森のパンセ   山からのこだま便  その123(2022・3・15)
「場所」を辿る旅-国分寺

2022年3月15日「日記」と同文を転載しました。

 雪国の越後長岡から上京し、この国分寺駅に最初に下り立ったのが昭和39年の春。その時から58年の歳月が経ったことになる。当時の平屋建の国分寺駅は郷里の田舎駅と殆ど大差なく見えて、「こんな小っちゃい駅が将来の国鉄幹部を育てる学校の玄関口とは!」とがっかりした記憶がある。それが今や大勢の乗降客で賑わう大駅舎となって、何やら戸惑いながら南口に出た。駅前ロータリーの右端に三石堂書店の看板が目に入る。当時もこの場所に本屋があって常連客だった。ロータリーから南西に延びる多喜窪通りを歩いて野川を越えると、そこからは石垣に沿った登りの坂道となる。登り切ったその先からが広々とした公園になっている。「都立武蔵国分寺公園」。俺が2年間を過ごした旧国鉄の中央鉄道学園の跡地である。
 中央鉄道学園は、全国から幹部候補職員を集めて養成する旧国鉄の専門学校で、普通課、高等課、大学課程の約1000人が全寮制の同じキャンパス内で暮らしていた。その中で大学課程は5科8クラスの専門課程に分かれており、高校からストレートで入った受験組と現場から選ばれた推薦入学組の合わせて約500名が2年間の寮生活を送っていた。

 公園最初の入口(泉・南東口)を通り越して、旧学園の正門があった所から園内に入る。直ぐ左に守衛室があり右手に本館があった。正門から本館前までは大きな車止め広場になっていて何本かの背の高い松とヒマラヤスギの木立があったが、記憶に残っているヒマラヤスギが遙か昔の名残を留めて威風堂々と聳え立っていた。
 
武蔵国分寺公園泉南東口
 
恩師・星野守之助学長
 
名残りのヒマラヤスギ
 
旧中央鉄道学園の正門・本館

 本館2階に応接室を兼ねた広い学長室があった。当時の学長はおやじが所属する新潟鉄道管理局長から転任したばかりの星野守之助学長、受付に秘書の鈴木悦美さんがいつもニコニコと控えていた。
 守衛室のあった辺りに蒸気機関車の動輪を形取った記念碑があった。そこに当時の中央鉄道学園の全景写真と次のような顕彰文字が刻まれて嵌め込まれていた。
 『記念碑の由来  国分寺市は、(中略)鉄道との関連が深い町でもあります。かつてこのあたり一帯には旧国鉄の中央鉄道学園があり、数多くの人がここで学び、その技術が現在のJRに引き継がれています。これを後生に伝えたいと願う関係者の熱意により、ここに鉄道のシンボルというべき蒸気機関車の動輪をモチーフとした記念碑が設置されました』
 本館の後方に教室棟が並び、その東側に大学課程学生寮に向かう構内道路があった。この道路脇に診療所と寮生の食料や日用品を販売する物資部があった。

 茶色く冬枯れた広い芝生広場の中に点々と、学園時代の名残を留めて巨木となった樹木が聳え立っていた。桜の木はもはや幹回りが二抱え三抱えもありそうな老木となり、ユリノキやアサダは天を突く高さになっていた。そしてこの公園の周囲500メートルが遊歩道になっていて、その東端の遊歩道は正門から学生寮に向かう構内道路だった辺りである。

円形の広い芝生公園。周囲500メートルの遊歩道がある。(旧本館と教室、実習室の跡)

 学園生活の2年間、何故か俺は星野学長に本当に可愛がられた。学長に誘われて雲取山登山や塩沢にある禅寺雲洞庵に一泊して金城山などにも登り、山仲間で有名な高波吾策さん(谷川岳吾策新道の開拓者)の山荘に泊まって一緒にスキーもした。学長の自宅に招かれてはご馳走に預かり、ご令嬢がピアノ演奏をしてくれたことなど、決して忘れられない思い出である。当時の学長と俺との連絡役が秘書の鈴木さんだった。携帯電話など無い時代ゆえ、本館からこの構内道路を歩いて学生寮までやって来て「学長がお呼びですよ」と俺に告げる。そして俺を連れて学長室に向かう途中ですれ違う寮生達にとって、目の前の若いオンナ株はオミクロン株以上に刺激的で、すっかり抵抗力も失せてあえなく呆然自失してしまうのである。日頃のジェントルマンが構内では目にしたこともない美人と寮生のアベックに「エ~ッ!アレレ~ッ!」と野卑な雄叫びを上げるものだから、悦美女史もこれ見よがしに俺に腕を絡めたりして反撃する。まだ二十歳前そこそこで、俺の恥ずかしさったらなかった。

 この遊歩道の先は泉・北東口の公園出口となる。その先は「
PARKCITY KOKUBUNJI」の8階建てマンション群が円形公園との境界からJR中央線の線路脇まで続く。当時4階建ての大学課程学生寮はこのエリアにあった。「東京都国分寺市泉町2丁目7番8号 中央鉄道学園富士見寮」。俺が青春真っ只の2年間を過ごした「場所」だった。学生寮の隣が大食堂、さらにその先に浴場があった。マンションの敷地はその辺りまで続いていた。
 
旧国鉄中央鉄道学園の(左から)教室・大学課程学生寮・食堂
 浴場の先からが学園キャンパス内の体育施設やクラブハウスのエリアとなる。先ず柔道と空手、剣道の武道館、その前には水泳プール、武道館の西側が芝生の築山になっていてそこにクラブハウスがあった。そのクラブハウスでは、全国から集まってきた土木科35名の我が同志が酒を酌み交わし、国鉄の未来を熱く語り、高らかに寮歌を歌って気炎をあげていたのである。そのベランダからは広いテニスコートが目の前に見えた。そしてクラブハウスとテニスコートの西隣からはアンツーカーの陸上競技場と野球場が広がっていた。2学年の年に全校生徒学生約1000人で組織する自治会の体育部長に立候補した。テニス・バレー・サッカー・剣道・空手・水泳・陸上競技・何なに・・・と合計15の体育班グループを統括し、このプールと陸上競技場で水泳大会や秋の大運動会の指揮をとった。若干二十歳で、全国からこの学園に入って来た鉄道公安官やポッポ屋などの猛者連中も含めて、騎馬戦やマスゲームの練習でムチを振るったのだから、今から思えば大した度胸だった。
 今、クラブハウスや体育施設のあった辺りは、
「総務省情報通信政策研究所・統計研究研修所」の建屋と、「東京都立多摩図書館」「東京都公文書館」の敷地になって昔の面影はない。

旧学園キャンパスのクラブハウス・テニスコート・陸上競技場・野球場と跡地の総務省研究所と都立図書館

 この学園を卒業し、最初の赴任地の東北で実に恵まれた1年を過ごした後、国鉄を辞めた。その報告をお世話になった星野学長にすべく国分寺に戻り学長室の扉を叩いたが、鈴木悦美秘書から学長の不在を告げられた。会えなかった、のではなく、会わせてもらえなかったのだと思う。あれほど可愛がってもらった恩師と国鉄とを裏切ったからである。

 人はどんな生き方をしても悔いは残るのだと思う。鉄道の線路工夫で生涯を終えたおやじを悲しませ、師弟の関係を越えて親身になって俺を可愛がってくれた星野学長を裏切ったことへの悔いが、あの日から55年の歳月が経った今でも、胸の中の澱となって残っているのである。