森のパンセ   山からのこだま便  その119(2021・9・5)
おやじの手紙(原文のママ)


 お袋は俺が長岡の高校を卒業し、東京に出た年(昭和三十九年)に病死した。54歳だった。この手紙はおやじが、東京に住んでいたお袋の妹夫婦(大塚猛様、タメ様)宛てに、喪中の翌昭和四十年の元旦に認めた手紙(の下書き)である。
軍人だったおやじは終戦後の塗炭の苦しみの中で、国鉄の臨時雇員で糊口をしのぎ、お袋も夜遅くまで裁縫の内職に精を出していた。そしてようやく、長年の借り家住まいから、おやじのふるさとに土地を買って、夫婦二人で余生を送る持ち家を建てようとした矢先に、お袋が死んだ。
(コロナの感染爆発でおやじ山になかなか帰れず、仕方なく終活のつもりで自室の整理をやっていたら、こんな手紙が出てきてしまった。ああ~!)

(原文のママ)
1.
大塚さんそして皆さんお元気で 新しい年を迎えられたことと思います
大らかに私が新年のお挨拶が出来ないのを何よりも残念に思います
あの時の雪が毎日続いた雨ですっかり消えて 三十日は新潟ではこの季節では
珍らしい日本晴れ、大みそかは曇りで雨もよい そしておだやかな何事もなかったように静かな年の暮れの夜でありました。
そして親子四人が、いゝえ お母さんを交えて五人が本当に水入らずの
お元日を迎えました。そして昭和三十九年が永遠に去って行きました。
どこの誰の家からも それは去って行った年ではありますが
私共親子に取っては 到底忘れることが出来ない 本当に行って貰えたくない
心残りのする年でございました。 喜びも悲しみも そして何もかも
を一杯につめこんだ去年に いくら一生県命に取りすがっていても、除夜の
鐘と共に来た新しい年が 私共の未練な手を一本一本引き離して もう
遙かな所へ押しやってしまいました。
今はあきらかに年は変っているのですけれど、つい昨年の変らないその侭のかざりの中にいる
お母ちゃんの前に 今私しはいるのです。
そして過去のいろ/\な場合の懐かしい思い出にふけっていると、たとえ
それが楽しことであったにしても、すべて悲しみと結びついてしまうのです
が そういう一つ一つを忘れてしまっては お母さんには すまないと思いま
すし お母さんが一つ一つやって来た行いのすべては 子供達にかけたの

2.
ぞみ以外のものは一つもなかったでしょうし、すべての一こま一こまがみなお母さんが残した偉大な功績の一歩一歩
の足跡ですから、どうしてもお母さんとの思い出を大切にしておかなくてはと思わずに
いられないのです。私はどこまでも(後削除)
今でも私が笑へば いっしょ笑って呉れますし、あんなことも こんなこともあったなど
と 大人げもなく考えたり、話して聞かせておれば、うなずいたり 涙ぐんでも
見せてはいますが、声を出して一言、物を言っては呉れず、今までと打って変わって余り
にも静かすぎてね、  でもしかし 私しや、子供達の中に生きているということ
ですっかり安心し切っているからだ、とも思えば、「お父さん何も言わなくても
分っているではありませんか」という眼顔にも見えて、「あ、そうだったね」
と又あやまったりします。
去年は、そう一昨年になりますね、 除夜の鐘が鳴り出すと二人で二年
参りに出かけました。雪がほんの少しあって、小雨が降っていました。
お母さんはコートを着て お互いに寒くないように身支度をして てんでに傘をもって出ましたが
露路を横切るときは どちらかの傘で合合傘で体をよせ合って歩きました。
観音様や、いつも月詣りの平潟神社、二人の守護神の八幡様や いなり
様等を廻って その間にこんな話を道々して歩いたのでした。
孝雄の卒業のことやら決まった学園のこと、克人はもう心配ないけれど
もう一歩の学校へやれなくて 気の毒でならないこと、 でも学校ばかり
で人生が決るわけではないから それは克人も分って呉れるよとも

3.
いって歩きました。宏一も卒業になるし 話しは 私共夫婦のことより
子供達のことばかりでした。その後で
「これから私共二人だけのことをやって行こうよ」と私がいうと 「そうだねお父
さん 私達の運勢が今度はどこまで伸びるか分かりませんね」というお母さんに「今まで悪い
ことを一度もしたことがないから きっと今年も幸せな年になるよ」などゝ
話しながら 雪道をすべらないようにいたわり合い乍ら 寒い夜をより合つ
て一時頃に家に帰って若水を上げたのでした。
今年は喪中でもあり その必要は全くございませんでした。
こうしているうちにも 「お父さん、あの時言った運勢等 あてにならなか
ったねえ」と、何となくそんな顔をして私を見つめているお母さんです。
けれども 今でも三人の子供達等にかけている のぞみは決して変ってはいないのです。
そのことだけは、こうしているお母さんだって その通りだと信じています。
むしろこれからも 人間では及ばなかった 人間の力を超えた力で子供達
を守り励ましてくれるはずです。
「ネエそうだろう お母さん 私にこのうつし世で委せていったもろ/\のこと
を、私しがやって行く上に、何かにつけて分からないことがあったり、困ったときに
は、きっと教えて呉れるよねお母さん」
話の途中でこんなことお お母さんと話したりして どうもこういう
くせがついてしまって 申訳ございません、お許し下さい 大塚さんそしてたあさん

4.
それから もちはたっくさんつきました。勇ちゃんが来ても どこから誰が来ても
たっぷりと ヨシヱ お母さんがしたと同じような うまいしたじで(越後では
雑煮のことをいうのですが)お母さんからかんとくして貰って、一生県命
つくって 不自由なく喰べて貰うつもりでね、今朝ももうすぐに子供達から
元気で喰べて貰いました。
なまぐさものも入れて出来るだけうまくしてと思った雑煮ですがお母さんも
きっと喜んだと思います。子供達がまだ終らないうちに勤めに出たのですが
今日は早く帰して貰って塩鮭で夕食もすませました。
静かな喪中の正月、こうしていると 人間の幸せということは一体何な
のか どれを幸せというのだろう としみじみと考えさせられます。でもどう
しても分らないのです。子供達の小さいときからずっと夢中になってその周辺
をぐる回って、何かと張合いをそこに集中して、ぶつ/\いって目を回して来た
そのことが幸であったかとも ふと思うのですが  余りにも私共は人生を
忙しく歩き続けて来ました。希望を余り遠くに見つめて来たせいもあり
ましょう、ごく近くにあった しあわせを それが何であったかが分らないま
ゝに とうとう見すごしてきてしまいました。二人で旅行するのがしあわせだ
と思っていたのかも知れません。すべてを後悔しています  限りある
命を使え果して別な世界に行ってしまった お母さんが不びんで
力が足りなかった私は、子供達からも あなた方からも どんなに責められても

5.
一言も返す言葉にないのです。ヨシヱは、お母さんは 大塚さんみなさんに取っても
大切な一人の姉 であったのですが こんなことになってしまって 本当に申し
わけがないのです おゆるし下さい  ヨシヱやみなさまにはこれしか言いない
のです。  でも私がいる限りお母さんが残して呉れた子供達がいる限り そしてお母さ
んが見守っていてくれる限り  大塚さんみなさんも どうかお見捨なく
見守っていて下さいますよう 心からお願い申し上げます。
そして私達親子はどこまでも信じ合い 助け合いながら お母さんが指し
しめして呉れた人生街道を しっかりした足どりで 歩いて行きたいと
思うのです。 間違いがあったら御注意下さい。よい事 正しいことをしたら
どうかほめて下さい。 決してみなさまの手足まといにならないように再出発
いたしますから どうか今まで以上に 親しくおつき合い下さいますよう お願い
します。
孝雄が帰って来たその晩 みなさまの御気持を逐一そのまま私に伝えて呉
れました、そして「お父さんは一人でいろ/\なことを考えないで もう子供でない
俺にも何事も話して呉れなくては」と 心強く言って呉れました
みなさんのお陰で一回より二回と 帰るたびに大人になっている、孝雄ばかりで
なく克人も宏一も、本当にお母さんは立派な子供を私に残して下さっ
たと感謝の気持ちで一杯です。
宏一の来るべき結婚を私の勝手な取計らいもお叱りなく喜んで下さいまして、心から賛成して頂けまし

6.
たことを お母さんもどんなに喜んでいることでしょう。 ありがとう、
本当にありがとうございました。
土地のことも 登記までは多少の日時が要るとは思いますが、農地委員会長
や隣地の承諾書もすっかり貰いましたので 心強く処理出来ますことを
報告し 今後のご声援を 心からお願いいたします。はかばかしくなかったら
尻も叩いて頂きたいのです。決してその手を痛くはいたしません。
そうして出来ることなら お母さんの一周忌もそこでやりたいものだと思っ
ていますし そのように渾身の努力をいたします
「お母さんも私の気持がくぢけないように お守り下さると共に 間違いなく
やれるように 監とくして下さいね」
分らないことがあったら 私はお母さんに聞くのですが、大塚さんあなた方もどう
かお聞かせ下さいますよう重ねてお願いいたします。
孝雄のことも呉々お願いいたします。
最後に 私達がいい見本です。どうか体に無理なさらぬよう、私がヨシヱ
と共に今までとうとう分らなかった人間のしあわせを、あなた方はそして
勇ちゃんや文枝ちゃんと共に、「あゝこれだったのか」と、分るまで 長く健康
を保ってそのしあわせをつかんで下さい  お母さんと共に子供達と共に ひたす
らそのことをお願いしています。 正月早々細々と大人げないことを申し
たのですが こゝに限りない感謝をこめて 併せて将来への決心を申しのべまし
てお便りに換えたのでございます  ありがとうみなさん
さようならさようなら
大塚さん始めみな様に。
静かな元日午後 時、 お母さんの前で お母さんと共に