おやじ山の自然 プロフィール小屋主の横顔

 恥ずかしながら自己紹介です。「そんなのいい!」って方は、どうか閉じて下さい。

 俗称:百人いまだ仙人(千人)になリ切れていないので 
1945年生まれ。出生地:現秋田県湯沢市
   終戦が近づき、おやじが陸軍少尉として勤務していた千葉県習志野の陸軍騎兵学校近くの住居から、お袋の  実家、秋田県雄勝郡三関村関口に疎開し、太平洋戦争終結の半月後に生まれる。
終戦となり、おやじの郷里、新潟県長岡市青島町の農家の牛小屋の2階に移り住む。
この牛小屋には1階に赤牛が1頭、家族が暮らしていた2階には何と鶏小屋があって、「コッ、コッ、コッ・・・」と飛び回っている鶏と同居していた。
4,5歳の頃、現長岡市宮内町に移住。この町で保育園から小学校3年までを過ごす。
春はおやじに連れられて山で山菜採り、夏になると、夜田んぼの用水路に産卵に来る鯰をバットで叩いて捕る「ナマズたたき」に行ったり(もちろん食料にするため)、秋はイナゴやタニシを獲ったり(もちろん食料にするため)、家族総出で山に入ってきのこを採り(危ないきのこも平気で食べさせられたので始終腹痛を起こした)、冬は石ゴム(パチンコのこと)で雀を撃ったりして(もちろん食料にするため。殆ど当たらなかったけど・・・)、極貧生活の中でひたすら食料調達に努めた。
夏の夜、夥しい数の蛍が舞う幻想的な光景や、秋の夕焼け空いっぱいに、紅い天空の大河となって飛んでいた赤とんぼの風景は、今でも懐かしく想い出す。
小学校4年の時、長岡市内の鉄道官舎に引っ越す。(職業軍人だったおやじが、終戦になって臨時雇いの国鉄職員になり、何度もクビになった末にようやく線路工夫として本採用になり、晴れて鉄道官舎に住むことができるようになった。)
生まれてはじめてガスや水道のある官舎に住み、ヤカンのお湯がまたたく間に沸くのが嬉しくて、引っ越し当初は目一杯ガス栓を開けて強火にするものだから、家族皆な生ガスにやられて寝込んでしまった。
この鉄道官舎で、米百俵ゆかりの長岡市立坂之上小学校、市立東中学校、新潟県立長岡高校卒業までの少年時代を過ごす。
この少年時代、長岡の悠久山や東山を本当によく駆け回った。悠久山で昆虫採集をし、おやじと一緒に山菜採りやきのこ採りに行き、友人達と森立峠や鋸山に登ったり冬の山スキーに行ったりした。
高校卒業と同時に上京、東京都国分寺市にあった中央鉄道学園大学課程(旧国鉄の大学校)に進む。
今はもうこの学園はない。東京都の大きな公園になっている。しかしこの公園には、昔を偲ぶ大きなサクラの樹と機関車の動輪のモニュメントがある。鉄道学園で学んだ有志が建てたのだろう。
東京の学園生活を終えて仙台の鉄道管理局に赴任。1年後に国鉄を退職する。
ずっと下積みだった国鉄時代の自分の仇をとってくれたように喜んだおやじの、その落胆はいかばかりだったかと・・・(当時おやじは、俺に対して一言も苦言を言わなかった)
・それから後、東京で長く勤めることになる(何度か地方への転勤もあったが)いわゆるIT企業に就職する。
まさに悲喜こもごものサラリーマン生活だった。会社を辞めようと考えたことも一度ならずある。しかしその度に、俺のシュトルム・ウント・ドランクの時期に知己を得た、今は亡きある大恩人の言葉を思い出して我慢した。それはこの恩人にふと「学校の先生になりたい」と呟いたとき、「もし子供たちを教える立場になるなら、少なくとも大企業の管理職ぐらいになって酸いも甘いも噛み分けられる人間になってからでないと駄目だ」と諭されたことがあったからである。教員免許も無く、教師の夢も無くなっていたが、不思議にこの恩人の言葉が胸に残っていて会社勤めを続けさせた。
あっちこっちと転勤を繰り返し、大企業といわれる会社の管理職(この会社では幹部社員といった)にもなったが、会社勤めは続けた。
(何か言い訳っぽいけど・・・) とても酸いも甘いも噛み分ける程の人間力が身に付かなかったからである。
平成10年、昔おやじと共に山菜・キノコと食料調達で駆け回っていた郷里新潟県長岡市の東山の一画を譲り受け、懐かしさを込めて「おやじ山」と命名する。
平成17年12月、35年間勤めたIT企業を退職する。
   以来、おやじ山に造った掘っ建て小屋「おやじ小屋」で、冬を除く大半を過ごすようになる。

平成18年春、ホームページ「おやじ小屋から」を開設する。

NPO全国森林インストラクター神奈川会会員
NPO樹木・環境ネットワーク協会会員(グリーンセイバー・マスター)