森のパンセ   山からのこだま便  その127(2022・11・16)
二つの小さな美術館ー「野の花館」と「無言館


 「野の花館」は、新潟県南魚沼市の静かな県道沿いに建つ古民家風のギャラリーで、外山康雄氏の野の花の絵が展示してある。絵の前にはモデルとなった花が植木鉢や花瓶に飾られて、絵と実物とを対比しながら同時に楽しめる趣向が凝らしてある。
 「無言館」は、長野県上田市の小高い丘の上に建つ若き戦没画学生の絵が、死亡した戦地や享年の説明書きとともに展示してある。館長の窪島誠一郎氏(作家水上勉の実子)が全国を回って遺族から集めたもので、一種の慰霊美術館の趣を呈している。
 今年(2022年)は、おやじ山滞在中の春(5月)と秋(10月)に野の花館を訪ね、山を下りた11月に、藤沢の自宅に帰る途中で無言館に三たび立ち寄った。(2006年5月と2010年11月に次いで)
 
 「野の花館とまなざしの画人外山康雄氏」

 野の花館に初めて伺ったのは、確か2016年の5月だったと思う。長岡で日頃お世話になっている佐藤さんご夫婦と一緒にドライブ旅行した折に、奥様からのお勧めで野の花館を訪れ、外山康雄氏ともお会いすることができた。その際に自分が長岡の山中で長く暮らしてしていることや、そこに絶滅危惧種の杜鵑蘭の群生があることなどをお話しするといたく興味を示されて、次の花の時期に杜鵑蘭をお持ちすると約束したのが、野の花館に通うきっかけになった。
 翌年は約束が果たせず、実際に野の花館に杜鵑蘭をお届けしたのは翌々年(2018年)の5月中旬である。群落の中から形の良さそうなまだ蕾の杜鵑蘭3株を丁寧に鉢に掘り採ってお渡しして10日ほど経って、突然外山氏から電話が入った。「杜鵑蘭咲きました。絵を描いたので是非観に来て下さい」と画伯の弾んだ声に、「こんなにも喜んでいただけるとは」と恐縮しつつも心底嬉しかった。それから今日まで、毎年5月になって杜鵑蘭の花の時期になると、何株かを鉢に掘り採って野の花館に届けるようになった。それはまた、外山氏と野の花館のえも言われぬほのぼのとして落ち着いた雰囲気に浸りたいための行為でもあったようだ。
 今年(2022年)10月26日の午前4時台に放送されたNHKラジオ深夜便に外山氏の声が流れた。ラジオ深夜便の須磨佳津江アンカーのインタビュー番組「心に花を咲かせて」である。この番組を聴いた翌々日(28日)、たまたま首都圏からおやじ山を訪ねて来られた旧知の老婦人を伴って早速野の花館を訪ねた。

 外山氏の画法は野の花を実寸大に忠実に描くことである。ラジオ番組で氏は、「対象をひたすら忠実に描くことで、人間による創造力を遙かに超えた自然界が生み出す創造の妙と美しさに驚嘆せざるを得ません。」と。そして「どんな細い線でも途切らすことはしません。なぜなら途切らせばそこから水が漏れるからです。」とも言った。根で吸収された水が茎の道管を通って吸い上げられ、そして葉の付け根部分(葉腋)から葉柄、葉脈を通って葉の隅々まで行き渡る。野の花の身になってその通りに描くのだと言う。そうすれば「野の花自体の力」で絵が生きてくるのだと説明された。
 そうなのだ。28日にお連れした老婦人は、野の花館の入口付近からゆっくり歩を進めながら、1枚、また1枚と丹念に絵を観ていたが、ある絵の前で動かなくなった。茗荷の絵だった。婦人は立ち尽くしたまま、落涙していた。まさに外山氏の絵には、さまざまなことを思い出させるほどの力があるのだと実感し納得したのである。
 氏は今80歳を越えたが、野の花に向ける視線は若々しく細やかで優しい。この視線によって描写された対象こそ、外山康雄氏の野の花絵である。まさに「まなざしの画人」なのである。
 野の花館は昨年で20周年を迎えた。番組で須磨アンカーから「20年前と今とでは何か変りましたか?」と問われて、「20年前の昔は、ひたすら花に向き合って力強い絵でした。今は、花に媚びてしまい見せるための絵になりました。」 まったく正直な人である。
 
「命の人称性を問う無言館」

 信州上田にある無言館に初めて訪れたのは2006年5月である。その前年(2005年)7月31日(日)のNHKテレビ番組「新日曜美術館」で、無言館の絵について館長の窪島誠一郎氏と映画監督の山田洋次氏の対談があり、とりわけ中村萬平の描いた「霜子」、伊澤洋の「風景(道)」、太田章の「和子の像」の絵と解説に心を打たれたからである。
 無言館の表木戸を押して中に入ると、左壁に30号ほどの大きな裸婦の絵が目に入る。「霜子」である。作者の中村萬平が東京美術学校時代にモデルを務めた女性で、後に中村の妻となった。窪島氏は裸婦の顔と目に湛えられた光の強さについて、これから出征していく夫から寸時も目を離さない「画家とモデルの濃密な関係」と表現した。
 左壁に沿って進むと伊澤洋の作品が何枚か並ぶ。その中に「家族」の絵があり「風景(道)」の絵がある。伊澤は先ず「家族」を描いた。栃木の貧乏な家で育ち田畑を売ってまで美術学校で学ばせて貰った家族への恩返しの絵である。しかし召集令状を受け取り出征直前に実家に帰って描いた絵が、見慣れた故郷の一本の道の絵「風景(道)」である。窪島はこう解説した。「家族の絵を描いていた一人の画学生が、出征前にして最後に向き合ったのは自分自身だった」
 太田章の「和子の像」は館の奥まった左壁に掲げられてある。この館には珍しく50号ほどの明るい日本画で、和服姿の若い女性が膝を折ってポーズをとっている。太田とは4つ違いの18歳の妹の絵である。「出征前の画学生たちの絵は、みんな自分にとって一番大切なものを描いているのです。死を覚悟して戦争に行く太田にとって、一番大切なものが可愛がっていた妹の和子さんだったのでしょう」と窪島は言った。

 ロシアのウクライナ侵攻によって多くの兵士と市民の命が失われている。最近のある報道では、ロシア、ウクライナの兵士合わせて20万人が死傷し、4万のウクライナ市民が犠牲になったと報じられている。しかし戦争の悲惨さ、残酷さはこういう数字からは本質が見えてこない。ノンフィクション作家柳田邦男氏の言葉を借りれば、「戦争の本質をとらえるには命の人称性の視点が重要です。」(自分の生と死は一人称。愛する人の死は二人称というように)そして「戦争こそが究極の無人称であり、その本質を一人ひとりの生身の人間のアイデンティティーと尊厳を奪う悲惨と残酷さでとらえ直すことが大事なのです」ということになる。
 無言館の奥の壁中央に掲げられたボードにこう書いてあった。

  あなたを知らない

 遠い見知らぬ異国(くに)で死んだ 画学生よ
 私はあなたを知らない
 知っているのは あなたが遺(のこ)したたった一枚の絵だ

 あなたの絵は 朱い血の色にそまっているが
 それは人の身体を流れる血ではなく
 あなたが別れた祖国の あのふるさとの夕灼(や)け色
 あなたの胸をそめている 父や母の愛の色だ

 どうか恨まないでほしい
 どうか咽(な)かないでほしい
 愚かな私たちが あなたがあれほど私たちに告げたかった言葉に
 今ようやく 五十年も経ってたどりついたことを

 どうか許してほしい
 五十年を生きた私たちのだれもが
 これまで一度として
 あなたの絵のせつない叫びに耳を傾けなかったことを

 遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ
 私はあなたを知らない
 知っているのは あなたが遺したたった一枚の絵だ
 その絵に刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ
 

 2022年11月10日、3度目の無言館の絵を観終えて館の裏木戸を押して外に出た。3度目にしてようやく、若き画学生たちが告げたかった言葉に、少したどりつけたのではないかと思いつつ。そして館を半周して広場に出て、無言館を振り返った。晩秋の午後のやや弱くなった日差しの中にひっそりと佇む無言館こそ、この館にふさわしい風景なのだとつくづく感じた。