神々しく聳え立ち、眼前には雲を頂いた立山連峰と「点の記」の剣岳が大雪渓を白く光らせて見える。そして眼を落とせば青々とした黒部湖が横たわり黒四ダムが微かに望まれる。まさに息を呑む眺望である。

 その後は冒頭の記述通りである。

 下山してからOさん行きつけの葛温泉高瀬館の大露天風呂に入って汗を流した。何本もの湯管や樋からジャブジャブと音をたてて温泉水が露天風呂に流れ落ちて、その水音を聴きながら身体を沈め、じっと目を閉じて2日間の山旅を脳裏に思い浮かべた。

「森のパンセ−その39」<針ノ木・花の記>および「森のパンセ−その40」<針ノ木・山の記>をアップしました。どうぞご覧下さい。

2010年8月9日(月)曇り
92歳、教え子らへの追悼歌
 6日にヒロシマ、そして今日9日はナガサキ原爆投下の日である。NHKテレビが午前10時過ぎから長崎平和公園で開催されている追悼式典を中継していて、畳の上に寝転がって観ていた。

 式典は大きなヒマワリの花を胸に飾った市民合唱団「被爆者歌う会ひまわり」の歌「もう二度と」から始まった。そしてこの合唱団の最前列にはこの歌を歌いたいと応募した被爆者10人程が車椅子に乗って声を合わせていた。

 この応募者の中に92歳の森山君子さんがいた。脳梗塞を患ったという森山さんは、不自由な身体からまさに搾り出すようにして、あらん限りの力を振り絞って歌っている様子が分かった。 森山さんは爆心地に程近い城山国民学校で音楽教師をしていた人で、この学校の児童1400人が原爆の犠牲になったという。
 森山さん自身も被爆によって一時声を失ったが、今日は原爆で亡くなったかつての教え子らの追悼のためにと声を振り絞っての合唱参加だった。

 ♪ もう二度と つくらないで〜
 ♪ 私たち〜被爆者を〜、
 ♪ この広い世界の人びとの中に〜

 大きく口を開けて必死に歌う森山さんの顔は、まるでムンクの「叫び」のようでもあったが、確とした信念に基づくある種の荘厳さを帯びてテレビ画面に映し出されていた。俺は思わず畳から身を起こして、テレビの前に正座してこの森山さんのお顔に見入った。

 原爆投下の午前11時2分、立ち上がって黙祷をした。
 「カラン、カラン、カランカラン・・・・」テレビから長崎の鐘が鳴り響いていた。
2010年8月21日(土)晴れ
岐阜県森林調査(ヒルにひるむ)

 17日から昨20日まで、再び岐阜県の山に入って森林調査の仕事に就いた。

 今回の調査も岐阜県南西部の森林で、初日、2日目と滋賀県境の今須川流域、一昨日は養老山地の西側から揖斐川の支流域、粕川足打谷まで踏み入った。
 そして昨日は
西国33番満願霊場「谷汲山華厳寺」の森に入らせていただき、最後は満願堂のタヌキに何とか無事終わった今回の仕事のお礼参りもできた。

 今回もまた暑い日が続いた。初日、2日目と37度の猛暑日となり、3日、4日目は幾分気温が下がったとはいえ34度だった。しかし前回調査時の猛暑や針の木登山で身体も暑さに馴染んでしまったようで、今回これでバテたことは無かった。

 それよりも今回とことん閉口したのはヤマビルである。2日目に頸に吸い付かれ、3日目は指の股に喰い付かれた。どうして分かるのか不思議で仕方がないが、ヒルは身体の柔らかい所が好きで、頸、指の股ときて、今度喰い付かれるとしたらあと柔らかい身体の箇所は・・・わ〜!恥ずかしい!という辺りなので、全く気が気でなかった。ヒルを撃退するには身体に塩水を吹き掛けたり塩を塗ったりすれば良いというが・・・随分滲みるだろうし・・・

 そして3日目に足打谷に入った時の印象は忘れ難い。
 林道をRAV4で走っていたが、大きな崖崩れに阻まれて車を降り、残り直線距離で1600mを徒歩で目的地を目指した。進むに従って林道上にはゴロゴロと落石が散らばっている凄い風景になり、終に大きく道が谷に崩れ落ちている場所に来た。パートナーのTさんは「あと3分の1程の距離ですが・・・」と諦め切れない様子で深い谷底を覗き込んだりしている。ふと谷向うの斜面を見ると無惨な土石流の痕である。これでTさんも「引き返しましょう」とふんぎりをつけてくれて、正直「ああ、生きて帰れる」とホッと胸を撫で下ろした。

 この林道の帰り、ようやく怖さから解放されて道脇の植物にも目が行くようになり、越後では見ることができないカナクギノキをTさんから教えてもらったり、ジャケツイバラやイワタバコをデジカメで撮ったりした。

 そして今回も全ての調査が終わったあと、長い参道を歩いて石段を登り、谷汲山華厳寺の本堂で手を合わせた。愛嬌のある満願堂のタヌキにも再会して華厳寺の山門を後にした。
 

2010年8月31日(火)晴れ、気温高し
2010夏の記憶

 昨日(30日)、岐阜県での3回目の森林調査から帰って来た。そして今日は8月の31日・・・外は相変わらずの厳しい夏の陽射しだが、明日からはもう9月で大好きな夏も去ってしまうのかと、ちょっと寂しい気持ちになる。

<丸太の森キャンプ>
 前回の岐阜での森林調査が終わってから、8月22日、23日と神奈川県足柄森林公園「丸太の森」キャンプ場で50人程の子ども達と一緒に1泊2日のキャンプをした。全国森林インストラクター神奈川会が県と一緒に主催したイベントにスタッフとして参加したのである。

 全部で7班に分かれてグループを組み、私はヒゲのOさんのサブリーダーとして5人の子ども達のサポート役をした。わが班のメンバーは小学3年と5年のK君兄弟、同じ3年、5年のRちゃんとMちゃん姉妹、それに付添いのお父さんも一緒にキャンプしたY君親子である。

 22日午前9時に南足柄市役所前の広場に全員が集まり、班のメンバー同士で自己紹介した時には随分大人しかった子ども達も直ぐに打ち解けて、2日間で俺もすっかりこの子らに情が移ってしまった。小学3年のRちゃんは、自己紹介の時の声は蚊が鳴くほどで全く聞き取れなかったが、何回かしゃがんで話し掛けると可愛い笑顔が浮かんで来て次第に声が聞き取れるようになった。

 キャンププログラムのメインは、初日の「林業体験」と2日目の「リバー・トレッキング」だったが、最後は、自分の大きなリュックサックを背負ってキャンプ場から南足柄市役所前の広場まで炎天下の長い距離を行進して帰る過酷なプログラムが控えていた。

 ふざけて列から離れたり疲れて遅れる子ども達を追い立てたり気合を入れたりと、さながら羊飼いの番犬のような気分で付き添っていたが、まるで大きなリュックサック自身が歩いているようなRちゃん達の健気な小っちゃな後姿に思わず涙ぐみそうになってしまった。

 いよいよ首を長くしてご両親が待ち構えている市役所前の広場に着いた。「よ〜く頑張ったね!」とヘトヘト加減のRちゃんとMちゃん姉妹を抱いて誉めてやろうとしたら、2人とも「あっ!」と叫んで脇をすり抜けパタパタ走り出した。俺もよろよろ追って行ったが行き先は出迎えのママの所で、2人の姉妹は母親の手の中でもう涙ぐんでいるのである。まさか俺も「ママ〜!」と一緒に抱きつくわけにもいかず(本当はそうしたかったけど)、すごすごと踵を返した。
 K兄弟のご両親も挨拶に来られて、Oさん共々この兄弟と一緒に写真に撮ってもらった。兄のS君は凄い虫好きで片時も虫篭を放さなかったが、将来は立派な昆虫博士になるかも知れない。



<岐阜県森林調査−淡墨桜の里−>
 子ども達とのキャンプが終わった翌々日(25日)から今回で3回目になる岐阜県の森林調査に出掛けた。
 今回の調査地は揖斐川流域根尾谷を中心とした森で、この地域は樹齢1500年とも言われる国の天然記念物淡墨桜(うすずみざくら)で有名な場所である。

 調査初日のソムリ谷(素振谷)から、浅又川、揖斐高原、根尾八谷地区そして根尾松田悪田谷と連日汗だくの厳しい山歩きを強いられたが、その中で息を呑むほどの美しい渓に出会って冷たい清水で汗を流したり、移動中の車の中から夏の風物詩、清流で竿を振る鮎釣師を羨ましく眺めたり、仕事を終えた帰り道で見事な入道雲に目を奪われたりと、全く今回ほど真夏の風景を堪能したことは無かった。


 しかし相変わらずの猛暑日が続いていて、夏男を自認はしていてもさすがに今までの疲労がじわじわ溜まってきているようだった。それで仕事の出掛けに寄るコンビニで身体に効きそうなドリンク剤を買ってゴクゴクと飲んでみたりしたが、今回もご一緒だったTさんから、「そんなに精力をつけられちゃって、大丈夫ですか?」と何やら薄ら笑いをされてしまった。しかしこれでパワーがついて何とか6日間を持ち堪えることができたと思っている。

 折りしもこの調査期間中に齢65になる誕生日を迎えた。この日、根尾八谷の公民館前に車を停めて森に入る準備を始めたが、防災訓練で集まっていた村の人達から詳しくルートを教えてもらったり楽しい会話もできた。まさに清流と呼べる八谷川では若いアベックが水浴びをしていたが、そんな風景を橋の上から楽しんでいる村のおっさんの姿も微笑ましいものだった。(俺も一緒に楽しませてもらったけど)
 そして誕生日だったこの日は、調査を終えた帰りに「道の駅 うすずみ桜の里・ねお」に車を停めてもらい、つかの間の祝杯をあげた。「茶畑」という小さな食堂に入って名物鮎の塩焼きを頼み(なかなか焼けるまで時間がかかるので、仕方なく?)ビールも頼んで両親に心から感謝の念を捧げつつ喉を潤した。実に美味かった!

 自分の心の中では誕生日が過ぎると秋の季節になる、という思いがある。そして連日のギラギラ太陽が照りつける中で、やはり季節は間違いなく秋に移行していた。揖斐高原貝月山の登山道脇にはススキの穂がそよぎ赤とんぼが高原の空に舞っていた。そして悪田谷の河原では秋の花フシグロセンノウが咲き萩の花が既に満開である。

 今回の調査では前回・前々回と悩まされたヤマビルの被害に幸いにして遭わなかった。今回の地域もインターネットの情報で調べるとヤマヒルの立派な生息域である。事前にパートナーのTさんがヤマヒル忌避剤の「ヒル下がりのジョニー」(このネーミングがまた巨匠ビリー・ワイルダー監督、名優ゲーリー・クーパーとオードリー・ヘプバーンが演じた「昼下がりの情事」をもじった商品名で笑ってしまうのだが)や虫除けスプレーを用意して下さったからである。合わせて好天に恵まれたせいもある。自分もしっかりと身支度をしてヒル被害に備えた。
 そして今回の調査地にも「マムシ注意」や「クマ出没」の看板が見られた。若い時には屁とも思わなかったこれらの看板やヒル被害にも次第に臆病になってくる自分に気付き始めている。まだまだ若いと自分では思っていても「やっぱり年をとったのかなあ〜」とちょっと寂しい気持ちである。

 俺の大好きな夏も終わりである。