森のパンセ   山からのこだま便  その130(2023・1・19)
ドロシー・デイの言葉「私が信じているのは奇跡です」

 1906年4月18日早朝、マグニチュード7.7を超える大地震が、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコを襲った。死者は3千人を超え、人口の半数以上の22万人が家を失った。
 サンフランシスコ市当局は、民衆がパニックに陥り略奪や暴動に走ることを恐れ、連邦軍と警官隊に対して「略奪やその他の罪であれ、犯した者を見つけ次第殺すことを許可する」と命令を下す。業務上金庫を開けようとした銀行員や路上にうずくまっていた人までも銃殺され、その数は500人に及んだと伝えられている。
 一方でパニックとはほど遠い光景が各所で見られた。市民たちは力を合わせて瓦礫を片付け、家を失ったある女性は、空き缶一つと灰皿一枚で炊き出し所を作り、いつしか300人をまかなうまでになり、市民からは「スープキッチン・パレスホテル」の愛称で呼ばれて感謝された。
(歴代の大統領が泊まったパレスホテルも、この大地震で骨格だけを遺して崩れ落ちた)

 こんな極限状態の人たちが互いに助け合う姿を見ていた少女がいた。彼女は語る。
「憶えているのは、地震の後、善を行うことの喜び、自分が持っているものを差し出し、分かち合うことの喜びです」
「母や近所の人たちは朝から晩まで温かい食事を作るのに忙しく、持っている衣服は残らず配りました」
 8歳の「ドロシー・デイ」がこの時目にした光景が、その後の少女の運命を変え、そして世界をも変えることになるのである。

 1945年に第2次世界大戦が終わり世界は平和に向かうかと思われた。しかしアメリカとソ連による核開発競争、いわゆる冷戦の時代が始まった。1949年8月29日にはソ連が最初の核実験を行い、アメリカも負けじと1952年11月11日に最初の核実験を断行した。人々は核戦争の恐怖におびえ、アメリカ政府は核戦争を想定した避難訓練を全国で実施したのである。ニューヨーク州では法律が制定され、避難訓練への参加が市民の義務とされた。

 1956年、ニューヨークの街でプラカードを掲げてデモする一人の婦人がいた。避難訓練への参加拒否の呼びかけである。プラカードには「I REFUSE TO PLAY THE WAR GAME OF CIVIL DEFENSE」(戦争ごっこへの参加を断固拒否する)と書かれている。彼女にとって、この避難訓練に参加することは、核戦争を容認することに他ならなかった。
 婦人の名は「ドロシー・デイ」。サンフランシスコ大地震で、危機に立ち向かう人々のささやかな行動が奇跡を呼ぶ姿を目の当たりにしたあの少女である。彼女は市庁舎の前で避難訓練の当日に座り込み抗議を行い、法律違反のかどで何度も警察に逮捕された。

 しかし、ドロシー・デイが一人で起こしたバタフライ(蝶)の羽動はさざ波となって市民に浸透し、子どもを連れた母親たちがドロシーたちの市庁舎前の座り込み抗議に加わるようになった。この光景がマスコミで報道されるやニューヨークのデモは2千人に膨れ上がった。


 そして核実験反対のデモは、アメリカ、日本、ヨーロッパと世界各地で毎日のように続いた。1961年になるとそれは怒濤のうねりとなって世界を巻き込んでいったのである。アメリカの避難訓練は廃止され、ついにはドロシー・デイが始めたデモから5年後の1963年8月、モスクワで開催された「部分的核実験禁止条約」に米ソも調印し、初めて核開発に歯止めがかけられた。一人の女性の信念が世界を動かしたのである。

 ドロシー・デイは言う。 「地震についていちばんはっきり憶えていることは、その後に誰もが温かく親切だったことです。明日のことを考えず、我が身を削って捧げました」
「戦争は平和のための行いとは全く逆の行為です。その気になれば人々はあわれみと愛情をもって互いに思いやることができるはずなのです」
私が信じているのは奇跡です。いつか戦争を終結させるほど大きな抵抗が起こると信じているのです」

 1980年11月 ドロシー・デイ 天国へと旅立つ。


(2023年1月16日(月)放映のNHK総合テレビ「映像の世紀 バタフライエフェクト」<危機の中の勇気>から起筆しました。文中写真は映像から盗み撮りしました。ゴメンナサイ) 注:バタフライエフェクトとは、バタフライ(蝶)の微かな羽ばたきが大きなうねりを呼び起こすこと)