森のパンセ   山からのこだま便  その128(2020・12・25)
民主主義の本質-佐伯啓思氏の論考ー
 2020年12月25日「日記」からの転載です
 昨日(2020年12月24日)の朝日新聞に京都大学名誉教授の佐伯啓思氏の「民主主義」についての論考が掲載された。やはり昨年12月に、同氏の「資本主義」についての文章が同紙に載り大いに勉強させられたが、(「森のパンセ-その121」<欲望の臨界点>)で紹介)今回もまた氏から教えられた次第である。
概要は次の通りである。(以下の小見出しは私が勝手につけました)

「民主主義がはらむ問題」
(朝日新聞12月24日朝刊<オピニオン&フォーラム>)京都大学名誉教授 佐伯啓思

1.何がトランプ現象を生んだのか
 
 民主主義の理念が、反対意見にも耳をすませて論議をつくす「討議民主主義」であり、そういう政治こそが民主主義であるという「由緒正しき信条」からすれば、自らに批判的なメディアをフェイクと決めつけ、その主張にいっさい耳を貸そうとしないトランプの姿勢は、「民主主義の敵」ということになる。
 だが利害が多様化して入り組み、にもかかわらず人々は政治指導者にわかりやすい即断即決を求めるという今日の矛盾した状況にあっては、「由緒正しい民主主義」では政治が機能しないことは明白である。この現実こそが民主政治への苛立ちや不信感を生み出しいるのであり、その政治への不満がトランプ現象を生んだのである。

2.民意の実現求めればポピュリズムに傾く

 かつて戦後の英国を代表する政治哲学者マイケル・オークションは、人々が政治に求めるのは「幸福を追求する」ための条件ではなく、現実に「幸福を享受すること」だといっていた。これは現代の大衆政治に対する本質的な批判であったが、この批判は今でも有効である。
 今日、人々は、おのれの生の意味づけや幸福を自ら定義し、自分の力でそれを実現しようとはしなくなった。人は全体主義や権威主義を批判し個人の自由を主張するが、逆に自分で自分の人生を選択し、そのことに自分で責任を持つのは面倒なのである。だから自分の人生がうまくいかないのは政治が悪いからであり自分が不幸なのは政治が怠惰だからだ、と考える。

 こうした社会全般に広がる鬱積(ルサンチマン)を背後において強力な大衆政治家が出現する。大衆政治家は、多かれ少なかれポピュリズムへとなびくが、それは民主主義の歪みというよりは、民主主義の本質といわねばならない。つまり民主主義を民意の実現などと定義すれば、民主政治とは民意を獲得するための政治、つまりポピュリズムへと傾斜するほかない。民意を敵に回してでも真に重要な決断を求めるならば、「民主主義は民意の実現」などというわけにはいかないのである。

3.民主主義のアポリア
(*) (*:ギリシャ語で「道のないこと」。解決の糸口を見いだせない難問)

 民主主義の理念が「討議による政治」であり、少数派への配慮が必要とされるのは、何が真理であるか誰にもわからない、という前提があるからだ。ここに、判断は一人一人異なってもよいし、それを強制されてはならないという自由主義の原理が持ち込まれれば、民主主義は価値判断についての完全な相対主義になる。こういう価値相対主義こそが民主主義の根本的な前提をなしている。

 とすれば、いかなる政治家であろうとも何が正しいかなどわかるはずはない。それなら政治家は多数派の「民意」を恃(たの)むほかなくなる。つまりポピュリズムを弄するしかない。
 絶対的な正義や正解が誰にも分からないとなれが、民主主義はむき出しの言論合戦となる。メディアは世論を操作し、政治家は民意を動かそうとする。

 経済成長がまだ可能であり、人々の間に社会の将来についてのある程度の共通了解がある間は、民主主義は比較的安定的に機能した。経済の波に乗っておれば自然に「幸福を享受」でき、将来に大きな不安を抱くこともない。
 ところが、今日、経済は行きづまり、将来の展望は見えない。すると人々は政治に対して過大な要求をする。いわゆる「パンとサーカス」(生存と娯楽)である。政治は「民意」の求めに応じて「パンとサーカス」の提供を約束する。
 
 しかし、にもかかわらず経済は低迷し、格差は拡大し、生活の不安が増せば、人々の政治不信はいっそう募ることになる。そこにわかりやすい「敵」を指定して一気に事態の打開をはかるデマゴーグ
(*)が出現すれば、人々は、フェイクであろうがなかろうが、歓呼をもって彼を迎えるだろう。こうして民主主義は壊れてゆく。民主主義の中から強権的な政治が姿を現わす。
(*:今日では、デマゴーグは「デモス」プラス「アゴーグ」、つまり「民衆指導者」という古代ギリシャ語のもともとの意味を失って「民衆扇動家」となった)
 民衆の「パンとサーカス」の要求に応えるのが政治であるという事情は、民主主義でも権威主義でも変わらない。それでもパンもサーカスも提供できる余裕があればまだよいが、その余裕も失われてくれば、社会に亀裂が走り、党派の対立は収拾がつかず、政治は著しく不安定化する。その場合、危機は、民主主義においていっそう顕著に現れるだろう。

4.民主主義がはらむ問題とは(自壊しかねぬ危うさ)

 冷戦以降のグローバリズムにおいて、経済の混迷に直面する民主主義国が深い閉塞感にさいなまれていることは疑いえない。
 この閉塞感の中で、西側の民主主義国は、ロシアのウクライナ侵略を契機に、この戦争を、民主主義と権威主義の戦いとみなし、「権威主義の軍事的拡張から平和愛好的な民主主義を守れ」という。これはいささか民主主義に都合がよい作り話し、つまり一種のフェイクにも聞こえる。

 権威主義の脅威を掲げて民主主義を擁護するだけでは、民主主義がはらむ問題からわれわれの関心をそらしかねない。
 民主主義はロシアや中国の権威主義の脅威によって危うくされるというより、それ自体がはらむ脆弱さによって自壊しかねないことを知っておくべきであろう。