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最後の日記は<12月27日>です。

2009年12月24日(木)晴れ
サンタクロースが来る日
 今日はクリスマス・イブ。多くの家庭で子ども達が夜、枕元に靴下をぶら下げてサンタクロースがプレゼントを持ってやってくるのをドキドキ待ちながら眠りにつく日である。

 職業軍人だった私のおやじは、終戦後ようやく線路工夫の臨時雇いとして国鉄に勤め、何回もクビになってはお袋をガッカリさせていたが、貧しいながらも正月のハレの行事や節分の豆まきなどにはそれなりの趣向を凝らして子ども達を喜ばせてくれた。そして今日のクリスマス・イブの日も俺達兄弟に必ずプレゼントが届いた。それはキャラメル1箱だったり、こども雑誌1冊だったり、丹下左膳の刀だったりしたが、何と嬉しかったことか。

 今月19日の朝日新聞に、ニューヨーク支局長の立野純二が<「サンタはいる」答えた新聞>と題してこんな内容の文章を載せていた。

 19世紀末、ニューヨークに住む8歳の少女が地元の新聞社に1通の手紙を送った。その内容は「サンタクロースはいるのか本当のことを教えてください」というものだった。
 それを受取った「ニューヨーク・サン」紙は本物の社説でこう答えた。「サンタさんはいるよ。愛や思いやりがあるようにちゃんといる」、何故なら「サンタがいなかったら、子どもらしい心も、人を好きになる心もなくなってしまう」「真実は子どもにも大人の目にも見えないものなんだよ」と・・・
 手紙を出した少女の名前は、バージニア・オハンロン。後に学校の校長先生となって恵まれない子どもたちの救済に尽くした。そしてバージニアがかつて住み手紙をしたためたれんが造りの家は、いま110人の貧しい家庭の児童が、彼女の名を冠した奨学金を受けて学ぶ私立学校となっている。

 米ジャーナリズム史上最も有名な社説と呼ばれる、このバージニアへの返信を掲載した「ニューヨーク・サン」紙は、半世紀前に消えた。しかしニューヨーク・サンが掲載したこの社説は、少女の心の扉を開き、百年の時を超えて人々の想像力のともしびを燃やし続けている。立野氏はこう結んでいる。
「サンタはいる。そう書ける新聞でありたい、と思う」
 
2009年12月27日(日)晴れ
鎌倉 東慶寺
 既に正午近くになっていたが、鎌倉東慶寺の墓に行ってみたくなって家を出た。不思議に12月になると、ふっと静かな鎌倉の寺に足を運びたくなる。師走の気忙しさを、一時払拭したい気分になるのかも知れない。いわゆる「忙中閑」を求める心である。(しかし、おやじ山から帰って来て以来、殆ど家でゴロゴロしているばかりで、「総会」「納会」などと称する忘年会付き会合がある時だけいそいそと出掛けて行く)

 昨年の12月にも東慶寺を訪ねた。その時は既に午後3時半を過ぎていて、夕闇迫る墓苑を大急ぎで巡った記憶がある。それで今日は昨年とは反対回りで、最初にJR北鎌倉まで行って先ずは東慶寺に寄り、それから鎌倉駅まで歩いて、帰りは江ノ電で藤沢に戻ることにした。

 忙しく車が行き来する国道から石段を登って山門を潜ると、そこはひっそりと静まり返った東慶寺の冬の境内である。黒板の塀際に真紅の木瓜の花が咲いて、くすんだ冬の風景の中で凛として一歩前へ踏み出た感じの存在感である。
 本堂にお参りをしてからゆっくりと墓苑に入った。
 最初に和辻哲郎の墓、その昔「古寺巡禮」を夢中で読み仏像巡りの思いに駆られ、そして後年、今は亡き恩人のHさんと共に奈良の旅に出た。そして「善の研究」の西田幾多郎、さらには安倍能成、鈴木大拙、小林秀雄と青い春のかつての自分を思索と惑乱の殆どノイローゼの世界へと誘い込み、今となっては郷愁さえ感じる偉人達の墓。岩波書店主岩波茂雄の墓があり、高見順、田村俊子等の墓もある。
 昨年訪れた時もそうだったが、今日もまた、青春時代のフツフツとたぎった気持ちを懐かしく憶い出すことができた。

 墓苑の一番奥に「向稜塚」がある。「ああ玉杯に花うけて♪・・・」の寝食を共にしたかつての旧制一高の寮生らが造った小さなメモリアル・マウンドである。確かにここ東慶寺の墓苑を訪れると、昔の「かぶれ者」達は<存在が先か、意識が先か>と哲学った若かりし頃を気恥ずかしく憎みながらも、やっぱり懐かしんでしまうのだろう。
 
 ここまで歩き登って、ようやく振り返って空を見上げた。墓苑の周りの切り立った崖には、葉を落とした裸の木々が墓石を見守るように立ち並んでいたが、既に冬の日射しも消えて何やら寒そうである。

 寺の境内に戻ると、来る時には気が付かなかった蝋梅の花が、微かに匂いながら咲いていた。冬の静かな寺の境内には、とても良く似合っていると思った。