森のパンセ   山からのこだま便  その140(2025・1・30)
自らの存在を問う3冊の本「序」
~ひもとく昭和100年/戦後80年~

 昭和20年8月の、まさに終戦の年生れで今年80歳を迎える俺にとって、気になる新聞記事が目に入った。新年早々の1月11日付け朝日新聞「読書」欄で、ノンフィクション作家の保阪正康氏が『ひもとく昭和100年/戦後80年』のタイトルで5冊の本の紹介とその論考を寄せていた。その中で『加藤周一セレクション5 現代日本の文化と社会』、『苦海浄土 わが水俣病』『カクテル・パーティー』の3冊を、早速アマゾンで注文した(「田中角栄研究」は持っていたので)。理由は以下内容(要旨抜粋)の通りである。

『・・・今の地点を「昭和100年」と見るか、「戦後80年」と見るかは重要な意味を持つ。昭和100年という時には、昭和前期の20年(これは近代日本史の誤謬の凝縮時間だが)を踏まえての100年であり、戦後80年という時は現代史総体を差していて、近代史を克服する意味が「戦後」に仮託されている。・・・昭和100年は、昭和が「同時代史から歴史へ」移行する時でもある。時代の意志が普遍化するという意味で、それに耐えうる評論家加藤周一の、この国の文明、伝統、国民意識、戦争などを根本から論じた書『加藤周一セレクション5 現代日本の文化と社会』がある。

 「昭和100年」という主舞台に「戦後80年」をのせて、次世代に伝えるべき作品は何かを考えると、「政治指導者」「高度成長の影」「沖縄の位置」の三つのテーマに注目する必要がある。(そのテーマで保阪氏が選んだ著書が) 立花隆著「田中角栄研究 全記録」、石牟礼道子の「苦海浄土 わが水俣病」、大城立裕の芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」で、この3冊には日本社会が取り上げねばならない重さがある。
 そして保阪氏はそれぞれの理由を、さらにこう述べている。
 「苦海浄土 わが水俣病」は、水俣病患者やその家族の聞き書きをもとにした、50年代から60年代の公害患者の記録である。・・・満州事変以降の昭和の戦争と60年からの高度成長は(ともに14年間)、どちらも問題が起こると全て先送りされた。石牟礼はその構図を怒りとともに浮き彫りにし、同時に伝統的な共同体が崩壊していく様を通して、企業や政府を批判するという、この書の持つ歴史性に脱帽しなければならない。
 「カクテル・パーティー」は、アメリカ人、中国人、日本人、沖縄人のそれぞれの人生で、被害者が加害者であり、加害者が被害者であるという歴史の構図を描くことによって、多様な解釈ができる。私たちは自らの現在を見て、加害と被害の両面について歴史上の考察を加える必要がある。

 (そして保阪氏は最後にこう結んでいる) 私たちは、自身の存在を改めて問う形で歴史を解釈し、こうした作品と対話しなければならない。必要なのは、先達が作り上げた歴史観の点検と継承である。今年はその覚悟が必要ということになるだろう。』

 止められぬ戦争、核の脅威、地球温暖化、そして政治の混迷と、ミミズのウンコほどの小っちゃい市井人でさえ、「いったい全体、世の中どうなってんだ!!!」と悲憤慨嘆の日々である。こういう時にこそ自らを「まあまあまあ・・・」となだめすかして、これらの読書に耽るほかないと思っている。