その141(2025・2・18)
|
石牟礼道子著「苦海浄土 わが水俣病」
~自らの存在を問う3冊の本「その一冊目」~
|
石牟礼道子(いしむれ・みちこ) 1927年、熊本県天草郡に生まれる。’69年、本書「苦海浄土」を刊行、水俣病の現実を伝え、魂の文学として描き出した作品として絶賛される。’70年、第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれるが受賞辞退。’73年、マグサイサイ賞受賞。
(講談社文庫 新装版 苦海浄土ーわが水俣病ー 表紙カバーの紹介記事より)
『坂上ゆき(三十七号患者) 三十年五月十日発病、手、口唇、口囲の痺れ感、言語は著明な断綴性蹉跌性を示す。歩行障碍、狂躁状態。
「うちゃ入院しとるとき、流産させらしたっばい。 なんさま外はもう暗うなっとるようじゃった。お膳に、魚の一匹ついてきとったもん。うちゃそんとき流産させなはった後じゃったけん、ひょくっとその魚が、赤子(やや)が死んで還ってきたとおもうた。 魚ばぼんやり眺めとるうちに、赤子(やや)のごつ見ゆる。 早う始末せんば、赤子(やや)しゃんがかわいそう。あげんして皿の上にのせられて、うちの血のついとるもんを、かなしかよ。始末してやらにゃ、女ごの恥ばい。 その皿ばとろうと気張るるばってん、気張れば痙攣のきつうなるもね。皿と箸がかちかち音たてる。箸が魚ばつつき落とす。ひとりで大騒動の気色じゃった。うちの赤子(やや)がお膳の上から逃げてはってく。 ああこっち来んかい、母(かか)しゃんがにきさね来え。 そうおもう間もなく、うちゃ痙攣のひどうなってお膳もろともベッドからひっくり返ってしもうた。うちゃそれでもあきらめん。ベッドの下にぺたんと坐って見まわすと、魚がベッドの後脚の壁の隅におる。ありゃ魚じゃがね、といっときおもうとったが、また赤子のことを思い出す。すると頭がパアーとして赤子ばつかまゆ、という気になってくる。 逃ぐるまいぞ、いま食うてくるるけん。 うちゃそんとき両手にゃ十本、指のあるということをおもい出して、その十本指でぎゅうぎゅう握りしめて、もうおろたえて、口にぬすくりつけるごとして食うたばい。」 (第三章 ゆき女きき書 より抜粋)』
『江津野家にて爺さまが胎児性水俣病の孫杢太郎少年(9歳)に話し掛ける場面。杢太郎少年の父清人も水俣病に罹り女房に離縁さる。
「杢よい。お前やききわけのある子じゃっで、ようききわけろ。お前どま、かかさんちゅうもんな持たんとぞ。 お前やのう、九竜権現さんも、こういう病気は知らんちいわいた水俣病ぞ。このようになって生まれたお前ば置いてはってたかかさんな、かかさんち思うな。母女はもう、よその人ぞ。よその子どんがかかさんぞ。 杢よい、堪忍せろ。堪忍してくれい。 お前やそのよな体して生まれてきたが、魂だけは、そこらわたりの子どもとくらぶれば、天と地のごつお前の魂のほうがずんと深かわい。泣くな杢。爺やんのほうが泣こうごたる。 杢よい。お前がひとくちでもものがいえれば、爺やんが胸も、ちっとは晴るって。いえんもんかのいーーひとくちでも。」(第四章 天の魚 より抜粋)』
これを読んで慟哭せざる者はいるだろうか!? さらに驚いたことは、巻末の解説(渡辺京二氏)で、この書は患者たちが実際に語ったことをもとにして書いた、いわゆる聞き書きの作品ではない。患者の言い表していない思いを作者が自分の言葉として拾い上げて書いた魂の叫びなのだと。つまり石牟礼道子は自らが患者と同化して書いた「私小説」なのだと。
それで分かった。「苦海浄土」の副題が『わが水俣病』であり、さらに「第一回大宅壮一ノンフィクション賞」を辞退した意味が理解できたのである。これは膨大な事実のデテイルを踏まえながらも、フィクション(小説)によってノンフィクションの領域を遙かに超えた真実を訴えた小説なのである。
|